ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第28回目(大野浦~鯛の原)

2013-10-22 | 日記

山陽道(西国)第28回目(大野浦~鯛の原)

2013.10.22(火曜日) 晴れ

大野浦駅に10時15分に到着。孫の運動会などで前回から約40日ぶりだ。駅前に、「史跡一里塚」碑と「おおのうらをこれかととえば やまなしのかたえのもみじ色に出でつつ」と彫られた今川貞世の歌碑があるはずだが見当たらない。駅から東に少し行った所で地元の人4~5人に聞いたが、いずれも「そんな石碑は知りません」とのこと。「それなら駅裏(南側)にあるのでは」と思い踏切を渡り探してみたが、結局発見する事が出来ず、あきらめて戻り歩き始める。(駅前でもっと探すべきだったと後悔) 東にそのまま歩いて行くと、大野西小学校手前の十字路の端に「右 宮島廣島道」「左 宮内 妹背瀧道」と彫られた道標があった。

          

歌碑を求めて大野浦駅裏に  大野西小学校の十字路付近  道標

小学校と中学校が並立している。その前を通り中学校の東側の道を道なりに進んで行くと、「大野インター南」の信号機にぶつかる。その左(北側)、新幹線と高速道路の高架をくぐって少し行くと大頭(おおがしら)神社がある。近いので寄ってみる。大頭神社の手前に「長州戦争史跡 千人塚」の石碑がある。長州戦争は、前回歩いた残念社付近とここ滝ノ下辺りがもっとも激戦地であったらしい。慶応2(1866)年6月19日と25日の合戦が最も激しかった。千人塚は非業の死をとげた多くの戦士を葬ったものといわれている。

         

大野中の裏道  「大野インター南」の信号機  長州戦争史跡千人塚

大頭神社は厳島神社の末社として推古天皇11年(603)に建てられたと石板に刻まれている。また参道の朱鳥居の立額も厳島のものと同じ有栖川親皇の御染筆とあるが、残念ながら立額は見逃した。神社の右手に妹背(いもせ)の滝の雌滝(めんだき)が見える。ひげの梶さんの本には、妹背とは妹(いも)と夫(せ)、すなわち夫婦を意味するとある。社殿横の細道を川沿いに奥に行くと雄滝(おんだき)がある。空気が何ともおいしい。雄滝は高さ三〇米で水量も多く存在感があるが、雌滝は高さ五〇米だが水量も少なく川の向うで見落としてしまいそう。(実際、雌滝は見落として仲間の人に教えてもらう) 余談だが、雄滝前の広場に三人づれのご婦人がおられた。話を聞くと宮島の人だったので、「宮島の牡蠣(かき)はどうですか?」と聞くと「牡蠣はまだ早いが宮島口の〇〇さんのアナゴ飯はおいしいですよ」と教えてもらう。

          

親皇の御染筆がある鳥居  大頭神社の説明碑  大頭神社の社殿

          

名勝「妹背の滝」左・雌滝 中央左赤い欄干を渡ると  雄滝 

大頭神社から「大野インター南」の信号機に戻り、新幹線の高架をくぐったのが12時過ぎ。その道を東に10分程度歩くと、左手に「歴史の散歩道」と書かれた道標があった。そこを左折すると「陣場」がある。案内板によると、長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていた所で、前方の平地は筏津(いかだづ)といい、古代は海の入江だったと書かれてあった。この道は道幅が狭いが、ところどころ土道なのでとても歩きやすい。また案内板があるので道に迷う心配もない。

            

新幹線の高架を渡り東へ  「歴史の散歩道」道標  陣場  土道で歩きやすい 

陣場から少し歩くと、左手に高畑のため池がある。案内板には大野で最も古い灌漑溜池とある。また5月下旬~6月上旬頃には美しい蓮の花が咲くようだ。さらに東に行くと「高畑貝塚跡」「東貝塚跡」の立札があった。それにしてもこの道は、ひげの梶さんが「江戸時代にタイムスリップできる」とあったが、本当に気持ち良かった。

         

高畑のため池   高畑貝塚跡  江戸時代にタイムスリップ

その先、高畑には古代山陽道の駅家(うまや)・高庭駅家((たかにわのうまや)があったといわれている。梶さんの説明によると、古代山陽道は都と筑紫の大宰府とを結ぶ重要な道で、駅家は公用で通行する人が馬を乗り継ぐ場所。ここ高庭駅家には20頭の駅家(はゆま)が用意されていたという。濃唹駅跡(のおえきあと)は高庭駅家が廃止された後に建てられたものらしい。歌碑については、説明板に肥後の国の十八歳の若者が都にのぼる途中ここで病死、これを聞いた山上憶良が当人に代わってその心持を歌にし、万葉集にも乗っているとあった。歌碑は「出で行きし日を数えつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らはも」そこから5分位東に行くと、新宮神社がある。案内板に大野五人兄弟のうち、総領の次郎をまつった社、地元では新宮さんと呼んでいるとあった。

           

「史跡 高庭駅家跡」と山上憶良の歌碑    新宮神社 

大野五人兄弟は、天皇のご命令で大野の地を開いたという言い伝えがある。総領が次男の次郎さんなので、長男の太郎さんはどうしたのか心配したが、これも梶さんの本に、太郎は下の鴨川の辺り、以下三郎が鯛山の辺、四郎が中山に十郎は鯛原という処に住んでいたようだとあった。すぐ近くに大野次郎宅跡、土井貝塚跡の立札があった。「五十メートル行ったところにあります」とあるので行ってみたが、住宅が建っていて何もない。住宅の人に聞くと「昔はあったらしいが、今はありません!」とのこと。その先左手に三槍(みやり)社があった。三槍社は大頭神社の四末社の一つとある。「ここは道が狭いので西から東に進むと迷わないが、反対(東から西)から来ると道に迷いそうだね」と話した。

             

次郎宅跡    貝塚跡    三槍社   住宅の細い道を通る

住宅の間の細い道を歩いて行くと、左側にお稲荷さんがあった。その前を通り、橋を渡って行くとT字路(大野東中学校の北側)に出る。13時5分今日のコースはここで終了。

          

お稲荷さま   橋を渡ると今日の終点(山陽道は右側の細い道)

<余談> 大野東中学校の下に、三区集会場がある。そこからタクシーを呼んだ。宮島なら牡蠣を食べたいと、タクシーの中で「牡蠣はまだ早いでしょうね」と聞く。運転手さんが「前空に牡蠣専門店があります。連れて行きましょうか。」と愛想が良い。専門店で焼牡蠣と牡蠣フライを食べる。再びタクシーで宮島口に行き、妹背の滝で教えてもらった店でアナゴ弁当を買って帰る。(2時前なのに食べる人が沢山待っていた)「これでは山陽道ぶらぶら旅ではなく、山陽道食べ歩きだね」とみんなで大笑い。それにしても久し振りに歩いたせいか、短い距離の割に疲れた気がした。

              

前空の牡蠣専門店  宮島口のアナゴ店  宮島船着き場  JR宮島口

今日のコースは4.6Km   (広島県の計19.1Km 総計184.2Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

宮島口を14時57分の電車に乗り帰路へ。


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