ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第47回目(東尾道~今伊勢宮)

2015-09-05 | 日記

山陽道(西国)第47回目(東尾道~今伊勢宮)

2015.6.6(土曜日)晴れ時々曇り

気象庁は、6月2日九州地方と山口が、翌3日は中国・四国・近畿地方が梅雨入りしたと発表した。(山口県は昨年も6月2日が梅雨入りだった。)天気予報を見ながら、梅雨の合間の6日(土曜日)に歩くことにする。朝、駅に着くと下りの電車にNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の絵が描かれていた。(初めて見た) 10時7分、東尾道駅に到着。前に見た駅前にある金比羅宮の社の中を覗くと「金比羅宮の由来」が書かれていた。それによると 「昔、むかしの起源です。インドの大河、聖なるガンジス河に住む鰐が神格化し、仏教の守護神として生じたと伝えられています。その下半身は魚身から成り宝石を秘めており十二神将の内の宮毘羅(くびら)という神が金毘羅さんと云うことです。我が国日本では大物主神(おおものぬしのみこと)の垂迹(すいじゃく)として金毘羅大権現といい、海上の守り神として信仰されています。香川県の金刀比羅宮が中心的な存在で、ここ黒崎の金比羅宮は、その分身の一社として建立されました。」と書かれていた。

   

「花燃ゆ」の描かれた電車     東尾道駅前通り     金比羅宮の中                         

10時10分に東尾道駅を出発し、国道2号を横切り高須郵便局を右折して街道に戻る。その先、左手に「恋の水」と刻まれた石碑と祠がある。気になって良く見ると、石碑に「伊勢音頭 坊地くだれば鶴亀山よ きよき泉の恋の水」と刻まれ、祠の扁額に「御詠歌 法の船 入るか出づるかこの津寺 迷うわが身を 乗せてたまえや」とある。???  その先、街道は国道2号と合流する。右手国道の向うに高須八幡宮の鳥居と常夜燈が見える。鳥居は享保2年(1717)の銘があるそうで、昔は神社の下まで海だったそうだ。神社には寄らないで 国道をしばらく歩き、今宮東信号機の手前から左の旧道を行く。

   

「恋の水」の石碑     高須八幡宮の鳥居     国道と離れて左へ

道なりに歩いていると、右手道路脇に「尾道方面 福山方面」と書かれた看板があった。一歩さんは「藤井川に架かる真田橋が尾道と福山の市境」と書かれていたが、看板は橋の手前にあるので少し変だな?と感じた。 藤井川の真田歩道橋を渡って、「広島県東端の福山市に来たんだなぁ~。もう少しで岡山県だ。」と気を引き締める。橋の袂高西保育所の木陰で一服。参観日で早帰りの高西保育園の子達が元気に挨拶してくれた。(梅雨入りしたのに風は爽やか)

   

「尾道 福山方面」の看板     真田橋と歩道橋     木陰で一服

高西郵便局前の信号機を渡り少し行くと、左手に「尾道市」と書かれた標識が立っている。「えっ!福山市に入ったばかりなのに何故?」(帰って地図を見たら市境が入り組んでいる。東西の境は真田橋ではなく、今宮東信号機を過ぎた辺りで、南北はもっと複雑)その先、右手に普通の民家がお寺になっている。以前にも五日市~西広島を歩いた時、民家がお寺になっているのに驚いたが、都会(?)では珍しい事ではないのかもしれない。少し行くと左側に「陰陽石(いんようせき)宮」という神社がある。一時間以上歩いたので「休憩しよう」と言ったら、女性達が「ダメ。ここは何か出そう。他所にしましょう。」と歩きだした。

   

えっ!尾道市        成願寺       陰陽石宮神社

陰陽石宮神社から少し東に歩くと蓮華寺がある。門前の石柱には「脇本陣跡」の標示もある。一歩さんによると、お寺が脇本陣というのは全国でも珍しいそうだ。今津宿の街道も右に左に曲がる枡形になっている。宿場町が枡形になっているのは、ひげの梶さんによると「大名行列が来た時、土下座をするがジグザグ道だと直ぐ見えなくなり、楽である。」と書かれてるが、「敵が一度に攻め込めない」という説もある。右手に入って行くと高諸(たかもろ)神社がある。新羅(しらぎ)王子伝説の地で、須佐之男命と劒比古神(つるぎひこのみこと)が祀られている。

    

蓮華寺と脇本陣跡の碑   枡形になっている今津宿   高諸神社の鳥居

枡形の道を歩いていると、家の中にお墓(?)があり、その奥にお地蔵さんが祀られているのを発見。珍しい光景なので思わずシャターを押す。その先左手に少し入った所に今津宿本陣跡がある。江戸初期の慶長7年(1602)の頃、庄屋河本家が本陣を営んだ。ひげの梶さんの資料によると「この本陣は庭一面に牡丹の花が美しく咲き誇る『花の本陣』であったようです。しかし、その美しい本陣は、明治4年の農民一揆の焼き討ちにあって今はありません。」と書かれている。現在は表門と塀・石垣に当時の面影を残している。(福山市史跡の案内板より)また、別の資料によると、この表門は「馬乗り門」と言われ、騎馬のまま入れたところからその名がついたとある。本陣跡からすぐ先、左手の奥の坂道横に小さな祠があった。

   

家の中にお地蔵さま     今津宿本陣跡        小さな祠 

少し歩くと左手に薬師寺がある。坂を上ると立派な山門がある。薬師寺は東方院とも呼ばれ、(さっきの蓮華寺を西方院と呼んだ)弘法大師により大同2年(807年)蓮華寺と共に創建された。境内には芭蕉の句碑があり、「今日ばかり ひとも年よれ はつしぐれ」と刻まれている。道なりに歩いて行くと本郷川に突き当たり、川に架かる吾妻橋を渡る。

     

薬師寺の山門と本堂         芭蕉の句碑      吾妻橋を渡る

吾妻橋東詰信号機を渡り、左に行き直ぐ右折をする。その角に大きな家がある。この家はあき家らしく、あちこちが相当痛んでいる。「今年制定されたあき家特別措置法だと、数年後には取り壊されるかもね。」と話しながら歩く。(街道筋には空家も多い) しばらく行くと右手に「有限会社 濱原材木店」の看板がある。この付近が今津一里塚跡らしいが、表示がないのでわからない。街道は「バスセンター前」信号の所で、国道2号と合流する。12時を過ぎたので昼食を摂るため、国道を横切り松永駅方面に南下する。

   

吾妻橋東詰信号     今津一里塚跡付近     「バスセンター前」信号

昼食後、13時20分に再出発してJR松永駅に立ち寄る。 「西国街道を行く」によると 「・福山藩を豊かにした松永塩田は、藩士本庄重政が1667年から7年間かけて完成させた。重政は『松寿永年』というめでたい言葉があるので『松永村』と命名して幕府に届けた。駅南口に本庄重政の銅像が建っている。 ・松永から鞆の浦に行く途中の沼隈町は昭和40年ごろまで『びんご畳表』の材料となる藺草(いぐさ)の生産が盛んだった。織田信長が安土城に備後表を使った記録もある。 ・「駅の南側が町の中心部になり、今津は街道沿いの賑わいを失った。」と書かれている。 駅前の商店街(駅の北側)は土曜日というのに人通りがなく、閑散としている。(空き店舗やシャッターを降ろした店が多い。ここだけではないが・・・) 松永駅入口信号を右折して国道を歩く。左手に松永宮前郵便局の奥に神村八幡神社の鳥居が見える。ここには山伏と人目を忍ぶ仲となって鋸引きの刑に処せられた八重という神辺城主の側室の悲しい伝説があるという。

   

JR松永駅         駅北側の商店街     神村八幡神社              

その先、「赤壁」信号機で国道を横切りそのまま左の旧道を行く。「赤壁だって!この前『三国志・赤壁の戦い』の映画を見に行ったよ。」と映画話に花が咲く。道なりに歩いて行くと羽原川に突きあたる。橋の手前、右側川沿いの道路の角に地蔵尊がある。かつては羽原川の両側に多くの下駄工場があったらしいが、今は住宅街になっている。「西国街道を行く」によると、「明治11年(1878)丸山茂助が下駄づくりをはじめて100年、日本一となった松永下駄産業を記念して『日本はきもの博物館』が駅の南側にあります。田下駄から宇宙靴まで世界各国の珍しい履物があります。」と書かれてある。

   

赤壁」信号機    川沿いに祠がある  かつては川の両側に下駄工場が 

道なりに歩いて行くと「福山西署入口」信号で国道と合流する。右手山陽本線の踏切の前に道標がある。「北 南松永町へ」「東 西尾道市」「西 東福山市へ」「南 御大典記念」とくっきりした文字で刻まれている。その先、「神村農協東」信号で左の旧道を行く。神村公民館の前に「史跡と文化のまち 神村(かむら)」と書かれた大きな案内板がある。街道は「神村小前」信号の手前で再び国道と合流する。国道を歩いて行くと左に小林商店(現在は店は営業はしてない)の看板が見えた。地元のおじいさんがおられたので「馬頭観音は何処にありますか?」と尋ねると裏の観音堂まで案内して頂いた。ひげの梶さんは「後ろをふり向くと千手観音」と書かれてあるので、後ろをふり向いたが何もない。観音堂のお世話をされていたご婦人に「千手観音は何処にありますか。」と尋ねると「知りませんよ。そんな観音さんがおられるのですか?」といわれたので、結局「千手観世音菩薩」には会えなかった。

   

線路沿いの道標    公民館前にある案内板     馬頭観音

馬頭観音の所が14時30分。国道のすぐ先にバス停が見え、その右手奥に今伊勢神社がある。街道は小林商店のすぐ先から二股になり、国道を離れ左の道を行く。(帰って分かったが、実は小林商店の東、街道と国道の合流点の左奥に千手観世音菩薩があるそうだ。) 国道を真直ぐ歩きバス停で時間を確認して、今伊勢神社の鳥居下で休憩。(バスの時間があるので、神社まではいけない。) ひげの梶さんは「中国行程記には『当所、よき茶店あり、宮の馬場は諸大名の駕籠立て所なり』と記され、西国街道をゆく旅人たちに休息の場を与えてきた今伊勢宮、その参道に入る右角お家は屋号を茶屋とよばれていたそうです。今伊勢宮は室町時代に荒木という神主さんがお宮を建てたと伝えられています。天満宮も熊野さんも、どこのお宮も信仰・信者をひろく獲得するために各地に布教宣伝活動を展開していきました。この今伊勢宮を拠点に、さらにこの地方一帯にお伊勢さんの信仰が広がったことでしょう。」と書かれている。15時ちょうどバス停「五区」(バス停の名が五区と言うのは神村町五区からきたもの?) からバスに乗り15時10分JR備後赤阪駅に到着する。

   

今伊勢神社  神社の鳥居(右側の広場が茶屋跡付近) JR備後赤阪駅

備後赤阪駅から15時34分の普通電車に乗り三原駅に到着。

今日のコースは6.0Km      (広島県の計137.9Km 総計311.5Km)

参加者     S夫婦とM夫婦の4人