ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第30回目(宮内串戸~五日市)

2013-11-23 | 日記

山陽道(西国)第30回目(宮内串戸~五日市)

2013.11.6(水曜日) 晴れ

岩国駅で電車を乗り継ぐためプラットホームに降りると、一番線ホームに岩国清流線の客車が見えた。今回は黄色のバックで蛍が描かれている。前回は桜だったので、四季を通じた客車があるのかもしれない。次が楽しみ。10時30分、宮内串戸駅に到着。早速駅前を東に歩きはじめる。道なりに歩いて行くと左に地蔵があった。写真を撮っていると近所の人が話しかけてこられ「昔はこの近くは海でした」とのこと。家が沢山建って地元の遺跡も分かり辛くなったと話された。

        

岩国清流線の客車   道側の地蔵さん・その上の紅葉 

そういえば、ある本に広島の県民性が書かれてあった。「広島は優しい。気候や人情も優しい。方向音痴の私が通りがかりの人に道を尋ねると、ほとんどの方は目的地が見える所まで作業の手をとめてまで案内して下さる。」「広島は安芸国と備後国がいっしょになってひとつの県になったので二つの県民性がある。明るく活発、自由奔放という広島型、規格尊重、理性的といわれる福山型」「広島は浄土真宗の信仰が強く根づいている」等。お地蔵さんから少し歩き、県道の下をくぐるとすぐ南北に交差する高架が目の前にある。手前を右折すると、右側に単車がようやく抜けられるような幅の狭い道がある。それを行くと狭い陸橋があり下をJR山陽本線が通っている。両側は金網のフェンスだ。ちょうど足下を列車が通ったが、音と振動ですごい迫力だった。陸橋を渡ると右手は団地の高い崖だ。左は少し視界が開けているが古い家が多い。団地の坂を下って行くが、道が2本3本と入り組んでいるので分かり辛い。資料にも「ここは迷いポイント」とある。東から歩いて来くると本当に迷いそうだ。

     

県道の下をくぐる  陸橋の下JR山陽本線  ここが迷いポイント(右に行く)

迷いポイントのすぐ先に広電平良駅(へら)がある。その前を通り抜けると右側に広電の可愛川西2踏切がある。踏切を渡ると可愛川とぶつかり、右折する。川沿いを行くと左に可愛橋があり、その橋を渡ると正面が廿日市宿である。

        

広電平良駅  可愛川西2踏切  左 可愛川に架かる可愛橋  廿日市宿  

可愛橋を渡ると左の奥に福佐売神社がある。廿日市宿にはうだつのある家が多いそうだ。「うだつ」をネットで調べると「屋根の両端に作られた防火壁のこと。江戸時代、火事の際の類焼を防ぐものでしたが、当時の豪商たちがその富を競い合うようにそれぞれ立派な“うだつ”を設けました。」「うだつが上がらないとは、地位・生活などがよくならない。ぱっとしないこと。」とあった。その先の道を右折すると、須賀という町名になる。ここには「町の金融機関跡」「口屋番所跡」があったらしいがいまは何もない。道は大きく右に曲がっているが、道なりに進んで行くと変形十字路にぶつかり、道路を渡ると左手に常念寺。常念寺の前の通りを歩いていると「どちらまで行かれますか?」と声をかけられた。

     

福佐売神社    うだつのある家    常念寺

その先、左の駐車場の北側の通りに光明寺、奥に常國寺がある。この付近が迷いポイントらしいので、地図を眺めていると又「どこをお探しですか」と二人の男性から声をかけられ、「本陣跡」を親切丁寧に教えてもらった。大通りに出ると左に蓮教寺があった。

         

どちらまで?   光明寺   常國寺   蓮教寺・八幡宮の崖 

教えられたように右の交差点まで戻りパチンコ店の前を通ると、左上に廿日市天満宮があった。見晴らしは良いとは思うが、あまりにも急な坂なので顔を見合わせ結局パス。天満宮の前に廿日市本陣跡の石碑があり、その裏の中央公民館の場所には明治の洋風建築、美しい白壁の佐伯郡役所が建っていたらしい。天満宮から下りて来られた地元のご婦人に「鐘に高浜虚子の俳句が刻まれている正蓮寺は近くですか」と尋ねると正蓮寺まで同行して下さり、「私は地元だけど正蓮寺さんの鐘のことは知らなかった」と言われ、喜ばれた。

         

廿日市天満宮入口  見上げる廿日市天満宮  本陣跡と郡役所跡の碑

正蓮寺の鐘には高浜虚子の「結縁は疑も無き花盛」という句が刻まれている。また音響を考えたのか鐘の真下に甕(かめ)が埋められている。その先、東に歩いて行くと廿日市招魂社がある。明治天皇が廿日市に入られた折にここで休憩された場所で、記念の石碑が建てられてある。この廿日市は古くは「廿の浦」と呼ばれ、鎌倉時代から厳島神社の社領として賑わったらしい。可愛橋から招魂社辺りまで宿場町を感じさせる。

   

正蓮寺の鐘と甕      廿日市招魂社

招魂社から、線路を越えて北に行くと洞雲寺がある。桜尾城主藤原教親(のりちか)が建立した。梶さんの本によると、洞雲寺には桜尾城で大内氏に攻められ自刃した藤原興藤(おきふじ)と、厳島の合戦で敗れた陶晴賢の墓がある。また、毛利元就の四男で最後の桜尾城主穂田(ほいだ)元清夫婦の墓と、桂太郎の祖先で毛利元就の重臣桂元澄の墓もある。と書かれてあったが、少し遠いのでこれまたご遠慮した。招魂社の前を右に曲がり左折する。前方の右側角にお稲荷さんがある。これは津和野の太鼓谷稲成神社を勧請した稲生大明神である。何故か稲荷でも稲成でもなく「稲生」だ。その少し先には石州津和野藩御船屋敷旧跡の石碑がある。通りの突き当たり、正面が桜尾城跡で現在は整備された桂公園になっている。

         

稲生大明神  津和野藩御船屋敷跡の石碑  正面が桜尾城跡

桂公園(桜尾城跡)で、蓮寺に連れて行ってもらった二人連れのご婦人に再会した。12時を少し回っていたので、「この近くにお昼が出来るお店はありませんか」と尋ねると「公園の下にフランス料理の店があり、ランチもありますよ。」と教えられた。今日の予定の半分しか歩いていないし、いつもより昼食時間が早い。お昼からフランス料理はいかがなものか?と思ったが「フランス料理のランチ」という言葉に勝てなかった。

        

桂公園の入口で 桜尾城跡の説明碑  地元の人からお話を  桂太郎書の碑

昼食後13時30分に街道に戻り、東に歩いて行くと右手に一本の街道松がある。案内板によると、道の両側に3間(約6m)ごとに街道松が植えられていた。文化2年(1819)には68本の松並木があったが廿日市市内に今はこの一本だけ。と書かれてある。佐方川を佐方中橋で渡り歩いて行くと、道路の左側に「西国街道壱里塚跡」と刻まれた新しい大きな石碑がある。佐方の一里塚跡と呼ばれるもので、次は3里行かないと一里塚はないという。その先、国道2号線「西隅の浜」信号機を渡ると、道幅が広がり交通量が増えてくる。

     

街道松と説明板   佐方の一里塚跡   国道2号を横切る

道なりに歩いて行くと岡ノ下川にぶつかる。三筋橋手前を左折して、右側にある海老橋の歩道橋を渡り左折する。そのまま広電の「一本松踏切」を越えて右折をすると楽々園の通りに出る。(全国男子駅伝大会でランナーが走る楽々園前は国道の方)

     

岡ノ下川 向うが海老橋  広電「一本松踏切」  国道側楽々園前

まったく偶然ですが、写真を見ると楽々園の五本松が撮れていました。

         

楽々園の五本松(見えにくいが、後頭の右が5号松、以下4,3・・1号)

楽々園前を過ぎ、県道の高架下を通って左の山陽本線古浜第5踏切を渡り、養神館病院の所を右折する。その先400~500m位直進すると道はT字路になる。左の道を少し行くと右手に五つ神社がある。その前に見事な松の大木がある。更に行くと、光禅寺がある。入口には伊勢亀山の仇討で有名な石井兄弟誓いの松がある。ひげの梶さんの本には文禄14(1701)年5月9日、伊勢の亀山で28年ぶりに父の敵の赤堀水右衛門を討ち果たした石井半蔵・源蔵兄弟の話は文禄の曽我物語として有名。石井兄弟は光禅寺の8代目ご住職の兄で剣の達人であった大忍から指南を受け亀山に向かう。その旅立ちに際して、大忍は一本の松を植え、「必ず本懐を遂げよ。この松の成長とともにお前たちの壮挙も長く語り継がれることだろう」と励ました。と書かれてある。

     

古浜第5踏切   五つ神社と松の大木   光禅寺の誓いの松

この寺には町内最古の延宝7年(1679)鋳造の梵鐘があり、立派な大銀杏もある。元のT字路に戻るとき、自転車をついているお婆さんから「どちらからおいでですか?」と声をかけられた。お歳を聞くと90歳といわれる。90歳で自転車に乗ってお元気なのに皆でビックリ。それにしても広島県民は優しい。T字路に戻り左に行く、U字型に左に曲がり込む道を進むと五日市駅前通りに出る。右折し 五日市駅に15時20分到着。

     

光禅寺の山門    梵鐘と大銀杏    五日市駅

今日のコースは6.2Km          (広島県の計31.6Km 総計196.7Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

今回は廿日市駅をショートパス

本日の教訓  道なかばで腹一杯昼飯を食べない事。でないと大変な目に遭います!