かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

空海さまのお墓にご先祖様たちが集合されたのかもしれません

2022-11-02 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2022年11月2日(水)

空海さまの真魚の山へ行くのには、マイクロバス2台で行きましたが、翌日には大型バスでの出発でした。

バスの中でマイクを握る私を何者かが使って、しゃべっているように時々思う私でした。

よくもまぁ~しゃべり続けるなぁと、気持ちよさそうにコックリこっくりと寝るのを我慢して・・寝ている人達にも聞こえるように何者かが話していました。

そして旅の最後、広島駅に着く前に、「無念の御霊が二人・・」と話しましたが、もう一人、孝謙天皇も無念の御霊だったように思う私です。

でも、孝謙天皇も皆さんと共に旅をされて、大変喜ばれたのではと思います。

お墓参りを終えて山からマイクロバスが待つ場所まで帰って着たとき、空を見上げると真っ青な空に、雲が浮かんでいて、大平山公園にもう一度トイレに行った時にもその雲は、それぞれの形を見る人に見せてくれたようです。

最初は、「あれは千羽鶴ですよ」「千羽鶴から龍に変わっていきますよ」と、長谷川さんだったかなぁ・・、教えてくれましたが、誰か大平山公園で撮られ写真には、渦巻き状の雲の中心に、人か龍の顔が写っていました。 凄い写真でした。

大西さんが、昨日メールで送ってくれた写真には、望海山から徳山の方を写した写真で、そこにはUFOが映っていました・・と。これは、大西さんだけに見せてくれたのかもしれません。

矢野さんは、バスの中で「年内にはまとめて・・」とコミットメントしていましたが、一枚一枚丁寧に書き上げています。

下の孝謙・称徳天皇の墓の位置情報も凄い情報です!

上下の写真は、大西さん撮影 カラスは神様のレンズですから、間違いなく皆さんを一人一人見ていたことでしょう。

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一生に一度は浄見原神社で腰を下ろして手を合わせていただきたいと思います

2019-06-14 05:50:11 | かごめかごめの真実とは

2019年6月14日(金) 吉野宮へ その4

岩神神社から次に行った所は、浄見原神社でした。

行って綺麗な川がある情景を見ながらほとりを歩いていても私はまだ気づきませんでした。

石の階段を歩いて、建物の中を潜り抜けて、携帯で情景を写している武部さんが立っている情景を下から見てはじめて気づきました。

「吉野の浄見原(きよみはら)神社は知って居られますか」と、突然事務所に電話をしてきた長谷川さんという女性の方に言われてネットで調べて見た情景がそこにありました。

「アッ、長谷川さんという方が言ってた浄見原神社がここなのだ」と。

私の頭の中には、目指す衣笠山に登った後に、立ち寄ると決めこんでいましたから、全くそれまで気づきませんでした。

そして改めて、「浄見原神社は知って居られますか」と言われた言葉の意味がそこでハッキリと解りました。

そこから腰を降ろし、時の天皇たちも村人たちと多くの人達も時間の許す限り、綺麗な衣笠山を心ゆくまで眺めていたことでしょう。

なぜか・・・!?。

それは・・、秦河勝の墓と藤原不比等の墓と、目の前にそびえる衣笠山こそがケプラー三角形を描く山であり、第四十代天武天皇の亡骸を葬った山であるお墓だからです。

それはもう見事な情景です!

 

「今からそちらへ向かいます」と私は山に向かって手を合わせました。  つづく

 

      

 

 

 浄見原神社から見る衣笠山は実に綺麗です!


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我国の礎と国家発展に大いに貢献した 秦河勝 天武天皇 藤原不比等が眠る墓の三点は、ケプラー三角形を描いている

2019-06-08 04:36:54 | かごめかごめの真実とは

2019年6月8日(土)

「私のこと覚えて居られますでしょうか・・」と。

話していくうちに、3月の初めに偶然ではあり得ない情報を届けてくれたメッセンジャーの長谷川さんからでした。

要点は、

「何かお釈迦さまからの神託はありましたか」

黒川温泉の大明寺へは行かれましたか」

「吉野の浄見原(きよみはら)神社は知って居られますか」・・などなど、話されます。

私は、神様からのメッセージだと思い、電話を切るなり地理院地図とにらめっこすると・・!

それはもう、間違いなく藤原不比等君からのメッセージだと分かりました。

ですから答えはすぐさま出ました。

・・・と、5月11日のブログに書きましたが、 完全にノックアウト! ガ~~ンです。

大明寺から藤原不比等のお墓と、秦河勝のお墓である生島までは同距離に位置しています。

不比等の墓と天武天皇の墓と岐阜県にある大山白山神社は、綺麗な2:1:√3の基本形である直角三角形を描きます。

飛び切り驚かされるのは、我国の礎と国家発展に大いに貢献した 秦河勝 天武天皇 藤原不比等が眠る墓の三点は、ケプラー三角形を描いていることです。

これはもう異論の余地はありません。

日本の本当の歴史を教える為に、彼らは営々と最後自分が眠るお墓の場所を、現代のカーナビにも劣らない精度で位置決めをして、意味ある直角三角形や二等辺三角形などの組み合わせで、意味やルーツを辿れる様にしています。

彼らは位置決めに妥協していませんから、すぐにそのお墓の場所にたどり着けます。

先ずは今度の日曜日、天武天皇のお墓へと行って、その日のうちに母である斉明天皇の本当の墓へと天武天皇をお連れせねばなりません。

時間があれば、大日如来の池がある百済寺へも行って、空海さまにご報告せねばと思っています。

驚きのメッセージを届けてくださった長谷川さんに感謝いたします。

 

 


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天武天皇と斉明天皇の本当の墓が浮かび上がりました

2019-05-11 07:14:24 | かごめかごめの真実とは

2019年5月11日(土)

五月一日 令和のスタート

五月三日 私は、藤原不比等公千三百年遠忌に参加した

五月四日 皇居で一般参賀が始まり、行かれた中村恵美さんから日章旗がメールで送られてきた

大型連休が終わり、遅れていたテラファイトコアの材料が届き、数日間コアを組み立て終わった頃を見計らったように、一本の電話がかかってきました。

「私のこと覚えて居られますでしょうか・・」と。

話していくうちに、3月の初めに偶然ではあり得ない情報を届けてくれたメッセンジャーの長谷川さんからでした。

要点は、

「何かお釈迦さまからの神託はありましたか」

黒川温泉の大明寺へは行かれましたか」

「吉野の浄見原(きよみはら)神社は知って居られますか」・・などなど、話されます。

私は、神様からのメッセージだと思い、電話を切るなり地理院地図とにらめっこすると・・!

それはもう、間違いなく藤原不比等君からのメッセージだと分かりました。

ですから答えはすぐさま出ました。

・・ それは! 日本の歴史を誰よりも知っていた第40代天武天皇のお墓と母、斉明天皇の本当のお墓の場所でした。

綺麗な2:1:√3を描く基本形の直角三角形が浮かび上がりました。

このドラマはあまりにも凄すぎます。

我が国の先人先輩諸氏は、本当に凄すぎます。

日本の本当の歴史は、この我が国の大地に連綿と書き綴られています!

天武天皇の父は、蘇我入鹿であることも教えますし、そのルーツもわかるようなっています。

中村恵美さん、そして長谷川さん、メッセージを届けてくれてありがとうございます。

感謝いたします。



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偶然ではあり得ない情報にビックリ

2019-03-06 18:01:46 | かごめかごめの真実とは

2019年3月7日(木)

「あの~、佐用町の天一神社へ行かれたことはありますか」

「もう一つ、養父市の名草神社はご存じですか」と、初めての方から、どうしても私に伝えたいことがあるので・・、と電話がありました。

そして調べてみると・・、なんと! 天一神社と名草神社と同距離の所に、先週の土曜日、播磨稲日大郎姫命の母のお墓参りと共に、その方の故郷である安栖里へとお連れしたばかりでしたからもうビックリ!です。

偶然ではあり得ない情報に本当にビックリ!です。

実は、女王卑弥呼には男の子が一人生まれました。

そして卑弥呼の息子の嫁にと、素戔嗚尊(モーセ)の流れを色濃く引き継ぐ方々の里である安栖里から御姫様が嫁いで来られました。

卑弥呼が岩戸隠れするときに、卑弥呼の息子と卑弥呼の弟も同行しましたから、嫁となったお姫様は、自分のお墓を、その山が見える場所に造りました。

卑弥呼たちと同行することはできませんでしたが、いつまでもその場所を見守り続けていました。

そしてそのお姫様の御霊を弔い、又、その場所が分かるようにと、出雲大社から持ってこられたという名草神社の三重の塔も意味ある場所に建てられています。

安栖里から嫁いで来られたお姫様は、二人の女の子を授かりました。

その下の娘さんが、播磨稲日大郎姫命であり、その方には、女、女、男の子がありました。

その男の子が第15代応神天皇であります。

稲日大郎姫命のお姉さんのお墓は、母と妹の墓と、1:1:√2となる直角二等辺三角形を描く地点に設けられています。

これらのお墓が、誰のお墓に繋がるかの話は、・・続きます。


長谷川様、あなたの情報は、間違いなく神様からのメッセージでした。

大事な情報をありがとうございました。感謝しています。


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「山間荘園の地頭と村落」・・丹波国和知荘を歩く

2017-03-22 10:07:55 | かごめかごめの真実とは

2017年3月22日(水)

 3月19日(日)17:31 和知駅(京都府)へと着きました。

六甲道を14:45頃に出発して、尼崎から「特急こうのとり15号」で福知山へと行って普通電車に乗り換えて、そこから36分ほどで和知の駅です。

六甲道からおおよそ2時間42分かかります。

武部さんは、月に一回のセミナーが終わってから車でお宿まで駆けつけてくれることになっていました。

始めて降り立つ町には、どこか遠い昔に帰ったような風情が感じられました。

実はこの町に来ることなど数日前までは、全く予期していませんでした。

「和知」という地名も「安栖里」という地名も、生まれてこの方聞いたこともない私でした。

それが・・、桓武天皇の遺体を入れた山へと行ってから、またまたこの不思議な物語の初めの頃、「天皇家のルーツを覚えてくださいね。覚えてもらわないと私達が困るのです」と、教育係らしい2人の女性の波動が思い出されました。

そして、どんどんと、天武天皇と天智天皇の陵墓の関係から、伊勢の猿田彦神社との三点が、3:4:5の大事な基本形となる大矩(直角三角形)であることを教えられ、猿田彦神社と、神河町のイエス・キリストの墓とその二点の垂線上に、応神天皇陵が位置することを教えられます。

綺麗な二等辺三角形を描くわけです。これも、偶然の一致など絶対にありえないことです。

一気に応神天皇のルーツを調べるようにと言いますか、だれも知る由もないことを調べようにもありませんが、実は陵墓の造営の方角でキッチリとその埋葬者のルーツを知ることができます。

「監督さ~~ん、陵墓はどちらに向けて造るんですかぁ~」

「どちらの方向でもいいから、勝手に早く造れ~~!」などと、そんなことはありません。

陵墓は、その埋葬される方が、生前、一番思い出に残る地域、地点に向けて造りました。

その造る地点も意味ある場所に造られました。

国家のありようは、その時々の人間とその集団によって変わって行くものです。

どのような政変劇や混乱がこの国で起きても、この国の歴史と真実を残すもの、それが、歴代の天皇たちの陵墓の位置と方角で読み解くことができます。

そのことは、磐座であったり、そこから神社や寺院も、お城までもが全く同じ考えのもとで造営されていました。

文書でいくら残しても、改ざんされたり改変されたり、消失されたりしてしまいますが、山や磐座、陵墓などは、そうたやすく全てを破壊することはできません。

先日、とある学芸員から古墳について話を聞きましたが、全く馬鹿げています。

「古墳は山の上などにはないのです」と学説を唱えるだけで、あまりにもかわいそうで哀れにも思います。

考古学とは、その学説とは・・、いかにもあやしい、片目をつむった学説のようですね。

古本屋で買ったりっぱな学術的な本には、「古墳は山の上に造られている」と書かれているのに、いつのまにか「古墳は、平野部か山裾」ということにされてしまっています。

どこからか、誰かの意図で、そのようにされてしまっているようですね。

天皇家とは第10代の崇神天皇からのことですか? 違うでしょう。

その以前から続いてきているでしょうが。

もうそろそろ、学者先生方も真実を語らないと、尊敬どころか軽蔑されだしますよ。

天皇家だってそうですよ。

応神天皇も、キッチリと自分のルーツを教えてくれていました。

応神天皇は、「私のルーツは、十倉であり卑弥呼であり、イエスであり、マリアであり、モーセに遡ると」と教えています。

全て、この大地に、そのご先祖である天皇たちの陵墓の位置とその方向が、この国の本当の歴史を教えてくれています。

・・・

そのようなことで、応神天皇陵が教える彼の故郷へと急きょ行くことになりました。

どうしてうちの山には来てくれぬのじゃ!」とも、おっしゃられておられましたので・・。

指定されたお宿は、料理旅館「角屋」でした。

武部さんがやってくるまで、ロビーで待つことにしました。

そして、郷土誌でもあればと思い、本棚に目をやると、

藤木久志・小林一岳 著 「山間荘園の地頭と村落」・・丹波国和知荘を歩く という立派な本が目につきました。

これらの多くの先生たちが、何十年もかかって和知を歩き、片山文書などを調べ上げて書かれた内容をさらりと目を通しましたが、「どうしてこの和知について何十年も研究をされているのだろう」

「おそらく特別にして特別な地域なのだろう」と言う思いと、「やっぱりここに来たことは、確かなものに導かれている」との思いを強くしました。

さらりと読み終わったころに武部さんがやってきました。・・・つづく

 

執筆者一覧  

小林一岳(こばやし・かずたけ)

桜井 彦 (さくらい・よしお) 蔵持重裕(くらもち・しげひろ) 

松本 保(まつもと・たもつ) 黒田基樹(くろだ・もとき) 

窪田涼子(くぼた・りようこ) 遠藤ゆり子(えんどう・ゆりこ)

長谷川裕子(はせがわ・やすこ) 増山智宏(ますやま・ともひろ) 

藤木久志(ふじき・ひさし)

 

 

 


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