
亡き父が昭和20年8月終戦と同時にソ連に抑留されて以来、昭和24年、日本に引揚げて来た。そのときに上陸したのが舞鶴である。その舞鶴港の写真を撮って福井県境に向った。そして愈々その時が来た。昭和50年8月26日午後12:30 とうとうやって来た。露出している肌は既に真っ黒である。
当時自転車の旅は陽に焼けることが勲章のようなものだったし、それが猛者を顕著に顕したものだった。
事実大学に帰っての体育の時間、教授が私に問いかけた。自転車で何処かに行ったのかと。こうこうでと言うと、お前はもう授業に出なくてもよいし、「優」をやる。それで後期の体育授業は出なくて済んだ。前年の九州一周のときもそうであったので、教授はそれを分っていてくれた訳である。何故問い掛けたのか。それはあまりにも陽に焼けていたからだ。