ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第44回目(三原~下木原)

2015-04-22 | 日記

山陽道(西国)第44回目(三原~下木原)

2015.3.26(木曜日)晴れ

駅構内の「三原やっさ踊り」のジオラマを見て、前回見なかった聖トマス小崎像や本丸中門跡を見るため、9時40分に駅の南口から出発。三原はタコが名物だ。町には歩道の境に船を繋ぐ繋留栓があり、その上にいろんな表情をしたタコが置かれていた。

            

「三原やっさ踊り」 三原駅の南口   町にはいろんな表情のタコが  

少し東に行くと船入櫓跡があり、その前に聖トマス小崎像がある。その説明板によると「豊臣秀吉のキリシタン弾圧において、長崎で処刑された殉教者26人の中にいた14歳のトマス小崎の像。京都から長崎に護送される途中、三原にて伊勢にいる母にお別れの手紙を書いた。」とある。

ここから西に戻ると一番櫓跡の碑があり、その先に本丸中門跡の石碑と立派な石の上に三原城絵図がある。

               

船入櫓跡とその前の聖トマス小崎像   一番櫓跡の碑  本丸中門跡の絵図

駅の北の広場には小早川隆景の銅像があり、その右手に天守台石垣がある。「ひげの梶さん」の資料によると、「海に浮かぶ城・浮城三原城は、小早川隆景によって永禄10(1567)年に築かれた城で、築城から30年ほどたった慶長年間の記録によると、東西900m南北700m、この中に本丸、二の丸、三の丸、そして二層三層の隅櫓32、城門14があったと言われている。この城に泊まった豊臣秀吉も、徳川家康もその美しさに感嘆したと伝えられている。」と書かれてある。今は城壁の上はビルが建ったりして当時の面影はない。

再び駅に帰り弁当を買う(糸崎付近には昼食を食べる店がない)。駅北口から歩き始めたのが10時20分。駅廻りを40分見たことになる。交差点の手前の右側に和久原川水刎(みずはね)の説明板がある。「川の流れがあたる石垣が三角形に築かれ、川の中に突き出している。これが刎(はね)である。この突出しによって川の 流れを弱め、また流れの方向を変える役割を果たしている。」と書いてある。

   

小早川隆景の銅像   天守台の石垣   和久原川の刎 

交差点の反対側(西側)、広島大学付属小・中学校の角に三原城東大手門跡の石碑があり、その右手には恵比須神社がある。和久原川を神明大橋で渡り少し行くと左側に善教寺がある。その西隣にあった酒造り業の山科屋作兵衛が三原宿本陣の勤めをしたと言われている。資料によるとこの酒屋さん(現在は営業をしていない)付近ではないか?と書かれている。

             

東大手門跡の石碑と隣の恵比須神社   神明大橋   旧三原宿本陣跡付近 

善教寺は伊能忠敬が訪ねた寺で、門前には「文化年間 伊能忠敬観測地」の碑がある。善教寺の境内で小休止。10時50分街道に戻る。右手に黒漆喰の趣のある家があった。三原には漆喰の家が多い。その先、散髪屋さんの角に石碑があった。それには「新八小路・江戸時代この小路に新八という人が住んでいたので、その名前がついた。」と刻まれている。

            

善教寺門前にある伊能忠敬の碑    趣のある黒漆喰の家  新八小路の石碑 

少し行くと、右手に古風な蔵造りの家がある。「酔心」山根本店である。左には胡神社がある。左山手に三重塔が見える。その付近も神社か寺院のような建物があるので、最初は「熊野神社だろうか?」と話していた。というのは、資料の中に「熊野神社は長い階段を上がって行く」と書かれてあるからだ。「しかし、神社に三重塔はないだろう」と思い観光パンフを見ると、松寿寺の三重塔と分かる。街道は右に直角に曲がる。すると左側に熊野神社の鳥居と階段があった。

            

「酔心」山根本店   胡神社   松寿寺の三重塔   熊野神社の階段 

熊野神社から少し南側に行くと大神宮がある。見た目は小さく、たいしたことは無いように見える。が「この神社は伊勢神宮を祀っている。お伊勢参りは中世以降、盛んに行われるようになっていく。しかし誰でも伊勢まで行くことができないので近くに勧請されたお伊勢さんを熱心にお詣りした。440年余の歴史を持つ神明祭(神明市)は今も、盛大に行われている。」と梶さんの本に書いてあった。そこから山陽新幹線の下をくぐると左に祠があり、さらに山陽本線の下をくぐって行くと、浮城東通りにぶつかる。ここで道は二股に別れて、右斜めの道幅の小さい旧道を歩く。

            

大神宮   新幹線の高架下をくぐって   祠   右斜めの街道を行く

左手に大師堂があり、道なりに歩いて行くと浮城東通りと合流する。合流した所に三原城東惣門跡の碑がある。右側は海でその東に、三原三菱重工業がある。その先、山陽本線の東町踏切を渡り再び旧道を歩く。

        

大師堂   三原城東惣門跡の碑   東町踏切  

「街道の左側に金重稲荷があるはずだが?」と言いながら歩いて行ったが、ついに発見出来ずに国道2号と合流する。すると後から歩いてきた女性陣から「金重稲荷を見なかったでしょう。左手にパイプに赤いペンキを塗った鳥居がありましたよ。」と言われる。国道を歩いて行くと、左山手に三菱三原病院がある。「この糸崎は三菱重工の城下町かな。関連の施設も多いね。」と話ながら歩く。11時40分JR糸崎駅に到着。少し早目の昼食を駅前で摂る。この糸崎駅は広島県内のJRの駅で初めて出会った無人駅であった。

      

金重稲荷   三菱三原病院   JR糸崎駅  

糸崎駅前、国道2号の歩道橋の道路標識に「岡山88㎞ 福山29Km 尾道10km」と書かれている。食後、出発が12時30分。国道には出ないで線路沿いの道を行き、国道2号線と合流する。国道をそのまま行くと、跨線橋がある。狭い橋を車が通るのにはびっくり。歩行者専用ではないらしい。跨線橋を渡り山陽本線の南に出る。街道はここで二股に別れる。右側の住宅街を通るのが旧道で、左の真直ぐな道は新しい道らしいが、住宅街に入ると迷いそうなので直進する。道なりに歩いていると、左側に子守地蔵がある。

          

道路標識「尾道10km」   車が通るのにびっくり!   子守地蔵

子守地蔵から少し行くと、左の線路沿いに3つの地蔵堂がある。街道は暫く国道2号線のコンクリート擁壁と並行して進む。国道のトンネルをくぐって北側に出て右折する。左側の山手に観音院がある。道なりに歩いて行くと、左側に松が祀られ、その横に「御調(みつぎ)の井戸」と刻まれた石柱がある。「これが下り松なのかね。」と話していたら、奥の家から地元の人が出て来られ、松の謂れを熱心に語られる。最後には自分で作った資料を頂いた。

そのMさんの資料によると「神功(じんぐう)皇后が三韓征伐の折り、この浦に軍船を繋いだ松と言われている。この時、神功皇后にこの井戸から水を献上したので御調の井戸と言われるようになった。」と書かれている。

           

 3つの地蔵堂   トンネルをくぐる   観音院   神功皇后船繋之松御旧跡

その先に糸碕神社がある。地名もバス停も糸崎なのに神社は「糸碕」が正しいらしい。神社の説明版によると、「糸碕神社は天平元年(729)の創建である。三原市天然記念物のクスノキは樹齢約500年といわれている。胸高の根回りは約13m,樹高30mで、枝を左右に大きく張り樹勢は今もなお盛んである。」とある。糸碕神社の神門は、もと三原城内にあった侍屋敷門の一つで明治8年に寄進されたもので、天正年間(1573~92)の作と推定されている。

                    

         糸碕神社    糸碕神社の鳥居と神門 

説明版によると「昔、神功皇后がこの長井の浦に御舟を繋がれし時、村長木梨真人この井の水を汲み献上したという。」先程出会ったMさんの話を思い出した。「神功皇后に差し出した水は、この山手にある白糸の滝の岩井から汲んできたもので、こちらの御調の井戸が本物です。」と力説されていたが・・?

                   

    糸碕神社のクスノキ    糸碕神社の御調井

糸碕神社の前の旧道を東に歩いて行くと、左手に「六本松一里塚跡」碑がある。尾道から二つ目の一里塚である。この先、国道2号線と合流する。この辺りの海は「たくろう火」の伝説がある。梶さんの本によると「このあたりの浦から沖を見ると、遠くに見える島影、波間に火の燃えるのが見え、そよ吹く風、そぼ降る雨夜に、波間に飛び交うように現れては消えるそうです。人々はこの火を『たれかたくろふ』、たくろうの火とよびました。」と書かれている。右手に海を眺めながら国道を歩いていると、前方に「しまなみ街道の因島大橋」が見えてきた。

           

「六本松一里塚跡」碑   たくろう火の伝説付近   しまなみ街道の因島大橋

14時になったので、国道と三原バイパスの合流する「下木原」のバス停からバスに乗って三原駅に行く。

                   

国道と三原バイパスの合流地  下木原のバス停  

        

今日のコースは6.0Km          (広島県の計116.7Km 総計290.3Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人