山陽道(西国)第72回目(大石~西宮)最終回
2019.12.14(土曜日)曇りのち晴れ
今日は、8年間歩いてきた山陽道の終点「西宮神社」をめざす。朝9時三宮のホテルを出発。昨日は三宮駅の地下街で少し迷ったが、今日は順調に阪神電鉄の大石駅に9時30分到着。駅前を少し上って都賀川を渡る(この川は10数年前、急な増水による鉄砲水の災害で5人の犠牲者を出したそうだ。) 川の側の公園に「西国街道」と刻まれた石碑がある。その先にも同じような石碑がある。20分ぐらい街道を道なりに行くと、右手に阪神電鉄の「新在家駅」が見える。
都都川 西国街道の石碑 阪神電鉄 新在家駅
新在家駅の所から約10分、信号機のある交差点を横切ると右手角に「菟原(うない)をとめ塚」「小山田健雄」と刻む道標と、説明板がある。「この道標が建つ東西の道は、江戸時代の西国街道・本街道にあたる。そして、ここから南にある処女塚(おとめ)へ向かうための道しるべとして建てられた。」とある。その先、街道は石屋川を西国橋で渡り、左折して60m程で右折するのだが、この先の公園に「徳川道起点」と書かれた案内板がある。幕末の兵庫港開港に際し、外国人と西国街道を通る諸大名や武士との衝突を避けるため造られた道だそうだ。
天神川を一里塚橋で渡る。橋に案内板がある。それには「江戸時代は一里塚が整備されていたが、今は塚もなく、わずかにこの橋がその名をとどめているだけ。」と書かれてある。橋を渡ると道は御影中学校に突き当たる。そのT字路の右角に「西国街道」の石標がある。今日はやたらに「西国街道」の碑が目につく。中学校の門の前に一本の老松がある。フェンスに取付けられた「市民の木」の説明に「この老松は大名行列が通ったころの街道の面影をわずかに残す並木の一本。」とある。
T字路を左に行くと国道2号線にぶつかる。国道を15分歩くと左側に本住吉神社がある。ここは、大阪の住吉神社のもととなったといわれている。千鳥破風、唐破風の立派な社殿と、左手に舞殿、右手に山車蔵がある。
本住吉神社の大きな塀の前に「西国街道」の石碑と案内板がある。住吉は道中昼休みの宿で、神社の前に大名の休む本陣があり、休み茶屋も両側にたくさんあったそうだ。神社の東の交差点から北に向かう道は、六甲山を越える住吉道で、角に「有馬道 是ヨリ北江九十丁」と刻む道標がある。
その先、10分程度行くと住吉川を住吉橋で渡る。右手に有名な灘高が見える。市営新住吉川住宅の所から左折して旧道に入る。旧道に入りすぐ右折をして進むと十字路の角に花松首地蔵がある。大きな首だけの地蔵で、首から上の病気に霊験あらたかだという。本山南中学校を左に見ながら、10数分歩くと国道に出る。その左に三王神社があった。
「小路」信号機付近に国道地蔵尊と呼ばれる巨大な地蔵尊がある。昭和7年交通安全のために建立されたが、阪神淡路大震災で被害を受け再建されたものだ。そこから約1㎞行くと、「赤鳥居前」の信号機の所に朱塗りの大鳥居がある。その前に「稲荷の社 従是三町」と刻む石標がある。 12時を過ぎたので、赤鳥居の向かい側にあるレストランでスパゲティを食べる。
13時5分再出発。ひたすら国道2号を歩く。約30分で芦屋川に架かる業平橋を渡る。途中「前田町」という信号機の所に「さくら通り」と刻まれた石碑がある。さくらが咲くころはきっときれいなのだろう。芦屋川からおよそ5分、「茶屋之町北」の信号機の少し手前から右斜めの旧道に入る。
旧道に入り10分。宮川に架かる西国橋の北東詰めに白露地蔵がある。そのすぐ先、右側に「南無阿弥陀仏 徳本」と刻む大きな名号石がある。
旧道はこの付近で途切れるので、住宅街を右折、左折、右折、更に左折して阪神電鉄の「打出」駅前の旧道に出る。道の反対側(右手)に「芦屋打出小槌郵便局」がある。貯金をするとお金がどんどん湧き出るような名前の郵便局だ。駅前のコンビニで小休止。打出駅前の十字路の角に「平城天皇第四皇子 阿保親王塚廟 是ヨリ五丁」と刻む石碑がある。街道は打出駅前の道を東に歩くが、区画整理なのか途中で途切れたので、またまた右折、左折、右折、左折をして阪神電鉄沿いの道路に出る。その先、打出の踏切を渡るつもりであったが気が付けば香櫨園駅前にいた。
香櫨園駅前(こうろえん)からおよそ10分、左側に圓満寺があり、その隣がゴールの西宮神社である。西宮神社は、毎年正月の十日えびすが終わると、午前6時開門と同時に境内になだれ込む福男争いの様子がテレビでお馴染みになっている。この「表大門」は慶長九年(1604)、豊臣秀頼により再建された建物で国重文だ。また、神社の北東角から、南東角を経て、南西角まで続く全長250mに及ぶ国重文「大練塀」は、京都「三十三間堂太閤塀」、名古屋「熱田神宮信長塀」と並ぶ日本三塗塀の一つで、室町時代初期の作とされている。もう一つ見逃せないのが、塀の外の南東角にある道標を兼ねた常夜燈だ。寛政11年(1799)の建立で、「西宮太神宮 左京都・大阪道」「右兵庫・はり満道」と刻まれている。境内にはその他に「扇にて 酒くむかげや ちる桜」と刻まれた芭蕉の句碑もある。
今日のコースは 10.0km(兵庫県123.7km 総計546.8km)
参加者 M夫婦 S夫婦 4名
(追記 1) 2011年11月21日、下関市の亀山神社を出発し、まる8年をかけて、2019年12月14日終点の西宮神社に到着しました。およそ、山口県161km、広島県168km、岡山県94km、兵庫県124km、総計547kmの道のりでした。 ブログには「ぼちぼち歩く山陽道」という題で載せていますが、それにしても8年は長かった。「年も年だから無理をせず歩きましょう」と言うことで始めました。連れの女性が股関節を痛めて長い距離が歩けず、途中バスや電車で駅に行き我々の来るのを待ったりしてました。それでも、誰からも「中止にしましょう」という 声は聞かれず、全員で制覇出来た事はうれしい事です。 最初は旧西国街道と山陽道の区別がつかず色々の呼び方をしていましたが、旧西国街道は平安時代の頃、京都から大宰府までの大路をいい、山陽道は江戸時代になって、下関から西宮の間をそう呼ぶようになったようです。 山陽道を歩くときは、事前の地図作り・ホテルの手配・交通手段を調べたり、歩いた後は夫婦で報告を作ったり、ブログに仕上げたりと役割を分担し頑張ってきました。 8年間この山陽道が一つの生きがいにもなっていました。歩き終えると寂しい気持ちもありますが、山陽道を制覇出来た事はいい思い出として残ることと思います。
(追記 2)歩き始めた頃の記録を取り出して見ると、そこには8年前の若かったメンバーの姿がありました。 8年って結構長いんだあ、よく続いたなあというのが、自分の様変わりを見てつくづく思ったことです。何の計画もなく歩き始めたのですが、県境をまたぐ度に「止めよう」という話にはならず、「どうしよう」と言っているうちに一歩先に進んでいました。今になって、こうすればよかった、ああすればよかったという話をよくしますが、長い間続いたのは、気負うことなく、ぼちぼち、無理せずに、歩いたからではないかと思っています。 行き先々で親切に応対してくれた方々、ありがとうございました。ブログを読んでくれた方、応援メッセージを書いてくれた方、ありがとうございました。
8年間、気持ち良く付き合ってくれたメンバーへ、感謝 ‼
完歩 ‼ 万歳 ‼
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