鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・前編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


あなたの知っているフィンスタルという人と、
私の知っているフィンスタルとの間に
どういう関係があるのか、それは分からない。

あなたのお話の中のフィンスタルは、
いまも微笑んでいますか。
悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、
私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。

だから私が、あなたを助けます。
さぁ、物語の続きを紡いで。

  ルチア・ディラ・フラサルバス
   某代の闇の御子
   そしてミロファニアの時詠み 光と闇の歌い手


1.虚海ディセマの果て、深海の神殿



 暗黒の口を開いてすべてを呑み込み、隙あらば圧し潰そうと待ち構えているような、この莫大な量の液体は、本当は海水ではなく、魔力を帯びた漆黒の絵の具か何かではないのかと――そのように目を疑いたくなることが何度も何度も続き、それに飽きてもなお、ルキアンたちは《ディセマの海》の奥底に向けて延々と降りてゆく。

 果てなき闇の海に包まれ、ぼんやりと灯った光がただひとつ。透明な球体の中に人影がふたつ見える。光それ自体が球を形作っているそれは、彼らがようやく立っていられる程度の手狭なものだ。本来なら、こんな脆そうな移動手段で深海の底になど辿り着けるはずもなく、そもそも中の空気すらすぐに尽きるだろう。だが、ここはあくまでもルキアンの創出した仮想世界、彼の意識下で納得ができていれば、それで問題は特に生じないのかもしれない。

「とても静かですね、おにいさん。どこまでも真っ暗で、何もなくて……。ちょっと怖いです」
 エレオノーアは不安げに外を眺め、それからルキアンに体を寄せかけた。
 ルキアンは、彼女と身体が触れ合うたびに相変わらず緊張しつつ、その緊張感が回を重ねるたびに少しずつ違う気持ちに置き換わっていることも感じていた。両腕が自然に接触したところから、彼はエレオノーアの手を恐る恐る握ってみる。握ったというよりは、何本かの指をそっと掴んでみたような、ぎこちない様子だった。
「そ、そうだね。僕は、人のまだ知らない深い海の世界といえば、見たこともないような不気味な生き物が隠れていると思っていたんだけど」
 ルキアンは、以前に手に取ったことのある一冊の書物のことを思い出した。この本は、敷居の高そうな、何の飾り気もない分厚い黒表紙の中に、その見た目からは想起し難い極彩色の挿絵を多数散りばめた貴重な作品だった。正確なタイトルは忘れてしまったが、博物学者と冒険家とを兼ねたような人物の海洋調査を旅行記風にまとめたものである。その章のひとつに、深い海で獲れる生き物を扱ったところがあり、海の淵に棲む奇妙なものたちの絵にルキアンは思わず惹きつけられた。小さな魚体に不相応な巨大な目をもつ魚や、体の半分以上を占めるのではないかという裂けた口に、刃物のごとき牙を何本も生やした魚、あるいは体中が幽霊のように白く、もはや光を映すことを忘れた濁った目をもつサメのような生き物、海の魔獣クラーケンと肩を並べそうな現実離れした巨体をもつイカ、そして、クラゲかナマコか何かよく分からない、毒々しい紅色をした漂う悪夢のごとき生物。深海に潜む、そうした者たちが、今すぐにでも眼前に飛び出してくるのではないかと、ルキアンは半ば興味津々、半ば心配であった。
 空想を巡らせている彼を気にせず、エレオノーアが言葉を返した。
「《無限闇》は、闇の御子の想像したものを領域内に創造する支配結界です。だったら、おにいさんの考えるような怪しい生き物に支配された深海の姿が、ここでも具現化されそうな気がします。でも実際には、そうなっていません。もしかしたら、おにいさんが思い浮かべたものの本来の実態も、それはそれで《無限闇》による創造に影響するのかな」
 急に小難しいことを並べ始めたエレオノーアに、ルキアンは慌てて答える。
「え、えっと、そう、なの? つまり、その、僕がいくら都合よく何かを想像しても、その何かがもともと持っている本質を無視した創造には、ならないってこと?」
「はい。おそらく。化け物さえ姿を現さない、一切が死に絶えた海。この状況こそ、《虚海ディセマ》に実体を与えたものに相応しいのかもしれません。それにですね、他にも、それに……」
「それに?」
 にわかに落ち着きのない態度になったエレオノーアに対し、首を傾げるルキアン。エレオノーアの方は、愛嬌のある怒り顔でルキアンに打ち明けるのだった。
「そ、それに、今の私です。この体、私の本当の体と隅々まで同じなのです。どうやって、そっくりに作ったのですか。もう、おにいさん! 私の……その、いろいろ……見たりしては、いないですよね?」
「え? 見てない、絶対に見てない! そんなこと言われても……。ただ、僕はエレオノーアに戻ってきてほしいって、ただ、それだけを念じたら」
 エレオノーアは仕方なさげに笑うと、膝を抱えるようにして座り込む。伝説の戦乙女を思わせる今の彼女の衣装も、仮の姿が創造される際、支配結界の力で作り出されたものだ。
「この服も、測ったわけでもないのに、どこをとっても私にぴったりの大きさです。細かいところの造りは勝手に《補完》してくれるなんて、とても便利な結界ですね。でも、ちょっときつめのところが、いくつか」
 そう言いながら、エレオノーアは着衣を整える。首から肩、胸にかけて大きく開いた造形のため、いまひとつ落ちつかないのか、胸元のところを何度も引き上げた。ルキアンは目のやり場に困りながらも、もはや開き直ったのか、それとも欲求にひかれて無意識のうちにか、彼女の胸の谷間を遠慮がちに眺めてしまっている。エレオノーアが《エレオン》だったときに、ルキアンが垣間見たそれとは、明らかに様子が違っていた。そうかと思えば、エレオノーアは、スカートの丈の短さが気になる様子で、もじもじと太腿を擦り合わすような仕草をしている。ただ、彼女の方も、ルキアンに見られていることを内心では分かっているようだったが。
 ルキアンは気恥ずかしくなったのか、話を逸らそうと、改めて周囲を見回して言う。
「それにしても、一体、どのくらい深く潜ったんだろう。何もない真っ暗な空間がこれだけ続くと、時間も、距離も、何もかもが曖昧になってくるよ」
「そうですね。もう全然、そういう感覚、なくなってしまいました。でも、おにいさんと一緒なら……」
 こわごわと、小鳥でも内に抱くかのように力の入っていないルキアンの指を、エレオノーアが強めに握り返した。互いの手が少し汗ばんでいる気がする。そっと見つめ合って、不器用な笑みを浮かべて、また前を向いて。
 こうしたやりとりが幾度ともなく続き、通常の時間感覚というものが二人から半ば失われようとしていたとき、沈下が止まった。音もなく、着地の感触すらおぼろげに、深海の底に降り立った二人。
 《ディセマの海》に入って以来、障害らしい障害にも遭遇せず、気味が悪いほど順調に海底へと辿り着いてしまったことに対し、彼らはむしろ不安を感じていた。お互い、そのことに敢えて触れることはなかったにせよ。
 真っ暗で何も見えないはずだが、これもルキアンの心象風景がかたちを取った結果なのだろうか――光る球体が着底した瞬間、舞い上がる砂煙が付近一帯を包んだのが分かった。そのとばりが徐々に流れ去り、海底にまた還っていったとき、エレオノーアが声を上げた。
「おにいさん! あそこに何かあります。ほら、建物のようですね」
 彼女が指差す方に、ルキアンもそれを見出した。
「何だろう。古い遺跡のようだけど、見た感じでは、神殿とか、そんな雰囲気の……」
 ついに手の届いた《虚海ディセマ》の深みの果て、そこに広がる海底平原に、ルキアンたち以外にただひとつ、光を放つものがあった。あやしく魅惑的でいて、しかし来るものに警告をも示しているような、青白く揺らめくオーロラ状の光幕の向こう、そびえ立つ幾本もの丸い石柱に担われた建造物がみえる。
 エレオノーアが言う。少し震えを帯びていたにせよ、同時に彼女の決意をもうかがわせる声で。
「この想像と現実との狭間で、あれだけが私たちにその姿を敢えて見せているということは……。あそこが、目指すべき場所ですね」
「行こう。そして君を取り返して、必ず一緒に帰るんだ」
「嬉しいです! ありがとう、おにいさん!!」
 喜びに瞳を輝かせ、エレオノーアはルキアンを正面から見つめる。そして唇を寄せ、目を閉じた。だが不意に何を思ったのか、彼女は慌ててルキアンから離れてしまった。
「ごめんなさい。おにいさんの言葉が嬉しくて、嬉しくて。でも、こんな偽物の私のままでは、おにいさんにふさわしくないのです。あ、偽物って……おにいさんに作ってもらった、この仮の体のことではないですよ。今までの私、私の全部が嘘の私……。こうして一度《消えて》みて、初めて分かったのです。もう逃げないで、向き合うべきことと、恐れずに私が向き合って、答えを出さないと、ずっとこのまま、私自身として生きられないと思うんです」
 エレオノーアは、今の自分の気持ちを素直に込めた瞳で、ルキアンを見上げるのだった。

 ――そうしない限り、きっと、《ディセマの海》からも二度と出られはしません。

 ◇

 海底に沈んだ遺跡とは思えないほど、例の建物の内部は地上と変わらない環境のもとにあった。
「よかった。息もできるんだね」
 ルキアンは安心し、空気があることを改めて実感しようと思ったのか、大きく深呼吸をしている。エレオノーアも、不思議そうな顔でルキアンや自分のあちこちを見ている。
「そうなんです。どういうわけか、服も体も全然濡れていません。やっぱり、ここ、おにいさんの想像の世界の中なのですね」
 二人は顔を見合わせると、今度は周囲の様子を確かめる。彼らは一本の通路に立っているようだ。まず天井は、2,3階建ての建物を貫く吹き抜けと同程度に、非常に高い。前方に目を凝らしてみても、奥は深く、薄暗くてよく見えないが、そこに向かって伸びる通路の幅は、外から見た建物自体の大きさからみると、意外なほど限られたものだった。
「結構狭くて、圧迫感がありますが、おにいさんと二人並んでも歩けそうでよかったです」
 エレオノーアはルキアンに微笑んだ後、一転して緊張感のある表情で言う。
「こんな狭いところに罠があったり、何かに襲われたりしたら、防ぎようがないかも、ですね」
 彼女は、すかさずルキアンと手を繋いだ。
「おにいさん、ここは並んで行きたいです。何かあった場合、二人とも一度で全滅する……かもしれないですけど。でも、もしおにいさんが前を進んで、私より先に犠牲になったりしたらいやですし、おにいさんが私の後ろにいて、私が見ていない間に消えてしまったりしても、いやですし」
 わざと、わがままそうな口調でそう告げると、エレオノーアは青い目を潤ませた。
「最後まで一緒なのです、おにいさん」
「もちろんだよ、エレオノーア」
 二人は、慎重に、今しばらく辺りの様子を調べてみた。壁も床も、硝子のように滑らかな手触りだ。不規則な黒い縞模様のある灰色の石が、緻密に磨き上げられ、一辺10数センチ程度の四角いタイルとなって足元に敷き詰められている。タイル同士の隙間に紙一枚さえ簡単には入りそうもないほど、精巧に作られていた。
 ルキアンは経験を積んだ冒険者などではなく、素人のやることに過ぎないにせよ、いま調べた限りでは、周囲に特に危険や問題はなさそうだった。エレオノーアも頷いた。
「心配は、ないかもです。そんな気がします。この通路、ただ真っ直ぐ進んで来いと、そんな作為性すら感じられます」
 通路はそれからしばらく続いたが、その間、特に目立ったことは起こらず、分かれ道もなく、彼女の言葉通り真っすぐにただ進むだけで事足りたようだった。

「この向こうに、何か大事なものがありそうですね。おにいさん」
 薄暗い通路の行きついた先、ルキアンとエレオノーアは、見上げるような漆黒の大扉の前に立っている。
 ――いや、ちょっと嫌な感じだな。そうだよ、これって、《楯なるソルミナ》の最後の部屋、《夜》の部屋の入口と感じが変に似ている気がする。
 言いようのない不安を覚えるルキアンに対し、エレオノーアは扉に記された文章を平然と読んでいる。
「不思議、ですね。見たこともない文字なのに、私、何故か意味が分かるんです」
 その言葉を読み始めた途端、エレオノーアの目つきが真剣になる。彼女はしばらく黙った後、自らの気持ちを整理し、これでよいと自身を納得させるつもりで、何度も大きくうなずいた。そしてルキアンに告げる。彼を見つめるエレオノーアの瞳には、強さと悲壮さとが共に漂っていた。
「おにいさん。この中に入れるのは《アーカイブ》の御子の方、つまり私だけだそうです。そして、この中で受ける《試練》を乗り越えれば、扉が再び開いて無事に出てこられます。そうなったら、多分、私は身体を取り戻して、一緒に帰れます。でも、もし《試練》に私が敗れたときには……。たしかに《執行体》の御子は助けに来てよい、と書かれていました。ただし、その場合に中に入れるのは、アーカイブと対になっている《執行体》、つまり、この扉と合う《鍵》を持っている者だけだとあります」
 そこまで話すと、エレオノーアは無言になり、うつむいたまま顔を上げなかった。それから、感情のない機械的な口調で、扉に掛かれた言葉を棒読みするように告げる。
「しかし、合わない《鍵》しか持たない御子が、すなわち別の《アーカイブ》と対になっている《執行体》が扉を開くことはできない。無理に扉を開こうとすれば、中にいる《アーカイブ》は引き裂かれ、失われる、と」
 エレオノーアは頭を振り、乾いた声で、珍しく投げやりな調子で付け足した。
「どうして、こうなるのかな。おにいさんと最後まで一緒だと思っていたのに……。おにいさんと私は対の御子ではないです。結局、《鍵》が扉に合わないって、ことですよね」
 黙ってしばらく見つめ合った後、エレオノーアが口を開いた。
「でも、私は《試練》を乗り越えてみせます。もし、私がなかなか帰ってこなかったら、無理やりにでも扉を開けてください。そのときには、私は完全に消えてしまうでしょうから、最後にもう一度だけ、この目でおにいさんを見ておきたいのです。そうすることで、私が引き裂かれても、死んでしまっても構いません。一緒に戻れないくらいなら、どうか、おにいさんの手で私に終わりを与えてください。辛いお願いをして、ごめんなさい」
「落ち着いて。僕はエレオノーアを信じるよ。それに、ここは僕の支配結界の中なのだから、何があっても、僕が何とかする。だから、大丈夫。君を待ってる。幸運を……」
 巨大な漆黒の扉、さながら帰らずの門のような不吉な場を前にして、二人は固い握手を交わした。
 一歩を踏み出し、振り向かず、エレオノーアが両手をかざすと、扉に光の文字が浮かび上がった。おそらく、それに呼応して、彼女の左目に闇の紋章の魔法円が現れる。そして最後に、黒い大扉が開くのではなく、エレオノーアの方が扉の中に吸い込まれるようにして、ルキアンの前から姿を消すのだった。


2.暗闇に沈む



 扉の向こうへと吸い込まれたエレオノーアは、次の瞬間には薄暗い部屋の中に立っていた。松明の灯りらしきものが壁にいくつか燃えており、その周辺の様子だけがぼんやりと目に見える。灯りの届かないそれ以外の場所は、闇に包まれている。奥の方の様子が全く分からないことからして、相当に大きな広間かと思われた。

 ――とても怖いです。この先で何が待っているのか、だいたい、分かるから。私自身が向き合いたくなかったことや、誰にも言えずに心の奥に秘めてきたこと、そういう暗い部分が形になって、容赦なく襲いかかってくると思います。
 エレオノーアは不安そうに振り返ると、入口の方にいったん戻るような素振りを見せた。
 ――勇気をください、おにいさん。
 だが彼女はすぐに立ち止まり、ゆっくりと息を吐き出すと、漆黒の大扉に再び背を向ける。
 そして顔を上げたとき、エレオノーアは身を凍り付かせた。彼女の目の前、ほとんど互いの顔が触れそうなところに、青白い顔をした黒ずくめの女が立っていたのだ。音もなく。いつの間にか。《それ》の両眼は白目だけでできており、瞳がなく、口は大きく開かれていた。
 危険を感じたエレオノーアは後ずさろうとするも、突然のことに脚が動かない。強張った状態から解き放たれる間もなく、彼女の首に、冷たく硬い何かの感触が走った。
「ひっ!?」
 言葉にも、悲鳴にさえもならず、エレオノーアが得体の知れない恐怖に身を震わせると、首筋のところで金具が閉まるような嫌な音がした。
「来るんだよ。この罪人(つみびと)!」
 黒衣の女の声や話し方は、何故かリオーネのそれと極めて似ている。最も信頼する人の言葉をこんなかたちで聞くことになるのは、とても理不尽な気がした。また、漆黒の法衣に、目深に頭巾を被った女のいでたちには、どことなくリューヌを連想させるところもある。
「な、なぜ……」
 わななく唇が自由に動くようになりかけたとき、鎖の鳴る音がして、エレオノーアは首を無理やりに引っ張られた。その痛みを避けようと、彼女は首と体を、渋々、引かれた方へと自分から動かす。彼女はまるで犬のように、あるいは奴隷のように、黒衣の女によって首輪と鎖を付けられていた。
「どうしてこんなこと、するんですか。やめてください!」
 エレオノーアは怒りと困惑の視線を向ける。だが狂気じみた笑いに続いて、黒衣の女は、なおもリオーネの声で繰り返す。
「まったく図々しいね。あんたの罪は、自分自身が一番よく知っているくせに」
「私の……罪?」
 何も気づいていないような答えを曖昧に返す一方、エレオノーアは「罪」という一言を突き付けられたことで動揺し、今まで覚悟に満ちていた目や、彼女の言葉から、急激に気力が抜け落ちていったように思われた。それでもエレオノーアが懸命に耐え、立ち向かおうと勇気を振り絞っている様子は、わずかに見て取れる。
「図星だね。そうやって、自分でも罪の重さを認めているのだろう?」
 黒衣の女は吐き捨てるようにそう言うと、血の気の一切無い、異様に白い手で鎖を握り、エレオノーアを引っ立てていく。その先には、同じように黒い法衣を身に着けた2人、いや、2体の存在が、身じろぎもせず立っていた。血の通った生き物の気配のしない《それ》らは、エレオノーアをあの世へと誘う死神のようでもあった。
 彼らの前で黒衣の女はエレオノーアを突き放す。エレオノーアは転げ落ちるように、湿った煉瓦の床にしゃがみ込んだ。その姿を黒衣の女と他の2体が見つめ、広間に再び沈黙が満ちた。静寂に押し潰されそうな幾秒かの瞬間が過ぎた後、エレオノーアが、微かに震えた声で口を開く。
「お願いです。私の体を返してください。帰りたいです、おにいさんのところに」
 彼女の言葉が終わろうとする間もなく、黒衣の女が大声でののしる。
「救いようのない馬鹿だね。あんたは、もう消えたんだよ! 跡形もなく消えて、《ディセマの海》の底にこうして還ってきたのさ。いや、元々、生きていてはいけない者だと、自分でもよく分かっているだろ」
 こうしてリオーネの声で罵倒されるのは、エレオノーアにとって、とりわけ辛いことだった。
「そ、それは。それは……。でも、私は」
 エレオノーアが次の言葉を飲み込み、答えに詰まったとき、黒ずくめの2体のうち、小柄な方が歩み出た。《それ》の被っているフードが揺れ、人ではなく骸骨の姿が現れる。そこから出てきた声は、幼い少年のものだった。
「だったら、おねえちゃん、僕らの命を返してよ。これまでに、一体、何度の《聖体降喚(ロード)》が行われて、どれだけ沢山の子どもたちが《聖体》の《器》にされ、失敗して死んだと思っているのさ」
 無邪気な声で、大人びた言葉を投げつけてくる《それ》に対し、エレオノーアは、事前に思っていたようには反論できなかった。
「僕らが何をしたの? 僕は、ただ、その日まで遊んだり、ご飯を食べたりしていただけなのに、ママと引き離されて、何も分からないまま、《受肉(インストール)》された《聖体》に適合できず、体がバラバラになって死んだんだよ。おねえちゃんだけ、なんで生きてるの?」
 少年の声をもつ骸骨は、エレオノーアの前まで近寄る。もはや表情を現せない朽ちた白骨の顔で、それでも彼は、皮肉に笑ってみせたように感じられた。
「ねぇ、知ってるよね。《ロード》が実行されるときには、町や村がひとつ、まるごと生贄にされるんだ。おねえちゃんが生まれたせいで、どれだけ多くの人が犠牲になったと思っているの?」
 《それ》は、干乾びた骨の指でエレオノーアの顎をつかみ、戦慄する彼女に対し、もはや眼球の抜け落ちた二つの暗い穴を向けた。
「そんなに沢山の、罪の無い命を踏み台にして生まれて、どうして平気で生きていられるのかな。何も感じないの? おねえちゃんには、人間の血が流れていないの? 生まれてきて本当にすみませんでしたと、床に頭を擦りつけてみろよ。そして消えてしまえ!!」
「わ、私は……」
 エレオノーアの態度が微かに変わった。戸惑いに任せていた体に、指先に、徐々に力がこもる。
「たしかに、私なんか生まれてこなかった方が、よかったかもしれません。それでも……私自身は、生まれてきてよかったと、思っています」
 強い意志を帯び、青く澄んだ瞳で、彼女は骸骨を見返す。
「私は、リオーネ先生に救われました。先生は、本当のお母さんのように大事にしてくれて、沢山のことを教えてくれました。私は生まれてきて、生きて、信じ続けたから、大好きなおにいさんと出会えました。おにいさんや先生に受け入れてもらったことに、想いに、応えたいのです。私からは、まだ何も返せていません。だから私は、ここで消えるわけにはいきません!」
 《それ》と睨み合うエレオノーア。
「私を生み出すために犠牲にされた人たちに対しては、お詫びの言葉をどんなに尽くしても、決して足りることはないと思います。でも、それでも……」
 エレオノーアは声を大にして、これまで敢えて言わなかったことを、もはや善悪や是非の問題を度外視して、気持ちのままに吐き出した。
「それでも、何といわれようと私は生きて、おにいさんと一緒に《御子》としての使命を必ず果たします。たとえ、血だまりの中から創り出されたのだとしても、どんなに忌まわしい存在でも、それでも生まれてきた御子が世界を救わなければ……生贄にされた人たちは、ただ意味もなく命を奪われたことになってしまう。私は嫌です、そんなこと!」
 火花の散るようなその場に、もう1体の黒衣の者が加わった。エレオノーアの表情が強張り、目に陰りが走る。というのも、《それ》は、驚くべきことにエレオノーアと同じ顔をしていたのだ。
「違う。それはあなたが決めることではない。そうやって図太く生き延びて、犠牲になった多くの魂をいつまで冒涜し続けたら気が済むの?」
 自分と同じ姿をした相手から責められても、それでもエレオノーアは、すぐにはうろたえなかった。だが、次の言葉を聞いた途端、彼女は信念にくさびを打ち込まれ、覚悟が揺らぐような思いに陥った。
「そういうこと、言ってもどうせ無駄かしら。生贄にされた人たちの命や御子の使命なんて、建前で挙げているだけで、あなたにはどうでもいいことなのでしょう? 本当はただ、愛しい《おにいさん》と一緒にいたい……あなたが考えていることは、結局、そればかり。もっと本音のところでは、《おにいさん》に抱かれたくて、いつも妄想に溺れている気持ちの悪い女。それがいかにも理想に殉じるという顔をして、この、嘘つき、けだもの!」
「違います! 私はそんな……」
 最初の黒衣の女が、そこでまたリオーネの声をもって加わった。
「違わないよ。あたしが今まで何も知らなかったとでも、思っているのかい」
 一瞬、エレオノーアは身体をぴくりと震わせ、目を大きく見開いた。
「きれいごとよりも、あんたは御子であるよりも先に、女としての自分の欲望にばかり忠実に動いている。普段は少年みたいな格好をして、何も知らない純朴そうな顔をして、とんでもない子だよ。あんた、ルキアンに言ったね。《日が暮れると、もっと寂しくなってきて。おにいさんのことが、どうしようもなく気になって……》」
「や、やめてください!」
 エレオノーアは、急におどおどとして、慌てて止めようとする。しかし、リオーネの声は淡々と話を続ける。
「《ベッドに入っても眠れなくて、とてもとても切なくなって、おにいさんのことを想うと身体が熱くなって、そして……そして私は……》。そして、それからどうしたの?」
「どうって、それは……」
 そこで言葉が終わったまま、エレオノーアはしばらく彫像のように動かなくなった。
 彼女自身からの答えが返ってこないことを確認し、《それ》が手をゆっくり上げると、壁に掛けられた大きな鏡の表面が次第に渦を巻いて何かの形を取り始める。
 おそらく魔法の力を宿した鏡面は、今の時点では少し濁った色をしていた。鏡を支える燻し銀の外枠が、これまた異様で、とてもではないが気持ちの良いものではない。蜘蛛のように長い手足をもった小鬼を思わせる生き物が、四角い枠と一体になって無数に群がり、絡みつき、覗き込もうとしている。卑劣な小鬼たちが、鏡に映る者を寄ってたかって嘲笑っているような、そんな醜悪なデザインである。
 まもなく、魔法の鏡に浮かぶ絵姿がはっきりとして、そこに何が現れるのかを理解せざるを得なくなると、エレオノーアは平静を失い、拒否の言葉を繰り返した。
「い、いや、いやです……。見たくないです、見せたくないです、やめてください」
 天井から床までを占める巨大な鏡に映し出されたものは、灯りの消えた寝室だった。穏やかな月光のもと、簡素ながらも、愛くるしいクマやネコのぬいぐるみで、あるいは野の花で飾られた部屋。壁際にベッドがあり、そこにエレオノーアが横たわっている。
 その様子に特に違和感のあるところはないにせよ、エレオノーア本人は、真っ赤になったり青ざめたり、半開きの唇を振るわせ、弱々しい上目遣いの視線で慈悲を乞うている。
「お願いです、お願いですから。これ以上は、もう……許して、ほしいです」
 だが懇願の言葉は無視され、鏡の中のエレオノーアは、布団を首まで深めに掛け直すと、思い詰めた表情で目を閉じた。ベッドに身を横たえたまま、やがて彼女は幾度も《おにいさん》と口にし、切なげな表情で身悶えを繰り返す。その尊い名が唇からこぼれるたびに、それに呼応して吐息は荒くなり、銀の髪は乱れ、紅潮した頬だけでなく、耳から、首筋から、体中が次第に薄紅色に染まっていく。
「おにいさん。早く会いたいです、わたしのおにいさん……」
 上気した顔のエレオノーアが、絞り出すように、うめくように、恍惚としてつぶやく。
 その姿は、それ自体としては決して恥じるべきものでもなく、美しかったにせよ、この場においてはエレオノーアの敗北を暗示していた。
「これがあんたの本性だよ。最初は、おにいさんに会いたいと独りで飛び出して、それからも、こうやって己の欲望に流されながら彼を待ち続け、そして彼に出会えたら、今度は強引に一緒についていく……。分かりやすいねぇ、あんたの行動原理は」
 意地の悪い指摘を、よりによって尊敬するリオーネの声で行われ、エレオノーアの罪悪感はいっそう高まっていく。気が動転して頭の中が空っぽになったまま、エレオノーアは精一杯の勇気を振り絞り、途切れ途切れの言葉で言い返した。
「た、たとえ、はじめは妄想でも……ひ、人を……人を愛しく思って、切なくて、辛くて……それで……その、どうしようもない、気持ちを、何とかしたくて……その、それの、何が……悪いの、ですか」
 極度に満ちた怒りと恥じらいで、顔中を真っ赤に染めながらも、必死に睨むエレオノーア。黒衣の女は、彼女の方を見て溜息をつき、ちょうどリオーネがエレオノーアを叱るときのような調子で告げた。
「本気でそう思っているのかい? よく考えなさい、エレオノーア。何の罪もないのに虐殺された沢山の命と引き換えに……あんただけが生き残って、それなのに、ただ自分の欲望に身を委ねて。そんなふうに生き続けること自体、本当に、失われた魂たちへの冒涜だよ。もういいだろ、おとなしくこのまま、無に帰りなさい」
 自分の中だけに秘めておきたかった姿を露わにされ、同時に、《ロード》の犠牲になった者たちへの後ろめたさを痛烈に思い起こさせられ――もはや抵抗する気力を削り切られたエレオノーアは、言葉をひとつも発することなく、がっくりと床に手を付いた。
 そんな彼女の心に最後の一撃を加えに来たのは、エレオノーアと同じ顔をした黒衣の者である。《それ》は広間中に響き渡る嘲笑の声を上げたかと思うと、エレオノーアが最も恐れていたことを、とどめとして突き付けた。
「無様な姿、いい気味だわ! ねぇ、あなたが欲望を実感しているその体は、もともと、私の体を《器》にしたものだってことを、忘れていないでしょうね。他人の体を勝手に乗っ取って、さも人間であるような顔をしている化け物。これ以上、私を汚さないで! その体も魂も、何一つ、あなたのものなんて無い!!」

 両手で顔を押さえてすすり泣きながら、とうとう、エレオノーアの心は真っ二つに折れてしまった。

 ――はい……。あなたの言う通り、私なんか、最初からどこにもいなかったのです。この体となった《聖体》も《器》も、どちらも私ではありません。そう考えている私の心さえ、この私自身だって……《聖体》が人間を演じている結果、仮に生じただけの、虚ろな現象に過ぎないのかもしれません。

 エレオノーアは、うわごとのように繰り返した。

「私は《消えてしまった》のではなく、どこにもいなかったのですね。そうです、いないのです」

 彼女の周囲の床の色が、白い紙に絵の具の染みが広がるように、徐々に真っ黒に変わり始めた。煉瓦の床が溶け出し、泥沼と同様の様相になる。その中から、死霊を思わせる枯れ枝のような細い腕が何本も伸びてきた。それらはエレオノーアの手や足、体中に取りついて、彼女を底無しの暗闇に引きずり込んでゆく。

 ――それでも、もう一度だけ会いたかったです。おにいさん……。

 エレオノーアは、《試練》を超えられなかった。
 そして《ディセマの海》に、永遠に沈む。


【第55話 中編 に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。 

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