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田舎暮らし山裾の日々

信州に移り住み16年 山裾になじむ今日この頃 ECOな生活“循環型社会”を志し 昔と今の田舎の生き方を愉しむ

町の歴史が面白い

2007年03月10日 | 日記
三月十日(土)晴れ 薄い雲が覆う 風が冷たい
暖かい朝だっと思ったが、昨晩は遅くまでストーブが燃えていたのだ。
夜の9時過ぎに妻・Mが寒いと言い出して薪をいれて燃やした。
十一時頃に追加した薪が大きかったせいで朝も空気を入れると炎が出ていた。

朝飯をゆっくりと摂っていると向かいの山の窪みから「水があふれ出しているのが見える」とMが言う。
驚いて見ると確かに白く光っているのだ。
双眼鏡を取り出して見ると、風で飛んだビニールが引っかかっているのだろうか?
まるで水がドクドクと溢れているように見える。
我々もこれからは今日のような見間違いが増えてくるのかもしれない。
鳥だと思って急いでカメラを取りに行くと、枯葉が芝生に絡まっているのを見間違えているのだ。
早ガッテンは前からだが、見間違えるのは○○のせいなのかも???

食事が終わったとときに、隣の集落のYさんが見えた。
旅行に行ってきたとお土産を持ってきてくれたのだ。
彼は地域の歴史に明るく、我が家の前を通っている大内道の話をした。
町の図書室から借りてきてる長門町(現・長和町)町史がが面白いのだ。
我が家前の道が大内道でかつては中山道の裏街道として栄えた道なのだ。
この話は以前Yさんから詳しく聞いていたので、長門町史を読んで理解が出来てきた。
NHKの風林火山では話に上らないが、長門町にある長窪城は武田勢によって滅ぼされたのだ。この城は当初は芦田氏(芦田城主・立科町)が築城し佐久地方の大井、依田と続いていた。その後1543年9月の武田勢の動きを『高白齋日記』(武田の家来駒井高白齋)から見てみよう、佐久から大内道を通り長窪・武石・和田に入っていたいた大井氏の佐久との連絡路を絶ち長窪城を攻略したとある。また、江戸時代に入ると松本・武石・長窪(古町)方面から大内道を通り佐久平、内山峠を越えて上州下仁田方面への米卸問屋等の最短距離として使われた道だという。(長門町史より)

このように我・大内道は歴史的にも重要であり且つ地元としては大切に次世代に引き継がなければならないのである。
このことは更に詳しく地元史を研究して行く所存である。

Yさんの昔話は実際に歩いた場所の歴史を話してくれるので楽しい。
現在80歳代の歴史愛好家の方々から貴重な昔話を聞き書きし冊子にして残さねばと考えている。
コメント
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