ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第22回目(欽明路~柱野)

2013-04-27 | 日記

山陽道(西国)第22回目(欽明路~柱野)

2013.4.27(土曜日) 晴れ

10時50分に欽明路に到着。例によって彼女は一人で次の駅「柱野」を目指し、電車で行った。欽明路駅を写真に撮って55分に出発。駅から少し歩くと木造の古風な建物がある。これは玖珂小学校分校の廃校舎を利用した現在の東部コミュニティーセンターである。

          

「柱野駅」を目指して   欽明路駅   東部コミュニティーセンター

コミュニティーセンターから東に600m行くと「武田屋敷跡」への案内板があった。小路を小川に沿って歩き30mほどで「周防源氏 武田家旧址」と刻まれた石碑と「武田」の表札がかかった古い門に出会う。門をくぐると右に「稽古屋敷創設之地」の石碑(玖珂小学校分校の前身)と左に武田家の墓が数基ある。名将武田信玄を生んだ甲斐源氏、安国寺恵瓊をその系統に持つ安芸源氏、これらに続く周防源氏の武田家はここに四世紀半を生きたといわれている。

         

山の下の武田屋敷址   石碑と武田家の門   「稽古屋敷之地」の石碑

会社を辞めて一年半になる。在職の時「私は欽明寺の下に住んでいます」と言っていたTさん(彼も定年して2年になる)の話しを思い出し「近くにTさんの家が有るはずだが」と言いながら歩いていると、本当に欽明寺の下で彼に出会った。数分違っていたら会う事は無かっただろう。欽明寺の山門は昭和15年の大火をまぬがれたという。Tさんが「むかし欽明寺の僧侶が酒を飲んで議論をし、その挙句塀を越えて私の庭に落ちて死にました」と話すように彼の家は寺の真下でした。欽明寺から2~3分歩くと「歴史の道 旧山陽道」という岩国市教育委員会が立てた説明板があり、そこには万葉集の歌とその説明がある。「周防にある磐国山(いわくにやま)を越えむ日は手向(たむ)けよくせよ荒しその道」少典山口忌寸若麻呂(やまぐちいみきわかまろ)の歌である。磐国山の「荒しその道」とは中峠、欽明路峠を総称したもので、山陽道の中で屈指の難所だから、神々にねんごろに手向けをして一路平安を祈るという意味らしい。

         

欽明寺の山門      欽明寺      和歌の説明板

ここからは緩やかな登り坂になる。七曲坂新道(旧道はわからなっかた)を通り10分歩くと「欽明路橋」がある。この橋は山陽自動車道の為に作られた橋と思われるが、詳しくはわからない。この山は北側から、新幹線欽明路トンネル、欽明路バイパスの欽明路隧道、いちばん南に岩徳線の欽明路トンネルが東西に並行して掘られている。その3本のトンネルを貫くように南北に山陽自動車道のトンネルが通っている。

          

七曲坂新道     欽明路橋     山陽自動車道欽明路トンネル

欽明路峠は玖珂方面から来ると緩やかな坂道で中峠(なかとう)まで行けるので、難所といった感じがしない。しかし、中峠から東(岩国側)は大変急な下り坂になっている。自動車で登るのに苦労をするからか、道路に切り込みが入れてある。「西から来て正解でした」といいながら突っ張って歩いたが、平坦な道に入ると膝が一日中ガクガクしていました。

          

欽明路峠を走って登る若者   洗濯板の急坂      欽明路隧道

欽明路峠には駕籠建場跡、茶屋跡、七日岩があると(古道一人旅さんの資料)書かれているが、どれも見つける事が出来なかった。とくに「往古、筑前の輩が追手を逃れて、この岩下に七日間も隠れていたことに由来する」七日岩を捜したが発見出来なかった。(後で一人旅さんの資料を再度良く読むと、洗濯道路と舗装道路の境目付近にあると書かれてあった。反省)

        

二軒屋に入り最初の家   川向うの堂宇     2級河川古宿川と刻まれた石柱

中峠を降りて、欽明路道路(バイパス)の下をくぐり歩いて行くと、二軒屋に至る。二軒屋には茶屋跡と一里塚跡があったらしいがこれも発見出来ない。しかし、ここから小瀬川まであと3里(12km)、もう少しで県内の山陽道を踏破することになる。川向うに堂宇があり、この付近にも茶屋跡があったらしい。少し歩くと「2級河川古宿川」と刻まれた石柱があった。今日の昼食はバイパス沿いのラーメン店。12時30分になったので、山陽道を黙々と歩いていると右手に岩徳線が見えてきた。(北から欽明路バイパス、山陽道、岩徳線が並行して走っている)ラーメン店に着いたのが13時前。もう一人の彼女とここで合流。どちらでもいいことですが、山陽道からラーメン店に行こうと階段を上がっていたら、突然後ろから大きな犬に襲われました。(ラーメンを食べる前に、犬にお尻を食べられるところでした)

              

左欽明路バイパス(錦帯橋7Km)右岩徳線のトンネル   お尻を噛もうとした犬

13時40分再出発。山陽道を東に歩き岩徳線の架橋の下をくぐり、その先の欽明路バイパスを渡ると古宿に入る。古宿には千体仏がある。千体仏は江戸中期作で最初は一千体あったと思われるが、水害その他の事情によって795体が現存し、状態は良いと案内板に書いてあった。(日頃は鍵が掛けてあるが、隣の人に頼めば観覧できるらしい)千体仏の川向うに見えるのが、廃校になった柱野中学校。ここの校舎も最初に見た玖珂小学校分校と同様に古風で立派な建物である。

           

岩徳線の下をくぐる    千体仏のお堂    廃校になった柱野中学校

古宿は火災で柱野市に移転する前の市街地である。古宿を過ぎて御庄川に架かる上市橋を渡ると柱野市に入る。柱野市は江戸初期古宿が火災にあったので、下流の野とろ原に移転して出来たと伝えられている。柱野市には本陣、脇本陣、馬立場跡があるらしいが案内板も何もないので分からない。

          

御庄川に架かる上市橋     柱野市       柱野の教法寺

山陽道は柱野の下市で御庄川を渡らなければいけないが、川土手から五所大名神に行かれそうなので、渡らずに右折して川土手の道を行く。結局五所大名神に行く道はなかったが、駅も近いのでそのまま川土手を歩き15時に柱野駅に到着。16時20分の電車に乗り帰路に。

今日のコースは8.4Km   (合計154.6Km)

参加者は   S夫婦とM夫婦

          

駅前の西氏(にしうじ)橋    柱野駅       柱野駅ホーム


山陽道(西国)第21回目(高森~欽明路)

2013-04-09 | 日記

山陽道(西国)第21回目(高森~欽明路)

2013.4.9(火曜日) 曇り

昨年の12月18日、高水~高森間を歩いた後、メンバーの一人が足を痛めたので今年は今回が初めての山陽道です。10時45分に高森駅に到着。(足を痛めた彼女は玖珂で合流する為、一人淋しく玖珂駅へ向う)高森宿は宿場に入って東から「市頭」「上市」「中市」「下市」そして高森天満宮あたりが「市尻」と言うらしい。

          

一人淋しく玖珂駅に     周防高森駅     駅前の通りが「中市」

駅前の交差点を少し東に行くと、右手に「吉田松陰先生宿泊之地」と書かれた石碑があった。その先の銀行の前にも「吉田松陰常宿の地」と刻まれた石碑がある。それを読むと「この場所に松陰の親戚である岩本家があり、醤油の醸造販売をしていた。そこに松陰が数回逗留をした」と書かれてある。(「吉田松陰先生宿泊之地」は松陰が下田で海外渡航に失敗。萩に護送された時宿泊をした所)その石碑から数メートル先に、「獺祭」と書かれた酒屋があった。獺祭(だっさい)は山口県が誇る銘酒で、全国的にも有名なお酒なので、フラフラとお店に入り小さな瓶を買いましたが、結構なお値段でした。 

               

「吉田松陰常宿の地」の場所に親戚の岩本家があった   銘酒「獺祭」を売る酒屋

高森宿の「中市」に報明寺がある。その西側に宇野千代の文学碑と岐阜県から移植した淡墨桜がある。「宇野千代は岩国に住んでいたが、実母が死去したため父の実家高森で幼少期を過ごす」と書かれた看板ある。またもう一枚には「私の実家は岩国から四里ほど奥の高森という町の造り酒屋である その高森の四里を歩いたり 人力車に乗ったりまたは馬の背に乗ったりして本家に行った」と書かれた自筆?の掲示板があった。それが「その高森の広い往還を思ひ出すたびに なんであの山奥に ふいにあんな美しい町並みあったのか不思議に思ふ」という文章の一節になったのかも。(ある一人の女の話- 宇野千代)

         

報明寺    千代の文学碑と淡墨桜  千代幼少期の自筆の文章?

報明寺のすぐ東に本陣跡があった。そこには「旧山陽道 高森本陣跡」と書かれた標識がある。そこを過ぎるとなまこ壁の旧家があり、近くには鞍掛城家老の長男が出家開創した受光寺がある。

        

旧山陽道 高森本陣跡   なまこ壁の旧家      受光寺

受光寺から3分程度東に歩いて行くと、左手に椙杜(すぎのもり)八幡宮があった。朝鮮出兵の時、秀吉が八幡宮の裏山「泉山」に陣営を布いた所である。「上市」に入ると左側に「水戸熊太翁の遺徳」と書かれた看板と石碑があり、その先の「東川橋」を渡ると高森宿(ここが「市頭」)が終わり、玖珂町になる。

         

椙杜八幡宮     水戸熊太翁の石碑   玖珂と高森に架かる東川橋

高森宿から玖珂宿までの道は「千束畷」又は「千束縄手」と言われる一本道である。その道を10分近く歩くと左手に「妙見道の道標」と二基の常夜燈があった。そこから先は、道路の拡幅工事が行われている。道の南側の平地に数軒の大型店が建ち、まだ空地が沢山あるので大きなショッピング街が出来そうだ。常夜燈から15分歩いて行くと、左側に「菅原神社」があった。玖珂宿も三つの市があり、西から言うと市尻の菅野神社から無水川までを「阿山市」、無水川から柳井小路までを「新町」、 柳井小路から「市頭の角」までを「本郷(今の本町)市」と言うらしい。

          

妙見道の道標と常夜燈    菅原神社    神社内の共同井戸

玖珂の三町は、江戸時代に大火があいついだ。町民の有志が祥雲寺境内に神秋葉大権現を祭って防火を祈念し、三町には四か所共同井戸を掘った。(今は二か所だけ残っている)神社から東に少し行くと萬久寺がある。萬久寺は鞍掛城の家老宇野筑後の次子が創設した寺で、境内には塾を開いて子弟一千余人を教えた宇野泰信上人(萬久寺前住職)の頌徳碑と鞍掛合戦で城主父子を守って討ち死した宇野筑後の墓があった。

          

萬久寺      宇野筑後の墓   泰信上人の頌徳碑

玖珂宿には江戸期に建った家はなく、「阿山市」に明治期に建てた家が数軒あると聞いた。  萬久寺を過ぎると「水無川」がある。この一帯が扇状地なので水が流れないらしい。(水は洪水の時以外は、地下を流れている)水無川橋を渡ると浄光寺があった。

         

「阿山市」の旧家     水無川      浄光寺

ここからが「新町」になる。水無川橋から10分位東に行くと、右手に「Kid Mueum」と書かれたガラス張りの建物がある。その横の道が柳井小路である。この道を通って荷馬車で朝早く出て、柳井の問屋から衣類・食料・荒物その他こまごました生活物資を持ち帰ったと言う。柳井小路の前に玖珂総合支所があり、裏に小学校がある。校庭の隅あたりに茶屋が、支所の駐車場あたりに代官所があったようだ。また本陣も近くにあったらしい。柳井小路から東が「本町」になる。

          

「新町」の通り      柳井小路    駐車場が代官所跡

玖珂総合支所の横に恵比須神社があり、神社の裏に明覚寺の鐘楼門と本堂の大屋根が見える。12時40分、JR玖珂駅前の道路でメンバーの一人と合流。玖珂駅の正面に見える山は蓮華山であるが、その少し東手前に鞍掛山がある。戦国時代宮島で陶晴賢軍を破った毛利軍が鞍掛城を攻めて落とした。駅の北に合戦の戦死者を埋葬した千人塚があるという。

          

恵比須神社と明覚寺    玖珂駅前で合流    「本郷市」の町並み

鞍掛城主杉隆泰・父宗珊の墓がある祥雲寺で小休止。13時15分に再出発。祥雲寺から2~3分東に歩くと、山陽道が90度大きく左折する。ここが「市頭の角」で玖珂宿の終わり。「市頭の角」を北に進むと「義民 田坂市良右衛門」の石碑があった。山陽道が解らなくなったので、人に聞こうとウロウロしていたら一台の車が止まり「どちらに行かれますか」と聞かれた。「山陽道です」と言うと、「それなら・・」と丁寧に教えて頂いた。山陽道の事が大変詳しく、自分で作られた詳細な資料を出して色々説明をされ、最後に「丈六第五踏切ですよ。大切ですからよく覚えて下さいよ」と言われ別れた。 しかし、知識のない我々は何が大切ないのか分からないまま山陽道を歩く事になる。 (全部書いてありますからと頂いた資料が詳しすぎて歩きながらでは読めなかった).  家に帰って、その人の資料を読んでみると、丈六第五踏切の北に鞍掛城主杉親子の隠し墓があった「丈六寺跡」が有り、踏切を渡ると西に秀吉が建てた茶屋跡の「亀山」、東35mには「野口一里塚跡」があったようだ。因みにその人は「一歩さん」の資料によく出てくるY氏であり、「周防国の街道・古道一人旅」というHPを作っておられる有名な人でした。

          

祥雲寺入口の案内    「市頭の角」     義民田坂市良右衛門碑

岩徳線の高架下を抜けて右折すると、岩隈八幡宮の石柱と常夜燈があった。そこから東に10分程度歩くと「丈六第五踏切」になる。今日の昼食は欽明路の「山賊」に決めていたので、岩徳線の上野口第4踏切から山陽道をはずれ、「山賊」をめざし山道を登り14時25分に到着。

         

岩隈八幡宮の石柱と常夜燈   丈六第五踏切   上野口踏切から「山賊」へ

余談になるが「山賊」について一言。次の日にテレビを見ていると、「山賊」が火事というニュースが流れた。幸い本館ではなく、食料倉庫と従業員の控室らし。山にも燃え移ったがまもなく鎮火したようだ。

           

欽明路トンネルが抜けたので「山賊」には40数年振り    欽明路駅

15時50分の電車に乗るため急いで山を下り、欽明路駅に着いたら今年3月のダイヤ改正で時間が変更になっていた。

 今日のコースは6.6km   (合計146.2Km)

参加者は  S夫婦とM夫婦の4人