ゴールのVサインが自然と出てしまった。それまでは最高三泊四日だったものだから自然に出たのである。あとで考えたら自分でも恥ずかしく思ってしまったものだ。そのころ流行だったもので、自分では流行などに感化されないと思っていたからだ。
その夜母と愛犬と無事帰宅の記念写真だ。愛犬は興奮している。
今は亡き父との記念写真だ。父が恥ずかしさを抑えてはにかんでいるように見える。これまで生きてきて父に酌をするなど初めてなものだから、する方もされる方も恥ずかしいのである。男親の典型だな。
母にしろ、父にしろ、愛犬にしろ、我輩も笑顔がいい。懐かしくて涙が出そうだ。
私の両肩には肩章のようなものがついているが、ガーゼに絆創膏なのである。
火傷の痕である。ランニングシャツで走ったものだからひどい日焼けになったのである。ある温泉で身体を洗ったとき黒く小さいものがタオルについてきた。そのときは判らなかったのだが湯に浸かると肩に沁みるのである。ようは水ぶくれになったところをタオルでこさいでしまったために皮が剥けたのである。風呂から上がった時に温泉の方が見かねて治療してくれたのである。よほど激しかったのだ。
大宰府で出会った佐賀大学一年生 藤野君だ。佐賀から一人で走ってきていた。
私と違って綺麗なものだ。見るからにおとなしそうに見えるだろう。果たしてそうなのであった。記念撮影をし、できた写真を送ることを約し、互いの無事と励ましの言葉を交わして別れた。
都府楼跡で出会った辻氏。この時既に御年72歳 自宅のある香椎から実用自転車でここまで来ていた。遠くから見ているとなにやらチビリチビリとやっている。 飲酒運転じゃないか、そんなことでいいのかと思いながらも、写真を撮るためにどうしても傍に寄らねばならなかった。すると向うから声を掛けてきたのである。
私が来たときから見ていたそうで声を掛けるきっかけを待っていたそうだ。
飲めと言う。そう言う訳にはいかんと丁重に断った。そこから二時間かけて私の九州一周の話に耳を傾けてくれたのである。別れる前、辻氏に二人の写真を撮ってくれ、出来たら送ってくれと頼まれたのである。これがその時の写真である。
私は写真を送った。丁寧な返事が来た。私と会えたことを喜んでくれていた。
翌年、写真を送ったのと同時期に残暑見舞いを出した。返書が返ってきた。差出人の名が違うのだ。読んでみると辻氏は数ヶ月前に亡くなられたという内容なのであった。また、父(辻氏)が大層喜んでいた。父になり代わりお礼を述べると言う言葉で結ばれていた。私は手を合わせることしか出来なかった。
昭和49年8月28日 佐世保から船小屋温泉までの道中、後ろに見えるのは筑後川昇開橋である。この当時は国鉄佐賀線(佐賀~瀬高)であり、あの柳川も筑後柳川という駅があった。今では見る影もなかろうが、橋は記念物として残された。
船小屋温泉に到着したのは午後二時ごろだった。三軒の旅館に宿泊の可否を尋ねた。自分の姿がみすぼらしいので相手の意向を尋ねたのである。案の定三軒ともあっさりと断られるはめになった。別にこの地に泊まらなくても博多まで行けば友人がいる。もうひとっ走りすればよかったのであるが、少し回り道をして行きたかったことと、この地を流れる矢部川のある風景に一目惚れしたからである。
ようやく四軒目で契約成立し、落ち着いて川辺を散策することが出来た。
翌29日船小屋を発ち、久留米、甘木、二日市、大宰府、都府楼、友人宅までだ。
ご覧のように石碑が傾いている。これが目に飛び込んできた。いい写真が撮れたと自負している。今のように整備され、かつ公園化されていたわけではないのだが、気持ちのよくなる場所であった。