山陽道(西国)第27回目(玖波~大野浦)
2013.9.10(火曜日) 晴れ
今年の夏は大変だった。梅雨明けが7月8日、その後連日30℃を越える暑さ。7月末には、浜田・津和野(島根県)萩(山口県)地方は記録的大雨の為大変な被害にあった。8月に入ると、今度は35℃を越える猛暑。40℃近くになる日が何日もあり、8月末から9月初めは大雨で、毎日大雨警報が発令された。そんな理由(わけ)で8月はウォーク中止。9月に入りボチボチ歩き始めた。いつもの電車で岩国駅に着く。そこで電車を乗り継ぎ玖波駅に10時20分に到着。駅前で写真を撮り、玖波宿を歩く。
玖波駅前で撮影 玖 波 宿
玖波宿は、長州戦争(1866年)によりそのほとんどが焼失したらしい。駅前から東に5分程度歩いて行くと、左手にJA玖波があり、その前が玖波本陣跡であったらしいが今は何もない。そこから少し東に行くと祠があり、その奥側に角屋釣井(かどやつるい)と高札場跡がある。順広寺の屋根を左に見ながら宿場を歩くと、玖波隧道の前に地蔵尊があった。
玖波本陣跡付近 角屋釣井と高札場跡 順広寺の屋根 隧道手前の地蔵尊
玖波隧道の上を行く道は、昔「馬ためし峠」と呼ばれて難所だったとか。そこで健脚の「馬ためし峠」を行く組と、自信が無く隧道を抜ける組の二手に分かれた。「馬ためし峠」を降りて来た組と合流したのが、約7分後の10時50分。しかし、ここからが大変だった。「鳴川の石畳」への入口がわからず、国道沿いをあちこち歩き健脚のYさんは山道を登ってみたり・・。女性陣は引き返して隧道出口を探索し・・。ようやく隧道からすぐの民家の間の細い道を発見はしたものの、石畳への入口が分からない。そのまま行くとJR山陽本線にぶつかった。右側にJR山陽本線のトンネルを見ながら無人踏切を渡る。しかし鳴川の石畳はあのトンネルの上を通るはずなのに?とまた踏切を引き返す。畑におられた地元の人を見つけ、畑の小屋?の側を通る山側の入口を教えて貰った。しかし、案内板も目印もないので入口を見つけるのは地元の人以外は無理だと思う。
「馬ためし峠」 峠から見る唐船浜港 玖波隧道
あのトンネルの上を通るのに!石畳の入口 下が山陽本線の線路
石畳の入口に着いたのが11時 25分。35分迷走した事になるが、今回はこれだけでは 終わらない。石畳に行くには鉾ノ峠(たお)と呼ばれる山道を行くが、頂上付近で道が左右に分かれていた。案内板がないので、最初は右側の山道を行くがこれが間違い。引き返し反対の坂道を下ると鳴川の石畳があり、横に「史跡西国街道跡」と題した案内板があった。「鳴川の石畳」に着いたのが11時45分。わずか1Km強の距離を1時間かけてさ迷い、暑さと藪蚊に悩まされながら峠を下りた。
鉾ノ峠 頂上の別れ道 鳴川の石畳と案内板
石畳を降りると住宅地に出る。視界が開け瀬戸内海が見えた。日陰で小休止する。民家の細い道を東に歩いて行くと、バスが通る大きな道と合流する。合流した道の側に電柱と消火栓がある。東から石畳に行く人は、この電柱と消火栓を目印にするが、見落とす人も多いらしい。(資料には迷いポイントのひとつと書かれてある)バス通りを道なりに進んで行くと(広島岩国自動車道に向かって)住宅街に出る。この住宅街が大変な登り坂である。坂の途中に鳴川保育園が有り、その前に西国街道(歴史の散歩道)と書かれた看板があった。ふと振り向くと、大竹の工場地帯が見え海も美しい。「そう言えば立派な大きな家や寮らしき物が多いが、空き家も沢山ある。バブルの時は別荘や保養所だったのかも」と話しながら坂を登る。
視界が開ける! 迷いポイント 保育園前の案内板 海と工場地帯が一望
自動車道のガードをくぐり右折する。道は自動車道と並行して、アップダウンを繰り返すが全体的には急な登り坂である。その道を20分位歩くと、左に八坂墓苑がある。墓苑前の道を右に行くと山道になる。ここが「残念さん」の入口で西国街道の案内板がある。
自動車道 急な坂道 標識 海の向うが宮島 左墓苑・右残念さん入口
山道に入ると「残念さん」と「区民ふれあいの道」の道標がやたら多くなる。5分程度歩くと左に赤い鳥居があった。この鳥居は依田神社のもので、階段を登って行くと小さな祠があるらしい。先にある残念社は依田伴蔵を悼んで祭ったものと聞いたが、その関係はよくわからない。依田神社に行かないで吉田松陰腰掛けの石に座って小休止。その側に説明板があり、それには吉田松陰の「親思う 心に勝る 親心 今日のおとずれ 何と聞くらむ」の有名な辞世の句が書かれ、江戸に護送される途中この岩に腰掛け休憩したとある。(説明文だと辞世の句をここで詠んだのかと思ってしまいそうだが・・)余談だが、松陰が「この場こそ、三県一望の地である。」と言ったと案内板にあったが、三県とは山口県、広島県とあと一県は島根県か愛媛県か?いろいろ説はあるが、瀬戸内海だから島根県はなさそうだね?と話した。(そもそも廃藩置県はまだのはずだが?)
「残念さん」の道標 松陰腰掛けの岩で小休止 腰掛けの岩の説明板
腰掛け岩から東に少し歩くと左手に残念社がある。その説明板を読むと「慶応2年(1866)丹後宮津藩士の依田伴蔵が幕府軍の軍使として和平交渉に向かう途中、長州兵に戦闘員と間違えられて狙撃された。伴蔵は「残念」と言って倒れた。残念社は村人が伴蔵の戦死を悼んで祭ったものである」と書かれてある。残念社の東に治山ダムがある。平成11年に林野火災があり、土砂災害防止のため設立とある。
残念社とその説明板 治山ダム
治山ダムを過ぎると山道がT字路になっている。北方面が四十八坂なので、健脚組で坂を登ろうとしたが、草深い籔道で足元が危ないと途中であきらめ引き返してきた。合流し元の道を歩くが「残念さん」の道標だけが頼みの綱。途中残念さんの石塔が倒れていた。いたずらで倒したとも思えないので、起こしてあげたら良かったが・・・。小川沿いの細く草深い山道は、あちこち石垣が組まれていて、往時はどんな風景だったのかと思わせる。残念さんの出口が13時15分なので、山越えに40分かかった事になる。
四十八坂入口 青い道標が頼り 倒れている石塔 残念さん出口付近の山道
何故時間を気にするのかと言うと、昼食の店に13時30分までにと言われたからだ。自動車道をくぐって南側に残念さんの出口がある。その道を東に進んで行くと今川貞世の歌碑がある。「浪の上に藻塩(もしお)やくかと見えつるは 蜑(あま)の小船にたく火也(なり)けり」と刻まれている。石碑から少し下り左折して細い道を通ると、そこが古代山陽道で石畳が敷かれてあり、その出口に「古代山陽道の史跡」と題されたちょっと変わった案内板があった。これも余談ですが、お店に着いたのが13時25分。滑り込みセーフ!
今川貞世の歌碑 古代山陽道の石畳 道路への出口 古代山陽道の案内板
再出発が14時15分。「古代山陽道の案内板」があるバス通りを横切り、南側の細い道を東に歩くと右手に立看板があった。それには「この道は旧西国街道の一部です。舗装路面の下には、当時の石畳道を保存しています。保存のために仮舗装をしています。大型車両の通行はご遠慮下さい。」と書かれていた。これが「向原の石畳」らしいが舗装されていたので情緒はありません。(というか説明を読まなければ分からない) 道は再びバス通りにぶつかり、そのまま住宅街を東に行くと交差点に出る。交差点から本覚院前の細い道を行くが特になにも無い。大野浦駅までは一本道で迷うこともない。 (駅到着が15時前) 大野浦を15時17分の電車に乗り、帰路へ。
「向原の石畳」と説明板 どこからでも見える宮島 JR大野浦駅前で
今日のコースは5.5Km (広島県の計14.5Km 総計179.6Km)
参加者 S夫婦とM夫婦の4人
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