ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第32回目(西広島~広島)

2014-02-26 | 日記

山陽道(西国)第32回目(西広島~広島)

2014.2.13(木曜日) 曇り

10時41分西広島駅に到着。駅前に「花山駅 ズッコケ三人組」の像がある。その説明文によると<この像は戦後の日本児童文学でベストセラー「ズッコケ三人組」に登場する主人公です。「花山駅」は西広島駅をモデルにしています>とある。駅前商店街を歩いていると、「佐伯郡己斐村一〇〇‐一」と刻まれた道標があった。竣工が平成25年6月とある。ここが整地された時に作り直されたものか?神功(じんぐう)皇后がこの己斐に船を止められた時、地元の長が鯉を差し上げたので、この村を鯉村と呼ぶようになったが、1199年の文章に「己斐」とあるので、その頃から己斐になったらしい。(梶さんの資料から)

                 

西広島駅と駅前の「ズッコケ三人組」の像      駅前商店街と昨年造られた道標

商店街を抜けて信号機を右折すると、太田川の放水路に架かる橋・己斐橋が見えてくる己斐橋を渡ると福島町に入る。福島といえば、洪水で崩れた広島城の石垣を許可なく修復したとして改易され、「戦のない時代になっては、役立たずの古物として土蔵の中に入れてしまわれることよ」と言って表舞台から消えた広島城主の福島正則を思い出す。広島西郵便局のある交差点右角に「林の餅」があるので、餅を買って頂くことにした。

              

太田川に架かる己斐橋   福島町一丁目   広島西郵便局前の「林の餅」

「林の餅」を過ぎて行くと、天満町に入り左に赤い鳥居が見えてきた。鳥居の脇には、旧山陽道と刻まれた石柱が立っている。天満宮のご祭神は、もちろん天神さま・菅原道真公。学問の神様として信仰されているが、ここ天満町の天神さまは、火災からの災難よけとして祀られたのがはじまりだ。たびたび火災が起きたので、当時の町役人が天神さまのご霊徳をいただこうと、それまでの元小屋新町を天神町と改め、天満宮を鎮座の神さまとして祀ったことが、境内の由緒を記した石碑に刻まれている。その天満宮で、参拝していると神主さんが飛んでこられお祓いをして下さったのにはビックリした。参拝の仕方や意味など丁寧に説明して頂いた。その先、天満川に架かるみどり色の橋・天満橋を渡る。

        

赤い鳥居と石碑     お祓いを受ける   天満川に架かる天満橋

天満橋を渡って東に行くと、土橋信号機の手前右側に頼山陽煎餅藝陽堂がある。明治44年創業、今でも店の奥で手焼きをしている。手焼き煎餅もさることながら、頼山陽(頼山陽は江戸後期の思想家で「日本外史」が有名。幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた人物)の名前につられて煎餅を買う。その先の浄国寺には、宮島のおしゃもじの創始者誓真の墓がある。誓真は宮島にこれといったみやげ物がないことに気付いて、弁財天の持ち物である楽器の琵琶の形をまねて、「おしゃもじ」を作ったと伝えられている。(1789~1800)本川橋から中国新聞社ビルが見える。その前に本川浜恵美須神社がある。

            

頼山陽煎餅   誓真さんの墓   本川浜恵美須神社   本川橋

本川橋を渡ると平和公園である。歩道に「西國街道 中島本町」の表示があった。道を挟んで右に原爆資料館があり、左に原爆の子の像と原爆死没者慰霊碑がある。10数年前にこの折鶴が放火され、14万羽の折鶴が焼失したことを思い出した。

           

西國街道の表示   原爆資料館   死没者慰霊碑   原爆の子の像

平和公園のはずれ、元安橋の手前右側に「広島レストハウス」がある。これは旧大正屋呉服店で、原爆投下でも全壊を免れて残存している建物ということ。元安橋から左側に原爆ドームが見える。

         

広島レストハウス   元安橋から原爆ドームを    元安橋

元安橋を渡ると左手茂みの陰に「広島市道路元標」がある。案内板によると、この地は、主要街道が交差し太田川の水運の利もあって広島城下の中心地だった。当時この地に高札場があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、御茶屋などがあった。広島からの里程(みちのり)はすべてこの地点から起算されていたとある。その反対側に喫茶店があり、店の前に「昭和二十年八月の地形」の石碑がある。

        

広島市道路元標と案内板     元安橋の袂・喫茶店前の石碑

元安橋から少し歩くと電車通り出る。それを横切ると本通りである。ここは広島の中心街で木曜日というのに大変な賑わい。その商店街のアーケドを抜けると、夜はネオン街で賑わう堀川町。12時30分を過ぎたので、お好み村を探してウロウロ。結局地元の人にそこまで案内をして頂いた。(お目当てのお店が定休日なのでガッカリ!)

           

電車通り    本通り商店街    広島風お好み焼き

13時40分再出発。ライオンビルを左折し電車通りを横切って行くと幟町交番前信号機にぶつかる。そこを右折すると橋本町に入る。広島駅に向けて歩いて行くと京橋がある。後で梶さんの資料を読み返してみると、ちょっと面白い事が書かれているので、そのまま引用させてもらう。<元安橋から本通り、堀川町から銀山町。そして京橋を渡って、猿猴橋へと向かいました。橋の親柱は、京へ向かう人たちの側、すなわち京都と反対側は「ひらがな」。京都側は「漢字」で橋の名前が書かれています。これは、「学問をするために京に上り、力をつけて帰郷する」つまり、京に向かうときはひらがなでも、帰郷するときは漢字が使えるようになって帰ってくる。ところが、猿猴橋はきちんと京都側が漢字ですが、京橋は反対です。橋の復旧工事のとき間違えたのか。> いままでの橋、確認してなくて残念。京橋を渡り駅前大橋を渡ると今日の終点広島駅に到着。到着時刻は14時15分でした。

         

ライオンビル   京橋 親柱の字が反対(漢字は東側なのに・・)   駅前大橋

        

         広島駅前で撮影

今日のコースは5.0Km          (広島県の計44.1Km 総計209.2Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

広島駅を15時13分の電車に乗り帰る。

 今回は横川駅をショートパス

 

 


山陽道(西国)第31回目(五日市~西広島)

2014-02-06 | 日記

山陽道(西国)第31回目(五日市~西広島)

2013.11.19(火曜日) 晴れ

今日の清流線の客車は秋景色。水色のバックに紅葉(もみじ)と鮎が描かれている。10時34分、五日市駅に到着し、45分駅前を出発。駅前通り(左側)に五日市「福屋」がある。福屋の前の街路樹はすっかり秋の装い。そこを真直ぐ北に行き駅前三丁目信号を右折して歩く。

        

岩国清流線の客車   五日市駅   駅前通り(すっかり秋模様)

八幡川に架かる八幡橋を渡るとき、橋の袂で地元の人から「昔この辺りは全部海でした」と話かけられる。橋を渡り鈴峯女子大前の通りに入る。その入口の所に地蔵があり、説明板に「餓鬼の首地蔵」と書かれてある。「昔はこの付近は一面海であった。ある時、船が暴風に遭い船頭が亡くなり、家族が供養のため洞窟を掘り地蔵さんを祀った。その場所が「餓鬼の首」と言われたので餓鬼の首地蔵と呼ばれ、海の安全を願う地蔵さんだった。当時は船頭の目印にもなっていた」とある。その先、井口(いのぐち)三丁目信号を過ぎると左に街道松の説明板があり、昭和58年に残っていた最後の松は道路の拡幅のため伐採されたとある。

             

八幡川(広島は川が多い) 八幡橋袂で   餓鬼の首地蔵   街道松の説明板 

道なりに歩いて行くと、左に塩釜神社がある。この神社は、製塩や漁業に従事する人は良い塩の出来上がりや航海の安全を、旅人も旅路の安全を祈願していたようだ。西国街道は塩釜神社を過ぎると、しばらく国道・山陽本線・広電の線路と平行して走り、広電井口駅前で二股になり、そこを左に行くことになる。左に曲がると校庭の擁壁があり、壁には大きな板絵が3~4枚掛けてあった。多分井口小学校の児童が描いたものだろう。擁壁の前にマンション風のお寺、乗願寺があった。

       

塩釜神社    擁壁の板絵    乗願寺

乗願寺の前を北に歩いて行くと、左に立派な山門の正順寺がある。そこからすぐ先「スーパーおおすみ」の十字路を右折して道なりに東に進むと、右側上にJR新井口駅がある。12時丁度。新井口駅で小休止。

        

正順寺の山門   スーパーおおすみ   JR新井口駅

休憩後12時10分再出発。JR新井口駅の東側「西原ケ尻踏切」を渡って線路伝いに歩いて行くと、草津沼田道路の高架橋があり、それをくぐると右側に広電の草津南踏切が見える。この辺りの家にも「うだつ」が多く見られる。広電草津南踏切を渡ると、右手に「大石餅跡」があるはずだが見つからない。四人で狭い町並みを行ったり来たりしたが、結局発見することが出来ない。地元の人を探して聞くと「あれはうちの隣にありましたが、3~4年前整地をした時に壊されました。小泉酒造の前の広場に一部があるそうです。」とのこと。

           

JR西原ケ尻踏切   うだつのある家   広電草津南踏切    大石餅跡は更地 

その先、国道2号線の草津交番西信号に出ると、横断歩道を渡って左の旧道を行く。右手に大釣井(おおつるい)がある。説明板によると、釣井とは昔の共同井戸のことで、この里の漁民や町民たちの、また街道をゆく旅人たちの貴重な飲み水になるばかりではなく、防火用の大事な役目も果たしたとある。またその道の奥にあるお地蔵さまは、防火のお地蔵さまで、江戸時代この草津は何回も大火に見舞われたので、火防(ひぶせ)の願いを込めてこのお地蔵を祀ったところ、大火はなくなったとも言われている。(説明板による) お地蔵さんの辺りからいい匂いがしてきた。地蔵さんと井戸の真中に「亀康」という雑魚(じゃこ)天屋があった。さっそく揚げたてを買ってあつあつの雑魚天を頂く。「何故、町中に雑魚天屋があるの?」と思ったが、昔この辺りは海の側で、草津は古くから広島ご城下近郊の港町として利用されていたという。

            

草津の大釣井   お地蔵さま      「亀康」の雑魚天

その先、左に西楽寺があり、右側に幸福稲荷神社がある。幸福稲荷神社の説明板には、建徳元年(1370)に村内に火事が多く発生したときに建立され、火事はおさまったという。延宝六年(1678)から享保四年(1719)までは、ここに三次浅野支藩の御茶屋敷が建てられていたと書かれてある。すぐ北側には西氏功徳碑がある。西氏は草津町に居住する代々の医者で、三次藩の侍医でもあった。漢方医、蘭医として名医であったばかりでなく、慈善家でもあり、草津のかき養殖やかき船営業の育ての親とも言われている。(説明板による) また右手奥に浄教寺がある。ちょっと竜宮を思わせるような山門だ。しかし草津の小さな町に寺院や神社が沢山あるのに驚く。

             

西楽寺の山門   幸福稲荷神社   西氏功徳碑   浄教寺

広電の踏切を渡り、御幸橋手前右側に広場がある。これが「草津まち交流広場」で大石餅跡の石臼・灯篭・説明の碑もここにある。資料によると「江戸時代からやわらかく美味しい餅と評判で、近年まで営業をしていた。店の前に大きな石があったことがら、大石餅と名付けられた。その跡に由来を刻んだ碑が建てられている。」と書かれてある。またこの広場には「鏝絵(こてえ)」の説明板がある。それによると、鏝絵は江戸末期から昭和初期にかけて盛んに行われた庶民文化の一つで、民家の土蔵などの壁に、左官さんが施主さんに対しお礼と家の幸せを願い白壁をキャンパスにみたて左官鏝をふるって描いた「左官絵」とある。

        

広電草津踏切  大石宅庭園から移設された石臼・灯篭  御幸川の御幸橋

御幸橋から右手に広電草津駅が見える。(宮島行の綺麗な電車が停車していた)橋を渡ると左に小泉酒造があり、その前に明治18年に明治天皇行幸の休息所に利用されたことを記念する「鳳輦(ほうれん)を置き止どめるところ」と読む記念碑がある。小泉家は小早川家の一族として三原市小泉町一帯で力を持っていたが、毛利氏が広島進出にともない現地に移った。明治天皇の行幸を記念して「御幸(みゆき)」と命名されたお酒や厳島神社の御神酒も造られている。(解説板から) 元の 大石餅跡の所で会った人が、マンガ「はだしのゲン」が映画化された時、小泉酒造と御幸川上流でロケがあり、見に行きましたといわれていた。

            

広電の電車(宮島行き)   小泉酒造本店     明治天皇行幸の記念碑

小泉酒造の裏山(酒蔵の後ろ)に草津八幡宮がある。その左上の山が行者山らしいが、どの山なのかよく分からない。小泉酒造から少し行くと、左の山裾に海蔵寺がある。海蔵寺の創建は応永年間(1394~1427)というから、室町時代、将軍は四代足利義持になった時期とある。また墓地の中に北条氏直の墓と山中鹿之助二女の墓があるという。北条氏直は、小田原落城の時の城主でした。また夫人は徳川家康の娘督姫で、落城後秀吉は家康に遠慮して氏直を高野山に入れる。氏直はその後、山を出てこの地で生涯を終えたと言い伝えがあるそうです。   山中鹿之助の二女もこの草津に住んだと言われている。(梶さんの資料より)

      

草津八幡宮   海蔵寺(原爆で壊れたお寺を建直したことを後生につたえる碑)

海蔵寺の前(南側)に慈光寺がある。慈光寺の前には周防灘海中出現・妙見大菩薩と刻まれた大きな石碑がある。北斗七星と北極星を祀る妙見さまは海で働く人々の信仰が強いと言われている。山陽道はこの先、鷺森神社の前を通りJR草津踏切を渡り、広電古江駅の裏の道を行くが、一歩さんの資料に草津公民館にうだつと鏝絵があると書かれている。どちらに行こうか迷ったが、時間も13時20分を過ぎ食堂も国道に出なければなさそうなので、公民館の道を選ぶ。公民館の近くに立派な蔵があり、そこに鏝絵があったので写真に収める。その後国道沿いを歩き、三つ目の信号機を左に曲がって小さなお好み焼きの店に入る。(広島なので)

           

慈光寺   鏝絵のある蔵   食堂を求めて   お好み焼きの店内

お好み焼の店を出て広電古江駅を目指して歩く。広電と山陽本線の踏切を渡り街道に戻ったのが14時30分。右手に鏝絵のある家があった。そこから少し行くと道は二股になり左の道を行く。誓立寺の屋根を見ながら歩いて行くと、信号機のある十字路にぶつかる。その北側に大きな庭のある茶道上田宗箇流家元の家がある。上田宗箇(うえだつそうこ)は、秀吉時代に越前一万石の大名で、千利休、古田織部らと親交も深く、武将茶人として名を馳せた人物。関ヶ原の戦い以後、浅野家に仕え家老として広島入りし、小方一万六千石を領有した。茶人だけでなく作庭家としても名高く、広島の縮景園をはじめ、和歌山城や名古屋城の庭園など数多くの名園を残しているとのこと。上田宗箇流は、地方都市では数少ない茶道の家元として市民に定着しているようだ。(一歩さんの資料から)

             

踏切を渡る   鏝絵のある家   誓立寺の屋根  上田宗箇流家元の家

茶道の家元のすぐ近くの民家の門に「求道寺」と書かれた表札がある。最初は「求道寺」という名前のお宅と思ったが、よく見るとお寺さんである。次の信号機の角に延命地蔵がある。(江戸時代の道標は、一里塚のような公的なものと地元の人々が作った私的なものがある。私的なものの中にはお地蔵さんの台座がよく道標になっている)延命地蔵の側に「是ヨリぢぞう道」と書かれた道標がある。道はゆっくりカーブして続いていく。西広島バイパスの高架をくぐって歩いて行くと、民家の玄関の側にもお地蔵さんがあった。

              

求道寺   延命地蔵   ゆっくりカーブする   玄関先の地蔵

JR己斐(こい)西踏切を渡るのだが、踏切の手前の道を真直ぐ東に行くと、旭山神社がある。旭山神社は毛利元就が厳島合戦の折り、この八幡宮に参拝して戦勝を祈願したと伝えられている。この八幡宮の祭神は神功(じんぐう)皇后・応神天皇で戦勝祈願には最適と言われています。神功皇后といえば、古事記・日本書紀にある三韓征伐物語の主人公で、海を渡って朝鮮半島の新羅の国に攻め入り、国王を降伏させ、九州に帰ったと言う。また、応神天皇は神功皇后の子供と言われている。(梶さんの資料より)しかし、時間の都合で旭山神社には行かず、踏切を渡りゆっくり左に曲がって進むとT字路に出る。角のお店が「別れの茶屋」である。茶屋の南に見えるのが広電「別れの茶屋踏切」である。茶屋は現在パン屋さんになっていた。そこに往時の別れの茶屋の額と絵が飾られてあると聞いたので探したが見つからない。近所の人に聞いたら、「あれはお店の中に有りますよ」と教えられた。店内に入り写真を撮らせてもらい、パンを買って出る。

          

JR己斐西踏切(左は旭山神社へ)  広電別れの茶屋踏切  別れの茶屋  

茶屋から少し行くと源左衛門橋がある。この橋は源左衛門という人が、大雨による増水のために、渡ることが出来ず困っている大名行列の一行を見兼ねて板を渡してやったという話が残っています。源左衛門橋を渡りその先を左折するとJR西広島駅に到着。(15時40分)

        

別れの茶屋の額と絵(昭和6年春とある)  源左エ門橋(現在よりはるかに短い)

         

JR西広島駅前通り   駅前にて

今日のコースは7.5Km          (広島県の計39.1Km 総計204.2Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人

西広島駅を15時53分の電車に乗り帰る。

今回は新井口駅をショートパス