山陽道(西国)第52回目(西江原~小田)
2016.7.11(月曜日)曇り時々晴れ
梅雨の合間、7月11・12日に歩く。前回が3月21・22日だから4ヶ月振り。この間、4月に2回の熊本・大分大地震と7月の九州地区の大雨。山口県と近いだけに、とても人ごととは思えない。最近の自然災害は、想定外が言い訳にならない程で多い・・・。井原まで電車を乗り継いで2時間半以上かかるので、1つ前の「こだま」で行く予定だった。しかし切符を買うのに手間取り、結局いつもの電車で出発。10時35分神辺駅に到着。神辺は何度も来たが、駅裏のスーパーに初めて気づいた。井原駅でタクシーに乗り、西江原小南の地蔵堂に着いたのが11時30分。
JR神辺駅-井原鉄道 井原駅前からタクシーで 西江原小前の地蔵堂
歩きだしてすぐ左手に「中越城跡」と書かれた標柱と常夜燈を発見。この左手奥に神社があるので、入って行くと「甲山神社」があった。神社の裏には甲山古墳があるらしい。甲山八幡宮の東隣に、「大日本石油発動機研究所」と書かれた大きな表札の民家がある。
「中越城跡」の標柱と常夜燈 甲山神社 「大日本石油発動機研究所」
街道に戻り少し行くと、左の山手に1つと道沿いに1つ地蔵堂がある。山手にある地蔵堂の標柱には「第20番 鶴林寺 地蔵菩薩」とあり、標柱の右側に念仏が書かれてある。「おん かかかび さんまえい そわか」 お地蔵さんの側に念仏が書かれてた標柱を見たのは、今回で2度目か3度目か。(詳しいことを知らないので、本当に念仏なのかどうか自信はないが・・)ちなみに道沿いの地蔵尊の標柱には「第17番 井戸寺 七仏薬師如来」とあり、右側に「おん ころころ せんだり またうぎ そわか」と書かれている。その先、雄神(おがみ)川を雄神橋で渡る。橋の向う側、川沿いの家、なかなか風情がある。
第20番 地蔵堂 雄神川を渡る
雄神橋を渡ると今市に入る。今市は江戸時代の正式な宿場ではなく、間(あい)の宿といわれている。漆喰模様のきれいな家など情緒ある家並みが続く。右手、蔵内家の前に「史跡 今市駅本陣跡」と書かれた白い木製の標柱がある。少し行くと 右手に「旧山陽道(参勤交代街道)」と字の消えかかった白い標柱。
今市宿 「史跡 今市本陣跡」の標柱 「参勤交代街道」の標柱
左側、路地を入った道路の山手に足立神社と刻まれた石柱が見える。その横に鳥居があり、鳥居に渡した注連縄は竜を表しているという。これは地域的特徴だといわれている。街道は国道486号と合流する。左手に「第十五番 国分寺 薬師如来」と書かれた祠がある。国道を少し行くと、西江原町から東江原町に入る。
足立神社の鳥居 第十五番の祠 東江原町へ入る
すぐ先、街道は又国道から離れ左に入る。真っ直ぐ行くと、左の田の向うに茅葺をトタン板で覆った民家が数軒見える。その先、井原鉄道の高架下をくぐる。右手民家の植木の中に「旧山陽道 一里塚 一五九二年豊臣秀吉設定」と書かれた石碑がある。
茅葺の古民家 井原鉄道の高架下 秀吉が設置した一里塚
再び「青木」信号機の所で、国道と合流する。その横に道標らしきものがある。「井原・・小田・・木之子・・」と部分的には読めるが、道標なのか石仏なのか? 街道は国道と出会うが、すぐ左に入る。信号で国道を渡って真っ直ぐ行くと小田川だ。小田川に架かる馬越(うまこし)橋を撮影するため、代表で一人が国道を渡る。残りの者は少し入った街道筋の「日本綿布(株)」の前の木陰で小休止。
道標なのか石仏なのか 小田川に架かる馬越橋 木陰で小休止
4~5分歩くと、街道は再び国道と合流する。合流点の国道側、大きな木の下に祠があり、大小七体の石仏が祀られている。国道を東に行き、左に少し入ったら「早雲の里 荏原駅」がある。荏原庄は那須与一や北条早雲の伝説(那須与一は、源平屋島の戦いで扇の的を射ぬいた功績で、全国で五つの荘園を拝領した。その一つが荏原庄。北条早雲の方は、備中高越城の子として生まれ、青年期まで荏原庄で武芸と学問に励んだ。)があるそうだ。そのまま15分ぐらい国道を行く。 13時近くになったので、国道沿いの店で昼食にする。「うどんにするか、そばにするか?それとも隣のラーメン店で冷やし中華にするか?」「やはり、この時期は冷やし中華でしょう!」と言うことでラーメン店に入る。
国道沿いの七体の石仏 早雲の里 荏原駅 冷やし中華を食べる
13時30分に再出発。300mばかり行くと、左側に水色の取水弁(川の水を溝に取り入れる調整弁と思われる)の横に、「万人講供養」と刻まれた石塔と牛の背に仏像が刻まれ「万人講 北智勝院 法泉寺 道 明治三十九年」と刻まれた石塔がある。牛の背に仏像が刻まれた石塔は、これから先よく見かける「亡牛供養塔」と呼ばれるものらしい。そのすぐ先、信号機の左手に「高越城跡 寶蔵院」と書かれた石柱があった。左側に見えるこんもりした山が高越城跡だ。
亡牛供養塔 「高越城跡」の石柱 高越城跡(北条早雲出身地)
約10分程歩くと(高越城跡の石柱から2つ目の信号機の先)道は国道と別れ左に入る。井原鉄道の高架下をくぐり、T字路を真っ直ぐ右に行くと押延(おしのべ)の里になる。の中ほど、左手に『石鉄山 大権現』の石碑や石仏群がある。その先にも祠がありお地蔵さんが歴代の領主の名で祀られてあった。街道は右手に井原鉄道のトンネル入口を見ながら下って行き、右折して井原鉄道の下を抜けるとすぐ国道と合流する。国道を2分ばかり東進すると矢掛町に入る。「これより 宿場町矢掛まで6㎞」の看板。
押延の石仏群 「押延の里」出口 これより矢掛町
国道を道なりに歩いて行くと、左手前方に山が見える。多分、中腹にある建物が金竜寺と思われる。岩尾観音もあるそうだ。国道の右側に祠があり、少し離れて「大岬國之助墓」がある。一歩さんの説明では『墓に「近州野洲群小南八幡産」「安政三年」と書かれている。「近江の人の墓が何故ここにあるのか?」おじいさんがおられたので話を聞くと、大岬國之助という相撲取りがこの土地で野垂れ死にしたので村人がお墓を建てたという伝承があると教えていただいた。』と書かれてあった。「矢掛町小田西」の交差点は、国道と県道(多分県道48号と思われる)と旧道(山陽道 堀越宿)とが交わる複雑な所だ。同じ場所に信号機が2つある。 北側の交差点には「岩尾観音」を示す石標がある。
山の中腹に金竜寺 道を隔てて祠と相撲取りの墓 岩尾観音を示す石標
3分ばかりで堀越宿に入ると左手に堀越宿の案内板がある。『小田の堀越は西江原とともに旧山陽道の矢掛・七日市間の「間の宿」として賑わいました。旧堀越には七十八軒の屋敷があったと伝えられています。』と書かれてある。 案内板の所に地元の人がおられたので、「ぼけ封じのお地蔵さんがおられると聞いたのですが」と道を尋ねると、街道を左に折れて急な階段を登って行かなければならない。全員「ぼけ封じ」には心曳かれるものはあるが、体力的に無理なので、またまた元気な一人に代表でお願いすることにした。
堀越宿の案内板 ぼけ封じふくふく地蔵禅源寺
堀越宿を歩いて行くと、左手に「中国銀行 矢掛支店」の大正か昭和初期の建物がある。現代は使われていない。(矢掛宿に中国銀行があったので、今はそこに移転したのだろう)街道を歩いていると、各地のマンホールの蓋が個性的で気になって仕方がない。「蓋だけを特集してみるのも面白かったね」などと話しながら歩く。
禅源寺のご真言 小田堀越宿の表札 矢掛町の下水道の蓋
そのまま直進すると、街道を横切るように溝と言うか小川が流れている。川の右手の袂に地蔵堂がある。左前方に井原鉄道の小田駅が見える。14時45分、これ以上歩くと中途半端になるので、今日はここで終了。左折し国道を越えて小田駅に到着。駅前には右側に「室町の歌人 正徹生誕の地」と彫られた石碑があり、左側に歌碑がある。 井原鉄道は一時間に1本しか電車が通らないので、タクシーで小田駅から宿泊予定の矢掛屋まで行く事にする。(実は4人いると、タクシーの方が一般の交通機関を使うよりは安くなる事も多い)
川の袂の地蔵堂 駅前の室町の歌人正徹の碑 小田駅
15時30分、宿泊する矢掛屋に到着する。風呂に入り、部屋でゆっくりくつろぐ。18時、フロントで食事の出来る店を教えてもらう。「昨日、『宿場町矢掛の日曜朝市』が初めて開かれて、今日は月曜日と言うこともあって、多くの店がお休みなんですよ。さっき電話をしたら、『つるはし食堂』は開いているそうです。」と教えてもらう。矢掛の人は優しい。食堂の場所を聞くと、「どちらから来られましたか?」と話して来られる。町の人全員が、この宿場町を盛り上げようとする気持ちが伝わってくる。食堂ではご亭主が、「近くの写真館には、白蓮と汀女の写真が飾ってありますよ。」と。
矢掛屋に到着 白蓮と汀女の写真
今日のコースは 6Km (岡山県の計 14Km 総計 347Km)
参加者 S夫婦とM夫婦の4人
矢掛屋のお話
矢掛屋本館
矢掛屋本館矢掛屋は写真が井原鉄道の時刻表の裏に載っていたので知っている。第一印象は風情があり、泊まってみたいが、なんだか高そう! 私たちは旅行者ではない。なるべく素泊まりで経費が掛からないように努めている。
前回は子守唄の里 高屋まで歩いて、電車で福山に戻り、次の朝、また高屋にもどったので、時間も運賃も馬鹿にならない。ここまで来れば井原鉄道区間内で宿泊したい。 矢掛屋をインターネットで検索すると、驚いた事に普通のビジネスホテルの値段と大差ない素泊まりプランがあった。
静かな旅館である。本館と道を隔てて温浴別館がある。一組は本館に、もう一組は温浴別館に泊まる。どちらも3人部屋だ。ベットも部屋のスペースも十分広い。旅館の話では、2015年3月21日に古民家を再生してOPENしたばかり。どうりで、部屋も風呂も広くて綺麗だ。木の香も漂っている。
夕食のため町を歩いていると、弱い雨が降り始めた。そこに一台の自転車が近づいてきた。自転車から女の人が降りて「矢掛屋にお泊り頂いて有難うございます。雨が降ってきましたので、傘をお指しください。」と言って、民家の玄関先から傘を持って来られた。 「私は矢掛屋の女将です。これはうちの傘ですからご遠慮なく。」 「どうして矢掛屋の宿泊客と分かったのかな?」と言ったら、「何言ってるの、旅館の浴衣を着ているじゃない」と連れに笑われた。
食後、旅館に戻って「先程、女将さんに出会いましたよ」とフロントの女性に話すと「それは私ですよ。」 困ったものだ、歳は取りたくない。若い女性はみんな同じ顔に見える。チェックイン時に割引券をもらったので、旅館のバーに。山陽道の話をしたり、矢掛町・矢掛屋の話を聞いたり、楽しい時間を過ごしました。 「ブログに矢掛屋を書いていいですか?」「女将さんの写真も・・」と言うと「是非」ということで、名刺を頂いた。 矢掛宿は、今まで歩いた有名な宿場町の中でも古い家屋が沢山残され、町の整備も進んでいる。矢掛屋も、是非もう一度泊まって見たい宿屋である。
矢掛屋温浴別館 女将:西野沙織さんと筆者