ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第29回目(鯛の原~宮内串戸)

2013-10-28 | 日記

山陽道(西国)第29回目(鯛の原~宮内串戸)

2013.10.28(月曜日) 晴れ

10時19分、前空駅に降りる。前回の終点大野東中学校(鯛の原口)に行くには、JR前空駅からタクシーでワンメーターなので4人だとバス代より安い。駅北口に出て、今回で見納めになるかもしれない宮島を写真に収める。タクシーに乗り、今日の始点・大野東中学校に10時35分到着。

           

JR前空駅北口   紅葉のあいまから見える宮島

歩き始めてすぐ左に「十郎原」の立札があった。大野五兄弟の末弟が開墾したところと書かれてある。十郎原橋を右に見ながら、東に歩いて行くと立派な竹林があった。竹林の東の端に「史跡 一里塚跡」の石碑があり、その横に「塚の松跡」と書かれた案内板がある。ここが中山一里塚跡。前回見逃した大野浦駅前の一里塚跡から一里(4Km)になる。一里塚跡から少し行くと田圃があり、はぜに稲穂が掛けられている。山口の方では稲刈りは山間部では8月末から9月の初め、普通10月上旬には終わるので、土地が変われば稲刈りの時期も変わるものだと感じた。それにしても最近は天日干し自体が珍しい。

            

十郎原の立札   竹林   中山一里塚跡石碑と案内板  はぜに稲穂が・・

道なりに歩いて行くと、左に中山集会所がある。ここから先は道幅が広くなる。北に抜ける道を横切り、橋を渡ると廿日市JCT に通じる道とぶつかる。山陽道はそこを左折するが、道の左側に疣(いぼ)観音堂と今川貞世の歌碑があり、貞世の説明板がある。説明板を読んだ連れの女性が「貞世(さだよ)というので女性かと思っていたが男性なのね」石碑に彫られた紀行文も優しくて女性のようだ。一歩さんによると、今川貞世は応安4年(1371)足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるときの紀行文「道ゆきぶり」を残しているとある。この歌碑は、中山を通過したとき詠んだもので、「とにかくにしらぬ命をおもうかな わが身いそぢにおおの中山 むかしたれかげにもせんとまくしいの おおの中山 かくしげ るらん」と刻まれているらしい。

          

ここを渡り、橋を渡る   今川貞世の歌碑と説明板   疣観音堂

長い上り坂を歩く。これが四郎峠だ。(四郎峠の名は大野五兄弟の四男、四郎に由来している。)広島岩国道路の高架をくぐると、左手に敬愛病院の看板が見えてくる。その先頂上付近に「宮内 大野 村境」の碑がある。11時40分ここで小休止。しかし、この道は高速道路山陽自動車と広島岩国道路が合流する廿日市JCTに通じているので、猛烈なスピードを出した車が頻繁に通る。しかも歩道がないので危険この上ない。(厚狭~厚東間を歩いた国道2号線を思い出すが、あの時は国道なので道幅がもう少し広かったはず。)

          

「大野 宮内村境」の碑  頂上付近で小休止  「四郎峠」車が頻繁に通る

山陽道は広島岩国道路の北側を並行している。その道を東に下って行くと、高速道路のトンネルにぶつかる。このトンネルを抜け、インターの高架をくぐって進むと「畑口橋」の信号機が見えてくる。ここが「津和野岐かれ」である。

             

高速道路下のトンネルと高架橋  宮内の市街地に近づく  畑口橋信号機

信号機の手前、左の草むらの中に「南無阿弥陀仏」と彫られた石塔がある。これが「夜泣き石」と呼ばれている供養塔だ。梶さんの話によると、江戸時代、津和野岐われに三角形の自然石があって、この石から毎夜、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。そこで南無阿弥陀仏と彫った石塔を建て、ねんごろに供養したところ泣き声が聞こえなくなったという。

           

夜泣き石  左 西国街道 右 津和野街道  畑口橋の信号機

畑口橋の信号機を渡り県道30号線を南下する。次の信号機(四季が丘南口)を左に行くと川(御手洗川上流)がある。その川に架かる石原橋は渡らず、右折して川沿いを道なりに歩く。右手に佐原田権現神社が見えたが、そこに行く道がない。そこで農道を歩いて神社の前に出る。

          

御手洗川沿いを歩く   農道を行く   佐原田権現神社

今回は県道を縫うように4回横断する。多分この県道が造られたとき山陽道が分断され、正規の道がなくなった所もあったのだろう。今年は柿が豊作で、何処を歩いてもおいしそうな柿が枝に沢山実っている。「ご自由にお取り下さいと書いてあるといいのにね。だって熟れ過ぎて道に落ちたり、カラスに食べられるよりましよね」とは勝手な言い分だろうか?

         

沢山実をつけた柿の木   砂原大橋   河原にいた鳥

12時40分カレー専門店で昼食。この店はカレーも美味しかったが、コーヒーが本当においしかった。食後、13時40分に再出発。マックハウス前のバス停を左斜めに進むと御手洗川に出る。砂原大橋を渡り、右折して川沿いを歩く。少し行くと、河原の中に鳥の剥製が置いてある。よく見ると首が動き、目が動くので「剥製ではなく本物だ!」と思わず言ってしまった。「宮内交番前」の信号を渡ると左に専念寺があった。屋根の上には彫刻があり、あまりに立派なお寺なのでしばらく見惚れてしまう。専念寺の右手前に「西国街道壱里塚 跡」の、これまた立派な大きな石碑があった。

          

専念寺の立派な屋根   (屋根の上の彫刻 )   西国街道壱里塚跡

川沿いを道なりに歩き、新幹線と自動車道の高架をくぐって行くと、細い十字路がある。右が御手洗橋、左が宮内串戸駅、前が山陽本線の踏切になる御手洗橋を渡り、西に行くと地御前神社に通じる地御前参道になる。14時30分宮内串戸駅に到着。

            

高速道の高架をくぐる   御手洗橋   宮内串戸駅   駅前の銅像

今日のコースは6.3Km          (広島県の計25.4Km 総計190.5Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

宮内串戸駅を14時36分の電車に乗り帰路へ。

今回はJR宮島口と阿品駅をショートパス

 

 


山陽道(西国)第28回目(大野浦~鯛の原)

2013-10-22 | 日記

山陽道(西国)第28回目(大野浦~鯛の原)

2013.10.22(火曜日) 晴れ

大野浦駅に10時15分に到着。孫の運動会などで前回から約40日ぶりだ。駅前に、「史跡一里塚」碑と「おおのうらをこれかととえば やまなしのかたえのもみじ色に出でつつ」と彫られた今川貞世の歌碑があるはずだが見当たらない。駅から東に少し行った所で地元の人4~5人に聞いたが、いずれも「そんな石碑は知りません」とのこと。「それなら駅裏(南側)にあるのでは」と思い踏切を渡り探してみたが、結局発見する事が出来ず、あきらめて戻り歩き始める。(駅前でもっと探すべきだったと後悔) 東にそのまま歩いて行くと、大野西小学校手前の十字路の端に「右 宮島廣島道」「左 宮内 妹背瀧道」と彫られた道標があった。

          

歌碑を求めて大野浦駅裏に  大野西小学校の十字路付近  道標

小学校と中学校が並立している。その前を通り中学校の東側の道を道なりに進んで行くと、「大野インター南」の信号機にぶつかる。その左(北側)、新幹線と高速道路の高架をくぐって少し行くと大頭(おおがしら)神社がある。近いので寄ってみる。大頭神社の手前に「長州戦争史跡 千人塚」の石碑がある。長州戦争は、前回歩いた残念社付近とここ滝ノ下辺りがもっとも激戦地であったらしい。慶応2(1866)年6月19日と25日の合戦が最も激しかった。千人塚は非業の死をとげた多くの戦士を葬ったものといわれている。

         

大野中の裏道  「大野インター南」の信号機  長州戦争史跡千人塚

大頭神社は厳島神社の末社として推古天皇11年(603)に建てられたと石板に刻まれている。また参道の朱鳥居の立額も厳島のものと同じ有栖川親皇の御染筆とあるが、残念ながら立額は見逃した。神社の右手に妹背(いもせ)の滝の雌滝(めんだき)が見える。ひげの梶さんの本には、妹背とは妹(いも)と夫(せ)、すなわち夫婦を意味するとある。社殿横の細道を川沿いに奥に行くと雄滝(おんだき)がある。空気が何ともおいしい。雄滝は高さ三〇米で水量も多く存在感があるが、雌滝は高さ五〇米だが水量も少なく川の向うで見落としてしまいそう。(実際、雌滝は見落として仲間の人に教えてもらう) 余談だが、雄滝前の広場に三人づれのご婦人がおられた。話を聞くと宮島の人だったので、「宮島の牡蠣(かき)はどうですか?」と聞くと「牡蠣はまだ早いが宮島口の〇〇さんのアナゴ飯はおいしいですよ」と教えてもらう。

          

親皇の御染筆がある鳥居  大頭神社の説明碑  大頭神社の社殿

          

名勝「妹背の滝」左・雌滝 中央左赤い欄干を渡ると  雄滝 

大頭神社から「大野インター南」の信号機に戻り、新幹線の高架をくぐったのが12時過ぎ。その道を東に10分程度歩くと、左手に「歴史の散歩道」と書かれた道標があった。そこを左折すると「陣場」がある。案内板によると、長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていた所で、前方の平地は筏津(いかだづ)といい、古代は海の入江だったと書かれてあった。この道は道幅が狭いが、ところどころ土道なのでとても歩きやすい。また案内板があるので道に迷う心配もない。

            

新幹線の高架を渡り東へ  「歴史の散歩道」道標  陣場  土道で歩きやすい 

陣場から少し歩くと、左手に高畑のため池がある。案内板には大野で最も古い灌漑溜池とある。また5月下旬~6月上旬頃には美しい蓮の花が咲くようだ。さらに東に行くと「高畑貝塚跡」「東貝塚跡」の立札があった。それにしてもこの道は、ひげの梶さんが「江戸時代にタイムスリップできる」とあったが、本当に気持ち良かった。

         

高畑のため池   高畑貝塚跡  江戸時代にタイムスリップ

その先、高畑には古代山陽道の駅家(うまや)・高庭駅家((たかにわのうまや)があったといわれている。梶さんの説明によると、古代山陽道は都と筑紫の大宰府とを結ぶ重要な道で、駅家は公用で通行する人が馬を乗り継ぐ場所。ここ高庭駅家には20頭の駅家(はゆま)が用意されていたという。濃唹駅跡(のおえきあと)は高庭駅家が廃止された後に建てられたものらしい。歌碑については、説明板に肥後の国の十八歳の若者が都にのぼる途中ここで病死、これを聞いた山上憶良が当人に代わってその心持を歌にし、万葉集にも乗っているとあった。歌碑は「出で行きし日を数えつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らはも」そこから5分位東に行くと、新宮神社がある。案内板に大野五人兄弟のうち、総領の次郎をまつった社、地元では新宮さんと呼んでいるとあった。

           

「史跡 高庭駅家跡」と山上憶良の歌碑    新宮神社 

大野五人兄弟は、天皇のご命令で大野の地を開いたという言い伝えがある。総領が次男の次郎さんなので、長男の太郎さんはどうしたのか心配したが、これも梶さんの本に、太郎は下の鴨川の辺り、以下三郎が鯛山の辺、四郎が中山に十郎は鯛原という処に住んでいたようだとあった。すぐ近くに大野次郎宅跡、土井貝塚跡の立札があった。「五十メートル行ったところにあります」とあるので行ってみたが、住宅が建っていて何もない。住宅の人に聞くと「昔はあったらしいが、今はありません!」とのこと。その先左手に三槍(みやり)社があった。三槍社は大頭神社の四末社の一つとある。「ここは道が狭いので西から東に進むと迷わないが、反対(東から西)から来ると道に迷いそうだね」と話した。

             

次郎宅跡    貝塚跡    三槍社   住宅の細い道を通る

住宅の間の細い道を歩いて行くと、左側にお稲荷さんがあった。その前を通り、橋を渡って行くとT字路(大野東中学校の北側)に出る。13時5分今日のコースはここで終了。

          

お稲荷さま   橋を渡ると今日の終点(山陽道は右側の細い道)

<余談> 大野東中学校の下に、三区集会場がある。そこからタクシーを呼んだ。宮島なら牡蠣を食べたいと、タクシーの中で「牡蠣はまだ早いでしょうね」と聞く。運転手さんが「前空に牡蠣専門店があります。連れて行きましょうか。」と愛想が良い。専門店で焼牡蠣と牡蠣フライを食べる。再びタクシーで宮島口に行き、妹背の滝で教えてもらった店でアナゴ弁当を買って帰る。(2時前なのに食べる人が沢山待っていた)「これでは山陽道ぶらぶら旅ではなく、山陽道食べ歩きだね」とみんなで大笑い。それにしても久し振りに歩いたせいか、短い距離の割に疲れた気がした。

              

前空の牡蠣専門店  宮島口のアナゴ店  宮島船着き場  JR宮島口

今日のコースは4.6Km   (広島県の計19.1Km 総計184.2Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

宮島口を14時57分の電車に乗り帰路へ。