行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論5】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(続く)

2015-11-10 17:22:26 | 独立記者論
今年の4月18~20日まで、大学時代の同級生5人が上海旅行に訪れた。当時、現地に駐在していた私は全行程のプランを練り、同行したが、辞職につながる特ダネ原稿のことは頭から離れることはなかった。原稿がボツ扱いになり、辞表を出すのは23日である。思い出深いのは滞在中の19日、旧フランス租界の武康路にある巴金故居を訪れた際のことだ。書斎に巴金が書き残した「講真話」(真実を話す)の言葉を見つけた。

巴金(は・きん)(1904~2005)は中国の現代文学を代表する小説家として中国作家協会副主席、主席を務めた、井上靖や中島健蔵ら日本の作家とも親交が深く、日本に滞在し日本語を学んだこともある。故居の書斎には日本語の辞書も並んでいた。なぜ「講真話」なのか。それは文化大革命の悲惨な歴史を振り返らなければならない。

文化大革命期は、巴金を含め多くの作家ら知識人がプロレタリア階級の敵として迫害を受けた。体を縛られて公衆の前に引きずりだされ、畜生扱いの罵詈雑言を浴びせられ、殴られ蹴られることもしばしばだった。巴金とともに中国文壇を率い、北京庶民の生活を描いた老舎は紅衛兵から暴行を受け、北京郊外の太平湖で水死した。入水自殺したとされる。

巴金は文革中、迫害に屈して「罪」を認め、反省文を書き、文革を主導した四人組に迎合した。毛沢東が死に文革が終結した後、巴金は自分の行状を振り返り、分析し、自己批判する散文を書き続けた。周囲から見れば痛ましいほどの自分との対決だった。その末にたどり着いた結論が「講真話」である。巴金は老舎が亡くなってから1年後、友の死を知り、その翌年に行われた追悼の納骨式に参加した。

私は2013年、拙著「『反日』中国の真実」(講談社現代新書)の中で、以下の通り、巴金が老舎を追悼した一文を引用したことがある。

(巴金は追悼文の中で)老舎が戯曲『茶館』の中で登場人物に言わせた「私は自分たちの国を愛しているが、だれが私を愛してくれているというのか?」を何度も引用しながら、「彼の口から叫び出された中国知識人の心の声を、どうかみんな、しっかり聞いてほしい」と書いた。文革博物館の建設を訴え続けた巴金の叫びは、まだ実現の見込みさえ立っていない。

「講真話」には、巴金自身の経験に加え、犠牲となった多くの仲間の魂も込められている。巴金は1980年、東京で開かれた国際ペンクラブ大会で「文学生活50年」と題するスピーチを行った。演説が嫌いな巴金は、次代に語り継ぐ責任から世界の作家に向けて語りかけた。

「今日、私が10年間に行ったことを振り返れば、実にばかばかしく、実に愚かだ。だが当時私はそう思ったわけではない。しばしば思うことがある。もし過ぎ去った10年の苦難な生活に一つの総括をし、真剣に自分を分析し、是非をはっきりと見分けることをしなければ、私はまたもう一人の自分になって、残忍で野蛮で愚かで荒唐無稽なことを荘厳で正確なものだとみなすようになってしまうかも知れない。この精神上の欠損からは逃れることができないのだ」

巴金の言葉は、ある国のある時期に向けられたものではなく、人間社会が陥る落とし穴を照らし出そうとしたものに違いない。スピーチの最後では「私は今、はっきりと言えることがある」として、「正直で、良心のある作家は決して目先のことにとらわれた臆病な人間ではない」と語った。巴金が真実のすべてを語り得たかどうか、私に判断するすべはない。彼の偉大さは、「講真話」を公言し、そこに自分を追い込んだことにある。文革後、多くの知識人が沈黙し、自分を偽った。社会を憎み、復讐の情にとらわれた者も多い。感傷的になり、自分の殻に閉じこもった者もいる。だからこそ「講真話」と言い得た良心と勇気には感嘆せずにはいられない。

巴金が言い残した「講真話」も「良心」も、中国の知識人に、すべてではないが、しっかりと伝えられている。彼らと話しているとしばしば、座右の銘として「講真話」を挙げる。それだけに真実を話すことは難しい。言論統制をしている国の体制もあるが、そもそも人間社会が共通に抱えている問題、そして人間の弱さなのではないか。

そして私は自分の身、自分が身を置く社会を振り返る。独立した精神、思考をもって真実を語っているか。日本国憲法には「思想及び良心の自由」と書いてある。その「良心」について、果たして真剣に考えたことがあったか。「良心」は良いか悪いかの心ではない。良し悪しを見分ける精神の働きを言っている。良し悪しを分けるものは何か。それはすなわち「講真話」ではないのか。もちろん憲法は沈黙することも表現の自由に含めているが、時代と歴史に責任を感じた者、責任を負うべき者は、声を上げる責任をも負うのではないか。自由を隠れ蓑にして沈黙を守るのは、精神的怠惰であり、卑怯ではないのか。良心はどう叫んでいるのか。良心の叫びに正直に従うことが、「講真話」ではないのか。

「良心」については『孟子』が述べている。ルソーも語っている。無垢な人間に対する楽天的な性善説がそこにある。この続きは改めて語ることにする。

【独立記者論4】「多数者の暴虐」は霊魂そのものを奴隷化する---J.S.ミル『自由論』

2015-11-08 22:52:40 | 独立記者論
英国の哲学者であり経済学者であるジョン・スチュアート・ミルが『自由論』(ON LIBERTY)を著したのは1859年だ。英国では19世紀、産業革命によって台頭した中産階級が経済的、政治的発言権を求め、参政権の拡大や自由貿易の推進など自由主義的改革が進められた。一方、中国はアヘン戦争(1940~42)やアロー戦争(1956~61)によって英仏の侵略を受け、「眠れる獅子」から半植民地国家へと転落し始めた。

手元に塩尻公明・木村健康訳の岩波文庫版『自由論』(1971)がある。同著の中で、「世界最大の最も有力な国民」であった中国について、完璧な「慣習の専制」によって数千年間も停滞し、「歴史をも持っていない」とまで言い切っている。もちろん中国=東洋であり、明治維新前夜の日本もその柵封体制の中に含まれている。東洋はまだ「自由」「人権」の言葉さえ持っていなかったが、だからといって思想や歴史が存在しなかったわけではない。外に閉じていたのであって、ミルの不明を責めるのはフェアではない。歴史的事実として、西洋は東洋をそう認識していたのである。

西洋には新聞を中心に世論が生まれていた。「多数者の暴虐」である世論が、法律の刑罰以外の方法によって、「霊魂そのものを奴隷化」している害悪が語られた。異なる意見を「異端」「精神異常」として迫害する見えない力だ。ミルは、個性の表現に不寛容な世論を「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人々とは際立って異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまう」と指弾し、「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならない」と述べた。現在の皮相的な新聞報道をえぐり取る鋭利な問題意識である。

また、宗教の道徳的規範と分かちがたく結びついている慣習が、「人類が互に課している行為の規則については、いかなる疑念をも抱かせないようにする効力」をもって人々の思想を支配し、個性の発展を阻害している悪弊も指摘された。思想の自由はとりもなおさず個人の独立と不可分である。自由があって初めて独立の空間が生まれ、独創性が自由の眼を開く役割を担うのである。

奴隷化した精神とは例えばこういうことである。「信仰をはっきりと自覚したり、自己の体験によって吟味したりする手数を省略し、ただ信頼してそれを受け入れるかのような状態となり、ついには、信仰は、人間の内的生活とは殆ど全く没交渉となる」、あるいは「何が自分の地位にふさわしいことであるか、自分と同様の身分、収入をもっている人々の普通していることはなにか」を自問することが慣習化し、「精神そのものが軛(くびき)につながれている」「人間的諸能力は委縮し飢え衰える」状態だ。

忌避すべきは、国民を鋳型に流し込め、精神に対してばかりでなく肉体に対しても専制を敷く国家教育であり、有能な人材によって成り立つ官僚集団だ。ミルはこう語っている。

「支配者であるある官僚たちが彼らの属している組織と規律との奴隷であることは、被支配者たちが支配者の奴隷であるのと異なるところはない。シナの官人が専制政治の道具であり単なる被造物であることは、最も下賤な農民がそうであるのと少しも異なるところはない」

「(飼いならされた)国民は、万事を政府がやってくれると期待する習慣をもち、また少なくとも、政府の許可ばかりか指導をも求めた上でなければ何事も行わない習慣をもっているので、彼らは、自然に、彼らの上に降りかかってくる災害をすべて政府の責任とするようになり、そして、その災害が忍耐の限界を超える場合には、政府に反抗して立ちあがり、革命と呼ばれるものを起こす」

ではいかにあるべきか。今から見れば決して難解なことを言っているわけではない。だが容易に成し遂げられないルールを言い当てている。「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」との原則であり、一人の意見の信頼性を強固にするのは、反対意見をおいてほかにはないという真理である。

特に独立した思考は重要だ。「相当の研究と準備をもって自分自身でものを考える人物が、たとえ誤謬に陥ろうとも、その誤謬は、自己の意見がものを考えることを自らに許さないために正しい意見を抱いているに過ぎない人々の正しい意見よりも、真理に対してより多くを貢献する」。独立した精神をもって到達した一つの意見は、人間の尊い営みであって、人類共有の価値であると言っている。慣習は人から日々の選択を奪う。人の知覚や判断、道徳が選択の苦悩から生まれることを思えば、選択なきところに思想も真理も進歩もない。

個人の思考と同時に、公共的活動の実践も重要だ。政府の関与をできるだけ少なくし、民衆の自発的な生産や慈善活動を拡大することで、自由な国民の政治教育を施すことができる。つまり「公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与える」ことにつながる。そして、この能力と習慣が育たなければ「自由な憲法は運用されることも維持されることもできない」と結論付ける。現在においても、地方自治からNPO、ボランティア活動を含め、社会活動に参加することが法治を実のあるものにする。独立した思考、それを実践する場がなければ、憲法も空文化するしかない。時代の制約を受けながらなお、時代を超えた価値を伝えていることが偉大な思想の条件である。それを十分実感できる。

「国家の価値は、長い目で見れば結局はそれを構成している個人の価値によって決まる」とミルは最後に語っているが、決して狭隘な国家利益を論じているわけではなく、独立した個人の価値を重んじる表現だとみるべきだろう。個性が価値を生み、生命が充実する。彼は「諸々の構成単位により多くの生命が宿るとき、それらの単位から成り立っている集合体もまたより多くの生命をもつ」と語っている。


【独立記者論3】夫婦で老人ホーム入りした銭理群氏へ

2015-11-01 20:00:49 | 独立記者論
元北京大教授の銭理群氏が7月、自宅を売却し、夫婦で北京郊外・昌平の老人ホームに入ったことが中国で大きな話題を呼んだ。銭氏は1939年1月、重慶生まれ。76歳だ。魯迅研究で知られる一方、毛沢東思想の研究も行い、国内では発行できないが和訳『毛沢東と中国 ある知識人による中華人民共和国史』(上・下巻 2012年 青土社) の著書がある。

「そうだったのか」

と思いついたことがある。実は1月15日、私は北京市の五環路外にある銭氏の自宅を訪れた。一昨年夏に続き2回目の訪問だった。銭氏の著作と取材の成果を取り入れた拙著『習近平の政治思想』(勉誠出版)が出たので、謹呈のために表敬したのである。銭氏は日本語を解さないが、手に取って喜んでくれた。だが前回、お茶を出してくれた夫人の姿はなかった。壁面いっぱいの書棚に並んだ本がひもで束ねられ、「引っ越しの作業中」とだけ聞かされた。実はあれが自宅を引き払う準備だった。夫人の健康状態が思わしくなく、一大決断をしたのである。

銭氏の表情は相変わらずにこやかだった。私は拙著のテーマについて、習近平政権を「紅と黄の正統」として解釈しようとしたと話した。「紅」は革命二世代の紅二代として説明を要しない。私が「黄(huang)」は皇帝の「皇(huang)」ではなく、黄土と格闘する農民の「黄(huang)」だと説明すると、うなづいていた。私が、毛沢東は皇帝になったが習近平はまだわからないと言うと、銭氏は「引き続き観察する必要がある」と言った。確かに感じたのは、いまだに現在の社会に対して興味を失っていないことだった。

老人ホームでも複数の新聞に目を通し、読書、著作を続けている。北京紙『新京報』の取材に対しては次のように語っている。

「今は自由な著作の状態に入った。以前とは違い、私はあらゆる功利的目的から解放され、肩書を気にすることもなく、気がかりもなく、生計を考えることもなく、公表するかしないかも考慮する問題がない。完全に自分の内心の必要から表現をすることができる。もちろん、非常に強い社会観察の意識はあり、現実から逃避することもできない。今は最もよい学術の状態だ」

銭氏夫妻には子どもがいない。老人ホームの費用は月額2万元(約38万円)だ。だれにも真似できるわけではない。

だが、老後をいかに過ごすか、社会の老人介護観念や制度について議論を巻き起こした。中国はかつての日本同様、両親を老人ホームに送ることを「不孝」とみなす伝統観念がある。社会保障制度が不十分な農村では、老後のために男児を育てるという意識が強い。一方、若い夫婦が子どもの養育を自分たちの両親に委ねるケースも多く、老人は家族で介護されるよりも、引き続き家族を支える役割も担わされている。老人にとってはそれが残された貴重な生き甲斐である場合もある。不動産が高い現状にあって、老人が所有する家は二代目、三代目の生計を支える不可欠な財産であり、老人と子どもたちがそれぞれ経済的に独立することを困難にしている。

だが銭氏のケースは、特異ではありながら、中国でも来るべき少子高齢化社会に備え、老人がいかに独立、自立して生きていくかという問題を投げかけている。

銭氏は学生時代に迎えた文化大革命期、主体的に毛沢東の理想主義を崇拝し、革命への参加を求め続けた。多くの知識人は文革後の劇的変化を巧妙にやり過ごし、改革開放の時代風潮に忘却の安逸を求めたが、銭氏の良心は素通りを許さず、覚醒の中から脱出を試みた。銭氏は同書で「毛沢東時代に対する清算と批判は、苦痛に満ちた自己清算と自己批判であり、同時に自己救済である」と述べている。毛沢東が「人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専攻を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化する」ことを望んだと論断し、困難で苦痛に満ちた知的清算に後半生を費やした。

もしかするとその営みはまだ終わっていないのかも知れない。だとすれば銭氏にとって老人ホーム論議は意味をなさない。より自由で独立した時間と空間を求めた結果に過ぎないのである。中国メディアが、意図的かどうかは別にして、老人介護問題にのみ焦点を当て、自己救済を求める銭氏の精神を語ろうとしないのはピント外れも甚だしい。私にはそう思える。いずれ老人ホームを訪れ、以前と変わらぬ、あるいはさらに研ぎ澄まされた談義をしたいものである。

【独立記者論2】独立の精神を犠牲にした痛恨の南京報道

2015-10-20 09:34:37 | 独立記者論
自分の恥をさらそうと思う。

私は2005年、上海赴任にあたって「南京を書くこと」を最大の目標に定め、それを周囲に語った。中国経験の長いある上司は「そう言い切った上海特派員は初めてだ」と驚いていた。南京は言うまでもなく日本軍がかつて大量の中国人を虐殺した地である。犠牲者数について中国側は30万人とするが、日本側には数万から20万人まで諸説あり確定した数字がないが、日本政府も「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」ことは認めている(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/)。困難な問題である。だが困難なものから目を背けてはならない。最も困難な場所にこそ突破口のチャンスがある。「日中関係はまず南京から」。そう考えた。当時、最も多く南京に通い、最も多く南京の記事を書いた日本メディアの記者だったと思う。

私が最初に南京を訪れたのは北京に語学留学をしていた一九八六年の夏休みだ。前年に南京大虐殺記念館が完成したことを聞いたので、見に出かけた。同館の正面には現在と同様、中国語、英語、日本語で「遭難者300000」と刻まれた石壁があった。真新しい慰霊碑が点在する広場を抜けると、土に埋められた犠牲者の遺骨群「万人坑」が、発掘された状態のまま展示されていた。当時の日記には「人骨を直視することは困難。絶句。中国人が舌打ちをする」と書き込まれている。手を合わせその場を去った。記念館というよりも広場のような印象だった。この時から南京への関心は持ち続けている。

私が書いた南京関連の記事で1件、痛恨の出来事があった。
2007年12月13日、南京事件70周年を記念して地元の南京大虐殺記念館が敷地面積で3倍以上、屋内展示スペースは10倍以上拡張された。規模もさることながら、議論のある「犠牲者30万人」を視覚、聴覚に訴える仕掛けで強調し、真偽が明確でない刺激的な「百人斬り」の新聞記事が等身大に拡大されていた。隈丸優次・駐上海日本総領事(当時)は同館を訪れて視察し、朱成山同館館長に「参観した中国人に日本人への反感、恨みを抱かせる懸念がある」と展示内容の見直しを申し入れた。私も解説記事で「感情に訴える愛国主義教育と理性的な平和の希求は相矛盾する」と警告した。

再オープンの当日は、早朝から同館で行われる70周年記念式典を取材しなければならず、夕刊用の原稿はあらかじめ予定稿として東京に送り、式典開始とともに「解禁」の連絡を入れる手はずになっていた。すると日本時間の午前8時半ごろ、夕刊の当番デスクから私の携帯に連絡があり、いきなり「この原稿いるのか?」と尋ねられた。数日前の社説で取り上げられていることなどを説明すると、「そうなのか」と納得したようだった。だがしばらくしてまた電話があり、「真偽の定まっていない日本人将校による百人斬り……」の個所について、「こんな中途半端な書き方でいいと思っているのか。百人斬りなんてなかったんだろう!そのぐらいもわからないで上海特派員やっているのか!ふざけるな!書き直せ」と怒鳴りつけられた。

私はすでに移動中で、「その表現で十分だと思う」と答えたが、デスクは「直さなければ使わない」の一点張りだったので、いったん電話を切り、すぐに「報道統制下の日本の新聞記事のみをもとにした」と、電話で直しを読み込んだ。式典後、実際に刷られた夕刊を確認すると、「百人斬り」の部分は削除されていた上、南京事件の説明として書いていた「多数の中国人を殺害した」が「中国人多数を殺害したとされる」と、「される」が挿入されていた。日本政府の見解からも既定事実であって、「される」という不確かな表現はかえって誤解を招くと感じた。

「南京を書く」ことを標榜する記者として当然、「百人斬り」についても必要資料に目を通していた。根拠とされる東京日々新聞(現毎日新聞)の真偽をめぐっては、日本人将校の遺族が東京地裁に名誉棄損訴訟を提起し、東京高裁判決(2006年5月24日)は、「『百人斬り』の戦闘成果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的」「当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできない」と認定した。その際、「肯定、否定の見解が交錯し、歴史的事実としての評価は定まっていない」(東京地裁判決、2005年8月23日)との判断は踏襲された。「百人斬り」の事実については、賛否両論が併存し、歴史的事実として確定していないというのが客観的な見解だと認識していた。

デスクの取った行為は、今で言えば間違いなくパワハラであり、それ以上に、歴史認識の誤認や偏った政治思想が感じられ、記者としての適格にも問題があった。明らかに「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」とした日本新聞協会の新聞倫理綱領に反していた。私は当時の上司に以上の経緯の説明とデスク本人からの謝罪を求める文書を送った。形に残るやり取りをしようと思ったからだ。周囲からも「加藤に分がある」と感想を聞いていた。だが上司から電話で「君はもう上海に来て何年になるのか」といきなり人事権をちらつかされ、「対応は一任します」と引き下がってしまった。その後、この問題はうやむやなままである。私の記者人生の中では、「独立の精神」を犠牲にした痛恨の出来事である。

どうしてもっと戦わなかったのか、と自問した。海外駐在で残ることを優先した自分の弱さだった。月刊『文藝春秋』2008年3月号に「中国『南京虐殺記念館』真の狙い」と題する寄稿し、「百人斬り」を含めた事実関係について解説をしたのは、せめても記者の良心に申し開きをしたいと思ったからである。

【独立記者論1】資中筠という学者が書いた「日本の”知華”と中国の”知日”の差異」

2015-10-15 13:05:38 | 独立記者論
みんなが聞きたいことを言うのは簡単だ。最近の書店にはそういう本ばかりが目立つ。テレビにはそういう人ばかりがしたり顔で話をしている。それに対して「ちょっと違うのではないか」と水を差すのは知力、胆力と勇気がいる。日本の社会には「空気」というものが存在する。「空気を読めない」とは村八分の論理である。人はその空気が正しいのか、間違っているのかを問わない。いや問うことができない。空気はそもそもとらえどころがなく、「みんながこう思っている」という仮想の上に成り立っているからだ。

その空気は一朝一夕に形作られるものではなく、そこに身を置かなければわからない。ある職場の空気は、勤務時間だけではなく、仕事外の飲み会やゴルフを通じてできあがる。むしろ後者の方が大きな意味を持つことが多い。一緒に同じ空気を吸わなければ、会得することができない。人が話をしているときに、他の人の顔色をうかがいながら話を聞く者が多い。その目はこう言っている。「ちょっと違うと思うんだけど、君はどう?ぼくと同じ?」。話が終わって意見を求めると、だれも口を開かない。そして話し手がいなくなったところで、ああだこうだと論評を始める。仕事帰りの飲み屋で聞き耳を立てていると、たいていはこの手の愚痴だ。

空気を読む場所からは独立した思考は生まれない。

中国に資中筠という気骨のある女性学者がいる。清華大学米国研究所の元所長で現在は85歳だが、なお、外に向けて発言を続けている。父親の資耀華は戦前、17歳で日本に留学し、京都帝国大学経済学部を卒業した。建国後は銀行家として生きた。

資中筠は2011年、母校の清華大学から創立100周年記念式典の招待を受けたが断った。同式典には卒業生である当時の胡錦濤総書記も出席し、記念スピーチをぶっている。彼女は自著の出版記念会見で、「清華大学は政府高官のように勢いがあり、権力や財力を求めるようになってしまった。だから受け入れられない」と欠席の理由を語った。私は興味を持って彼女に連絡を取り、北京市内の喫茶店でゆっくり話したことがある。気取らないが、気品が伝わってくるたたずまいだった。その後、領土問題で日中関係が紛糾していた時期、あるニュースサイトが、彼女が2007年に書いた文章を転載しているのを見つけた。タイトルは「日本の”知華”と中国の”知日”の差異」。以下が概要だ。

彼女の実家は湖南省の末陽県にある。良質の無煙炭を算出するが、交通が不便なため外部には知られることなく、大規模な開発もされずに残っていた。ところが父が日本に留学中、図書館でこの無煙炭を調べ上げている記録を見つけびっくりする。東亜同文書院が中国各地を歩いて行った現地調査だった。世界で中国研究は行われているが、中国を知る人間の多さ、知識の深さにおいて日本が飛びぬけていることを、彼女はこの父親の体験から学んだ。

彼女はそこで我が身、中国人の日本理解を振り返る。まず第一に、日本に接近することが非国民と同義である「漢奸」を連想させる心理的障害を挙げる。これは抗日戦争とその後に行われた漢奸裁判によって植え付けられたものだ。第二は、日本を単なる西洋を学ぶためのつなぎ役としか認めず、日本そのものに対する関心を欠いていること。そして第三は、外国研究一般に共通しているが、政治や経済の必要に応じた実用主義が横行し、忍耐強くその国の文化を掘り下げて理解することをしない弊害がある。彼女はさらに、日本文化を中国文化の一部とみなす優越感が、日本独自の文化に対する関心を奪っている点も指摘する。

彼女は1980年代の半ば、四国の製紙工場を見学する。そこでは中国で蔡倫が製紙術を発明してから、精巧な宣紙を生み出していった歴史が展示され、同時に、日本がいかにそれらを吸収していったかも示されていた。最後に、どんな金属よりも軽く薄く、しかも強い強度を持つ紙を見せられ、「これが日本だ」と感心する。あらゆるものを虚心坦懐に学び、その基礎の上に発展させていく精神である。

以上が概要だ。彼女は日本人のもの作りの中に、日本の国の真骨頂を見た。もし父親が日本に留学をし、彼女自身が米国を見ていなかったら、上記の文章は生まれていないだろう。中国において、日本を独立した視点で眺めるのはかくも難しい。では日本はどうか。空気という見えない大勢に従って、見るべきものを見失っていないか。立ち止まって自問することは無駄ではないだろう。だれのためでもない。独立した思考のために。