このように道しるべはいつまでも残るのであろうが、建物はそういう訳にはいかないようだ。
朽ち果てつつある状況がなんとももの悲しく見える。屋根瓦など今にも落ちてきそうで危険な状態にある。雨漏りなど特に激しかろう。白壁だったのであろうがくすんでしまっている。壁の状態も悪い。こうして目視するだけでも取り壊さねば危険な状態だ。
日曜日の午後少し歩いてみたが殆どと言っていいほどシャッターが下りている。通りは閑散として人は殆ど歩いていない。実際行橋駅の南側にショッピングタウンに人が集まっているのだ。当然のように車での移動であるから商店街などに来る訳が無い。こうして既存の街は取り残されてゆくのである。ここだけが例外ではないのである。車社会から取り残された今どのように街を生かしてゆくのだろうか。
行橋駅の北側は、この建物と同じ状況下にあると言っても過言ではなかろう。
安徳天皇御陵前畑仕事をされていた方と歓談する母である。両脇から細い小道を覆うようにして枝葉が伸びている。ほんの数メートルしかないのだが心がほっとするのである。小一時間いたであろうか。私の気まぐれでちょっと立ち寄ったのだが熱心に案内していただいた方に感謝したい。十二月十五日の祭には是非来て下さいが別れの言葉となった。
御陵の石碑の前に夏蜜柑が生っていた。今では店先には並ばない。誰も見向きもしないのである。私がまだ小さいときに父と一緒に風呂敷を持って知り合いの家に夏蜜柑を採りに行ったことを思い出した。すると帰る間際手の届く夏蜜柑を四つもたせてくれたのである。いやー、すっぱかったこと。重曹をかけてまで食べたことを思い出し,父の顔が浮かんできた。今日も一日を有意義に過ごせたことに感謝である。
聞く所によると十二月十五日に「シビ着せ祭」なるものが行われるとのことだ。
安徳天皇をかくまったことに由来するお祭で、十二、三歳の子供を安徳天皇に見立てて頭から藁を被せていくのである。それだけと言ってしまえばそれだけなのだが一風変った祭である。それでも安徳天皇を偲んで八百年続いている。
説明してくれた方には心配ごとがあるとのことだ。恐らく何方でもお判りであろうが、存続ということなのである。この地もご多分に漏れず代々からの人々が減少しているとのことである。それでなくてもその当時は僅か十九戸であったそうな。
ご高齢者ばかりとなって幼子などいないそうだ。それで村外に出た関係者に参加してもらっているとのことであった。
人手が足りなくてバイトを雇わねば成り立たない祭もあるとは聞くがこの祭もそのようになってくるのかもしれん。なんにしても伝統行事の廃れることだけは避けたいものだ。
英彦山からの帰り道、このまま真直ぐ帰っては芸が無いので少し寄り道をした。
写真にある立て札を見ていただこう。「安徳天皇御陵」である。と言っても山口県下関市赤間神宮ではない。地名は「隠蓑」という。平家の関連からすると「なるほど」頷ける方がおられるであろう。源氏の追手から逃すために村の者が幼い天皇を藁で藁苞を作って隠したということからこの地名になっているのである。
天皇はこの地で崩御されるにいたり村人達によって荼毘に付されたというのである。それがこの御陵である。
壇ノ浦の源平合戦その後の安徳天皇については諸説あり、何が正しいのかはわからぬが全ては頷けるものかもしれん。敢て異論を唱える必要などなかろうし、昔の人々の人情を現在にも伝えなければと思うのである。
駅の脇にある重厚な建物がある。そこはトイレなのだが軒下には十以上ものツバメの巣がある。そのなかの一つにもう雛がいる。口をへの字に結んで親が餌を運んでくるのを待っている。漫画的な顔で愛嬌があってよい。
ツバメと言えば国鉄であり、特急列車の代名詞である。一時期その名が消えてしまったが復活したときは内心嬉しさがこみ上げてきた。しかもこの九州島内での復活であったからその嬉しさはひとしおであった。
彼らの写真を撮っていると一人の男性が近寄ってきた。この方は駅舎の写真を撮っているとのことであった。彦山駅の写真を撮り終え次の駅(筑前岩屋)までの道を尋ねに来たのである。このような方がおられるのかと母は不思議そうだったが、人の持つ感性と趣味は判らないものなのだ。