ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第25回目(両国橋~小方)

2013-06-27 | 日記

山陽道(西国)第25回目(両国橋~小方)

2013.6.27(木曜日) 曇り

9時47分岩国駅に到着。両国橋は岩国の次の駅、和木駅(JR山陽本線で山口県の最東端の駅)で降りた方が近いので岩国駅で電車を乗り継ぎ10時5分和木駅に到着する。駅前でタクシー(今回参加者が5人なので2台で)に乗り、前回見落とした小瀬川の渡し場跡と「吉田松陰歌碑」の前で下車。運転手さんも詳しくて地元情報で話が弾んだ。

       

駅前のタクシーで両国橋へ  小瀬川の渡し場跡  旧山陽道の案内板(関戸にも)

この川は、山口県(周防)では小瀬川といい、橋を渡って広島側(安芸)では木野川と呼ばれる。「江戸時代、この川の渡しは木野村と小瀬村から3人ずつが、昼夜三交替二人一組で両藩が行った。渡し賃は、武士は無料、一般の人は江戸初期で米1合、中期からは2文、牛馬が4文とされた。」と資料にあった。「吉田松陰歌碑」には「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと渡る小瀬川」刻まれている。碑の台座の説明を読むと「夢路にも~は、松陰先生が30歳で幕府の召喚を受け、駕籠で護送されながら小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをされたとき詠まれたもの。先生はその後、江戸伝馬町の獄舎で斬罪に処せられた」とある。

         

吉田松陰歌碑とその説明       対岸が木野渡し場跡

両国橋を渡るといよいよ広島県になる。橋を渡り県道を左折して行くと、右側に善福寺がる。善福寺は両国橋のすぐ傍にあったが、東よりに移動され、修復して新しくなったらしい。県道のガードレールの色が白いので広島県の県道とわかる。その左側に石仏がある。右に神社があったので、大元神社とおもい階段を登って行くが、何神社かわからない。人に聞くと「名前は知りません。大元神社はこの先ですよ」といわれた。

      

  善福寺    白色のガードレールと石仏    名前のわからない神社

その神社から、15分程度歩くと右に大元神社があった。大元神社の先、道路の右下に「太閤の振る舞い井戸」がある。太閤秀吉が朝鮮出兵のり、村人がこの井戸水でお茶を出したところ大変喜ばれたのでその名が付いたらしいが、前日の大雨で井戸は水没しそうだった。「このみやまえ」のバス停を過ぎると、「史跡長州の戦跡 苦の坂」と書かれた案内板がる。それには「1866年(慶応2年)幕府の正面軍と長州の主力軍が小瀬川をはさんで陣をし、翌朝から合戦がはじまる。幕府の側面軍と長州の遊撃軍がこの「苦の坂」で烈しい白兵戦をし、遊撃軍が勝を制し幕府正面軍の背後を押えたので、幕府軍は総崩れとなり、逃げ遅れた多くの兵士を残して船で遁走した」と書かれてあった。

       

大元神社    太閤の振る舞い井戸   案内板と「苦の坂入口」の石柱

「史跡長州~」の案内板の横に、「史跡 長州の役戦跡苦の坂入口」と刻まれた石柱がる。写真まで撮ったのだが、そこが「苦の坂入口」と気が付かなかった。ちきり池神社の参道は前日の雨で水没し通れなかったので県道から神社に行った。(参道の途中から苦の坂入口に入れたらしい)ちきり池神社の境内に案内板がある。それによると「むかし市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が厳島神社に向けて九州から中国路をのぼってこられ、この坂に差し掛かったところ、あまりにも急な坂なので「えらや苦しやこの苦の坂は~」と言われて池に金のちきり(機織機の部品)を投げ捨てた。それ以来、この坂を「苦の坂」といい、池は埋められ社(やしろ)を建てた。また、社の石垣の岩穴から汐水が湧き出たと記録されている」書かれている。苦の坂入口は事前にネットやその他で調べたがよく分からなかった。ただ県道が自動車道路高架橋の下を通るあたりかと思って歩いてゆくと、山に入る「苦の坂入口」らしきものがあった。 今回、これらの条件が重なって苦の坂大迷走となる。

          

 「苦の坂入口」石柱    水没した参道    ちきり池神社

     

ちきり池神社の説明板    汐湧岩    県道と自動車道が交差

苦の坂入口?が11時50分。頂上「苦の坂の峠」の案内板に出たのが12時20分。およそ30分急な坂を登り続けた。前日の雨のため足場が悪く折れた老木が行く手を塞ぐ。里山の熟練者のKさんがロープで引っ張ってくれたので、ようやく頂上に辿り着く。頂上からの2本の参道に「上小野」と「御園・小方」とプレートが付けてあった。健脚のSさんが本来の苦の坂を下ってみると、「ちきり池神社の参道に出た」と言うと、「そういえば、苦の坂入口というのをデジカメで撮った!」と大笑いに。

        

「入口から途中まで階段があったので、昔は峠を垂直に登る

コースもあったのもしれない」と話す

 

       

御園・小方方面に下る   これってなに?   苦の坂大竹側入口

頂上から御園・小方方面に降りはじめたのが12時40分。途中竹藪の左にセメントりの〒マークのある祠があった。こんな山の中に郵便配達でもあるまいが?峠の下りは竹で囲まれた立派な道だが、途中から細くなり雑草が繁って歩きにくい出口付近は鉄製の足場が築かれている。峠を越え足場を降りたのが13時前。舗装された道を下って行くと道は自動車道の前で二股に分かれる。そこを左に進むと左に小さな橋姫神社がある。台座の石に「~橋の下に鎮座の姫神様は、昔よりセキ・ゼンソクまた交通などの守護神。山陽自動車道路建設のためこの地に~」の旨あった。神社を過ぎ自動車路と並走して歩き、高架下を通り橋を渡ると今日の日程が終了。「御園大橋」のバス停で巡回「こいこいバス」に乗りJR大竹駅に着いたのが13時30分。駅前で遅い昼食をして14時28分の電車に乗る。

 

       

    橋姫神社   JR大竹駅(広島最初の駅)  広島カープの電車で・・

今日のコースは5.0Km        (広島県の計5.0Km 総計170.1Km)

参加者   Kさん・S夫婦とM夫婦の5人

 


山陽道(西国)第24回目(関戸~小瀬川)

2013-06-13 | 日記

山陽道(西国)第24回目(関戸~小瀬川)

2013.6.13(木曜日) 晴れ

山陽本線は、新幹線の列車も作る日立製作所がある下松、商業の町柳井、周防大島の入口 大畠(おおばたけ)を経て岩国駅に到着。駅前で「関戸行」のバスを探すが、20分以上待つようになる。タクシーがいたので関戸での料金を聞くと、バス代より一人当たり+100円の負担で済むらしい。そこで関戸までタクシーを利用することにした。 

            

駅前のタクシーで関戸へ  左側付近が関戸高札場跡?  関戸庄屋村尾家?

関戸宿に入るとすぐ左側に高札場跡があったらしいが、今はわからなくなっている。そこを少し行くと、左に吉田松陰の石碑と「歴史の道 旧山陽道と関戸本陣跡(岩国教育委員会)」の説明板がある。これによると、「山陽道は大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新により奈良から大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路(おおじ)だった。~中略~ また、江戸時代には、関戸宿には参勤交代用の本陣や脇本陣などがあった。」と書かれている。また、毛利家文庫「行程記」の絵図も掲載されている。 「吉田松陰先生東遊記念碑」は松陰二十二歳江戸遊学の時、関戸越えに当たり長詩を詠んだといわれている。関戸が旧街道筋であったことを語りつぐため昭和四十二年(1967)に地元有志によって建立されたとのこと。 右には庄屋村尾家。(近所の人に聞いたが、村尾家かどうか今一つ要領を得ない。しかし家の前に関戸本陣跡の説明板があるので村尾家と思われる)関戸宿入口には、宗清寺や客神社があるが、関戸宿全体は古い家がなくなり、昔の街道の趣は失われている。

        

吉田松陰先生東遊記念碑と旧山陽道の説明板   関戸宿の市頭付近

松陰の石碑の東側山麓にある「客(まろうど)神社」は厳島の客社を勧請したもので、地元では「きゃく大明神」と呼ばれている。大名行列をみる機会の多かった村人たちは、秋祭りになると「奴道中」をこの大明神に奉納してきた。その神社の真下には、関戸本陣の残りである壊れかかった土塀があり、右側には宗清寺がある。本陣・庄屋・宗清寺のいずれも村尾家に関係があるようだ。

     

客神社     関戸本陣跡(壊れかっかた土塀)     宗清寺

宗清寺を少し歩くとトタン塀がある。資料ではここが関戸の重富脇本陣跡。松陰(三十歳)護送駕籠が昼休みをとった所である。付近に芝居小屋もあったらしいが今は何も無い。右手に県道1号線の高架橋が見えてくる。街道の右に石仏があった。その先、道は二股になっていて旧山陽道の道標が立ててある。しかし、右側の道を行くと県道1号線の工事で旧道は切断されていて進めないらしい。 

          

重富脇本陣跡   石仏後ろが県道1号線   右が旧山陽道左新道

左の新道へ進む。ここから先が小瀬峠である。今日は朝からカンカン照りの夏空、「登り坂は大変だ!」と思っていたが両側に森林があったり竹藪だったりで、30分の登り坂も苦労なく歩くことが出来た。道沿いに「旧山陽道」の道標があったが、地元の人に「旧道は通れません」といわれたので新道を歩く。

         

小瀬峠の登り坂    竹藪からびわが・・    旧山陽道と道標

小瀬峠の頂上に着いたのが11時10分。(タクシーを降りて歩き始めたのが10時20分だから頂きまで50分を要す)ここから先が防長中国路筋では最長の坂道といわれている。(関戸からは下り坂になる)小瀬峠の下り坂を歩いて行くと、道は大きく右にカーブをし、さらに欽明路峠よりもっと大きいヘアピンカーブがある。その坂道の横に旧山陽道の道標がある。旧山陽道はヘアピンカーブを通らず、ここから真直ぐ登っていったという。

      

小瀬峠頂上付近  大きなヘアピンカーブ  道標(ここから真直ぐに登れる)

峠を降りて、木陰で小休止。11時45分再出発。少し歩くと左側に集落が見える。いかにも山陽道らしいのでそちらの道を歩く。(本当はそのまま進む。)古道一人旅さんの資料では「土豪嘉屋氏の小瀬茶屋は古風な玄関門のある白い塀」とあるので、白い塀を探すと二軒並んで建っていたが、「古風な玄関門」ではない。その先、左に籌勝院(ちゅうしょういん)が、前方に小瀬小学校が見えてきたので道を間違えたことに気付く。籌勝院は長州征伐の時、幕軍の進攻に備えて芸州口防備の前戦本部となったところ。

      

間違えた下の道   白い塀(茶屋ではなかった)   籌勝院

籌勝院から元の道に戻る。(12時15分)この時は、「茶屋は見損なったが渡し場跡や松陰の歌碑はこの先にある」と信じて歩いたがそれらしき物はなにもなかった。(帰って確認したら間違っている間に通り過ぎていた)両国橋に着いたのが12時30分。  ‘11.11.21下関の亀山神社を出発して、一年七カ月(途中五カ月ほど休む)を要し、今日の両国橋で山口県を制覇したことになる。距離にして165Km(旧山陽道では小瀬川から赤間関まで36里といわれている)「 黙々と歩くもよし、ゆっくりブラブラと歩くもよし、ペチャクチャ喋りながら歩くもよし、疲れたら無理をしないように!」と始めた山陽道だが、「夫婦二人だけで歩いたら両国橋までは着けなかっただろうね」と夕食は4人で祝杯。(これも楽しみ?)

      

(対岸が広島大竹市) 両国橋   タクシー運転手さん御勧めの店 

両国橋からタクシーに乗り岩国駅に着いたのが、13時30分。運転手さん御勧めのラーメン店で遅い昼食をとる。14時10分の電車に乗り、帰路に。

今日のコースは3.7Km       (合計165.1Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人