今年の4月18~20日まで、大学時代の同級生5人が上海旅行に訪れた。当時、現地に駐在していた私は全行程のプランを練り、同行したが、辞職につながる特ダネ原稿のことは頭から離れることはなかった。原稿がボツ扱いになり、辞表を出すのは23日である。思い出深いのは滞在中の19日、旧フランス租界の武康路にある巴金故居を訪れた際のことだ。書斎に巴金が書き残した「講真話」(真実を話す)の言葉を見つけた。
巴金(は・きん)(1904~2005)は中国の現代文学を代表する小説家として中国作家協会副主席、主席を務めた、井上靖や中島健蔵ら日本の作家とも親交が深く、日本に滞在し日本語を学んだこともある。故居の書斎には日本語の辞書も並んでいた。なぜ「講真話」なのか。それは文化大革命の悲惨な歴史を振り返らなければならない。
文化大革命期は、巴金を含め多くの作家ら知識人がプロレタリア階級の敵として迫害を受けた。体を縛られて公衆の前に引きずりだされ、畜生扱いの罵詈雑言を浴びせられ、殴られ蹴られることもしばしばだった。巴金とともに中国文壇を率い、北京庶民の生活を描いた老舎は紅衛兵から暴行を受け、北京郊外の太平湖で水死した。入水自殺したとされる。
巴金は文革中、迫害に屈して「罪」を認め、反省文を書き、文革を主導した四人組に迎合した。毛沢東が死に文革が終結した後、巴金は自分の行状を振り返り、分析し、自己批判する散文を書き続けた。周囲から見れば痛ましいほどの自分との対決だった。その末にたどり着いた結論が「講真話」である。巴金は老舎が亡くなってから1年後、友の死を知り、その翌年に行われた追悼の納骨式に参加した。
私は2013年、拙著「『反日』中国の真実」(講談社現代新書)の中で、以下の通り、巴金が老舎を追悼した一文を引用したことがある。
(巴金は追悼文の中で)老舎が戯曲『茶館』の中で登場人物に言わせた「私は自分たちの国を愛しているが、だれが私を愛してくれているというのか?」を何度も引用しながら、「彼の口から叫び出された中国知識人の心の声を、どうかみんな、しっかり聞いてほしい」と書いた。文革博物館の建設を訴え続けた巴金の叫びは、まだ実現の見込みさえ立っていない。
「講真話」には、巴金自身の経験に加え、犠牲となった多くの仲間の魂も込められている。巴金は1980年、東京で開かれた国際ペンクラブ大会で「文学生活50年」と題するスピーチを行った。演説が嫌いな巴金は、次代に語り継ぐ責任から世界の作家に向けて語りかけた。
「今日、私が10年間に行ったことを振り返れば、実にばかばかしく、実に愚かだ。だが当時私はそう思ったわけではない。しばしば思うことがある。もし過ぎ去った10年の苦難な生活に一つの総括をし、真剣に自分を分析し、是非をはっきりと見分けることをしなければ、私はまたもう一人の自分になって、残忍で野蛮で愚かで荒唐無稽なことを荘厳で正確なものだとみなすようになってしまうかも知れない。この精神上の欠損からは逃れることができないのだ」
巴金の言葉は、ある国のある時期に向けられたものではなく、人間社会が陥る落とし穴を照らし出そうとしたものに違いない。スピーチの最後では「私は今、はっきりと言えることがある」として、「正直で、良心のある作家は決して目先のことにとらわれた臆病な人間ではない」と語った。巴金が真実のすべてを語り得たかどうか、私に判断するすべはない。彼の偉大さは、「講真話」を公言し、そこに自分を追い込んだことにある。文革後、多くの知識人が沈黙し、自分を偽った。社会を憎み、復讐の情にとらわれた者も多い。感傷的になり、自分の殻に閉じこもった者もいる。だからこそ「講真話」と言い得た良心と勇気には感嘆せずにはいられない。
巴金が言い残した「講真話」も「良心」も、中国の知識人に、すべてではないが、しっかりと伝えられている。彼らと話しているとしばしば、座右の銘として「講真話」を挙げる。それだけに真実を話すことは難しい。言論統制をしている国の体制もあるが、そもそも人間社会が共通に抱えている問題、そして人間の弱さなのではないか。
そして私は自分の身、自分が身を置く社会を振り返る。独立した精神、思考をもって真実を語っているか。日本国憲法には「思想及び良心の自由」と書いてある。その「良心」について、果たして真剣に考えたことがあったか。「良心」は良いか悪いかの心ではない。良し悪しを見分ける精神の働きを言っている。良し悪しを分けるものは何か。それはすなわち「講真話」ではないのか。もちろん憲法は沈黙することも表現の自由に含めているが、時代と歴史に責任を感じた者、責任を負うべき者は、声を上げる責任をも負うのではないか。自由を隠れ蓑にして沈黙を守るのは、精神的怠惰であり、卑怯ではないのか。良心はどう叫んでいるのか。良心の叫びに正直に従うことが、「講真話」ではないのか。
「良心」については『孟子』が述べている。ルソーも語っている。無垢な人間に対する楽天的な性善説がそこにある。この続きは改めて語ることにする。
巴金(は・きん)(1904~2005)は中国の現代文学を代表する小説家として中国作家協会副主席、主席を務めた、井上靖や中島健蔵ら日本の作家とも親交が深く、日本に滞在し日本語を学んだこともある。故居の書斎には日本語の辞書も並んでいた。なぜ「講真話」なのか。それは文化大革命の悲惨な歴史を振り返らなければならない。
文化大革命期は、巴金を含め多くの作家ら知識人がプロレタリア階級の敵として迫害を受けた。体を縛られて公衆の前に引きずりだされ、畜生扱いの罵詈雑言を浴びせられ、殴られ蹴られることもしばしばだった。巴金とともに中国文壇を率い、北京庶民の生活を描いた老舎は紅衛兵から暴行を受け、北京郊外の太平湖で水死した。入水自殺したとされる。
巴金は文革中、迫害に屈して「罪」を認め、反省文を書き、文革を主導した四人組に迎合した。毛沢東が死に文革が終結した後、巴金は自分の行状を振り返り、分析し、自己批判する散文を書き続けた。周囲から見れば痛ましいほどの自分との対決だった。その末にたどり着いた結論が「講真話」である。巴金は老舎が亡くなってから1年後、友の死を知り、その翌年に行われた追悼の納骨式に参加した。
私は2013年、拙著「『反日』中国の真実」(講談社現代新書)の中で、以下の通り、巴金が老舎を追悼した一文を引用したことがある。
(巴金は追悼文の中で)老舎が戯曲『茶館』の中で登場人物に言わせた「私は自分たちの国を愛しているが、だれが私を愛してくれているというのか?」を何度も引用しながら、「彼の口から叫び出された中国知識人の心の声を、どうかみんな、しっかり聞いてほしい」と書いた。文革博物館の建設を訴え続けた巴金の叫びは、まだ実現の見込みさえ立っていない。
「講真話」には、巴金自身の経験に加え、犠牲となった多くの仲間の魂も込められている。巴金は1980年、東京で開かれた国際ペンクラブ大会で「文学生活50年」と題するスピーチを行った。演説が嫌いな巴金は、次代に語り継ぐ責任から世界の作家に向けて語りかけた。
「今日、私が10年間に行ったことを振り返れば、実にばかばかしく、実に愚かだ。だが当時私はそう思ったわけではない。しばしば思うことがある。もし過ぎ去った10年の苦難な生活に一つの総括をし、真剣に自分を分析し、是非をはっきりと見分けることをしなければ、私はまたもう一人の自分になって、残忍で野蛮で愚かで荒唐無稽なことを荘厳で正確なものだとみなすようになってしまうかも知れない。この精神上の欠損からは逃れることができないのだ」
巴金の言葉は、ある国のある時期に向けられたものではなく、人間社会が陥る落とし穴を照らし出そうとしたものに違いない。スピーチの最後では「私は今、はっきりと言えることがある」として、「正直で、良心のある作家は決して目先のことにとらわれた臆病な人間ではない」と語った。巴金が真実のすべてを語り得たかどうか、私に判断するすべはない。彼の偉大さは、「講真話」を公言し、そこに自分を追い込んだことにある。文革後、多くの知識人が沈黙し、自分を偽った。社会を憎み、復讐の情にとらわれた者も多い。感傷的になり、自分の殻に閉じこもった者もいる。だからこそ「講真話」と言い得た良心と勇気には感嘆せずにはいられない。
巴金が言い残した「講真話」も「良心」も、中国の知識人に、すべてではないが、しっかりと伝えられている。彼らと話しているとしばしば、座右の銘として「講真話」を挙げる。それだけに真実を話すことは難しい。言論統制をしている国の体制もあるが、そもそも人間社会が共通に抱えている問題、そして人間の弱さなのではないか。
そして私は自分の身、自分が身を置く社会を振り返る。独立した精神、思考をもって真実を語っているか。日本国憲法には「思想及び良心の自由」と書いてある。その「良心」について、果たして真剣に考えたことがあったか。「良心」は良いか悪いかの心ではない。良し悪しを見分ける精神の働きを言っている。良し悪しを分けるものは何か。それはすなわち「講真話」ではないのか。もちろん憲法は沈黙することも表現の自由に含めているが、時代と歴史に責任を感じた者、責任を負うべき者は、声を上げる責任をも負うのではないか。自由を隠れ蓑にして沈黙を守るのは、精神的怠惰であり、卑怯ではないのか。良心はどう叫んでいるのか。良心の叫びに正直に従うことが、「講真話」ではないのか。
「良心」については『孟子』が述べている。ルソーも語っている。無垢な人間に対する楽天的な性善説がそこにある。この続きは改めて語ることにする。