ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第23回目(柱野~関戸)

2013-05-29 | 日記

山陽道(西国)第23回目(柱野~関戸)

2013.5.29(水曜日) 曇り

気象庁は5月28日に山口県の梅雨入りを発表した。5月の梅雨入りは今まで記憶にない。(昨年の梅雨入りは6月8日)梅雨入りのせいか28日は一日中雨、特に夜半は豪雨で歩けるかどうか心配したが翌朝は曇り空。テレビを点けると清流線は不通、岩徳線は徐行運転と報道していた。駅に行くと山陽本線は5分遅れ、岩徳線はテレビの報道通り徐行運転。柱野に着いたのは1時間遅れの11時55分。鉄道が不安なので駅に着くとすぐ岩国行の路線バスをチェックしたが、柱野~岩国間は一日5便。帰りは直接山陽本線の岩国駅に出ることにした。

          

路線バスをチェック(新岩国駅からは20分ごとに)  御庄川に架かる西氏橋

県道を北東に歩いて行くと、道の左に石仏があった。この道沿いには石仏が沢山ある。錦川支流の御庄川は氾濫が頻繁にあったと聞いたが、それで多いいのだろうか。右手の岩徳線を下りの電車が走っている。もう岩徳線に乗る機会はないかもしれない。少し行くと、道の左側に「奉献」と刻まれた石柱が2基。「これは何ですか?」と聞いてみたかったが誰もいない。山の中に「御客神社」があるのでその関係かもしれないが、詳しい事は分からない。

           

県道沿いの石仏   「さよなら」岩徳線   「奉献」と刻まれた石柱

一ノ瀬(市ノ瀬)には一里塚跡があったらしいがその場所が分からない。柱野駅から20分歩くと、思案橋に着く。思案橋の上の高架を清流線が通っている。錦川鉄道錦川清流線は、国鉄時代は岩国と島根県の日原を結ぶ岩日線であった。現在では第三セクターの鉄道で岩国~錦町間を走っている。思案橋は別名「にしうじばし」という。柱野には「にしうじばし」が2つあるので疑問に思っていたが、よく調べると思案橋の方は「西宇治橋」と書くとあった。地名「西氏」は大内氏が都を山口に移した時ここを宇治に見立て「西宇治」としたのが始まりという。又、ここはお茶と蛍の名所で柱野村と御庄村の境でもある。「思案橋」は、柱野から来た旅人が橋を渡って錦帯橋や岩国城下を見物しようかそのまま街道を進むか迷うので「思案橋」と言われるようになったとか。

         

一ノ瀬一里塚跡付近   清流線と思案橋(思案橋を通るのが県道1号線)

錦帯橋~思案橋~新幹線新岩国駅の裏を通るのが県道1号線である。県道は東(岩国)から時計方向に1号・2号・3号・・と固定されていたが、1976年(昭和51年)の法改正で主要道路から割番され、3号線は山口~津和野間になり番号は不順になった。余談だが、山口県の県道のガードレールは黄色だ。これは1963年(昭和38年)の山口国体の時、当時の知事が山口特産の夏ミカンにちなんで黄色を提案して実施された。県道1号線を北東に歩いて行くと、道の左側にまたまた「奉献」の石柱を発見。その先に石仏もあった。山陽自動車道路の高架下を通過したのが12時40分。

               

県道沿いにまたまた「奉献」の石柱と石仏がある  山陽自動車道のガード下を通過

自動車道の下から少し行くと、川の対岸(右側)に大歳神社の鳥居と古風な建物の御庄中学校が見えてきた。その先、県道は大きく右に曲がって新岩国駅の裏を通るが、御庄宿は左の道を行く。

             

対岸にある大歳神社の鳥居   御庄中学校   御庄宿には左側の道を

清流線と新幹線のガードを続けてくぐって行くと、右手に御庄小学校がある。そこを右折すれば御庄宿の新市である。御庄は明治以降、主要な交通路からはずれたため、古い町並み景観を残してきたが昭和五十年(1975)の新幹線開通にともない、新岩国駅ができため、景観が大きく変わったと言われている。多賀大明神に着いたのが13時15分。おそい昼食をとるため新岩国駅に向かう。しかし、当てにしていた店が休みで他に食べる処が見当たらない。「新幹線が停まる駅なのに」と言いながら駅前をさまよい歩き、ようやく駅の西側に食堂を発見。(店内には立ち寄った有名人の色紙が沢山貼ってあった。)

          

清流線のガードをくぐる   御庄宿の新市   多賀大明神

         

新岩国駅   駅前をさまよい歩く   芸能人が多数立ち寄る食堂

14時20分駅前で写真を撮って出発。多賀大明神と蓮乗寺の間に御庄本陣跡があるはずだと探していたら、メンバーの一人が足痛を訴えたので、岩国市営バス停の「古市」まで行き一足先に岩国駅に行ってもらった。(結局本陣跡は発見することが出来なった)新幹線のガード下付近が御庄古市だが、宿場の面影はない。

           

蓮乗寺   ガード下付近が御庄古市   市営バスで岩国に

「古市」のバス停を南下すると、先ほど別れた県道1号線に(T字型に)ぶつかる。多田はこれを左に折れて県道沿いを真直ぐ行く。T字路から20分歩くと御庄大橋に着く。この大橋の下を流れるのが錦川である。「御庄の渡り場」は周防に入って(安芸から)、小瀬川に次ぐ二番目の渡り場である。元来渡り場の位置はいまの御庄大橋であったが、御庄市が移転したこと、河流の変動で渡河条件が変化したので上流の御庄橋付近に移動したらしい。山陽道はこの大橋から県道1号線を離れ、上多田の信号で国道2号線と合流する。

        

御庄大橋   上流に見えるのが御庄橋  右御庄.左多田(歩道橋から)

多田に入ると、交差点のすぐ左に本庄八幡宮の鳥居があった。国道を北東に歩いて行くと、民家のブロック塀に「台風14号最高水位 2005年9月7日午前1時頃」と貼られている標識を見つけた。あの時の台風で、錦川の水が増水して錦帯橋が流された。いまの錦帯橋はその後造られたものである。交差点から15分位歩くと、左に立派な蔵を発見。この辺りは多田の紙蔵跡があった所なので紙蔵かと一瞬思ったが、「古道一人旅」さんの資料には(想)紙蔵跡とあったので蔵が残っているはずはない。

                 

本庄八幡宮の鳥居   民家の塀に貼られた標識   タダの蔵

塩田歯科医院のあたりに、多田庄屋跡があるはずだが見つけられない。国道をそのまま北東に歩き、多田古市の藤河郵便局前に着いたのが15時40分。郵便局の東側に鳥居と道標があった。鳥居はこの奥にある「弥山堂」への参道の鳥居だそうだ。また道標には「岩国往来」「多田一里塚跡」「多田渡し場」そして裏に「旧山陽道」と四つの案内板が取り付けてある。

          

多田古市   「弥山堂」の鳥居   「旧山陽道」の道標

多田見坂は、鳥居から民家の前を通り細い山道を登って行く。頂上付近に忠魂碑があり、「旧山陽道 岩国往来」の道標が各所に立てられている。ここまではよかったが、下りが大変。絶壁をロープ頼りに降りなければいけない。前日の雨で足元が滑り必死に降りたら、またまた出口が大変。コンクリートとフェンスのわずかな隙間を抜けなければ国道に出られない。太目の人は要注意だ。

            

民家の前を登る   忠魂碑   「旧山陽道岩国往来」の道標

           

絶壁をロープ頼りに   コンクリートのわずかの隙間が出口

多田見坂があまりにも強烈だったので、多田の渡し場跡と一里塚跡のことをすっかり忘れてしまった。多田一里塚跡は小瀬に次ぐ二番目の一里山(一里塚のこと)が設置されていて、「小瀬より壱里、赤間関より三十五里」と表示されている。赤間関より防長中国路筋の一里山は、すべてこの要領で小瀬と赤間関からの里数が表示されている。多田見坂から10分位行くと、自動車道のガード下手前の電柱に「ここは岩国市関戸」と表示されていた。この付近が多田村と関戸村の境とわかる。国道をそのまま歩くと、信号機が見えてきた。その信号機の先あたりが関戸宿らしい。(次回はここから県境の両国橋まで歩く予定)「関戸」のバス停は国道2号と県道1号が交差する横にある。関戸から岩国駅までのバスは20分おき位だ。バスの時間が気になり急いだため関戸宿の入口を見過ごした。

        

多田と関戸の境付近   信号機を直進すると関戸宿   関戸のバス停前

 16時20分のバスに乗り、16時45分岩国駅に到着。待っていたメンバーと合流して岩国駅前で写真を撮る。17時13分の電車に乗り帰路へ。

                   

      山陽本線岩国駅前

今日のコースは6.8Km   (合計161.4Km)

バス代(関戸~岩国)330円             

参加者は  S夫婦とM夫婦の4人