山陽道(西国)第56回目(総社~吉備津駅)
2017.5.7(日曜日)晴れ
前回歩いたのが2016年の10月18・19日だから、なんと7ヶ月ぶり。「いくらボチボチ歩く山陽道だからと言っても、いいかげんに歩けよ。そんなことだと死ぬまで目的地に着かないぞ!」とお叱りの声が聞こえそうだ。出発は7時25分、広島駅で新幹線「こだま」から「さくら」に乗り換えて一路岡山に。岡山駅から伯備線に乗り継ぎ、清音駅に着いたのが9時40分。「いやー、さくらは早い!」 前回、清音駅前に美味しそうなパン屋さんを見つけていたので、好みのパンを購入する。 清音駅からタクシーで「総社南高入口」の信号機の所まで行き、歩き始めたのが10時。
季節は五月 清音駅 今日の出発地点
交差点から県道270号線を150m程行くと、次の信号の手前で県道から離れる。右の坂道を登って行く。今日はゴールデンウイーク最後の日曜日。総社南高の運動部員達が、坂道をころがるように駆け抜けていった。 その先、右手の三叉路の角に「左大かく大僧正道」と書かれた古い石標と「ふれあい広場」の新しい石柱がある。その前方にきれいに整備された池と公園がある。清音ふるさとふれあい広場だ。池を見ながら少し歩き。朝食が早かったので、歩き始めたばかりだが池のほとりで小休止。買ったパンを食べる。
「左大かく大僧正道」の石標 整備された池と公園 清音ふるさとふれあい広場
少し歩き「清音ふるさとふれあい広場」と刻まれた大きな石の所で県道270号線と合流する。そこから「持坂」と呼ばれている坂道を少し登る。右側で総社南高の野球部が練習をしていた。「そういえば、総社高校は甲子園に出場していたような気がする。」 4分ばかり坂を下ると三叉路があり、曲がり角に「旧 山陽道」の道標がある。道標に従って右折をすると、右手に山田池がある。 池のほとりにお地蔵さんが、池を見守るように道路に背を向けて建っている。
持坂・右野球の練習場 「旧山陽道」の道標 道路に背を向けたお地蔵さん
池から少し先の右手に、祠と地神・そして「金」と書かれた石灯篭がある。この「金」と書かれているのが、この地域の特徴らしい。 7分ほど行くと、十字路の左側角に新しく設けられた案内板と道標がある。街道を歩いていると、親切丁寧な案内板等が整備されてる市や町を見かけるが、総社市もその一つだ。 ここ山手地区は「古代吉備の里」と案内板に書かれているように、古い建物と新しい建物が混在している。
「金」と書かれた石灯篭 案内板と道標 歴史を感じる建物
250m程先、十字路の右手に一里塚跡がある。案内板によると「『一里松』と呼ばれた大きな松があったが、昭和三十年頃枯れた。」とある。その横に「旧山陽道一里塚」「右おかやま・左やかげ」の石柱、後ろに地蔵堂と「熊嵐之墓」がある。 7~8分歩くと交差点の右、吉備考古館と書かれた石碑と道の両側に御崎(おんざき)神社の石の柱が建っている。50m先、左手に総社市山手支所があった。
一里塚跡の石柱 吉備考古館の石碑と神社の石標 総社市山手支所
次の十字路の前方右の角に「くらしき 志もむら」と刻まれた道標がある。交差点を渡り、すぐ向う左手に見えるのが「山手村郷土館」だ。瓦が落ちないよう金網で囲ってある。 案内板によると「明治初期に建てられた入母屋造りの民家で当時の姿をそのままの生活様式を保存しようとするものであります。」と書かれている。 その100mばかり先左手、車庫の側に地蔵堂があった。 民家の庭にサクランボが数珠なりに実っている。美味しそうなので一粒失敬して頂いた。「小さいけど少し酸味があって美味しい!」
道標と山手村郷土館 地蔵堂 「わぁ~サクランボ!」
すぐ先右手角に、「日御碕宮」碑と地蔵堂と「金」と書かれた石灯篭が一緒にある。後で調べたら日御碕は出雲のことで、「金」は四国讃岐の金毘羅さんのことらしい。 その先東三軒屋の地区に入ると、右手に「南すもうとり山」「東まかね」「旧山陽道」と書かれた新しい道標がある。右手の細い道を入って行くと、角力取山(すもうとりやま)古墳だ。左前方に国分寺の五重塔が見えてきた。11時30分になったので県道429の手前、右のコンビニで小休止。
日御碕宮と「金」の石灯篭 「すもうとり山」の道標 「あっ!五重塔」
11時40分再出発。県道を横切って500mばかり行くと、小川の手前の交差点右側に「守安馬太之碑」がある。どんな人か不明。 道路の向かいには総社市宿の案内板がある。見ると、この小川を渡って右の道を入って行けば寺山古墳のようだ。(この地区は古墳が多い) この案内板付近から見る五重塔は最高。右側に備中国分寺跡の建屋も見える。
守安馬太之碑 総社市宿の案内板 備中国分寺跡と五重塔
140m先交差点の左角に「国分寺詣道」を示す文化三年(1806)の道標がある。 その先左の古い土塀の横に二体の石仏がある。この土塀の上には「金」と書いた小さな燈明入れがある。今にも壊れそうだが、これは珍しいものらしい。
「国分寺詣道」の道標 土塀の横にある石仏 「金」と書かれた燈明入れ
前の道標から100m、左手に大正四年の国分寺参詣口を示す大きな案内碑がある。先程の「国分寺詣道」の道標からは国分寺跡は遠くに感じたが,この細い道を左に入れば最短距離で行けるようだ。 すぐ先に三叉路があり、右の土塀の先の角に道標と宿の説明版がある。それによると「宿は山陽道の宿場町として栄え、街道沿いには当時の名残をとどめる家が沢山あります。」と書かれている。宿場といっても、江戸時代ではなく、もっと昔のものらしい。 道標には「旧山陽道」「左おかやま」「右やかげ」と書かれてある。
国分寺参詣口の案内碑 宿の町並み 宿の案内板と道標
左手 三叉路の中央に、三宅酒造の歴史を感じる建物がある。三叉路を過ぎてすぐ右手に祇園牛頭天王を祀った石祠があり、その先左手の奥の石段の上に小さな古い祠があった。
三宅酒造 祇園牛頭天王の石祠 高台にあるお堂
道なりに歩いて行くと、左手に「はっとり江」「をかやまへ」と書かれた大正元年の矢印道標がある。総社の道標は石柱の頭に指さしの手と矢印の絵が多い。 街道はやがて県道270号線と合流するが、その手前右山側に「平山郁夫画伯取材場所①」の記念碑がある。「平成元年、この付近から国分寺を取材」などと書かれている。 記念碑のすぐ側に藤の花が咲いていた。山藤は山口県の岩徳線でもよく見かけたものだ。
矢印の道標 平山郁夫の記念碑 山藤の花
合流した県道を100m程行くと、道は二股になるので左の旧道を行く。入ってすぐ左の山手側に道路元標がある。「距岡山元標四里」と書かれている。また1分も歩かない民家の角にも、細い矢印で「をかやま・やかげ」と書かれた道標があった。 道標のとこから左に入れば備中国分尼寺跡と県立吉備路郷土館があったのだが、四人ともそれに気が付かず通り過ぎてしまった。
二股の所に尼寺の看板が! 道路元標 矢印の道標
12時30分になったので右手のそば屋で昼食。(インターネットで地図を検索すると、食べ物屋さんも出てくるが、街道筋の食べ物屋は廃業していて食べそこなう事が多々ある。以来食べられる時はすぐ店に入る事にしている) 13時30分再出発。道は再び県道と合流をする。その角に「ようこそ 古代吉備の里」の大きな看板がある。 県道を5分行くと、「岡山市」の看板。総社市がら岡山市に入ったのだ。
店自慢のそば定食 「古代吉備の里」の看板 総社市から岡山市へ
県道を少し行くと信号機がある。そこを渡った左手に「左いなり道」「従是五十二丁」と記した道標が立っている。ここは、「太陽の道と日時計」という公園になっていて、日時計が置いてあるそうだが見ていない。 信号機を過ぎてすぐ県道と離れ左の旧道を行く。6分程度歩くと右手に「従是南西新庄村上分」「従是東新庄村下分」と書かれた境石がある。 三叉路で自転車で古墳めぐりをしている親子に出会う。「6号古墳はどこですか?」と聞かれたが「知りません」と言うとそのまま我々と同じ方向に走り出した。 そのすぐ先、右手奥の畑の側に何かありそうなので行ってみると「造山古墳陪塚6号墳」の案内板がある。「ここにありましたよ~。」と言ってみたが、もう影も姿もない。
「左いなり道」の道標 境石 6号古墳の案内板
300mほど道なりに歩くと、左の墓地に横に南無脚気地蔵尊の祠があり、題目石もある。 この付近は「吉備路自転車道」で、自転車で古墳めぐりをする人が多いようだ。その先の十字路でも外人さんの団体が自転車に乗ってやってきた。お互いに手を振って挨拶を交わした。右角に「従是毘沙門天十三(丁)」と刻まれた嘉永三年(1850)の道標がある。
南無脚気地蔵尊 造山駐車場400mの道標 毘沙門天の道標
街道は200m先右手にコンビニのある信号機の所で、県道と交差する。県道を横切り道幅の広い道路を直進して、大松精機の所で左側に入る。 山陽自動車道の下を抜けて600m程行くと、左手に宝泉寺がある。10年前の資料に「境内の白い牡丹と、緑の松が美しい」と書かれてたが、今日はつつじが綺麗だ。
大松精機を左へ 自動車道の下を抜けて 宝泉寺
宝泉寺の100M先、左手に鯉喰神社がある。案内板に「吉備津彦の命(きびつひこのみこと)が吉備の国平定の為に来られた時に、この地方の賊温羅(うら)が村人を苦しめていたのでこの賊と戦ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと賊は力尽き自分の血で染まった川に鯉になって逃れたが、命は鵜になって、鯉に変身した温羅をこの場所で捕食した。それを祭る為、村人はここに鯉喰神社を建立した。」と書かれてあった。鯉喰神社には明治26年の大きな常夜燈と、備前焼の狛犬がある。 その先、三叉路右手角に大正四年の道標がある。「川辺やかげそう志ゃ道」「金毘羅くらしき庄早島」「吉備津岡山大阪」などと刻まれ、扇子を持った手で方向を示す珍しいものだ。
鯉喰神社の常夜燈と備前焼の狛犬 扇子で示す道標
2分ばかり歩くと、街道は足守川の堤防にぶつかる。右折して川土手の道を下り、矢部橋を渡り左折し川土手を上る。川にぶつかった対岸辺りで三叉路を右折する。 西惣爪と言う集落に入り100mばかり行くと、右手三叉路に角に「御埜立所」と刻む大きな石碑がある。明治天皇の軍事訓練観閲を記念したものらしい。
足守川の土手道 矢部橋 「御埜立所」の石碑
西惣爪(にしそうづめ)のマンホールを撮る(かわった絵柄などあるとつい・・・) 西惣爪から東惣爪にかけて、のどかな田園地帯の一直線の道だが最近は左右に住宅が建ち、もう10年もすると立派な住宅街になりそう。10分程歩くと右手に地蔵尊がある。
西惣爪のマンホール 気持ちの良い一本道 東惣爪の地蔵尊
地蔵尊の50m先左手には、文政七年(1824)日蓮上人五百五十遠忌の題目石がある。やがて街道は「真金十字路」に差し掛かる。この十字路は古来交通の要衝だった。今は「板倉」信号機のある五叉路になっている。右手は、二股に分かれている。その付け根に道標があるが、交通量が多いので遠くから写真を撮る。
日蓮上人五百五十遠忌 「板倉」の信号機(真金十字路) 右手二股の道の付根に道標
信号機を横切ると「板倉宿」だ。左手の信号機のすぐ側に、地蔵堂・供養塔・明和四年(1767)の大峯三十三度記念塔がある。 少し先左手に、見事な蔵造りのなまこ壁・うだつ・千本格子のある旧家平松家がある。 その向こうにある鯉山コミュニティハウスが、板倉宿本陣跡で、「江戸時代の板倉宿場図」が掲示されている。
大峯三十三度記念塔等 「板倉宿」の旧家松平家 板倉宿本陣跡
200mちょと歩くと、街道左手にブロック塀に挟まれた小さな祠があった。 その先道は二股に分かれる。真正面の分岐角に「旧山陽道 板倉宿」と書かれた案内板があり、その右手に文化四年(1807)の常夜燈がある。 左の道を行くが、 案内板のすぐ側、西川という小さな川に架かる「板倉大橋」という大仰な名前の橋を渡る。右手に赤い鳥居の稲荷神社がある。お堂の中には板倉出身の幕末の絵師水川一鳳と三次雲仙の絵と解説が飾ってあるらしいが見えなかった。
住宅街の小さな祠 「板倉大橋」、案内板と常夜燈 稲荷神社お堂に絵が・・
200m程行くと道は二股になる。真直ぐ行くと今日の終点の吉備津駅で街道は左の道だ。その先に、吉備津神社代々の宮司の家に生まれ、近世後期の国学者藤井高尚の墓所があるので,桃太郎線の「吉備津踏切」を渡る。 踏切を渡ると右手線路そばに小祠があった。100m程行ったが、墓所は見つけることが出来ず諦める。駅に行くため線路が見えた路地を通り、狭い階段下りると、赤い看板に「まむし注意!!」と書かれている。「えっ!そんなの早く言ってよ。」と一騒ぎする。
吉備津踏切を渡る 踏切の側の小祠 「えっ!まむし注意だって。」
線路側からホーム・無人の改札と出る。吉備津駅に到着したのが、15時30分。 「桃太郎線」と言うようになったのは、いつ頃からだろう?350kmも離れた山口にいるので知る由もない。以前は伯備線と言っていたと思うが?電車はもちろん「桃太郎」の絵柄だ。吉備津駅の構内に「明治天皇御駐車跡」の石柱があった。
吉備津駅 桃太郎電車 「明治天皇御駐車跡」の碑
15時46分の電車に乗り岡山駅に行く。岡山駅から市電(チンチン電車)に乗り、ホテルに入ったのが16時30分。今日はこれで終わり。ホテルのロビーからお城の石垣が見えた。
ホテルに到着 ホテルのすぐ側に城の石垣
今日のコースは10 km (岡山県の計37.5 km 総計379.5 km)
参加者はいつもの4人