鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

『アルフェリオン』まとめ読み!―第51話・後編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


4 時の止まった村、ルキアンたちが神殿で見たものは…


 廃屋の扉には鍵が掛かっていなかった。本降りに近づきつつある霧雨の中、雨をしのげそうな場所を見つけ、ルキアンとブレンネルはほっとした様子で顔を見合わせる。
 木製の扉は、かつては鮮やかな朱色であったのだろうが、今ではすっかり色褪せている。腕が一本入るくらいの隙間を作ったまま、扉は中途半端に開いたままで止まっていた。
「おや? けっこう固いな。立て付けが悪いのか、ちょうつがいが錆びてでもいるのか」
 ブレンネルが軽く押してみたところ、扉は簡単には動かなかった。次いで彼は、身体ごと前に倒れるように体重をかけ、両手で押し開けた。
 霧と雨という天候のせいもあり、家の中は外に比べて薄暗く、部屋の隅の方に至っては様子がよく見えないほどだった。枯れ草や落ち葉のような匂いと、湿った土の匂いとが入り交じった空気が漂う。
「思ったより……まともというか、10数年も放っておかれた割には、そんなにひどくはないですね」
 そう言った矢先、ルキアンの額に蜘蛛の巣がかかった。もっとも、家の中は蜘蛛の巣まみれかもしれないと想像していたことからすれば、これくらいは大したものではない。が、油断したルキアンは、足元の段差につまづいて転びそうになる。
 後ろから見ていたブレンネルは、苦笑しながら言った。
「何か灯りでもあるといいんだが。確かに足元がいまいちよく見えないな」
「そう、ですね……」
 ルキアンは軽くため息をつくと、目を閉じて、静かに、深く、呼吸を行った。
 耳慣れない言語で、ルキアンが一言、二言、つぶやくのを、ブレンネルは聞いた。
「ど、ど、どうした。いま何を」
 ブレンネルの目の前、差し出されたルキアンの手のひらの上に青白い光の玉が浮かぶ。その輝きに周囲が照らされ、狭い部屋の中は真昼のように明るくなった。
「ルキアン君? キミって、魔道士か」
 口を開けたまま、感心して見つめているブレンネルに、ルキアンは恥ずかしそうに黙って頷いた。

 ◇

 魔法の光のもと、ルキアンとブレンネルの目の前に、木目のきれいな、塗装も飾り気もない質素な食卓がひとつ置かれている。入り口から入ったばかりの玄関が、慎ましい食事の場と台所も兼ねているようだ。
 同じく木製の四つの椅子が、特に乱れた様子もなく、食卓の四つの辺にそれぞれひとつずつ、テーブルを囲むように整然と並んでいる。ルキアンがふと視線を向けたとき、コオロギに似た小さな虫が卓上で何度か跳ね、最後にぴょんと下に飛び降りていった。よく見ると他にも、大きめの山アリが数匹、あるいはハエトリグモのような蜘蛛が1匹、2匹、食卓に置かれた皿やカップの上を我が物顔で歩き回っている。
「虫は沢山いるし、汚れてもいますけど…… このテーブルの上の様子、食器の感じとか、つい少し前に食事の準備を始めていたように見えませんか」
 たしかに、ささやかな食事をいつでも始められそうな形で、木をくりぬいた皿や素焼きのポットが置かれている。
「そうだな。ほら、あそこも見てみ。何というか、まるで……ここのおかみさんが、料理を作っている途中で席を外したみたいじゃないか」
 ブレンネルが目線で示した方を、ルキアンも眺めてみた。台所のまな板の上に、錆びた大きな包丁が転がっている。多分、包丁はずっと前からここに置かれていて、そのまま月日を経て錆びていったのだろう、と彼は思った。まな板のある場所から斜め下の方に視線を動かしていくと、何の飾り気もない、土のかまどが有るのが分かった。いや、それだけではない。かまどの上には鍋がかけられており、いかにも、これから火が炊かれ湯を沸かすことになるのを待っているかのようでもあった。
 ルキアンは顎から唇にかけてを左手で押さえ、何か言いたげに考え込んでいる。ほどなく、彼は不可解そうに口を開いた。
「パウリさん。この村の人が誰も居なくなって、そんな途方もない事件があったのに、この地域の役人たちは現場の検分をしたりしなかったんでしょうか。変ですね。この様子だと、後から調べた形跡がないみたいに思えるんですけど……」
「だろ? 実は俺も妙だと思っていたんだ。十三年前、事件の調査が行われなかったどころか、事件が起こってから今になってやっと、俺たちが最初にここに入ったみたいな感じさえする。まさかな」
 ルキアンは、何か良くない類いの胸騒ぎを覚えながら、相づちをうつ。
「えぇ。その、本当に……事件が起こったときから、この村は今まで人間たちの時間からは忘れられていたような。無理のあるたとえですけど、まるで《時の止まった村》です」
 ブレンネルは、ルキアンの言葉に大げさに頷き、それから顎ひげをゆっくり撫でさすりつつ、やがて微笑を浮かべた。
「《時の止まった村》か。がぜんやる気が出てきたな。雨宿りは中止して、俺たちの調査を続行だ」
「僕たちの……ですか?」
 あきれ顔で笑ったルキアン。だが、彼自身も乗り気であることは、その表情から明らかだ。ルキアン自身もこの村のことが本能的に気になるのは確かである。ただ、それ以上に、ナッソス城の戦いで自分がしてしまったことに絶えられず、今はひとまずそれを忘れたいという意識が、その自覚のないまま、ルキアンを謎解きに向かわせているのかもしれなかったが。

 ◇

 ほんの10数分もあれば端から端まで行けそうな小さな廃村を、二人は夢中で歩き回り、何軒かの廃屋をのぞいた後、村の北側にある広場にやってきた。
「神殿か。これは、何かありそうだな」
 ブレンネルは満足げにつぶやき、目の前に建つ石造りの尖塔を見上げた。
 霧雨にすっかり濡れ、額に張り付いた髪の毛を手で払いながら、ルキアンも頷く。
 広場に面し、小規模ながらも村人たちにとって大切な信仰の場であったであろう神殿が建っていた。本殿の他、その背後に先ほどの尖塔、さらには裏庭があるようだった。
 神殿の扉は固く閉ざされていた。村の家々の多くが、十数年という時間の経過と相応に痛んでいるのに対し、この神殿は、あまり汚れの目立たない小ぎれいなたたずまいであった。建物の正面、神殿のファサードにツタが絡みつき、縦横に茎を伸ばして茂っているにせよ、それとて乱雑な感じはしない。
「まさかとは思いますが、誰かが手入れしたり、してるんでしょうか」
 神殿の入口のところも、それなりに草が伸び放題ではあるにせよ、他の家の場合のように庭が藪に埋もれているような様子ではなかった。納得いかない調子で周囲を見回し始めたルキアン。その隣でブレンネルが声を上げた。
「そんなわけ……いや、あるかもな。ほら、あれ。あんなところに花が!」
 花? 別に花くらいは咲いているだろうと思ったルキアンだったが、ブレンネルが示す方を実際に見てみると、自分自身も驚きを隠せなかった。
 神殿の脇から続く裏庭、少し先に石版のようなものが埋まっており、その上に紫色の花が横たえられている。明らかに人の手によって供えられたものだ。しかも、花は少しも枯れておらず、みずみずしく新しい。
 周りの様子を確認しながら、ひとまず神殿の中には入らず、裏庭へと進んでいく二人。
「お墓、ですね」
 ルキアンは足元を見ていった。人の名前らしき物や数字などが刻まれた墓碑が二つ、地面に埋め込まれて並んでいる。特に地方の農村の場合、神殿の庭に共同墓地があることは珍しくない。ただし、これが共同墓地であれば、もっと多くの墓があってよさそうなものだ。
 遠慮がちに近づいたルキアン。灰色の墓石に刻まれた言葉が彼の目に映る。


  アリーオ・ロッタ
   新陽暦285-290年

  エメレーア・ロッタ
   新陽暦279-290年

  幼くして天に愛されすぎた子ら


 無言で手を合わせ、しばし黙祷してからルキアンが言った。
「二人とも子供だったようですね。可哀想に。アリーオという男の子は5歳で亡くなっている。女の子の方、エメレーアは11歳で。どちらの姓もロッタですし、お姉さんと弟でしょうか。新陽暦290年、って……」
 ふと何かに気づいたように指折り数え始めたルキアンは、血相を変えて振り返った。
「パウリさん、今からちょうど13年前じゃないですか。ワールトーアの人々が消えた事件の!」
 口を開けてうなずいたまま、一瞬、ブレンネルは答えに躊躇する。

 そのとき彼らの後ろで、何者かが庭の砂利を踏みしめる音が聞こえた。


5 警告と問い、真実の痛みと訪れる破滅…


 言葉よりも先に、ブレンネルの眼差しが、ルキアンに気をつけろと告げていた。今まで呑気におどけていたブレンネルの表情は、別人のように険しい。
 ――おいおい、何かヤバいんじゃないか? 大体、さっきの供え物の《花》といい、こんなところに人がいるなんて普通じゃねぇだろ。《神隠し》とか《幽霊》とか、ごめんだぜ。
 ルキアンも、緊迫感が胸の奥からこみ上げ、背中や首筋に熱く上っていく感覚を覚える。だが、次の行動を考える前に、すでに彼は無防備に振り返ってしまっていた。緊張によって集中力が妙に研ぎ澄まされた視線の先、かつ、自身の真正面のみへと狭窄した視角の中、全身を黒に包んだ金髪の男が立っているのが見えた。
 ルキアンは若干だが安堵する。少なくとも、目の前にいる相手は人間の格好をしている。なおかつ、風体からすれば神官の類だろう。裾が足首まである黒衣、背面に頭巾が付いており、襟元から膝くらいまで濃紺色のボタンが縦に並んでいる。ちなみにイリュシオーネの神官は、一般には青と白を基調とする色合いの装束をまとっていることが多い。
 背筋を伸ばし、微動すらしない男の姿。広い額、太めの眉、濃く残る髭の剃り跡。体つきは若々しく強健だが、その風貌からすると、実際の年齢は四十代半ばには達しているだろう。
 相対するルキアンは、顔からつま先までこわばらせて動かない。いや、動けない。この相手には、落ち着き払いながらも、こちらを呑み込むような威圧感がある。普通の聖職者というよりも、戦士、いや、敢えてたとえれば、深山に籠もって修行に打ち込む修行僧あるいは武闘家を思わせる雰囲気を、黒衣の男は漂わせる。
 ――何て言ったかな、あの黒ずくめの……。そうだ、前にカルバ先生と都に行ったとき、見たことがあった。たしか《連続派》とかいう隠修士の会の神官たちが、いつもあんな黒い僧衣を。

 と、そのとき、男の手のあたりで何かが風に揺らめいた。
 ユリに似た紫色の花。手折ったばかりのそれを二本、彼は携えている。見覚えがあった。
 ――子供たちのお墓に供えられていた花と同じ?
 言うことを聞かない自身の唇と舌を無理に動かし、ルキアンはようやく何か喋ろうとすることができた。しかし、間の悪い調子で、先にブレンネルが男に話しかけた。
「あ、どうもどうも。勝手にお邪魔してすいませんねぇ。怪しい者では……」
 頭をかきながら、ブレンネルはわざとらしく作り笑顔を浮かべている。
 黒衣の男は微かに苦笑いし、首を少し斜め気味にしてうなずいた。無言で。

 ◇

 ――これは!?
 ルキアンは、異様な空気を、いや、迸る魔力の渦が周囲を取り巻くのを、肌で感じ取った。
 ブレンネルに何か伝える間もない。
 辺りの景色が灰色に塗りつぶされ、時間が止まったのかと思われる感覚。
 その中で彼ら二人だけが時の戒めから解放されているかのごとく、ルキアンと黒衣の男が対峙する。その他のすべては、いわば「背景」として描かれた絵のように、生気を失い凍り付いているようにみえた。

  《ようこそ、ワールトーアへ》。

 反応する余裕を与えないまま、男は言った。いや、声が心に直接響いてくる。
ルキアンは、思わず手を強く握りしめ、警戒のあまり全身をこわばらせた。戸惑う彼のことなどお構いなしに、男の言葉は淡々と低い響きで紡がれ、ルキアンの脳裏にさらに流れ込む。

  ようこそ、我らが《鍵の器》よ。
  いや、《石版》に記された《真の闇の御子》と呼んでおこうか。

 彼の言葉が終わるやいなや、澄んだ金属音が鳴り響いた。いつの間にか、黒衣の神官は銀色の細長い錫杖を手にしている。杖の上部には同じく銀の輪がいくつか付いており、それらが触れ合って透き通った音色を響かせるのだ。

  この村を訪れるべき資格が、君にはあった。
  否、訪れるべき《義務》というべきであろうか。
  いずれにせよ、今は何も知らないまま、ここへ本能的に導かれたのだろう。

  だが、人間世界の理(ことわり)のおよぶ範囲でいえば、
  君とワールトーアをつなぐ《糸》など存在しない。
  たとえ、この村の《記憶》が君の中にあるように思えようとも、
  それは、本当は……。

  いずれにせよ、
  君がここに《帰って》きたというのだから、恐ろしいものだな。
  だが、そうでなくてはならん。


「あ、あ、あの」
 ルキアンはようやく若干の落ち着きを取り戻し、口を開くことができた。
「あなたは一体……。何をおっしゃっているんですか。それに、なぜ《御子》のことを知っているんです」
 黒衣の男はルキアンの問いかけに応じる素振りもなく、威厳のある目で彼を見つめると、それとは裏腹に何かに迷った表情を一瞬浮かべ、思念の言葉ではなく現実の音を伴う言葉でつぶやいた。

  《闇の御子》よ、私は君の敵ではない。
  だが君が真実を知れば、おそらく私は、君の味方たり得なくなるだろう。
  そのとき君は、
  私に《人の子》の味方になる資格があるとも、もはや認めないだろう。
  だが我々は
  《人の子》のために、《あれ》と戦うために、敢えてその道を選んだ。

 そこで男は、ふと、外を見回すような仕草をすると、やれやれといった調子で首を振った。
 ――邪魔が入ったか。この気配はヌーラス01(ゼロワン)、02(ゼロツー)の感知領域の……。
 彼はルキアンの方に歩み出て、最後にこう告げるのだった。

  心せよ、《闇の御子》。
  いずれ君が《真実》を知ることになれば、
  それは間違いなく君の破滅を意味する。
  乗り越えようなどとは、ゆめゆめ思わない方がいい。
  言っておく、君がいかに強くなろうとも不可能だ。

  だが君は真実に引き寄せられ、破滅への扉を開くだろう。
  そのときのために、敢えて問うておく。

  《君は何だ》。《ルキアン》。

  いや、その問いは、圧倒的な真実の力の前には無意味だ。
  だから問い直す。

  《君は何でありたい》。

  どうして、こんなことを君に伝える気になったのか。
  今後は二度とそう思うまい。

 ◇

「あ、その、ちょっと待ってください! 何なんです? これって、あの……」
 ルキアンが彼を再び見据えたときには、周囲の景色は元に戻っていた。隣にブレンネルも居る。
 黒衣の男は二人に近づき、にこやかに目を細め、手を差し出す。その光景は、ルキアンからすれば時間が巻き戻ったかのようだ。
「珍しいですね、来訪者とは。私はスウェール、この神殿の管理を時々行っています」
「どうぞよろしく。俺は、いや、私はブレンネル。まぁ、しがない物書きです」
 スウェールと名乗った男は、ブレンネルと握手してから、その傍らに立つルキアンの方を見た。
 何も無かったかのように――いや、ルキアン自身にも、先ほどのことは夢か幻ではなかったかと思われてならないが――スウェールは握手を求め、一礼した。
 なんと言って対応すべきか思いつかず、ぶっきらぼうに頭を下げ、黙って手を出すルキアン。

 ◇

 ――ふふふ。スウェールだってさ。 う・そ・つ・き! あなたの名前はスヴァンでしょ。
 遙か天の高みでそうつぶやく者があった。
 暮れ時の近い陽の日差しを雲上で浴び、あたかも気まぐれな空の移ろいを鏡に映したように、刻々と様子を変え、魔法金属の装甲が七色に輝く。巨大な何者かが翼をはためかせ、とても目には見えないほど小さい地上の様子を虎視眈々と見つめる。
 ――見て、01(ゼロワン)。ほら、あそこ。面白い人が来てるね。《僧院》を率いる《ザングノ》の一人ともあろうお方が、率先してルール違反ってどうなのさ。
 可愛らしくも背筋が凍るような怜悧さを漂わせてそう言ったのは、性別も年齢も不詳な、件の《美しき悪意の子》こと、《ヌーラス02(ゼロツー)》だ。もしかすると、ナッソス城での戦いの後もルキアンの動きをずっと監視し続けていたのかもしれない。
 ――《支配結界》に隠れて少年と内緒話だなんて。でも、僕、そういうのは嫌いじゃないよ。面白いから、むしろ好きかも。だから……。
 相変わらず言葉少なげに聞き役に徹する《ヌーラス01(ゼロワン)》に対し、ゼロツーの思念の声はいっそう甲高くなり、ふと沈黙したかと思うと、狂気じみた笑いと共に言い放つ。

 ――コズマスには告げ口しないであげる。僕らの師父、ネリウス・スヴァン。


6 失われた、ふたり ― ロッタ姉弟の謎


 ルキアン、ブレンネル、そしてスウェールの三人は、幼きロッタ姉弟の眠る墓に祈りを捧げた。黒い僧衣のスウェール、同じく黒に近い暗緑色のコートを羽織ったブレンネル。二人の出で立ちを前にすると、瑠璃色のフロックを着たルキアンの後ろ姿が妙に鮮やかに感じられた。大柄で肩幅の広いスウェールと、ひょろりとしているが背の高いブレンネルの後ろに、華奢でやや小柄なルキアンが子供のように付き従っている。
 神官スウェールは、手にしていた花をアリーオの墓とエメレーアの墓に一輪ずつ供えた。何という名の花であったかは思い出せないにしても、その植物が特段に珍しい種ではなく、人家に近い山や森でもよく見かけられるものであることは、ルキアンも知っていた。ひょっとすると、先ほど彼も訪れた村外れの丘の草原に生えていたのかもしれない。
 ルキアンは、斜め後ろから、目の端でスウェールの横顔をちらりと見た。いかにも無骨で男臭くみえるスウェールが、一人で野を歩み、花を摘んでいる様子を、ルキアンは想像してみた。
 花が置かれた後、改めて黙祷するブレンネル。スウェールは無言のまま足元を見つめた。
 地面に埋め込まれた二つの墓石(ぼせき)の上、野の花は寂しげに横たわる。

 ◆ ◇ ◆

 細長い花弁をもつ、薄紫色の可憐な花が、
 一輪、あちらにも一輪、そしてまた一輪、心地よさげに揺れている。
 時の向こう、短くも輝かしい季節の中、その日も花は咲いていた。

 丘の上から吹き降りてくる風に、
 花々は首をかしげ、身体を揺すり、さざめきを作り、
 いつしか紫の波となって草原を駆け抜ける。
 風と波の向かう先、野と空の先には、
 淡い緑に覆われた山並みがなだらかに続いている。

 声が聞こえた。
 うたを歌い、無邪気にはしゃぐ男の子の声が。
 彼の名を呼びながら、近づいてくる女の子の声が。

 流れゆく白い雲に、青の色濃さをいっそう引き立てられ、
 天を突き抜けて清々たる晴空の下、
 笑い声は風に巻かれ、次第に高く舞い上がって消えていく。

 小さな手にしっかりとにぎられた花。
 振り返った男の子。
 汚れ無き瞳。陽光にきらめく銀色の髪。
 つまづきそうになりながらも、駆け寄ってくる少女。
 銀の髪を風になびかせ、一瞬かつ永遠の光の中で。

 ◆ ◇ ◆

「まだ、いろんな意味で人生は長いということさえ、十分には理解していないほど幼かったろうに。二人は……。あぁ、ところでスウェールさん。このアリーオとエメレーアは、新陽暦290年に亡くなっていますよね」
 頭をかきながら、話題の深刻さとの関係からすれば不謹慎なほど、にこやかに告げたブレンネル。だが次の言葉を口にするや否や、彼の目が、獲物を狙う猛禽あるいは事件に迫る文筆家のそれに変わった。この変化には、隣で見ていたルキアンも少し驚くほどであった。
「単刀直入にお尋ねします。新陽暦290年といえば、ここワールトーアの全住人が謎の失踪を遂げた年です。それについては、まさかご存じないはずなど……。で、この幼い姉弟の死は、問題の失踪事件と関係があるんですか。二人は、この村の子供ですよね?」
 ブレンネルの話を聞いているのか、聞いていないのか、飄々とした素振りで空を見上げているスウェール。彼からの返答が帰ってくるまでの間は、実際にはほんの一瞬であったのだろうが、ルキアンとブレンネルにとってはやたらに長く感じられた。
「もちろん、この子たちはワールトーアで生まれ育った者たちです。それ以上のことは……。ワールトーアの事件とやらについても、世間で言われている以上のことは知りません。色々と調べておられるようですし、あなたの方がお詳しいでしょう。あくまで私は、時々、ここを手入れしに来る程度のことしかしていません」
 余計な感情を加えず、スウェールは淡々と言い切り、再び空を見た。
 ブレンネルは何か言いたげであったものの、今の問いに関する限り、さらなる答えをスウェールから聞き出すことは難しいと、相手の様子や口ぶり等から判断したようだ。彼は質問を変える。
「私のような余所者がいきなり訪ねてきて、不作法にあれこれ詮索をと、お怒りになるかもしれませんが、いや、どうも不自然なのです。少なくとも、290年にワールトーアの住民すべては……つまりアリーオとエメレーアも含め……行方知れずになり、今もまだ見つかっていない。それなのに、なぜロッタ姉弟の《墓》が、彼らの墓《だけ》が、ここにあるんですか」
 今まで黙って聞いていたルキアンも、不躾だとは思いつつ、問いを重ねる。
「あ、あの。割り込んですいません。でも、僕も同じことを思ってました。アリーオとエメレーアについてだけ、なぜ《死んだ》ということが分かっているんですか。他の村人は生死不明のままで、お墓も無いのに……。あ、そ、その、すいません」
 思わず興奮して一気に口走ってしまった後、ルキアンは申し訳なさそうに頭を下げた。
 スウェールは呆れたようにため息をつくと、首をゆっくり振った。
「《墓》があるということは、こういうことでしょう。つまり《アリーオ・ロッタとエメレーア・ロッタは天に召された》と。それは《本当》なのです。それでよいではありませんか。祈ってください。この子らのために」
 穏やかに、かつ、反論を許さない威厳と威圧とを伴う響きでもって、スウェールは言った。何かを思い起こしながら。

 ◆ ◆

 広大な地下室のような空間、天井の法外な高さや反対側の壁がよく見えないほどの奥行きからして、むしろ地下聖堂とでも表現した方がよいだろうか。その中心部に数本の燭台が置かれ、蝋燭のおぼろげな灯りによって、一人の男の影が浮かび上がっている。
 幾何学的な図形や不可思議な記号、見知らぬ文字で書かれた言葉をびっしりと伴い、円陣が幾重にも床に描かれていた。その真ん中に男は立っており、手にした儀式用の短剣で足元に何かを刻んでいる。
 そのとき、慌ただしい足音とともに、部屋の端にある階段から数名の神官が駆け下りてきた。
「ネリウス、正気か!? そんなことをすれば、お前は」
 黒い僧衣をまとった《連続派》の神官たちが、ネリウス・スヴァンに駆け寄り、これから彼が行おうとする何事かを必死に押しとどめようとする。
 スヴァンは、魔法陣の文字を刻み終え、短剣を自らの手のひらに向けつつ、仲間たちの方を振り返った。彼の顔つきは、今よりもいくらか若くみえる。
「止めるな、兄弟たちよ。《人でいられなくなる振る舞い》をするくらいなら、代わりに私が《人のまま》で命を賭し、この骸(むくろ)を我々《人の子》の未来に捧げる方が、どれだけましなことか!」
 そう叫ぶとスヴァンは掌に短剣で傷を付けた。流れ落ちる血が床に触れた瞬間、魔方陣の周囲に赤紫色の結界が生じ、円陣内を周囲の世界から断絶させた。結界は、音を立てて火花を散らし、小さな稲光状の電光をあちこちに帯びて、触れる者をあくまでも拒もうしているかのようだ。
「早まるな、ここで命を捨てても成功するとは限らない。お前が必要なんだ、ネリウス!」
 そう絶叫する仲間の言葉を、スヴァンは、地下空間に響き渡る大声で否定した。
「必要? そうだ、コズマス。私のものでも、誰のものでも、必要でない命など無い。だから我々は、《人類と世界のためには犠牲もやむを得ない》などと、他人の命を秤にかけるようなことを……しては、ならない!!」
 一転、スヴァンは、すべてを悟ったような笑顔を浮かべ、盟友に別れを告げる。
「だから、せめて私自身の命でもって……。後は頼んだ、コズマス」
 呪文を思わせる短い詠唱をスヴァンが行った後、天から大地を貫く巨大な閃光が走った。地下聖堂も光に包まれ、肌が焼け付くような焦熱の空間と化し、そして再び静まりかえる。

 どのくらい時が経ったのであろうか。
 床に燃え残る炎の中から、男の影がふらふらと立ち上がる。
 彼は――ネリウス・スヴァンは――薄ら笑いとともに、力なく、狂気じみた声でつぶやいた。

  《ロード》は、失敗だ。


【第52話に続く】



 ※2013年6月~8月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第51話・前編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 《闇の御子》の真の秘密に君は気づかなかった。
 《ノクティルカ・コード》と《ロード》のことに。
 いずれにせよ、私たちの世界が
 《ノクティルカの鍵》に到達することはかなわなかった。
 そう、すべては終わりだ……。

 (旧世界・旧陽暦時代 天上界の科学道士 イプシュスマ)


 ここで命が消えても、私たちの想いはいつかお前たちを滅ぼす。
 たとえどんなことをしてでも、どんな姿になってでも……
 私は、やがて運命の《御子》が現れるいずれかの世界で、
 《鍵(ノクティルカ・コード)》を必ず《彼》に伝える。

 (現世界・前新陽暦時代 某代の白の巫女 スプリュトのレア)


 《鍵の石版》を解読して《ロード》のための実験を開始したときから、
 我々は人としての資格を捨てて悪魔となったのだ。
 何の咎もない者たちを次々と犠牲にし、この身に永劫の罪を背負い、
 《あれ》と戦うために闇に堕ちた。

 (現世界・新陽暦時代 月闇の僧院長 コズマス)

◇ 第5話 ◇


1 第51話「時の止まった村」の連載開始 物語の核心にかかわる伏線が!?

 夕刻の近づく薄水色の空、ルキアンの目の前を、淡いガスのような靄が流れていく。
 千切れては広がりを繰り返していた水蒸気のヴェールは、徐々に濃さを増し、気がつけば、ルキアンの立つ丘は雲海の中に浮かぶ島も同然となっていた。
「なんだか、少し肌寒いな」
 先ほどまでの心地良い春風とはうって変わって、湿り気とともに、時おり肌を刺すような冷たさをも帯びた空気が、森の奥の方からひたひたと押し寄せてくる。
 ルキアンは背中をちぢこめる。そして、ふんわりと首に巻いていたクラヴァットをいったん解き、いくぶん固めに巻き直すのだった。
 特に行くあてもないにせよ、彼の足はとりあえず集落跡の方に向かっていた。
 緩やかに丘を下り、例の廃村へと続く道の先は、霧のためにもう見通せない。霞をまとい、左右に広がる木立の影の色が濃くなったように思われる。
 視界の悪い中で道なりに進むと、煉瓦を積み上げて作られた構造物がすぐに現れた。村の入り口に立つ門柱だ。苔やシダに覆われ、ところどころ欠けたりひびが入ったりしているものの、往時の姿を留めているようである。ただし、門扉は完全に失われていた。
 門をくぐる前に、ルキアンは道の傍らに立つ石碑に気づいた。先ほどは気づかなかった道標である。彼は体をかがめ、碑に彫り込まれた文字に顔を近づける。眼鏡のレンズが微細な水滴で少し曇っている。
「ワール……トーア……」
 今ではもう人々の口から語られることもほとんどなくなったであろう、この名前を、ルキアンは繰り返した。

 《ワールトーア》

 音のひとつひとつが発せられ、それらが連なり、意味のあるひとつの言葉を形づくった。
 わずかな発声過程を通じ、ルキアンは胸の奥で何かが沸き立つような印象を覚えずにはいられなかった。たとえば美しいとか、興味深いとか、切ないとか――そういう特定の感情とは結びつけられない、しかしとても強い心の揺れが彼をとらえる。
 在りし日の村、森の人々の暮らし、少年の心は瞬く間に無数のイメージに埋め尽くされる。ルキアンお得意の《白日夢》あるいは《妄想》が始まろうとしていた。そのとき。

「珍しいな。まさか同業の人?」
 そう言って、不意にルキアンの背中をぽんと叩いた者がいる。
「な、わけないか」
 再び同じ声。
 不気味なほどに静まり人の気配すらなかったこの場所に、よもや誰かがいるとは思わず、ルキアンは飛び退くように振り向いた。
「お? わ、若いな。すまん、頼むから腰の物は抜かないでくれ。俺は山賊でも魔物でもない。真っ当な、いや、ちょっと胡散臭いネタも書くが、一応の物書きだ」
 茶色がかった短い金髪と尖ったあごひげが特徴的な、三、四十代くらいの男が、両手を上に挙げたまま、力の抜けた笑みを浮かべている。ルキアンが腰に銃と剣を帯びているのに気づいたのだろう。
 とはいえ、無言で怪訝そうに見つめる華奢な眼鏡の少年に、男はおそよ危険性や有害性を感じ取れなかったのだろう。彼はわざとらしく安堵の息を吐いた。一見すると黒色に見えるような濃い深緑色のコートをまとい、やたらに細長い足の先に、ラクダ色の大きな革ブーツ。かなりの長旅をしてきたからなのか、それとも着古しすぎたものなのか、彼の衣装は上から下までくたびれた感じであった。
「キミ、誰? 身なりからして、もしかして貴族とか……」
 そこで男の口調が変わった。
「それはともかく、エクターなんだな」
 エクターという言葉を聞いた途端、ルキアンの表情も変わる。
 にやけながらも、時折、油断ならない鋭い眼光を浮かべるこの男は、誰なのだろうか。
 なぜ分かったのか、と遠慮がちに問い詰めようとしかけたルキアンだったが、ふと、男の目を見ると、その視線が自分の上半身に向けられているのが分かった。何分にも着慣れないものだから、ルキアン自身、エクター・ケープを羽織っていることを忘れていたのである。このことに気づいたルキアンは、小さく頷きつつ、ため息をついた。
「いや、すまん。俺はパウリ。パウリ・ブレンネル。ノルスハファーンのカフェの主人、いや、そっちは妻に任せっぱなしで、まぁよくある三文文士ってやつさ」
「僕は……」
 《ギルドの飛空艦クレドールの》という言葉を途中で飲み込み、彼はぶっきらぼうに言葉をつないだ。
「僕は、ルキアン・ディ・シーマ-です。それで、ブレンネルさんは、どうしてこんな山奥に」
 ブレンネルが耳に鉛筆らしきものを挟んでいる様子は、なにやら御用聞きを思わせる。彼はルキアンの言葉を不可解そうに聞き直した。
「ここといえばアレだろ。キミも興味津々で来たんじゃないのか」
「あれ、って?」
「おいおい、地図から消えた廃村《ワールトーア》といえば」
 ルキアンには話がまったく見えてこない。
 心底、不思議そうな顔をしながらも、どことなく緊迫した面持ちで、何かの答えを期待しあるいは恐れつつ自分の話を聞いている少年に、ブレンネルは苦笑する。
「その様子じゃ本当に知らないんだな。そのわりには何かありそうだが、まあいい。こういう噂話さ。ミルファーン国境にほど近い山中に、ワールトーアという廃村があるらしいのだと。で、そこに迷い込んだ者が神隠しに遭ったとか、幽霊を見て命からがら逃げ出してきたとか、そういう噂が絶えない。《ワールトーアの帰らずの森》と言ってだな……」
 最初は真剣なまなざしを向けていたルキアンだったが、次第にがっかりした気持ちになってきた。コルダ-ユの港町でも、船乗りたちがその手の《伝説》をよく自慢げに語っていたものだ。幽霊船を見たとか、海の大怪獣クラーケンに襲われただとか、そういう話に次第に尾ひれが付いて、まことしやかに巷の伝説となってゆくのであった。
 そんなルキアンをよそに、ブレンネルは妙に饒舌になって話し続ける。
「それで俺もな、噂の真相を突き止めてやろうと、わざわざノルスハファーンからここまで出向いてきた。やぁ、幽霊なんて居ようが居なかろうが、実のところそんなのはどうでもいい。こうして現にワールトーア村は存在したわけだし、この村の現状だとか何かそれらしいネタを集めて、新聞屋に記事でもどうだと掛け合って、ちょっくら小遣いでも……」
 ここ、《イリュシオーネ》の世界では、《新聞》や《雑誌》というものが市民の間に広まるようになったのは、ほんの二、三十年ほど前のことにすぎない。記者や作家という職業も、まだそれで生計が立てられる職としては確立されておらず、ブレンネルのように何かの副業の傍ら、細々とそういう仕事を続ける者が多い。
 と、次にブレンネルが口にした言葉は、今まで話半分で聞いていたルキアンの顔色を一瞬で変化させた。

「たとえばアレだ、13年前に起こった《ワールトーアの呪い》だとか」
「え、あ、あの、ちょっと、待ってください。それは何です」

 《13年前に、このワールトーアで何が起こったんですか?》

「なんだ突然。まぁ落ち着けって。キミは、ワールトーアのことは知らなかったんじゃないのか」
「知りません。知らないから教えてほしいんです」
 急に飛びかからんばかりに話に食い付いてきた少年に、ブレンネルは唖然とする。この様子は、ただ事ではない。彼はルキアンをなだめつつ、息を整え、再び口を開いた。

「そう、あれは新陽暦290年、たしかに今から13年前のこと。《あの事件》そのものは、実際にあった出来事だ。そもそも、今になってもワールトーアには幽霊が出るだの神隠しに遭うだのという噂が絶えないのは、もとを辿れば全部あの事件のせいかもしれない」


2 「呪い」と「伝説」――ワールトーアの村をめぐる謎が深まり始める

 ◆ ◆

 灰の世界に降り続く雪。
 緩慢な調子で宙に漂う綿雪は、天で死した無数の鳥たちの羽根が舞い落ちてくるかのようで、じっと見つめ続けていると、理由もなく沈鬱な気分にさせられる。
 鉛色の空のもと、それらは音も無く積もり、家々は静まりかえり、立ち並ぶ木々は色を失い、広がる世界は、一面、墨絵のようだ。
 夜の闇はすべてを黒く塗りつぶす。そして対極にあるはずの白き色も、こうしてすべてから彩りを奪う。

 単色と単調さの中で同じ時間が繰り返され続けるような、凍りついた冬。
 その静寂を破り、雪原に刻まれる沢山の足音が響いてくる。
 冷え切った風に運ばれ、遠くの方から獣の唸り声も耳に届く。

 黒い毛に覆われた四つ足の獣たち。盛んに聞こえる荒い息は、犬のそれにも似ている。狼、いや、狼の姿を持ちながらもそれより一回り、二回り近く大きな野獣が群れをなして続く。
 彼らの前方を、おぼつかない足取りで体をふらつかせながら、一人の人間が駆けてゆく。茶色のローブをまとい、フードを被った男だ。ときおり息を切らせつつ、彼は呪文のような歌を詠唱し続けている。男の行く手には凍った湖が見える。彼は脇目も振らず、湖をめざして一心に進んでいた。
 それに続く、熊のように大柄な恐狼たち。あるいはその姿は地獄の番犬か。不思議なことに、狼たちは男の《歌》に引き寄せられ、魅入られているように思われた。

 ◆ ◆

「そう、あれは《呪い》だと。そういう話もある……」
 ブレンネルは、わざとらしく遠い目をして語り始めた。その言葉を一言たりとも聞き漏らすまいと、彼の前ではルキアンが眼鏡の奥で目を丸くして聞き入っている。
「俺は呪いなんぞは信じたくないが、そうとでも言わない限り、13年前のあの出来事は説明がつかない。あまりに奇妙だったから、何か人知を超えた力が働いたのではないかとさえいわれている」
 ルキアンの顔をのぞき込むようにして、ブレンネルは、急にゆっくりとした口調になってつぶやいた。
「そこで人々は思い出さずにはいられなかったのさ。《ワールトーアの狼狩り》の伝説を。この森の周囲にある村々で俺が聞いて回ったところ、《狼狩りの男》の伝説は、どうやら今から300年ほど前、あるいはもっと昔から伝わっているらしい」
 ブレンネルがそこまで言いかけたとき、ルキアンは思わず口走る。
「え、300年以上も前といったら、もしかすると《新陽暦》の始まりよりも前、《イノツェントゥスの誓い》(*1)よりも昔のこと? 前新陽暦時代のことかも……」
「だから真偽のほどはまったく分からない。大体、あれは、キミ……シーマー君……」
「あ、あの、ルキアンと呼んでください」
「おぉ、ルキアン君。俺のこともパウリでいい。そうだよ、そもそも《前新陽暦時代》自体、どこまで現実の話なんだか。ま、それはともかく《狼狩りの男》の伝説でも持ち出さないと、説明がつかんということだろうな。何せ、このワールトーア村の住人が、一夜にしてすべて居なくなったのだから」
 先ほどからブレンネルが繰り返し使っている《狼狩り》の伝説という言葉に、ルキアンは関心を抱いた。ブレンネルに促され、二人は、廃村の入り口に立つ門をくぐり、再び集落跡に足を踏み入れた。
「それでな、《狼狩りの男》の話というのは……」
 濃い霧の向こうを見据えるような仕草を何度も行ったかと思うと、ブレンネルは古の物語を伝え始める。


【注】

(*1) 《イノツェントゥスの誓い》というのは、イリュシオーネの《現世界》における中心的な宗教団体である《神殿》が成立し、同時に《新陽暦》が導入されるきっかけとなった出来事である。《神殿》の初代の《教主》であるイノツェントゥスが、当時のイリュシオーネの退廃しきった現実を変えようと、誓いを立てたという故事に由来する。この《イノツェントゥスの誓い》が行われた年が、新陽暦の元年に当たる。また、その時点から《旧世界》滅亡までの間を《前新陽暦時代》という。


3 「狼狩りの男」の伝説?――悲運の音魂使いと、消えた住民たち


「400年前だか300年前だか分からないが、かつてのワールトーアは、この廃村よりもずっと大きな町だったそうだ。森の中にあるとはいえ、ここらは、オーリウムからミルファーンに抜ける街道沿いに当たる。宿場町としてそれなりに栄えていたのかもしれない」
 ブレンネルはルキアンのすぐ近くでそう言った。だが、ほんの数歩先にいるブレンネルの姿さえもかすんでしまうほど、霧深い森の中。今は住む者もないワールトーアの家々が、あちらこちらに影となって浮かび上がる。風に流れる靄の向こう、石を積み上げた灰色の壁や、苔むした煉瓦屋根が見え隠れした。
「その頃、ワールトーアの人々を悩ませていた問題があった。少なくとも新陽暦が始まった頃までは、こういう奥深い森には《奴ら》が居たらしい。今では絶滅したと言われるが」
 下草を踏み分ける足音ともに、ルキアンとブレンネルがゆっくり歩いてくる。
「奴らって、誰ですか?」
「誰? 人じゃない。《狼》……。いや、狼だったら、まだマシだったろう。狼の姿をした魔物、《恐狼(ダイアウルフ)》さ」
 ブレンネルは両手を左右いっぱいまで広げ、さらに手のひらを外側に向ける仕草をした。恐狼の大きさが馬ほどもあったことを、身振りで表現しようとしたらしい。
「恐狼って、おとぎ話や伝説でしか聞いたことはないですけど、少なくとも前新陽暦時代には実在したそうですね。普通の狼より頭も良く、人間を騙すくらいの知恵が働いたとか。赤い頭巾を被った女の子が恐狼に食べられてしまう話だとか。そんな昔話を、そういえばシャリオさんからも聞いたような……」
 無意識にシャリオの名前を口にし、そこでルキアンは言葉を呑み込んだ。彼の歩みが止まる。濃霧に閉ざされた視界の向こう、ブレンネルの足音だけが聞こえ、そのまま離れていく。一瞬、少年の意識は、霞の中ならぬ白日夢の中にとらわれた。海辺に置かれ、潮風にめくられる手帳のごとく、クレドールで過ごした日々の記憶の1ページ、1ページが次々とルキアンの心に浮かび上がった。

 ◆

 シャリオは毅然とした調子で頷いて、椅子から立ち上がった。
 ――この子は……。
 彼女は力一杯ルキアンを抱きしめ、しばらくして彼の動きが止まると、その頭を優しくなでた。
「そういうときは、思いっきり泣きなさい……何も考えずに」
 彼女は一言ずつ、諭すようにつぶやく。
「辛かったのですね……今までずっと、あなたはそうやって他人に感情をぶつけることがなかったのでしょう? たった独りで……」
 シャリオの胸に顔を埋めて、ルキアンは嗚咽した。
「本当はね、ほんとはね、僕……」
「いいえ。今は何も言わなくていい。あなたの心は、決まっているのでしょ? それで良いって、誰かに言ってほしいのでしょ?」
 シャリオはルキアンの耳元でささやいた。
 彼は無言でうなずく。

 ◆

「エインザール博士だって、本当は優しい人が優しいままでいられる世界を作りたかっただけなんだと思います。でも憎しみに心を奪われて……」
 苦悩の表情を必死に拭い去ろうとするように、ルキアンは顔を歪め、引きつらせ、それでも渾身の笑みを浮かべた。
「そうですか。エインザール博士がどんな思いで天空人と戦ったのか、私には分からないにせよ、あなたの信じていることが本当であるよう願いたいものですね。いいえ、結局のところ全てはあなた次第かもしれません、ルキアン君」
 大切なものを慈しむように、シャリオは少年の肩に優しく手を置いた。
「たとえどれほど邪悪なものと戦うためであろうと、憎しみの心で剣を振るえば、その刃は沢山の罪無き人々を巻き込み、最後には自分自身をも傷つけるでしょう。だからルキアン君、決して憎悪に負けないで――そう、自分に負けないでください……」

 ◆

 厳かな古典語とオーリウム語で、シャリオはルキアンに告げた。
「新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、汝の崇敬する、月と魔法の女神セラスに誓いを立てよ」
 ひざまずいたままのルキアンは黙って頷く。
「小さき者たちの盾となり、あるいは優しき者たちを護る剣となり、その力を正しい道のために用いんことを」
 続けてシャリオは、ささやくように言葉を付け足した。彼女はルキアンに視線を合わせ、本当に小さな笑みを目に浮かべた。
「誓ってください。《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のために……」
 静かに息を吸い込んだルキアンは、普段より大きな声で答える。
「はい。私は、貴族の誇りと、この一命をかけて、セラス女神に誓います」
 その言葉に頷いたシャリオは、手にした剣の峰の部分をルキアンの肩に当て、そのまま、祝福の祈祷を手短に行った。

 ◆

「僕は誓いを貫くことができませんでした。優しさどころか憎悪にまかせて、ステリアの魔力に支配され、自分自身を失い、沢山の人の命を奪い、仲間まで殺そうとし……」
 どういう気持ちによるものなのか、ルキアンは投げやりな微笑を、自嘲的な笑みを唇に浮かべてつぶやいた。
「僕は。僕なんて……」
 なおも唇を振るわせて突っ立っている彼のところに、ブレンネルが駆け寄った。
「急に居なくなったと思ったら、何だよ、ぼんやり立ち止まって」
「すいません」
「おいおい、驚かさないでくれ、な。それこそ神隠しに遭ったのかと思った」
「はい。どうも……」
 焦点の曖昧な目つきをして、ブレンネルの後に着いて歩き出すルキアン。
 彼の気持ちなど知ることもなく、気楽な口ぶりでブレンネルが話を元に戻した。
「恐狼は、おとぎ話の悪役どころか、昔はワールトーアの近辺にも実際に棲んでいたらしい。一匹だけでも厄介な恐狼が、いつの頃からか大きな群れをなして旅人や家畜を襲うようになり、それがワールトーアの住民にとって悩みの種だったという。それで、どうしたと思う」
 ルキアンに顔を寄せるブレンネル。妙に間合いの近い人だなと、ルキアンは苦笑した。
「たまたま、一人の流れ者の楽師が村に、いや、当時の規模でいえば《町》にやってきた。実は、彼はただの音楽家ではなかった。魔法使いみたいなもんだ。何というか、歌によって不思議な力を……」
「おそらく《音魂使い》ですね」
「そうなのか。その、音魂……。って、ルキアン君、変なことに詳しいんだな」
「ま、まぁ、その」
 《一応、僕も魔道士の見習いですから》とは敢えて言わずに、彼は言葉を濁した。
「行き倒れに近い状態で村に流れてきた音魂ナントカ、まぁ、旅の楽師は、荒廃した故郷を救うために各国を回って募金を集めていたのだという。そんな彼にワールトーアの住人たちは頼んだ。普通の人間の手には負えない恐狼の群れを、魔法の歌で何とか片付けてもらえないか、成功したら礼金は十分にはずむ、と」
 ブレンネルは目を閉じて何度も調子よくうなずくと、さも実際に見てきたかのような顔をして語り続ける。
「楽師は長旅がたたって、病で胸を患っていたのだが、この申し出を受け入れた。厳しい冬のさなか、彼は呪歌の魔力によって恐狼たちを意のままに操り、村の郊外にある凍った湖の中心部まで連れ出し、冷たい湖に群れごと突き落として溺死させた。《狼狩りの男》と呼ばれるわけだ。ところが、病気の身で命を削ってまで恐狼退治を成し遂げた楽師に対し、ワールトーアの人々は、報酬を払う約束などした覚えはないと言い張り、一銭も払おうとしなかったのだ。結局、楽師は失意のままに町を去った」
 ルキアンの表情が曇ったのを見て、ブレンネルは首を左右に振った。
「ひどい話だと思うだろ。でも、物語はそこで終わらなかった。楽師が去ってほどなく、ワールトーアに異常な事態が起こった。ある日を境に、何の前ぶれもなく町の住人全員が姿を消したというんだ。近くの別の村に伝わる話では、ワールトーアに再び現れた楽師の歌に操られるまま、住人たちは恐狼の群れと同様に次々と湖に身を投じ、全員が恍惚の表情を浮かべて溺死したという。別の伝説によれば、同じく魔法の歌で町から連れ出された住人たちは、人買いに売られたとか、戦場に送られたとか……。おや、雨か?」
 漂う霧がさらに湿り気を帯び、いつの間にか霧雨の様相を呈していた。身体が濡れると、体温が急に下がってゆくように感じられ、心細くもなってくる。
「いずれにせよ、かつてワールトーアという町がすべての住民を失い、一度は無くなったという伝説がある。その後、このような小さなワールトーア村として人々の暮らしの場に戻っていったのだが……ところが13年前、村人たちが忽然と消え失せた。今度は伝説じゃない、紛れもない《現実》だ。いかんな、思ったより雨らしくなってきた。あそこで雨宿りでもしようか」
 ブレンネルは、手近な廃屋のひとつを指さした。


【第51話 後編 に続く】



 ※2013年6月~8月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第50話・後編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


4 「独裁」に魅入られる民たち?


◇ ◇

 いまだ晴れぬ白煙。焼け落ちた木材と擦れた鋼の臭い。つい先ほどまで戦場であったその場所に、不安を宿した人々の影が集う。低く押し殺したざわめきとともに。
「あの砦が、たった1時間で落ちたらしい……。いったいどうやって。何の魔法だ」
 《帝国先鋒隊》の侵攻により、この地方を治めるガノリスの政庁が、砦が落ちた。どのような意図からなのか、進駐した帝国軍によって緊急に呼び集められた近隣の人々。
「軍は何してるんだ。エスカリアの奴らにガノリスの士(もののふ)の魂を見せてやれというんだ。まったく」
「しっ、聞こえたらどうする。悔しいが相手が悪すぎたのさ。《帝国先鋒隊》だぞ、アポロニアには勝てっこねぇって……」
 周りを気にしながら、男たちが声を落として語っている。
 人々の周りを帝国の兵士やアルマ・ヴィオが整然と取り巻いていた。破滅を呼ぶ単眼(モノ・アイ)の白馬《シム・プフェール》が、重々しい排気音のような息とともに時折いななく。黄金色の甲冑に深紅の彩りも鮮やかな《ルガ・ロータ》が、それらに騎乗し、MTの長槍を構えて隊列をなす。
 陸戦型重アルマ・ヴィオと重騎士タイプの汎用型アルマ・ヴィオという組み合わせは、たった一体であっても凄まじい威圧感を放つに違いなかろうが、それらが数十組も整然と並んでいる光景は、もはや言葉すら失わせる。
 大人たちが必死に隠そうとしていた動揺を、幼い男の子の率直な疑問が敢えて掘り起こした。
 「ねぇ、ママ。帝国軍は怖い人たちなんでしょ。僕たち、みんな殺されちゃうのかな……」
 気まずい沈黙が漂う。何しろ相手は、幾万の住民の命とともに王都バンネスクを一瞬で消し飛ばした帝国軍である。こうして一箇所に呼び集められ、これから虐殺が始まるのかもしれない。

「そんなことはありません」
 息苦しい静寂を、穏やかながらも抑揚のない声が静かに打ち砕いた。
「心配しないで。怖くなんてない……」
 身をこわばらせている幼子を、そっと抱きしめる者があった。香しい黒髪に包まれて、その子は本能的な安心感を覚えた。恐怖の中でも。
 帝国の軍服の上に上級将校らしきマントを羽織った女性が、男の子の隣にしゃがみ込んで、彼の頭を撫でる。そして再び立ち上がると、群衆の正面に歩み出て、凜とした口調でこう告げた。
「私は帝国先鋒隊の長、アポロニア・ド・ランキア特命准総督です」
 アポロニアという名が聞こえたとき、人々の間にたちまちどよめきが走った。
「私たち帝国軍は、たしかにガノリスの王家や軍にとっては招かれざる敵です。しかし、あなたがた民衆からみれば、むしろ味方に当たるのです」
 ガノリスの民たちは、恐れおののきながらも、アポロニアの言葉が詭弁であると言わんばかりに、冷ややかに背を向け、あるいは遠慮がちに目を背けてうつむいた。
 アポロニアは表情一つ変えずに続ける。ただし、彼女の声の方には熱気が加わった。
「ガノリスの皆さん、おかしいとは思いませんか? どうしてこの国では――いいえ、この国だけではない、オーリウムでも、ミルファーンでも、その他の多くの群小国でも――貴族に生まれたか平民に生まれたかということだけで、本人の力ではどうしようもなく、何の責任も負いようのない《血筋》ということのために、どうしてこれほどまでに人としての生き方が左右されてしまうのでしょうか」
 これまで恐怖や不信、嫌悪だけにとらわれていた人々が、不思議そうに互いに顔を見合わせた。自分が一歩近づくと、一歩、さらに二歩と引き下がろうとするガノリスの民たちに対し、アポロニアは清んだまなざしを向けて問いかける。
「みなさんは、この戦争で自分たちの《日常》が奪われたと言っています。しかし、その《日常》にこれまで満足していましたか。ガノリス王イーダンの圧政によって押しつけられた、不当な支配の日々に」
 恐怖から困惑へ。帝国軍の将校が口にするとはよもや思われなかった言葉の数々に、人々は顔を見合わせつつ、さらなる戸惑いへと落ち込んでいく。
「どうして立ち上がろうとしないのです……」
 アポロニアは声をいっそう高めて言った。

  私たちは世界を悪夢から解放するためにここにやってきました。
  帝国軍は、侵略軍ではなく解放軍なのです。

  敢えて言いましょう。
  いま必要なのは、肥え太った政治屋たちによる愚劣な駆け引きではない。
  民が求めるのは、自分たちの声をくみ上げ、導いてくれる
  英明な王による独裁なのであると。

  ゼノフォス陛下の独裁は「善き独裁」です。
  唯一絶対の「神帝」の支配のもと、新たな世界では、
  貴族も平民も、富豪も貧民も、男も女も、
  あらゆる者が等しく「臣民」となり、
  理不尽な特権・差別・腐敗は一掃されるでしょう。

  古い世界を打破し、そんな新しい未来に生きたいと思いませんか。

 呆気にとられてアポロニアを見つめ直す民衆。
 長い静寂を破って、ついに誰かがおずおずと口を開いた。
「そ、それはそうかも、しれないけど……」
 人々の間から、今までとは違う反応が漏れる。
「そんな夢みたいな話、急に言われても」
「人がみんな平等だなんて。でも、そうだったらどんなにいいことか」
 どよめきの声があちこちから上がる中、アポロニアがさらに群衆に近づいた。
「神帝陛下は世界を変えるお方。世界の潮目の変わるときがやってきたのです。なぜ、皆さんは立ち上がらないのですか!?」
 集められたガノリスの人々が、一人また一人と声を上げ始める。
「そうだ、認めたくはないが、本当はその通りかもしれない。王国のお偉方ときたら、雲の上でぐだぐだともめているだけで肝心のことは何も決められない。強力な導き手が今は必要なんじゃないか。俺たちの声をくみ上げて、世界を実際に変えてくれる人が」
「あぁ、それがガノリスかエスカリアかなんて、本当はどうでもいい。偉いさん方の唱える天下国家や大義名分なんてくそ食らえだ。俺たちはそんなものより、穏やかな暮らしや、仕事やパンがほしいんだ!」
「そうだそうだ、そういう意味では、本当は《神帝》のような人に政をやらせてみたいと思ってた」
 次第に大きくなり始めた民衆の声を、アポロニアがいったん丁重に押しとどめる。
「急に信じろと言っても無理かもしれません。だから言葉だけではなく、行動でもって、私たちは皆さんの信を問います。私は、ガノリス東部方面の総督として宣言します。エスカリア帝国の支配下に加わった、この地域では、本日よりガノリスの法を廃止し、エスカリアの法を導入します。今このときより、貴族も平民もありません。重税に苦しむこともありません。これでみなさんは《自由》です」
 今や賞賛の吐息すら聞こえ始めた眼前の状況を見渡しつつ、アポロニアは、隣に控えていた副官に耳打ちし、それから声高らかに言った。
「先日までのガノリスの冬は、例年になく長く厳しいもので、食べ物の蓄えもしばしば底をついたと聞いています。それにもかかわらず、軍は、限られた食料を無理矢理に徴発したとも。民を守るべき王や軍隊が、自分たちの民をますます飢えさせるという、なんと愚かしい……。しかし、私たちはガノリス軍とは違うのです」
 彼女が目配せすると、穀物の詰まった麻袋や、パン、干し肉、そして水や酒の樽が大量に運ばれてきた。兵士たちが次から次へと荷を担ぎ下ろし、配給の食料が山のように増えてゆく。
「これは、帝国からみなさんへのささやかな贈り物です。慌てなくても大丈夫、十分な量を用意させてあります。そしてもちろん、我が軍には一切の略奪を禁じています」
 アポロニアがそう言い終わると、一瞬、耳を疑うような言葉が群衆の中から聞こえたような気がした。
「《帝国》……万歳……」
「《神帝》陛下、万歳……」
 誰からともなく、《神帝》ゼノフォスの名を口々に呼び始めた。それらは次第に重なり、言葉の渦となり、気がつけば神帝ゼノフォスを称える声が辺りに充ち満ちていた。
「神帝、神帝、神帝、神帝!」
「アポロニア総督、万歳!!」
 ひとたび揺らいだ群衆の意思は、雪崩を打ってくずれ、いともたやすく神帝ゼノフォスやアポロニアに対する賛美に変わっていた。あたかも、この地がエスカリア帝国そのものであるかのように。もはや人心はガノリスのもとにはなかった。


5 「兵器」になんてなりたくない… 失意のルキアン、時の止まった村へ


◇ ◇

 アルフェリオンから降りたルキアンは、ぼんやりとした意識と涙に濡れた目で、周囲の状況をようやく把握し始めた。新緑の芽吹いた樹木、生い茂る下草、地を這い、木々に覆い被さるツタ。濃い緑の匂いが、鼻や口から胸に、さらには臓腑にまでもしみ通るように感じる。
 時折、野鳥の声が遠くの方から聞こえてくる。陽は傾きかけてはいるにせよ、まだ周囲は明るく、夕暮れまでには少し時間がありそうだった。
 それにしても静かである。
 先ほどまでの凄惨な戦いが夢であったのかと錯覚させそうなほどに。

 だが、目の前の景色が自分の中でいまだ完全には像を結ばぬまま、自らのしてしまったことに対する絶望の念が、ルキアンを再び支配する。《逆同調》によって鎖から解き放たれ、《暴走》した――いや、《暴走》どころかむしろ《本来の姿に戻った》――アルフェリオン・テュラヌスの猛り狂う姿が、ルキアンの脳裏に鮮明によみがえる。
 生きたままの獲物を野獣が引き裂き喰らうのと同様に、テュラヌスは《イーヴァ》に対して暴虐の限りを尽くした。それは同時に、イーヴァの繰士であるカセリナが、言語に絶する苦痛をその身に受けたことを意味する。
 あのとき、ルキアン自身はほとんど意識を失っていたはずなのだが、なぜか記憶ははっきりと残っている。身に覚えのないことについて、しかし完全な記憶がある。
「僕は……僕は……」
 テュラヌスの吐き出した灼熱のブレスは、敵味方の一切の関係なく、あの戦場にいた多数のアルマ・ヴィオを溶けた金属塊へと瞬時に変え、数十あるいは百名以上にも及ぶであろうエクターたちを虐殺した。
 また、アルフェリオンを介して異界から染み出した《闇》に、バーンの乗る《アトレイオス》が半ば呑み込まれかけたことを、ルキアンは知っていた。そして同じく漠然と理解していた。あの暗黒のフィールド《無限闇》が、すべてを無に帰す地獄の蝕であることを。
「この手で僕は、カセリナを、バーンを、みんなを……」
 かすれた涙声で、途切れ途切れにつぶやくルキアン。
「それでも僕は《荊》になるって……。守るために戦うって……。失ってから嘆き、何も取り戻せない、守れないくらいなら、たとえ泣きながらでも剣を抜く」
 あの悪夢のような晩、戦いを躊躇した彼の目の前で起きたこと。ならず者たちによってシャノンは嬲り尽くされ、トビーは瀕死の傷を負わされ、彼らの母は惨殺された。
 そして今日、これまでルキアンを守るために《封印》を超えて召喚に応え、ついに力を使い果たして消滅してしまったリューヌ。幼い頃から、ルキアン自身も気づかない中でずっと見守ってくれていた大切な存在を、かけがえのないものを彼は失った。
「戦う……。戦うよ。迷ってなんかいないよ。だけど、だけど……」
 何か言おうとして、何度も何度もルキアンは嗚咽する。
「でも酷すぎるよ。僕は虐殺なんか望んでいない。見境のない破壊なんて、嫌だ」
 銀色の前髪の下、一瞬、狂気とも憎悪ともつかぬ光を瞳に宿して、天を仰いだルキアン。
「嫌だよ……。《人》で居たい。獣にはなりたくない。《兵器》になんてなりたくない」
 そう言った彼に、あの《紅蓮の闇の翼》のイメージがありありと思い起こされた。

  殺戮の果てに血に染まったかのような、深紅の機体。
  燃え盛る炎の翼を広げ、流星のごとく尾を引き、
  裁きの大鎌を手に星の海を舞う、終焉をもたらす天の騎士。
  その怒りでかつて《天上界》を滅亡に導いた、
  エインザールの赤いアルマ・ヴィオ、《アルファ・アポリオン》。

 声にならない声で何かつぶやいたかと思うと、ルキアンは、その場に力なく座り込む。赤く腫れた目の向こう、にじむ涙に霞んだ風景の中、目線を右から左へとぼんやり動かしていくにつれて、自然界の生み出したものとは違う異物が目に入った。
 もう幾年も前に放棄され、煉瓦屋根の表面は風化が進み、苔むした石壁に支えられた民家。それはひとつではなかった。地上に張り出した木の根に絡みつかれ、生い茂ったツタに巻かれ、あるいは藪の中に閉ざされ、今では半ば自然の一部と化しているものの、かつて明らかに人の住んでいたことが確認され得る家々。
「ここは、どこかの村……いや、村の跡、廃墟?」
 人の手になる建築物を目にして、ルキアンは我に返った。得体の知れない土地で、周囲の安全や敵軍の有無も確かめずにアルマ・ヴィオから出たことが、今更のようにうかつであったと。
「でも、どうして僕は《ここ》に帰ってきたのかな」
 そこまで言いかけ、ルキアンは自分自身の言葉を反芻する。
「《帰ってきた》だって? いま、なぜ、そんなことを思ったんだろうか。どうして僕は、こんなところに来たんだろう。ただ行き先も考えずに飛んだ、いや、《逃げて》きただけだったはずなのに」


6 霧の向こうに蘇る記憶…


「ここは、たぶん、広場か何かだったのかな」
 アルフェリオンが着陸し、ルキアンが今こうして立っているこの場所では、周囲に広がる鬱蒼とした森と比べると、木や草の茂り方が若干まばらである。足元を見れば、この一角だけが舗装されているのが分かった。下草に埋もれつつも丁寧に貼り付けられた石畳を、明らかに見て取ることができる。
 この場所は、どうやら村の広場のようなところであったようだ。
 何と表現すればよいのか、一瞬、まばゆい日差しに目がくらんだような気分になり、ルキアンは頭を抱えた。
「僕は、この場所のことを……知っている?」
 彼の目の前に広がるのは、誰も居ない荒れ果てた草むら。しかし、そこを行き交う沢山の人々の姿が、不意に目に浮かんだ気がした。そして、広場の真ん中にある井戸の周囲には、井戸端の雑談に興じる婦人たちや、その傍らで走り回る幼い子供たちの姿が、はっきりと見えたように思われた。
「井戸……が、ある? あったのか、本当に?」
 ふと我に返ったルキアンの前に、すでに枯れ果てた井戸の遺構が横たわっていた。
 無意識のうちに駆け寄ったルキアン。再び彼の目には、《村》の広場で繰り返される日常風景が浮かび上がった。広場を貫いて街道が走っている。時折、行き交う隊商の人々。
「ここは?」
 ルキアンは唐突に駆け出した。何かに惹かれるように。
 ――広場を抜けて、街道を辿れば、そこから村はずれの門に出る。
 そこには……。

 《ワールトーア》村

 この《村》の名が記されていたはず。
 ルキアン自身が気づいたか否かは分からないにせよ、そこには古びた石碑が確かに残されていた。砂岩に似た質感の石に、刻まれた村の名前。苔の下に半ば隠されていたのは、まさしく《ワールトーア》という忘れられた地名であった。
 さらに進み続けるルキアンは門を抜け、村を囲むまばらな林を通り過ぎる。
 すると突然、彼の目の前に丘陵が広がった。奥深い森林の中にぽつんと開けた、しかし相当の広さをもつ草原だ。
 風が走る。春草の花は盛りを終え、綿毛が舞っている。ルキアンの目の前をふわふわと飛んでゆく。
 丘に向かって吹き上げるかのように、走り抜ける風。
 立ちすくんだルキアンの肌に、空気の流れが心地よかった。

「この丘の上で、僕は、誰かと一緒に」

 ルキアンの手に、遠い記憶の温もりが蘇った。

「あの娘(こ)だ。夕闇の中で僕の手を引いていた……」

 彼自身の意識とは関係なく、無自覚に涙が流れた。
 と、しばしの沈黙の後、彼はふと気づいた。
「あれ? 霧が出てきたのかな」
 考えてみれば、先ほどから徐々に濃くなっていたのだが、夕霧が辺りを包み始めていた。丘の上から見渡す草の原も、次第に霞の向こうに見えなくなっている。ある種の幽玄さを伴う、その目先の見通しの悪さが不安をかき立てた。

 《この場所は何かがおかしい。でも、僕にとって何か特別な場所かもしれない》

 見習いながらも魔道士である彼の感覚が、そう告げていた。


【第51話に続く】



 ※2013年4月~5月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第50話・前編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 ゼノフォス陛下の独裁は「善き独裁」です。
 唯一絶対の「神帝」の支配のもと、新たな世界では、
 貴族も平民も、富豪も貧民も、男も女も、
 あらゆる者が等しく「臣民」となり、
 理不尽な特権・差別・腐敗は一掃されるでしょう。

 (帝国先鋒隊司令官 アポロニア・ド・ランキア)

◇ 第50話 ◇


1 帝国先鋒隊


 冷涼な大地に根を下ろし、天を突くほどに育った針葉樹の巨木たち。
 それらが織りなす暗緑色の暗き森を、重々しくも規則正しい無数の地鳴りが満たす。
 木々の葉の揺れ、小枝のざわめきは、森の精たちが何かを恐れて囁いているかのようだ。
 清々とした緑の香の中、風に乗って濃密な金属臭が漂ってくる。
 焼け焦げた匂い、血や硝煙の香りをまとって。
 想像してたとえるならば――宙に吊られた鉄塔の数々がゆらゆらと揺れ、鈍い音を立ててぶつかっては離れ、これに混じって大きな金属の板、たとえば扉同士がいくつも擦れ合い、軋むような――得体の知れない音と響きだ。
 だが、それらの源が何であるのか、何が近づいてくるのかは、この世界・イリュシオーネの人間であれば誰でも容易に察するだろう。

 人や獣の姿を借りた、動く城塞のごとき巨躯に、
 魔法金属の複合装甲をまとい、
 儀式魔術によって虚ろな魂を宿した
 旧世界の忘れ形見。
 現世界の運命を揺るがす無比の兵器。
 そう、人は呼ぶ……

 《アルマ・ヴィオ(生ける鎧)》と。

 音、振動、諸々の気配、すべてがとにかく重い。
 ひときわ頑強な甲冑に身を包んだ、重装タイプの汎用型(人型)アルマ・ヴィオたちが、鬱蒼とした木々の向こうから、街道を抜けて今しも姿を現すだろう。大楯を並べ、槍をかざし、この巨人の重騎士たちが隊列をなして突き進んでくる姿を目にすれば、相当に戦場慣れした兵士ですら緊迫して脈動を乱すことだろう。
 それも、機体の数がただ事ではない。
 音も地鳴りのテンポも見事に揃った、気味が悪いほど整然とした進軍のため、機体の数は実際より少なく感じられる。それでも見当もつかないほどのアルマ・ヴィオがいることは確かだ。数十、いや、軽く百を超えるだろうか。百やそこらではない。三百、あるいはそれ以上。
 そのとき、これまでには聞こえなかった奇怪な音、敢えていえば《鳴き声》が鳴り響いた。機械的な排気音に似た響きと、生き物の声が――直感的に表現すれば、馬のいななきが――渾然一体となったものとでも表現すべきだろうか。
 そう思って耳を澄ますと、進軍の地響きの中に混じって、途方もなく大きな四つ足の《獣》がいくつも歩いているように感じられなくもない。静寂な森林地帯の空気を震わせ、同様の《いななき》がさらに続いた。
 辺りを威圧するかのごとき声でひときわ大きく、一匹の《馬》が鳴き、いや、まるで《吠えた》かと思うと、街道の曲がり角の向こうから白い山のような何かが現れる。
 光るものがまず見えた。一つ目の《生き物》だ……。冷たい眼光、レンズを想起させる単眼をもった獣。すらりとした機体は、その巨大さを別とすれば、たしかに《馬》に似ている。かつての騎士たちの乗馬さながら、己の主と同様に自らも鎧をまとった軍馬だ。真っ白な体に、関節部分や手先、足先、そして兜や胸甲にあたる部分は紅蓮のごとき赤、さらに機体の随所に描かれた装飾線は黄金色の輝きを放つ。
 気高くも恐るべきその姿を一度見た敵は、次から決して見誤ることはないであろう。否、この機体に、運悪く遭遇した敵に《次》があればの話だが。戦場に絶望を運ぶ一つ目の白馬と恐れられる高機動陸戦型重アルマ・ヴィオ、《シム・プフェール》に。
 後続の同じ機体、白馬の群れがさらに続々と姿を見せる。その間に堂々とひるがえる《鷹》の軍旗。王冠にとまって翼を広げた赤い鷹――エスカリア帝国旗だ。そして帝国軍数多しといえども、《シム・プフェール》をこれだけの大部隊で揃え、かつ、白い《シム・プフェール》を有しているのは、ただひとつ。

 《帝国先鋒隊》。

 森の中を貫く街道の先、木々の間からそびえる石造りの城塞から、いずこともなく、その名を呻く声がひとつまたひとつと発せられた。
 城壁に立って警備を指揮していた若い下士官が、顔面蒼白となってつぶやく。
「まさか。この砦に到達するまでに、あと2、3日は要するはずだと……」
 見てはならないもの、遭ってはならないものを目にしたように、遠眼鏡を握る彼の手は震えた。
 城塞に立ち並ぶ旗には、焔のようにうねる毛並みをもった、いわゆる《ガノリスの熊》の紋章があった。白地に黒い熊をあしらったガノリスの国旗に他ならない。

 他方、鷹の旗をなびかせて城塞に迫る帝国軍、その先頭を行く《シム・プフェール》に騎乗する紫色のアルマ・ヴィオの姿があった。ベースとなっている機体は、索敵・管制を主な用途とし、そのためのドーム状の装置を背中に背負っている《ヴァ・アギス》である。これに追加装甲を施し、いわば軽騎兵的な機体へと換装したものだ。行動の様子から察するに、おそらく指揮官機であろう。
 ――《四騎団》前へ。カイール機装騎士団は散開して侵攻せよ。他は、手はず通りの場所まで移動、指示があるまで待機。
 《ヴァ・アギス》の乗り手が心の声で命ずる。それを合図に、《帝国先鋒隊》の中の《先鋒》となる勇猛果敢な《カイール機装騎士団》が前進を始めた。
 騎士団の主力となるのは、《シム・プフェール》にまたがり、輝く金の甲冑に鮮やかな赤で彩りを添えた汎用型アルマ・ヴィオ《ルガ・ロータ》だ。《ルガ》タイプは、帝国軍の量産タイプの汎用型アルマ・ヴィオの中では最も優れた機体といわれる。この《ルガ》のいくつかのヴァリエーションのうち、近衛隊のエース格に与えられる鉄壁の拠点防衛型《緑のルガ=ルガ・ジェイダ》や、汎用性が高く各方面軍の精鋭の愛機となっている《青のルガ=ルガ・ブロア》に対し、《赤のルガ=ルガ・ロータ》は、特に機動力と白兵戦における優位性を重視している。
 これに対し、帝国先鋒隊の重騎士たちを率いる《ヴァ・アギス》は、元々が比較的華奢な機体で、細身のMTレイピアをもっている以外には、これといった強力な火器や大型の得物は装備していないように思われる。
 この指揮官機の最も特徴的な形状として、両方の肩当てが大きく膨らみ、さらに翼のように後ろにまで張り出していることがあげられる。大きな肩当て状の器官には、蜂の巣を思わせる無数の穴が空いている。また、額にある真っ直ぐな角と、その左右に一本ずつある同様の角が、顔の正面でひとつにつながり、いわば三つ叉槍のような形でマスクに張り付いている。それ以外には目立った装飾のない、簡素な仮面を思わせる表情だった。
 ――オーリウムの状況が流動的な現在、このようなところで時を費やすわけにはいきません。ならば私も少し急ぎましょうか。
 そう念じた心の声。《ヴァ・アギス》の《ケーラ》すなわちコックピットには、真っ直ぐなサラサラした黒髪が印象的な、生真面目そうな女性が横たわっている。一見して戦いとは無縁に生きているような容姿にして、実のところ敵からすれば帝国軍の中でも最も危険で出会いたくない相手とされ、《戦う前から勝利を手にしている》と恐れられる知将、アポロニア・ド・ランキアその人である。
 彼女の心の中、自分自身のイメージが立ち上がり、己の目に意識を集中する。
 心象のうちに、威厳を帯びた調子で、アポロニアは声なき声で囁いた。

 ――我は観る、《万眼(ばんがん)のエーギド》……。

 その瞬間、周囲が青い壁に、おそらく結界に包まれたような気がした。


 2 神帝と美少年と仮面の機装騎士


 鋼と血の王国ガノリスは深き森の国でもある。
 イリュシオーネ屈指の軍事大国としてのイメージからは連想し難いような、懐の深い自然美が、この王国にはあふれているのだ。
  濃緑、深緑、暗緑……鬱蒼とした原生の木々が樹海を織りなす。黒々と広がる森林地帯を上空から見下ろせば、縦横に走る街道に沿って点々と、煉瓦色の家並みが、市壁に囲まれて円形や多角形状に街を形成しているのが見て取れる。

 だが、森の色と人の手になる街の色とが目に心地よく調和する眺望の中に、明らかに異質な不毛の地がぽっかりと広がっていた。緑の国土を走る街道の多くは、その場所へと続いている。そこにあるのは何も無い盆地……というよりも、これはもはや、星の海から落下した隕石の生み出す、旧世界の言葉でいうところの《クレーター》と呼んだ方がよい。
 間違いなくそこに、つい先日までガノリスの都バンネスクが存在していたのである。
 人を含め、生き物、否、動く物の姿は皆無であり、街路を飾った木々の姿どころか、豪奢なファサードを競った商家の数々や天に向かってそそり立つ大神殿の面影もない。イリュシオーネの世界にその壮麗さを知られたガノリス国王イーダンの居城さえ、跡形も無かった。
 煉瓦造りの崩れた壁が、バンネスクを襲った惨劇を記した碑石のごとく、あちこちに立っている。驚くべきことに、それらの壁の輪郭は溶け、表面が黒くガラス質に変化している部分もみられた。焼け焦げた死の世界だ。

 かつてバンネスクと呼ばれたその場所に今、上空から巨大な影を投げかけ、地上を日食さながらに覆い尽くす何かがあった。
 天にそびえる山脈、あるいは浮遊する大地、落ちてきた月――その大きさを言葉でたとえようとすると、およそ現実味のある表現が浮かんでこない。だが現にこうして、青空を閉ざし、陽の光を遮るほど途方もない大きさの《それ》は、薄雲をまとって遙か高穹に静止している。
 その周囲には、渡り鳥の大移動か回遊魚の大群かといった膨大な数で飛空艦隊が付き従い、幾重にも陣を敷いて天上を埋め尽くすのが見える。《それ》の現実離れした大きさを前にすると、一隻一隻の飛空艦は、巨岩に群がる羽虫同様に小さく感じられる。しかしそれらの飛空艦にしても、特に飛空戦艦クラスの船であれば、実際には城ひとつがそのまま空に浮かんだような規模の人工物なのである。
 碧天に並ぶ者なき《それ》は、天上の主の住まう王宮を思わせる。
 エスカリア帝国軍を率いる旗艦にして皇帝の居城、帝国がイリュシオーネの世界を統べるために造り上げた、絶対的な力と支配の象徴――浮遊城塞《エレオヴィンス》である。
 円錐を逆さまにしたような形状ををもつ灰白色の浮島が、エレオヴィンスの土台となっている。その上に城壁が連なり、大小様々の城や塔が建ち並び、全体としてひとつの城塞を形成する。そして本体のまわりには、いくつかの小さな浮島が漂い、ゆっくりと規則的に周回していた。

 城塞の最上層にある玉座から、いま世界を睥睨するエスカリア皇帝ゼノフォス2世は、《神帝》を名乗り、地上のみならず天上をも、この世のすべてを意のままにしようとしている。かつて旧世界を手中に収め、《天上界》から《地上界》を支配した《天帝》のように。
 皇帝の冠の下に濃紺の長い髪をなびかせ、均整の取れた逞しい体躯で立ち、ゼノフォス2世は、前方のガラス張りの壁の向こうにみえる世界を見すえていた。若くして名君と称えられる聡明さ。同時に、ただ賢いだけでなく、それ以上に、冷徹な決断力・実行力を備えたカリスマ。理知的な光を宿した黒い瞳。形良く通った鼻。そして固く結んだ口元は意志の強さを感じさせる。
 この《神帝》の怒りに触れたガノリスの帝都は、エレオヴィンスの下部に搭載された超兵器《天帝の火》によって、この世から消失したのである。
 ゼノフォス自身は、大帝国の皇帝にしては意外なほど簡素な青い長衣をまとい、無言でたたずんでいる。おそらく軍事向きの話をしていたのであろう。帝国軍の制服に身を包んだ高級将校らしき2人が、主君に礼を捧げて部屋から出て行くところだった。
 その一方は、帝国軍の総司令官ゲオール・ド・ゴッソである。目尻にも口元にも多数の皺が深く刻み込まれ、頭髪もほとんど抜け落ちた年の頃であるにもかかわらず、帝国軍を任された長の姿勢は凜として、言葉のひとつひとつにも堂々とした気力がみなぎっていた。 筋骨隆々とした逞しい肩に、ケープ状の短い黒マントを羽織り、その下には帝国軍の制服に共通する青地の上着と赤い襟、分厚い胸に並ぶ数々の勲章。最前線を離れ最高指揮官となった現在も、かつての荒武者たる姿は、ゴッソから微塵も損なわれていない。
 他方は、帝国軍本陣の中核をなす機装騎士団《コルプ・レガロス》の団長オルロン・ド・マシュア。大柄なゴッソ総司令官に対し、マシュア団長は、中背で引き締まった細身の体型だ。金色に波打つ頭髪からつながる彼の濃いもみあげが、見る者の印象に残るだろう。少し野暮な男臭さと冷徹な合理的精神とが奇妙にバランスよく同居したような、一種独特の空気感をもつ中年の貴族である。

「キュルコス、話は聞いた通りだ。メリギオス大師と大地の巨人《パルサス・オメガ》から目を離すな」
 ゴッソとマシュアが去った後、部屋に残った別の者たちに対し、ゼノフォス皇帝が抑揚に乏しい口調でささやいた。
「御意……」
 まだ幼さの残る声とともに、水色がかった髪の美青年、いや、美少年が恭しく応える。
 高貴ながらも透明なまなざし、白磁のような肌、綿菓子を思わせるふわりと膨らんだ髪型からは、彼は貴族のお坊ちゃんか何かに見える。また、その服装からすると小姓のようにも思われる。しかし、彼の《同業者》すなわち魔道士なら気づくはずである。虫も殺さなさそうなこの少年が、相手を魂から震撼させるほどの底知れない魔力を身に秘めていることに。
 皇帝はさらにもう一人の男に声をかける。
「ネーマン、《黒騎衆》を率いて出られる準備をしておけ」
 無言で一礼したのは、仮面を被った機装騎士だ。ちなみに《ネーマン》とは、エスカリア語で《名も無き者》を意味する言葉であり、おそらく彼の本名ではない。
 くせの強い波打った赤髪の下、額から目、頬にかけての素顔を、彼は銀色の金属製のマスクで覆っている。口元の雰囲気からみて、20代後半から30代前半といったところだろう。ほとんど喋らず動作も最小限であり、無表情な、押し黙ったような顔つきをしている。彼自身のそのような内面が、冷たい銀の仮面に象徴されているようにも思えた。


3 かつて「時の司」とレマリア帝国に対し、立ち向かった者たち


◆ ◇ ◆

 大理石に似た白い石を精緻に積み上げ、岩山の高みに造られた神殿。
 エンタシスの柱の向こうに、砂ばかりの世界が延々と広がっているのが一望できる。
 見渡す限りの砂漠には、鋼の鎧をまとった巨大な人型や獣型の残骸が――明らかにアルマ・ヴィオが――神殿の真下から地平の彼方まで埋め尽くすような勢いで、数百、数千、いやそれ以上という単位で、無数に折り重なって倒れている。生々しい損傷の様子から、どの機体も激しい戦闘によって破壊されたものだと分かる。
 今やアルマ・ヴィオの墓場と化した熱砂の大地に、ひとり建つ神殿の最上部、満身に傷を負いながらも目もくらむような長い石段をここまで登ってきた戦士の姿があった。鶏冠状の大きな飾りのついた黄金色の兜、同じく黄金色の胸甲と深紅のマントを半裸の体にまとい、丸い楯と投げ槍をもった赤毛の青年である。
 もはや息絶え絶えの彼は、前方にただならぬ異変を感じ、閉じたままの目を歪めた。
 巫女を思わせる白い衣装と神秘的な雰囲気をまとった娘が、彼に隣で肩を貸し、必死に支えている。
「アレウス、しっかりしてください。立てますか……」
 とても心配そうに、それでいて返事が無いことを最初から分かっているような様子で、娘は戦士の顔をのぞき込んだ。白き長衣に同じく純白の薄衣のケープ、彼女の出で立ちは荒々しい砂漠には不似合いなものだ。足元もサンダルのような軽装のため、擦り傷で足指が血まみれになっている。
 ぼんやりと霞んだ視界の中、二人の行く手に、トーガ風の赤い衣をまとった男が見える。彼は微笑を浮かべつつ、侮辱的ながらも哀れむような口調で言った。
「よくぞここまで辿り着いたものだ。レマリア帝国に弓引く、身の程知らずたちよ。しかしその様子では、戦う力はもう残っていまい」
 だが不意に、彼の目に一瞬のたじろぎが浮かぶ。
「それは……。《ノクティルカの匣(はこ)》? なぜこの《像世界》に、そのような実体をもって《匣》が顕現している。しかも《人の子》にすぎないそなたが、どうしてそれを持っているのだ」
 娘は、両手で包み込むようにして、輝く銀色の箱を高く掲げている。それは、見た目には宝石箱やオルゴールのようにも感じられる。悲壮な決意をあらわにした表情で、彼女は金色の髪を振り乱しながら叫んだ。
「《あの存在》に連なる古き者たちよ。正体を現しなさい!」
 彼女の掲げた《匣》が、その言葉に反応するかのように輝き始め、たちまち閃光となった。そこから放たれる神々しい光を浴びた途端、赤い衣の男の輪郭が溶け出すように歪み、黒い影と化した。影はみるみる大きくなり、天井までも覆う高さまで伸びると、爆風と共に四つの鎌首をもたげた。
 ――愚かな人間どもが我らの存在を見抜くとは、驚嘆に値する。だが残念であったな、《白の巫女》よ。お前たちの頼みの綱である《光の御子》の命はもはや尽きようとしているではないか。
 影が急激に魔力を解放した勢いで、壁や床、柱が粉々になって飛び散る。突然、戦士と娘の前に翼をもった何かが現れ、結界を張って破片を防いだ。それは、ぼんやりと揺れる陽炎のようではあったが、白い衣をまとった長い髪の女の姿をしている。

 ――パラディーヴァか。忌々しきエインザールのしもべども。

 思念波による地響きのごとき《声》が、心の中に直接伝わってくる。

 ――我ら《時の司》、万象の管理者なり。

 対峙する相手の圧倒的な力に絶望めいたものを覚えながらも、《白の巫女》は言った。
「ここで命が消えても、私たちの想いはいつかお前たちを滅ぼす。たとえどんなことをしてでも、どんな姿に生まれ変わってでも……私は、いつか、運命の《御子》が現れるいずれかの世界で、《鍵(ノクティルカ・コード)》への手がかりを必ず《彼》に伝える」

 ◆ ◇ ◆

 《私タチノ想イハ イツカ オ前タチヲ滅ボス》。

 荒涼とした砂の世界のイメージと共に、誰かがそう告げる声が聞こえたような気がする。何かにうなされているのか、ルキアンは目を閉じたまま苦しげにうめいている。
 アルフェリオンの《ケーラ》の中に眠るルキアン。棺のような暗くて狭い空間にその身を横たえ、彼は意識を失っていた。

 《イツカ 必ズ晴ラシテクレル》

 別の声が聞こえた。暗くよどんだ世界の心象を漠然と伴って。

 ◇ ◆ ◇

「僕は感じる。都合の良い主観あるいは妄想というには、このあまりにも強い確信はどこからやって来るのだろう」

    彼は空を見上げた。
   もしも空が青だというのなら、
  ここには空は無い。
  そういう空は、この世界ではとうに失われているから。

 時計は夕刻を指している。
 だが、見上げれば広がる《空》のくすんだ濃い藍色は、単に日没の近づいた結果として見えるものではなく、元々そういう色なのだ。強いていえば、天を閉ざすその暗い色が、夕暮れによって《昼間》よりもいくらか深くなったというだけだった。
 分厚いガラスのゴーグルと、背中のボンベからチューブのつながった、宇宙服のような銀色の分厚い防護服をまとい、さらにマスクの下で彼はつぶやく。
「いつか、誰かが……誰なのかは分からないけれど、その登場だけはなぜか確実に予感できる誰かが、置き去りにされた僕らの思いを、必ず晴らしてくれる」
 地表を覆ったケレスタリウム灰の絶望のカーテンは、世界を終わりなき薄明の檻に閉じ込めた。人はそれを《永遠の青い夜》と呼んだ。

《この想いを伝えたい、約束の人よ。この言葉があなたに直接届くことは永遠にない。それでも、感じて。僕らの願いを……》

 ◆ ◇ ◆

 ――この人たちは誰なんだ。沢山の声が、僕の中に流れ込んでくる。
 いずれ来る者への《想い》や《願い》を告げる声。そこからルキアンは、あの《光と闇の歌い手》ルチアの幻を思い出した。

 《我ら、魂の記憶で結ばれた血族。遠き未来に我が意志を継ぐ者よ》

 車椅子に座ったルチアが、穏やかな茶色い瞳をルキアンに向ける。
 と、今度は不意に彼女の姿が消え、真っ暗闇の中で子供たちの悲痛な声がいくつも聞こえてくる。ナッソス城で《楯なるソルミナ》がルキアンに見せた醜悪な幻。それが鮮明に思い出された。

 宙を漂う鬼火、あるいは人魂の下に、虚ろな目をした子供たちが立っている。
 見る見るうちに子供たちは数を増し、地の底から湧き出してくるかのように、一人また一人とゆらゆら立ち上がる。
 血の気のない青白い男の子や女の子、命無き幼子たちは四方八方からルキアンの方に歩み寄ってくる。
「痛い、痛い! 熱いよ」
 あちこちで同じように声が響いた。
「助けて。助けて」
「怖いよ、ここから出して!」
 なおも、にじり寄ってくる子供たち。その小さな手がルキアンのフロックの裾を握った。そして足首、膝と、あちこちに冷たい手が掴みかかる。

 そして、あのときと同じように、夕暮れの中でルキアンと手をつないでいた少女の影が、
夢の中で再び問うた。

 《まだ思い出さないの?》

 影はルキアンに向かって手を伸ばした。
 こんなに近くにいるのに、見えるはずの彼女の表情がまったく分からない。
 
 ――だけど、僕はこの子を確かに知っている。でも思い出せない、誰なんだ!?

 彼女が自分にとって大事な誰かであること、何か強い結びつきをもっている人であることをルキアンは直感する。知っているはずなのに、それにもかかわらず、まったく何も思い出せない。
 どうしようもなさに胸が詰まる。彼は心の中で叫んだ。

 思いあまって、飛び起きるように上半身を跳ね上げたルキアン。
 彼は、ケーラの天井に頭を思い切りぶつけ、その痛みに我を取り戻す。
「アルフェリオンの中? ここは、どこだろう。あれから半狂乱で飛んで、僕は? どこまで来てしまったんだろう……」

 ルキアンは、やがて緩慢な動作でケーラから這い出した。
 機体のハッチを開いて外に出てみる。
 まだ日は落ちていない。しかし、辺りはすでに薄暗くなりつつある。


【第50話 後編 に続く】



 ※2013年4月~5月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第49話・後編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


5 理のグラヴァス、重力の魔笛


 ◇

「これは……。ナッソス城を中心に、付近の霊圧線に異常な歪曲が発生しているわ」
 セシエルの緊迫した声。制御卓を操作する彼女の指が不意に固まった。集中して何かを探っている。
「特異点と周囲との霊気濃度差、第二警戒水準を超えてなおも急激に上昇。特異点、移動しています」
 出撃のために艦橋を離れようとしていたクレヴィスは、セシエルのただならぬ様子を感じて振り返った。
「移動? おそらく特異点はアルマ・ヴィオですか。それほどの数値となると……。アルフェリオンか、カセリナ姫のあの機体か。しかし、そうではない」
「特異点はナッソス城の地下から上昇中。地上に出てくる。ヴェン、確認して」
 今度はヴェンデイルの声がブリッジに響く。彼は艦の《複眼鏡》の倍率を拡大し、燃え盛る地表に無数の視線を走らせた。
「居るね、確かに。煙がひどくてよく見えないけど。いや、見えた。汎用型?」

 ◇

 静まりかえった戦場。岩壁が軋み、ぶつかり合う音。
 地響きとともに、黒き外衣に覆われたアルマ・ヴィオが、地面からせり上がるようにナッソス城の城門付近に現れた。
 ――ナッソス家の新手か。なぜ今頃。
 バーンは、見たこともない奇怪な機体を目にして、言いようのない危惧感を抱く。
 全身を覆う漆黒のマント。布地が風にはためくと、裏地の深紅が妙に毒々しくみえる。
 ――ガキの頃に何かの壁画でみた化け物……。あれだ、吸血鬼みてェだな。いい趣味してやがる。おい、あれもお前らの仲間か?
 皮肉っぽく尋ねるバーンに対し、ムートは微かな安堵感とともにつぶやく。
 ――そうだ。あれが動いているところは、俺もほとんど見たことはないが。レムロス。やっと来てくれたか。
 訝しげに見つめ直したバーンの視界の中で、それは、重量のある金属でできているとは思えない動きで滑るように移動した。
 まるで肉体なき死霊が忍び寄るようだと、彼は思った。
 空間を何度か跳躍したかのごとく、未知なる機体はたちまちのうちに側に来ていた。
 ムートのギャラハルドが一歩後退し、その隣に寄り添う。
 ――状況は説明するまでもないな。お嬢様を助ける。手を貸してほしい。
 数秒の間、レムロスから返事はなかった。
 風が強まったような気がする。《トランティル》の首から上を頭巾状に包んでいた布がはだけ、真鍮色のマスクが露わになった。彫りの深い目鼻立ち、長く突き出した顎。尖った耳。だが、それだけではない。トランティルは、正面だけではなく左右にも顔をもっていた。そのうちひとつの面がバーンのアトレイオスと相対し、両者の目が合う。
 ――こ、こっち見んな。何で三つも顔があるんだよ。
 バーンは思わず引きつった笑いを浮かべる。

 新たな敵の出現に、テュラヌス形態のアルフェリオンが牙を剥き、今にもあふれ出ようとする炎のゆらめきとともに、威嚇するように咆吼する。もっとも、自分以外の存在はすべて破壊の対象とみなす今のアルフェリオンには、敵・味方という概念は必要ないのかもしれないが。
 レムロスは無言で見つめる。トランティルのマントの下から細長い腕が現れ、その手は金色に輝く杖を、いや、杖のように大きい横笛を握っている。そして今や魔笛を吹き鳴らさんと、おもむろに構えた。アルフェリオン・テュラヌスが瞬時に次の動きに出ようとする機に先んじて、レムロスは唱える。

 ――発動せよ、《理(ことわり)のグラヴァス》。

 そのとき起こったことを、バーンはまったく理解できなかった。突然、視界が暗転、身体が鉛のように重くなった。いや、そんな生やさしいものではない。今になって思えば、機体が地面に叩き付けられ、元々から大地の一部であったのではないかと思うほど、動かそうにもびくともしないのだ。彼は、無様に這いつくばるアトレイオスの目を通して、アルフェリオンが自らと同様に地に押さえつけられているのを見た。
 ――地割れ? アルフェリオンの周囲、地面がくぼんでやがる。機体のところから、周囲に地割れが……。あれじゃ、空の上から落ちてきたようじゃねェか。しかし、どうなってるんだ。重い。こっちも全然動かねェぞ。
 金の横笛を手に、独り立つトランティルの前で、アルフェリオン、アトレイオス、ギャラハルドの三体が地面に伏している。それぞれの機体を、輝く球体のような結界が包んでいる。
 ――気をつけろ……。いや、何をする、レムロス?
 疑念をありありと現し、ムートが言った。
 そんな中、アルフェリオン・テュラヌスが雄叫びをあげ、力尽くで身体を起こそうとする。
 レムロスは薄笑いを浮かべた。
 ――この程度では足りないようだな。
 トランティルが再び笛を吹くと、アルフェリオンがもがき、地面にめり込んだ。銀色の機体が赤茶けた土に食い込み、無理に動かされた手足が歪みそうに突っ張り、甲冑の装甲が悲鳴を上げる。
 ――無理もなかろう。今、その機体は通常の10倍の重さなのだから。下手に動くとただではすむまい。
 レムロスがつぶやく中、アルフェリオンの肩当てと大腿部の装甲にひびが入った。
 苦痛をこらえながらバーンが叫ぶ。
 ――おい、俺たちまで巻き込むな。何をしやがる!
 返事の代わりに、高音で空気を切り裂くようなトランティルの笛の音が辺りに響き渡る。バーンは声にならない叫びを上げて、半ば意識を失いそうになった。地面に埋め込まれたような形で、アトレイオスはもはや全く動けない状態だ。
 ――少し黙っていろ。
 淡々とした口調で、冷ややかに告げるレムロス。
 分厚い曲刀を杖代わりに、ギャラハルドは徐々に機体を起こそうとする。ムートが苦しい息のもとで問う。
 ――今頃になって出撃したかと思えば、最初からこういうつもりだったのか、レムロス。お前の狙いは一体……。
 言葉の途中で、ムートがうめき声をあげた。半ば立ち上がりつつあったギャラハルドが、巨人の鉄槌で頭上から叩き潰されたかのように、地面にうつぶせになり、機体の各所にひび割れが生じている。
 ――ムート。そうか、君は、私のことに少し疑問を感じていたようだな。意外だよ。主君のための剣でしかない《古き戦の民》の君は、ザックスとパリス以上に、戦いのことにしか関心をもたないと思っていたのだが。
 勝ち誇ったレムロスが告げる。
 ――四人衆の中では、いや、この戦いが始まる前までの四人衆の中では、唯一、ギルドの繰士デュベールが厄介だった。彼は頭が切れ、政治向きのことにも色々と気を配っていたのでな。だが賢明すぎたがゆえに、彼は、この戦いから手を引く決意をし、自らナッソス家を去った。皮肉なものだ。カセリナ姫がデュベールを慕っていたことを嫌い、公爵は彼を遠ざけていた。もし、デュベールから公爵に対し、反乱軍に荷担してはならないといった進言でもされていれば、事はこれだけ容易には進まなかったろう。
 ――そうか。やはりお前が、殿に取り入り、ナッソス家を反乱軍の側で参戦させるよう吹き込んだのか。しかし、何のために。お前は、いったい?
 ――知る必要は無い。いや、知ったところで、もはや時すでに遅し。そう、ナッソスは十分に時間を稼いでくれた。
 ムートに引導を渡そうというのか、レムロスのトランティルが、魔の笛をさらに吹き鳴らす。それを引き金に、ギャラハルドがいっそう強い力で押し潰された。いや、機体そのものの重さで地面に食い込んでいる。恐るべき自重に耐えきれず、甲冑が音を立てて割れ、その破片もまた地面にめりこんだ。
 ――ギルドの銀天使よ、このままにしておくと、君も目障りだ。まさか、ここまでの力をもっているとは。
 レムロスが思念を込めると、輝く結界の中で、アルフェリオン・テュラヌスの機体がますます重くなる。

 だが、そのとき、テュラヌスがひときわ大きく吠えた。
 うつぶせになった機体、例の《闇の紋章》が背中に浮かび上がる。同時に、《黒の宝珠》の中、星のまたたく闇の中を漂うルキアンが、不意にぴくりと動き、悪夢にうなされるようにうめき声を上げた。意識の無いはずのルキアンが、眠ったまま絶叫し、身体を震わせる。白目を剥いたルキアン。その右目にも闇の紋章が浮かぶ。だが、それは彼自身の意思によるものではなく、何かに無理やりに力を引き出されているように見える。宙にそよそよと揺れる銀色の髪が、一瞬、漆黒色に変わったかと思うと、また銀色に戻った。
 苦悩に満ちた彼の声が、テュラヌスの凶暴な雄叫びと一体となったとき、闇の紋章が光り輝き、立ち込める黒雲のごとく、機体を中心に黒い影が溢れ出す。その影はいっそう色濃くなり、テュラヌスを取り囲んでいた結界の中に充満したかと思うと、まるで闇が光を溶かすように結界を侵蝕し始めた。光の壁が崩れていくにつれ、アルフェリオン・テュラヌスの機体は、見えない鎖から徐々に解き放たれてゆく。地面に沈み込むほどの重量と化していた機体が、軋みながらも動き、次第にその動きも軽くなってきている。
 ――馬鹿な、《理のグラヴァス》の力を打ち消しているだと?
 レムロスが戦慄を感じたときには、アルフェリオンを取り巻く闇はさらに広がり、もはや結界を消し去ろうとしていた。裂け目から外へと流れ出し広がる闇の勢いも、爆風さながらに速い。
 ――何という力だ。このままでは結界が破壊される。
 トランティルの姿がかき消え、再びアルフェリオンの側に現れる。その足元に無残に横たわっているイーヴァの機体を素速く抱えると、トランティルは幻像を思わせる動きで遙か背後に飛び退いた。
 ――あのお方への手土産も得られた。ここが引き際か。

 ルキアンの瞳に浮かんだ闇の紋章が、白熱の光を帯び、涙が散った。
 暗き闇の激流は、レムロスの結界を完全に破壊し、そのまま轟然と周囲を飲み込む。闇は大地にしみ込み、テュラヌスを中心に円形の黒い影が見る見る広がってゆく。地面に転がっていたいくつかのアルマ・ヴィオの残骸が、影にふれた途端、それに飲み込まれるように消えた。

 ――やめるんだ、ルキアン! もういい、もういいんだ。
 結界の効力が無くなったのか、同じく解き放たれたバーンが、朦朧とした意識の中で必死に呼びかける。だが、呼びかけも空しく、アトレイオスの足元近くまで影が押し寄せてくる。
 ――こんなことして、何になるんだよ。いい加減にしろよ、おい。何もかも壊して、こんなこと、誰も、お前自身も望んでねェだろうが!
 迫り来る闇の領域を前に、アトレイオスは仁王立ちし、一歩も退こうとしない。

 ――目をさませ、ルキアン……。ルキアン・ディ・シーマー!!

 ルキアンの名をバーンが最後に叫んだとき、闇の中にアトレイオスの姿が消えたようにみえた。


6 ただ、ここから逃げ出したい



 瞬く星々を除けば何ひとつない、どこまでも暗い空っぽの世界に漂いながら、ルキアンは止めどなく涙を流し、途切れ途切れにうめき声を上げ続けた。そんな彼の姿は、醒めない悪夢の檻に囚われているかのようにもみえた。あるいは、頬を伝う涙とともに、生命力や、心さえも、彼の身体から絞り尽くされてゆくようにも……。

 もはや目の前に立ちふさがる者さえいないのに、白銀の巨人アルフェリオン・テュラヌスは、なおも荒れ狂い、血に飢えた咆吼で戦場を揺るがしている。終わりなき怒り。虚ろな魂をもつ魔戦士は、決して満たされることのない破壊への意志を、飢えを、生きとし生けるものたちの命をすすって癒そうとでもしているのだろうか。
 青白く揺れる鬼火のごとき光が四方八方に地を走り、荒野に円陣を描き、テュラヌスを中心に《闇の紋章》を浮かび上がらせる。
 アルフェリオンという《扉》を通り、現世(うつしよ)に溢れ出した《闇》。翼をもたないテュラヌスが、今や黒き影の翼を羽ばたかせ、あらゆるものを消滅させようとする。緑ゆたかな中央平原にあって、そこだけが取り残されたように草木に乏しいナッソス城周辺の大地ではあったが、わずかばかりみられる灌木や雑草の類もすべて影の中にかき消えた。

 ◇

「どうする、フォリオム。あれを放っておけば《闇》の侵蝕が周囲にまで広がってしまうだろう。《支配結界》を展開していない今の状態だと、《闇》の干渉によってファイノーミアの霊的空間情報に深刻な欠損が生じる」
 机上に置かれた遠見の水晶玉の左右に手を添え、沈黙していたアマリア。
 空気に溶け込むような長い吐息とともに、彼女は目を開いた。鋭い眼光をたたえ、わずかに紅を帯びた濃い茶色の瞳は、ある種の石榴石(ガーネット)を想起させる。
「《黒の宝珠》が、自らの意志で――いや、旧世界風にいえば《プログラム》通りに――《御子》の《闇の紋章》の力を無理に引き出し、その力を、暴走するテュラヌスに与えているというのか」
 アマリアがそう語っている間にも、アルフェリオン・テュラヌスの足元から周囲へと漆黒の影が広がってゆく様子が、彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がる。
 薄暗い部屋の中、老賢人の姿を借りたパラディーヴァ《フォリオム》が彼女の隣に姿を見せた。
「誰かがあれを止めぬ限り、闇の御子の力が尽きるまで侵蝕は広がり続けるじゃろう。《支配結界》の中ならいざ知らず、剥き出しの《闇》の力を振るうなどと、限度を知らないことをやりおるわい。さすがに黒宝珠というところかの」

 ◇

 地を這う暗黒の領域は、瞬く間にアトレイオスの足元にも達する。
 乗り手のバーンの視界が奪われる。何も見えず、いや、何も聞こえない。
 ――いけねェ。これは、本当に……。
 一瞬にして、体中の血液がざわめく。死の使いが背中に舞い降りた。そのことを彼は直感する。
 恐怖を感じる間もなく、すべての感覚が麻痺し、一瞬、自分自身の意識以外のあらゆるものが、彼の知覚する世界から失われた。
 急速に意識も薄れ、己の存在が暗闇の中にかき消えてしまうように彼は感じた。

 そのとき、誰かがバーンの名を呼んだ。同時に、ルキアンの名前をわめき散らしながら。
 上空から何かが急降下し、鋼色に輝く鉤爪でアトレイオスの肩を掴む。
 ――上がれぇぇ!!
 全身全霊を込めたメイの叫び声。
 彼女の気持ちに応え、赤き猛禽ラピオ・アヴィスが甲高く鳴き、翼に力を込める。飛行型アルマ・ヴィオに特有の華奢な造りに似合わず、ラピオ・アヴィスは、魔法金属の重甲冑で身を覆ったアトレイオスを大地から引き離した。
 ――この野郎! ルキアン、自分のしてることが分かってるのか!! この、この、この……。
 メイは滅茶苦茶に怒鳴りながら、アトレイオスを上空へ運び上げようとする。
 だが、ふと視線を走らせたとき、信じ難い光景に彼女は叫び声すら飲み込まざるを得なかった。あまりに酷い様相に目まいを覚えるメイ。アトレイオスの機体の右半分が、脚部から胸部付近に至るまで完全に無くなっているのだ。
 メイは念信で必死にバーンに呼びかけたが、返事はない。いや、彼の意識すら感知することはできない。
 襲いかかる《闇》に蝕まれ、アトレイオスは一瞬で機体の半分を消滅させられたのか。
 激高と絶望とが入り交じったメイの心の叫びが、空虚に響き渡った。

 ◇

 穏やかな表情で微笑すらたたえていたフォリオム。不意に、口調も姿勢もそのままで、部屋の片隅の暗がりの中、彼の目に凍てついた光が浮かぶ。あくまで静かに。
「覚えておくがよい、我が主アマリア。もともと《アルファ・アポリオン》は、《天上界》に、つまり《天空植民市群》に終焉をもたらすための殲滅兵器。あれのシステムの中枢となる《黒の宝珠》も、そういう目的にかなった性質のものじゃと。たとえエクターが戦闘不能になったとしても、宝珠は自らのプログラムに基づいて戦いを続行する。仮に、アルファ・アポリオンの機体が損傷しても、宝珠は機体の自己再生と自己進化を繰り返す。万が一、機体が大破しても、宝珠は《闇の繭》を作って機体を新たに再構築する。お主も先ほど見たであろう? あれは、たった独りの不死の軍隊じゃよ」
「まさにな。しかし解せない話だ。いかに旧世界の魔法と科学とをもってしても、それほどのものを創り出すことができるのだろうか。《黒の宝珠》とは、一体」
 宝珠の狂気じみた本質に対してもアマリアは顔色ひとつ変えず、フォリオムに尋ねるのだった。
「わしにも分からん。リューヌでさえ知らんのではないかの。ひとつだけ言えることとして、おそらく、宝珠の核となる部分はエインザール博士によって作られたのではなかろうな。いや、《人の子》が創ったものではないかもしれぬ。あれは《在った》のじゃよ。いつの間にか、リュシオン・エインザールの側に在ったのじゃ」

 ◇

 ――影が、影が、すべてを食べ尽くしてゆく。何なのさ、あれは!? ともかく近づいたらどうなるか分かったもんじゃない。
 地上付近に広がる漆黒の領域から少しでも離れるため、メイは機体の高度を必死に上げようとする。
 ――どうした、ここが頑張りどころよ、ラピオ・アヴィス。
 メイの愛機ラピオ・アヴィスの方は、悲鳴にも似たけたたましい声で啼いている。分不相応に大きい獲物を捕らえた鳥さながらに、何度もふらつきながら、《彼女》は少しずつ上昇していった。仕方のないことだ。元々、飛行型アルマ・ヴィオが汎用型を移送する場合、背中の上に乗せて、それも厳密にバランスを考えた特定の位置のみに乗せて運ぶことができるようになっているのだ。
 ――ルキアン、あの馬鹿。
 そしてメイは忌々しそうにつぶやいた。彼に対して以上に、むしろ今の状況に対して何もできない自分自身に対して。
 ミトーニア市が開城された晩、ルキアンと二人で交わした言葉が、彼女の中で妙にはっきりとよみがえった。


「いったん《闇》をのぞいてしまった人間に、そっちに行くなって言っても、無理なのは分かってる。ぶっちゃけた話、だからあたしは、いまだにエクターなんて人殺しをやってる。普通の人間がエクターなんてやるわけないだろ?」
「《闇》からは逃れられない。それでいいよ。でも、どんなに心の暗闇に魅入られても、最後にはこっちに帰って来い。分かった?」


 心の声ではあるが、メイは腹の底から絞り出すような心持ちで、悔しそうに言った。
 ――何でだよ。くそ、くそぅ……。


「え、偉そうなことを言うようだけどさ、いつかキミにも意味が分かる。ルキアンがどんな過去を背負っているのかは知らない。でもさ、ルキアン、キミはもう一人じゃない。アタシらがいる」
「最後には帰って来いよ、それでいい。それでいいんだから……」


 ――あたしってば、あんなこと言ったのに。あたしが居るって、一人にしないって、言ったのに。
 大地を徐々に飲み込んで不気味に増殖を続ける《闇》を見下ろしながら、メイは絶望的にうめいた。
 ――でも、このままじゃ。

 ◇

 長い睫毛を伏せるように目を閉じ、アマリアは、フォリオムの声に無言で頷く。
 パラディーヴァの精神はマスターのそれとつながっているのだから、実際には両者が理解し合うのに言葉は必要ない。彼らの間の会話は舞台じみた儀式、あるいは独り芝居のようなものかもしれなかった。
「こういうやり方は気が進まないが、やむを得まい。闇の御子を止めるか。ルキアンに《紋章回路(クライス)》が形成された現段階ならば、私は《通廊》を開いて彼の紋章にアクセスすることができる」
 曲げ木の技術が見せる優雅な曲線で形作られた、簡素ではあれ美しい椅子に、アマリアは深く腰掛け直した。
「ただ、《紋章》の力を使えば私の居場所が知られてしまうことになるのは、気に入らない。こうしている間も御子の戦いを覗いている《御使い》たちに。もっとも、これまでだって、《御使い》が私のことをどうにかしようと思えば、いつでもここに現れることはできただろうがな。何と言うべきか、それでも気分の問題なのだよ」
 そしてアマリアは胸の奥でつぶやく。誰が聞いているわけでもなく、フォリオムにはどのみち隠すまでもなく、それ以前に隠すこともできないのだが。これも気分の問題、なのだろうか。
 ――ここで我に返ったとき、ルキアンは……。いや、これで彼も認識せざるを得まい。《御子》がもはや《人の子》とは違う存在であることを。彼らと共には居られないということを。遅かれ早かれ分かることだったろう。

 アマリアは、本当に微かな微かな哀しい笑みを唇に浮かべ、首を傾けた。

  涙するがいい。呪うがいい。
  そうすることで絶望の気持ちが枯れ果てるとでもいうのなら。
  だがそれは無意味ではないにせよ、君の新しい現実に対しては無力なことだ。

 吐息が薄明と静寂の中に染み通る。

  《深淵》を知ったのだろう。
  君の背負った《御子》の宿命は、そのとき魂の底にまで刻み込まれたはず。
  ならば見よ、その目で。君の得た暗き闇の瞳を通じて。

「見るがいい。御子の力とは、こういうものだ」

 アマリアの右目が見開かれた。瞳に輝く、黄金色の《大地の紋章》。
 あまりにも巨大な《ダアスの眼》のイメージが、ほんの一瞬、解放された魔力の嵐の中で際限なく膨らんだ。
 刹那の時、大地さえも揺らめき、地上を覆う大気すべてを何かが貫いたような、異様な感覚が走る。

 ◇

 突然、稲妻に撃たれたかのごとく、アルフェリオン・テュラヌスが停止した。
 時を同じくして、《闇》の領域が、引き波を思わせる動きでアルフェリオンの方へと戻ってゆく。
 石像のように立ち尽くす銀の魔神の周囲には、円陣状に、何ひとつ無い枯れ果てた地面だけが残った。その外側には、テュラヌスの灼熱の炎で息の根を止められた多数のアルマ・ヴィオの残骸が、主にナッソス側の機体を中心に、溶解して原型をほとんどとどめない姿で折り重なって山を築いていた。

 ――僕は。

 乾いた風だけが寂しげに吹き抜ける様は、戦場に消えた魂たちのすすり泣きを思わせる。

 ――僕は……。僕が、ここで。

 涙で視界は霞まない。
 今の彼の目、アルフェリオンの魔法眼が、涙など流すはずもないから。
 あたかも魔力が抜けてゆくように、刺々しく分厚い甲冑に覆われたアルフェリオンの外殻が縮み、機体の表面を覆う多くの結晶状に尖った突起も消えた。両手の鉤爪が、次第に丸く、短くなり、元の指に戻る。気がつくと、アルフェリオンの形態は、凶悪な魔獣の戦士テュラヌス・モードからフィニウス・モードへ、天の騎士アルフェリオン・ノヴィーアの精悍な姿へと還っていた。

 ――カセリナを。バーンの命を……。
 身に覚えのないはずの行為に対し、ルキアンは震えた。完全に意識を失っていたはずなのに、その間にアルフェリオンがしたことに関する記憶は不思議なほど克明に残っている。呆然とする彼の心から、自らの重さで流れ出るように言葉が漏れた。
 ――なんて、ことを。僕は、最低だ。あれだけ嫌だと思っていたのに! 結局、ただの兵器に……なって、しまったんだ。
 沈黙。そして。
 少年の脆い魂が、ひび割れ、崩れ落ちる。
 狂ったような悲鳴を上げ、我を失うルキアン。

 うちひしがれた心を哀れむように、アルフェリオンがひときわ高く鳴いた。
 機体の背中で6枚の翼が広がる。銀色に輝く、そのひとつひとつに魔力が集まり、そこからさらに光の翼が延びる。
 なおも絶叫するルキアン。
 どこへ向かうともなく、ただ、どこかへ消えてしまいたいという衝動的な思いだけで彼は翼を開いた。砂塵を舞い上げ、嵐のごとき爆風と、轟音とを残して白銀の騎士は飛び立つ。その姿が次第に小さくなり、そして平原の彼方に消えるまで、長くはかからなかった。


【第50話に続く】



 ※2011年2月~10月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第49話・中編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


3 バーンとムート、共闘?



「ここは? 僕は、一体……」
 ルキアンは不意に意識を取り戻した。そのように思われた。
 だが違う。彼は何となく気づいた。これは夢、非常に明晰な夢だ。
 身体が宙を漂う浮遊感。だがその感覚自体は、今まで《黒の宝珠》内部の異空間に居たときと似たようなものだった。彼が周囲に意識を向けたとき、突然に視界が柔らかな光に包まれた。そして広がる淡い緑の世界。
「木漏れ日、ここは、森の中?」
 浮遊感もいつの間にか消え、ルキアンの足も確固とした大地を踏みしめていた。今の不可解な状況が、《盾なるソルミナ》の幻の世界に取り込まれたときと酷似していたため、ルキアンは慌てて警戒し、身体を強張らせた。
 もっとも、雷撃のごとくルキアンの全身を駆け抜けた緊張感とは裏腹に、辺りの様子は呆れるほどに穏やかだった。目に色鮮やかな新緑の木々。冬の寒さとも夏の暑さとも無縁な心地よい空気を、そよ風が運ぶ。鳥たちのさえずり。

 ふと前方を見やったルキアンは、思わず息を呑んだ。
「き、君は……」
 彼は幽霊でも見たかのように凍り付いている。何度も言葉を詰まらせ、彼はようやく口にした。《彼女》の名前を。

 《ルチア、光と闇の歌い手》

 ルキアンよりも少し年上だろうか。ほっそりとした背筋に少女の雰囲気を残す、まだ大人になってほどない女性がいた。車椅子に座った彼女の周囲を、数匹の小鳥たちが親しげに飛び回っている。彼女の伸ばした手。白くか細いその指先に、周囲の木々の葉の色と似た萌葱色の小さな鳥がとまった。彼女は鳥と話し、互いに意思を通じ合っているように思われた。
 やがて彼女はゆっくりと振り向く。遠目には黒色に見える、濃い茶色の髪が風に揺れる。優しい笑顔。彼女がこちらを見つめたとき、輝く光の粉が周囲に漂ったかのような気がした。彼女の髪と似た色の焦げ茶色の瞳が、穏やかにルキアンを見つめる。

 だが……。
 これは直感だ。ルキアンは、ルチアのまとった穏やかな光の裏側に、底知れぬ闇が口を開けているのを感じ取った。

 ――この人は、僕と同じだ。

「その通り。我ら、魂の記憶で結ばれた血族。遠き未来に我が意志を継ぐ者よ」

 彼女がそうつぶやいたとき。
 声なき絶叫が周囲に響き渡り、緑の世界は一瞬にして灰色に朽ちた。
 風は重苦しい粘着感を帯び、木々の間の影に闇がうごめき始める。
 青空は夜の闇に覆われ、細い三日月だけが妙に明るく大地を照らす。
 ルチアが無言で差し出した手のひら。
 その中で小鳥は白骨と化し、さらに砂となって闇の中に散っていった。

「私は信じた。だから戦わなかった」
「知っています。あなたは誰よりも強い力を持ちながら、それをずっと使わなかった」
 ルキアンには何となく分かっている。《深淵》をみたとき、ルチアをはじめ過去の御子たちの思いが、ルキアンに向かって流れ込んできたのだ。それは彼の中で、曖昧に己の記憶となった。
 ルチアは目を伏せ、聞く者の心が凍り付くような声でうめいた。
「その結果……。私は最後に絶望の中ですべてを呪い、己の闇を解き放ってしまった」
「やめて、ください。思い出したくない」
 ルキアンはルチアの経験を知っており、言葉の意味を理解しているようだ。
「私の友よ。心してほしい」
 おそらく、ルキアンの見ているルチアに自我はないのだろう。彼女は多分、ルチアが残した残留思念のようなものだ。

 優しさを弱さの言い訳にしてはいけない。
 力ある者には、逃げてはならないときがある。
 穏やかな世界の絵姿に、どんなに心ひかれても。
 それが御子の宿命。

 己の心に痛みが刻み込まれるのが辛いからといって、
 その気持ちを優しさとすり替えてはいけない。
 自らの手が血にまみれることに耐えなければ、
 代わりに他の多くの者の血が流されることになる。

 私は、その宿命に耐えられなかった。
 そして大切なものを守れず、自らの命さえも失った。
 最後にようやく気づいた私は、憎しみに我を忘れ、
 すべてを滅びに巻き込んだ。
 本当に愚かだ。

「ルチア……」
 呆然と見つめるルキアン。彼の瞳をルチアが見返した。
「優しさに流されず、しかし優しさを忘れてはいけない。闇を受け入れ、しかし闇に飲まれてはいけない」
「僕には、そんなこと、急には無理だよ。だけど、それでも……」
 ルキアンは力無くつぶやいた。
 目まいがする。再び足元や身体の感覚が曖昧になり、視界が霞み始める。ルチアの姿が逆巻く風の向こう側に消え、彼女の声だけが聞こえた。

 あらゆる人間は闇を内に秘めている。
 しかし人は闇を忌み嫌う。なぜなら……
 それが自身の本質の一部であることを認めるのが、あまりにおぞましいから。
 それでも、光と闇との間で、理性と獣性との間で揺れるのが人間という存在。
 獣でも天使でもない私たちの姿。
 そんな、どうしようもなさを受け入れた先に、一寸の光が見える。

 ◇

 乗り手の意思を喰らい尽くしたかのように、アルフェリオン・テュラヌスの咆吼が現実世界に轟き渡った。《黒の宝珠》の内部、星々のまたたく空間を漂うルキアン。意識を失っているはずの彼の目から、涙が流れ落ちる。
 白銀の兜が開き、鋭い牙を光らせて露出したテュラヌスの口元。そこに、にわかに魔法力が集中するのが感じられた。
 ――絶大なパワーと速さだけではない。火竜のごとき燃え盛る息(ブレス)こそが、この機体の本来の武器!
 カセリナを守るために、決死の覚悟でアルフェリオンと対峙するムート。彼の機体《ギャラハルド》の目に映ったのは、今にも炎を吐き出さんとするテュラヌスの姿だ。
 ムートの絶望的な挑戦をあざ笑い、テュラヌスが灼熱のブレスを放とうとしたその時。突如、大地を揺るがせて何者かが割って入る。抜き身の巨大な実体をもつ剣が、テュラヌスの足元に打ち込まれた。
 ――お、お前。バーンか……。
 呆気にとられたムートに対し、聞き覚えのある心の声で念信が入る。
 ――勘違いすんな。助けたわけじゃネェ。ただ、許せないんだ。あいつが、ルキアンが、後で自分のやったことを知ったらなんて思うかって。そう考えるとよ。
 《蒼き騎士》こと《アトレイオス》が、機体の背丈を上回る長大な《攻城刀》を手にして立っている。その勇姿を見つめ、ムートが皮肉っぽく返事をする。
 ――まさか、あの《ソルミナ》の世界から生きて帰ってくるとは。久々に俺が心動かされた戦士、そのくらいのしぶとさがあっても不思議ではないか。
 ――うるせぇ! 黙って手を動かせよ、死ぬぞ。今は俺らのやることは一緒だろ、たとえ目的は違っても、何としてもコイツを止めなきゃよ。だから、おめェとの勝負は後だ。
 バーンの脳裏に、かつての過ちが鮮明に甦る。無意識の逆同調によって親友の命を奪ってしまったことが。その過ちに対する悔悟が彼の人生を狂わせ、やっとつかんだ近衛機装隊への夢を自ら絶って、野に下り、ギルドの繰士となったことが。
 ――エミリオ……。俺、言い訳がましいよな。格好わりぃよな。だがよ、俺のやったことは許されないが、だからこそ、同じことをアイツに繰り返させるわけにはいかネェんだ。ルキアンは、がさつな俺と違って繊細すぎる。カセリナ姫を手に掛けてしまえば、アイツは二度と立ち直れなくなる。
 バーンのアトレイオスが、ムートのギャラハルドの隣に並び、共にアルフェリオン・テュラヌスと向き合った。いずれも敵として相手にするには厄介だが、頑丈な甲冑に身を包んだ二体が共に戦列をなして立ち向かう姿は、心強く感じられる。


4 四人衆最後の一人、レムロス動く



 中央平原を駆け抜ける風に煽られ、燃え盛る炎と立ち込める白煙の向こう、無数のアルマ・ヴィオの残骸がいびつな金属の山をなして転がっている。焼け焦げた鋼の外殻の中から、焦げた肉の匂いと腐臭、そして若干の刺激物が入り交じったような、およそ心地よいとはいえない臭気が漂う。
 ――ルキアン! 俺だ、バーンだ、分からないのか?
 目に見えず、耳にも聞こえない、だが必死の思いを込めた念信が走る。
 重くよどんだ空気の中、沈黙が支配し、返事は戻らない。
 かわりに響いてくるのは、地の底から漏れ出すような魔獣のうなり声。
 ――答えろ、聞こえネェのか、ルキアン! 返事をしろ!!
 両の手で攻城刀を握り、バーンの愛機《蒼き騎士》こと《アトレイオス》が大地を踏みしめる。
 その前方に異形の影が立ちはだかる。
 多角形の柱を無数に組み合わせ、その間から剣山を生やしたかのごとき、異様な甲冑に身を包んだ巨人。
 アルフェリオン・テュラヌスモード。《荒れ狂う炎を宿した戦慄の戦士》。
 獰猛に裂けた口、鋭い牙の間から漏れるように、ときおり灼熱の炎が揺らめき、蒸気が上る。
 兜の奥で赤く輝く目。死神の大鎌を思わせる鉤爪が銀色に光る。
 ――おい! ルキアン……。何だよ、ムート、邪魔すんなって。
 アトレイオスを横に軽く押し戻すようにして、ムートの機体、黒と赤の重騎士《ギャラハルド》が遮った。
 ――残念だがもう無理だ。本気で倒すつもりで向き合わないと、致命的な隙になるぞ。
 小さく、押し殺したような声。
 ムートからの念信。その感じは、まだ少年のような若さと同時に、それとは対照的な冷徹な戦士を思わせた。
 ――あそこまで完全に《逆同調》してしまったらもう手遅れだ。見ただろう、あの容赦なき戦いぶりを。いや、殺戮を。
 ――そんなことは分かってる。だがよ。
 バーンがそう言いかけたとき、別の念信が入ってきた。こちらは日頃から聞き慣れた心の声だ。
 ――バーン、ここはひとまず引くのです。
 ――クレヴィーか。でもよ、このままじゃルキアンが。
 敢えて感情を交えず、乾いた思念の波に乗せてクレヴィスは即答する。
 ――この状況の中、あなた方だけで何ができると? 冷静になりなさい。
 無言のまま、アトレイオスの魔法眼を通して空を一瞥するバーン。その先、遙か上空には飛空艦クレドールがいる。
 クレヴィスと入れ替わり、再びムートの声が聞こえた。
 ――どうした。俺だけでもお嬢様は助ける。
 ――待て、ムート、死ぬ気かよ。まったく……。
 バーンの言葉が終わる間もなく、彼のアトレイオスが素速く攻城刀を振り上げ、右肩に担った。アルフェリオン・テュラヌスとの間合いを慎重にはかりながら、城塞をも両断する大剣を構える。
 息の合ったタイミングで、ギャラハルドも動く。兜の頭頂部から下がった鎖状の飾りが鈍く音を立てた。アトレイオスの武器と負けず劣らず巨大な曲刀を手に、その切っ先を地に這わせる。
 ――違う。俺は命を捨ててまで勝つことなど、今は考えていない。お嬢様の機体を回収して、後は退く。
 ――ほぉ、意外に合理的なんだな。
 軽くちゃかした後、一転して、バーンは鋭く伝えた。
 ――いいか。この《マギオ・グレネード》には合図用の閃光弾が入ってるのさ。これであいつの視界を封じる。そんな小細工でなんとかなる相手じゃネェだろうが、その間に二人で同時に斬りかかり、お前は側面を取ると見せかけてカセリナ姫の機体を担ぎ出せ。
 アトレイオスの腰には、手投げ用の魔法弾、マギオ・グレネードが左右に1個ずつぶら下がっていた。飛び道具を装備していないこの機体にとっては貴重な武器だ。

 ◇

「やれやれ……。言っても無駄かとは思っていましたが」
 クレヴィスは溜息をつくと、それまで閉じていた目を開いた。
 彼は右腕を伸ばし、目の前のコンソールにはめ込まれた水晶玉のような物体の上に手のひらを乗せている。艦橋の念信装置だ。この装置の操作を担当するセシエルがクレヴィスの横に座っている。艶のある見事な黒髪を光らせ、セシエルは、隣に立つクレヴィスを黙って見上げた。
「セシー、メイとサモンを直ちに呼び戻し、プレアーにもラプサーに帰投するよう指示してください」
 クレヴィスはおもむろに眼鏡を外し、懐からチーフを出してレンズの曇りをそっと拭き取った。
「了解。何か策があるのね、副長」
「えぇ、そんなところです」
 クレヴィスは思わせぶりに片目をつぶって見せると、自分の席に戻っていく。そして今度はカルダイン艦長に告げた。
「カル、私が《デュナ》で出ます。まぁ、わずかの間、アルフェリオンの動きを封じることぐらいはできるでしょう。その隙にバーンを回収して撤退します。手が付けられない。ひとまず離れましょう」
 彼の行動を予期していたかのように、カルダイン艦長は黙って片手を上げ、それを了承する。

 ◇

 ――これは楽しいことになってきたね、01(ゼロワン)。ふふふ。
 少年なのか少女なのか、得体の知れない響きで言葉が紡がれた。
 中性的な可愛らしさの中に危険な妖艶さが見え隠れする、おそらく触れてはいけない相手だ。
 ――あのままだと《覚醒(ブート)》しちゃうかも。
 あっさりとそう口にした02(ゼロツー)。無邪気な嗜虐性に満ちた美しき悪意の子。
 そう、アルフェリオンの動きを凝視していたのは、クレドールの面々だけではない。
 戦場の遙か上空に忽然と姿を現した、例の正体不明のアルマ・ヴィオが2体。何らかの特殊なフィールドにより、それらの機体は五感で感知し得ないどころか、魔道士の超自然的な感覚によってさえ把握することができない状態にあった。
 ――あ、でも、《あれ》が覚醒する前に処分しないといけないんだったね。残念。どうしよう、殺っちゃおうか?
 ゼロツーの操るアルマ・ヴィオが翼を開いた。その機体の表面は、一度目にした者なら決して忘れることがないであろう、神秘的な色彩と輝きを放っている。アゲハ蝶の羽根のように、あるいは虹のごときオパールの遊色さながらに、見る角度によって複雑に色が変化するのだ。こんな金属は現世界には存在しない。いや、旧世界にすら……。
 その奇妙な体表の色をのぞけば、ゼロツーの機体は、いわゆるガーゴイル像がそのまま動き出したような姿をしている。すなわち、額から一本の角を生やし、一本の長い尾を持ち、優美な弧を描く翼をもった、悪魔の石像だ。
 いつの間にか、その手にはMTソードと同様の光の剣があった。剣を握った腕が天空を指して真っ直ぐに掲げられる。
 ――さようなら。この平原ごと消えちゃってよ。
 ゼロツーが微笑するや否や、瞬時に凄まじい魔力が光剣の先端に集まり、火の玉のように揺らめく球状の光となる。
 ――待て、ゼロツー。
 不意に念信が入り、ゼロワンが厳しい口調でゼロツーをたしなめた。
 アルマ・ヴィオの剣の先に集まり始めた魔力が、瞬時に霧散する。
 ――もう少し様子をみる。それ以前に我々のことはできる限り知られるべきではない。
 ゼロワンのアルマ・ヴィオの背後に、一回りから二回り大きい別の機体が浮かんでいる。暗い赤系統の色に全身を包んだ騎士型のアルマ・ヴィオだった。その背中には、遮るもののない陽の光を受け、後光を思わせる大小二重の巨大なリングが日輪のごとく輝いている。
 ――ちぇっ。分かったよ。
 ゼロツーは不平そうにつぶやき、くぐもった声で笑うのだった。

 ◇

 時を同じくして、ナッソス城内でも新たな動きがあった。

 城の地階に設けられた、アルマヴィオのための広大な格納庫。
 他の機体の居並ぶ場所とは異なる、さらに奥深きところ。
 湿った空気の充満した、光の届かぬ地下空間に、ぽつんとランプの光が灯った。
 岩盤が剥き出しになった床を、硬い靴音がゆっくりと移動して行く。
 人間の胴体ほどもあるチューブのような設備が床を這い、壁面を伝って上の方から吊られている。その内部は不気味な液体で満たされているようだ。時折、脈動している様子は、眠っている大蛇のようである。それは1本ではなく、2本、3本、いや、大小合わせると簡単には数えられないほど多い。
 ランプが高く掲げられた。淡い光に、何か巨大なものが照らし出される。
 数多くのチューブは、すべて、その何かにつながっている。

 暗がりの中で声がした。落ち着いた、気品ある中年の男の声だ。
「予想外の成り行きとなったが、結果的にはむしろ好都合……」
 見事に刈り込まれた口髭。口元が緩み、男はほくそ笑んだ。
 一分の隙もなく紳士然とした姿は、見紛うこともない、ナッソス四人衆のレムロス・ディ・ハーデンである。
 彼の見つめる先、壁を背に途方もない大きさの影がそびえている。
 それは明らかにアルマ・ヴィオだ。
「目覚めよ。わが鎧、《トランティル》」
 彼の声と共に、一斉にチューブが機体を離れて床に滑り落ち、同時に壁面に明かりが灯った。
 アルマ・ヴィオには何か覆いのようなものが掛けられている。いや、それは、漆黒の――その内側は深紅の――マントをまとっていると表現した方がよかろう。
 薄明かりの向こう、アルマ・ヴィオの目が開く。
 そして、もう二つ。
 どういうことなのだろうか。最後に、さらに二つの目が光った。


【続く】



 ※2011年2月~10月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第49話・前編


【再掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 私には否定できない。
 このままでは世界が緩慢に滅びゆくしかないということを。
 それでも、現在(いま)という日々の営みに懸命な人々を
 世界の再生のために犠牲にすることを、私は許せない。
 結局、いずれは終わる世界と知りながら、今日この日を守りたくて
 私は戦っている――だが、何のために?

  (静謐の魔道士 ルカ・イーヴィック)

◇ 第49話 ◇


1 すべてを焼き尽くす、灼熱の息



 地の底深き鉱脈から呼び出された、幾本もの尖柱。
 出し抜けに現れた鉱石の槍に貫かれ、鋼の戦乙女イーヴァは無残に手足を投げ出し、ステリアの青白き光の加護を失った機体を地に横たえている。
 《逆同調》によって本来の魔性を取り戻し、その身に眠る力を解放されたアルフェリオン・テュラヌスの前には、第二形態のイーヴァでさえも、か弱い餌食でしかなかった。
 一瞬で豹変し、乗り手のルキアンの意思を離れて「暴走」し始めたアルフェリオンの姿を、戦場の誰もが凍り付いた眼差しで見つめている。彼らがいま直面しているのは、理屈や経験を超越した、生き物としての本能を振るわせる始原的な恐怖だ。目の前の激烈な戦いすら忘れさせるほどの絶対的な力が、敵味方を問わず、あらゆる者を支配して放さない。

 そのような状況の中で、唯一、醒めた笑いを浮かべながらアルフェリオンを注視、いや、監視し続ける者がいた。
 ――あらら、キレちゃったよ。怖いねぇ。
 人を小馬鹿にしたような、それでいて無邪気とも思える口調で、何者かが念信を発する。
 ――01(ゼロワン)、帰ろうよ。ボクらがここにいても、もう意味ないじゃん。ああなってしまえば、《鍵の器》が必ず勝つ。勝つっていうか、敵も味方もみんないなくなって、アルフェリオンだけが残る?
 念信を交わす際、経験を積んだ念信士や、魔道士の資質を持つ聞き手であれば、伝わってくる心の声から話し手の人柄や姿をいくらか把握できるという。この念信の主は、一言でいえば冷淡で高慢な少年、いや、少女かもしれない。多分、実際に本人を前にしたとしても、にわかには性別がはっきりしない外見だろう。ひとまず、彼の一人称に応じて《彼》と呼んでおく。
 《彼》は抑えた声でつぶやく。その背後には本心からの殺意が込もっていた。
 ――《鍵の器》がダメダメだから、もうちょっとでボクがカセリナ姫を殺っちゃうところだったよ。惜しかったな。……聞こえた? 冗談だよ。ねぇ、早く帰ろうってば。
 ――まだだ、02(ゼロツー)。《鍵の器》を守ることの他に、我々にはもうひとつの任務があるだろう。
 今まで黙っていた他方の者が、威厳のある口ぶりで答える。念信の感じから察するに、寡黙で大柄な中年の男のように思われる。口数は少なく、必要以外のことは一切口にしようとしない。
 ――あぁ、そうだったね。もし今の時点で《擬装》が解けた場合、深層レベルの《実行体》が《ブート》する前に破壊する。ははは、今ならボクらでもまだ何とかできそうだ。とばっちりを食うのはごめんだから、もう少し上から見張ってようよ。
 ゼロツーは機体の高度と魔法眼の倍率とを上げ、アルフェリオンに焦点を合わせる。ナッソス城の遙か上空、見たことのないアルマ・ヴィオが静止し、雲海に「立って」いる。その形態は、長い翼をもった一本角の悪魔、神殿等にしばしば置かれているガーゴイルの像を思わせる。体表は銀色のようでいて、光の当たり具合に応じて虹色に変化し、オパールさながらに様々な色合いを浮かべる。
 もう一方、ゼロワンと呼ばれる男のアルマ・ヴィオは、一見すると全身が赤い。よく見れば、紅色を基調に、所々に黒とダークブラウンが使われている。汎用型の機体にありがちな、鎧をまとった騎士の姿なのだが、日輪のごとき巨大な輪を背負っているのが印象的だった。
 二体のアルマ・ヴィオは、《精霊迷彩》で姿を消しているわけでもなく、戦場の上空に悠然と浮かんでいる。あまりにも大胆な、隠れる素振りすら感じさせない様子だ。にもかかわらず、ナッソス城周辺にいる誰も気づいていない。クレドールをはじめ、飛空艦の《複眼鏡》にさえ感知されていなかった。理由は分からない。ただ、姿を消すのではなく、見る者や各種のセンサーに存在を把握させない。そんな不可思議な結界兵器が旧世界で造られたという伝説もある。
 ――野放しの猛獣の番をするのは疲れるね、ゼロワン。獣が大きく育つには多少のエサも必要だけど、あまりに手が付けられなくなれば、処分するしかないじゃない? でも、それは嬉しくないな。《鍵の器》は貴重だからね。
 そう言いつつも、美しき悪意の子ゼロツーは、魔性に目覚めたアルフェリオン・テュラヌスが破壊の限りを尽くそうとするのを今か今かと楽しそうに眺めている。

 ――そう、みんな死んじゃえばいいよ。この世界は、いったん滅びなければ変わらないんだ、旧世界のようにね。

 ◇

 ――何をしている、カセリナお嬢様をお救いするぞ!
 ナッソス家の機装騎士の一人が、念信で付近の友軍機に伝えた。逆同調したテュラヌスの発する威圧感に飲まれて、今の今まで彼は思念を発することさえできなかったのだ。
 ――そ、そうだった。この身にかえてもお嬢様を。
 周辺にいたナッソス方のアルマ・ヴィオが、一体、また一体と動き始める。ギルドとの激戦で傷ついた体を奮い立たせ、陸戦型を中心にたちまち数十体のアルマ・ヴィオが、武器を構えてテュラヌスとイーヴァを取り囲んだ。何の策もなく、ただ、敬愛する姫君を守りたいという気持ちで、抗い難い絶望の前に歩み出た。

「不用意なことを……」
 テュラヌスに立ち向かおうとするナッソス家のアルマ・ヴィオたち。その様子をクレドールの艦橋から把握したクレヴィスは、悲しげに首を振る。
「敵とはいえ、あのような無謀な試みは見るに堪えません。いや、今のアルフェリオンを下手に刺激しては、我々すべてに危険が及ぶ」
 彼の言葉が終わらないうちに、テュラヌスは魔獣の本性を剥き出しにした。
 刹那の閃光。地表付近が白熱化し、一瞬の目映い光と衝撃波が、上空のクレドールにまで到達する。
「何てことだ! しっかりつかまってろ」
 爆風に船体が揺れる。カムレス操舵長が、鬼のような形相で舵を切った。艦橋に居る他のクルーたちは手近な座席にしがみついている。
「直撃どころか、狙われもしていないのに、これだけの影響を受けるのか?」
 剛胆であるだけでなく、派手な心の動きを表に出すまいとする生真面目なカムレスだが、今ばかりは彼の声も微妙にうわずっている。
 暴れ狂うテュラヌスの姿を最も間近にとらえられる者、《鏡手》のヴェンデイルも、思うように報告ができていない。彼の声も震えている。
「あ、あんなの……ないだろ。無理だよ。無理だって」
 そう告げるのも仕方がなかった。他の面々には見えていないだろうが、艦の《複眼鏡》を通じてヴェンデイルは克明に事実を突きつけられていた。抗う気迫さえもすべて奪い去るほどの、白銀の魔物のもつ厳然たる力を。
 荒れ狂う炎を身に宿した戦慄の戦士、アルフェリオン・テュラヌス。いま、ナッソス家のアルマ・ヴィオたちを瞬時に焼き払った一撃は、ヴェンデイルの言葉ではないが、もう人間業でどうにかなるようなものでは有り得なかった。カセリナを救うために押し寄せた数十体のアルマ・ヴィオばかりか、その遙か背後にいた機体まで、ナッソス家のものかギルドのものかを問わず、原形をとどめない金属のいびつな物体と化して地上に点在している。

「いかん、逆同調しているぞ。《氷雪の鉄騎隊》は全速で後退する!」
 黒塗りの鎧と、牡牛を模した二本角の兜を身につけた機体の一団が、アルフェリオンに起こった異変にすぐさま反応した。《盾なるソルミナ》の世界から解放され、再び戦列を形成しつつあったギルドの前衛。戦いだけでなくアルマ・ヴィオにも精通する彼らは、さすがに判断が早かった。
「《エルハインの冠》の諸君、我らも撤退だ。続け!!」
 ギルドの最前列をなしていた王のギルド連合の部隊も、速やかに退いてゆく。大型の甲冑と盾で重装備した汎用型の機体は、素速く動くことはできない。だが、恐慌や混乱に陥らず、整然と後退する様は見事だ。
「この戦い、もう俺たちの勝ちだ。盾や兜、他に直ちに外せる追加装甲があれば、ひとまずパージして逃げろ」
 少しでも身軽になってこの場から離れられるよう、重い武器や防具を放置し始める者もいた。それほどの危険が迫っているということに、繰士たちの直感が気づいているのだ。

 状況を伝えるヴェンデイル、言葉も途切れ途切れだった。
「お、俺には、よく分からないけど……その、転がっているアルマ・ヴィオは、外殻だけ、しか、残ってない。中身は、動力筋や伝達系、液流組織は、要するに肉の部分はみんな溶けてなくなったのか? しかも、外殻も破壊されている。どんな高温でも、炎の魔法弾でこんなふうになったのは見たことがない」
 静かにうなずいたあと、覚悟を感じさせる重々しい声でクレヴィスが告げる。
「あのブレスの正体は単なる火焔や閃光ではなく、一定以上の質量をもつ、実体のある何かでしょう。よく分かりませんが、以前、旧世界の兵器を調べていたときに読んだことがあります。極めて重く融点の高い何らかの粒子に、超高温を加え、さらに圧縮し、加速して解放する」
 地上を見すえるクレヴィスの眼鏡が、鈍く光った。

 凶暴化したテュラヌスが第二のブレスを放つまで、時間はかからなかった。進むことも引くこともできないナッソス家の機体を、狂える竜の灼熱の息が襲う。立ち上がったテュラヌスは、輝く炎のごとき何かを吐き続けながら、右から左へと悠々と首を振った。逃げようが、とどまろうが、結果は同じだった。アルマ・ヴィオの屍がたちまち山となって視界を埋め尽くす。
 爆煙と、燃え盛る炎の海の中、テュラヌスの影が不気味に浮かび上がる。無数の棘を帯びた外殻、引き裂く鉤爪、刃物状の突起をいくつも生やした異形の巨人。
 その姿を呆然と見つめるナッソス公爵。彼は机に両手を叩き付け、顔をうずめた。
「何ということだ……。カセリナを、この城を」
 公爵はしばらく身動きひとつしなかった。そして喉の奥から絞り出す声で、最後の希望を口にする。
「レムロス、後はそなただけが頼りだ」


2 時の司は語る、人の子と闇の力…



 ◇

 暗闇の中に突如として浮かび上がった鬼火。底知れぬ暗黒の世界に揺れる炎は、ひとつ、ふたつと増え、その数が四つになったとき、空間から這い出すように同じく四体の影が現れた。赤々と燃える炎に照らされ、金属質の光沢をもつ黄金色の何かが輝く。赤紫色の布のような物が宙を舞う。
 いつの間にか、4体の異形の者が立っていた。彼らは皆、頭巾の付いた赤紫色の長衣をまとい、頭頂からつま先まですっぽりと覆い隠している。ゆらゆらと宙に漂う衣。その動きを見ていると、中身は空っぽではないかという想像すら働いてしまう。
 ただひとつ長衣から露出している部分は、彼らの《顔》だ。だが、その顔の様子こそが最も不気味なのであった。
 道化師のごとき、目を細めて笑う翁のマスク――《老人》の黄金仮面。
 のっぺりした顔に、丸く小さな目と長いくちばしをもつマスク――《鳥》の黄金仮面。
 見る角度によって若い女性にも老婆にも思われ、突き出した顎をもつマスク――《魔女》の黄金仮面。
 そして、落ちくぼんで穿たれた両目の他には、何の造作もないマスク――《兜》の黄金仮面。
 仮面に隠れた彼らの視線の先に、《逆同調》して破壊の限りを尽くすアルフェリオン・テュラヌスの姿が幻灯のごとく浮かび上がる。白銀色の魔獣の戦士は、目に付くものすべてを、輝く灼熱の息で灰燼に帰してゆく。業火の燃え盛る地獄絵図のような状況を見つめ、《老人》の黄金仮面がつぶやいた。
「これが闇の御子の内に秘められた力の本質。すべてを無に還そうとする衝動だ。自然界の四大(*1)とも異質で、天なる《光》の力とも異質な、忌まわしき力」
 抑揚のない機械的な口調ながらも、全体としては一定の節回しのある声。それはどこか呪文を連想させる。その声質は、四体の中でも最も異様だ。死霊の歌声、そう表現するのが似つかわしい。
「人の子らは、《すべてを支配する因果律の自己展開》によって導かれ、かの《絶対的機能》の栄光を彼らのあるべき進化によって体現し、高らかに賛美する存在となるはずであった。だが善き子らが《愚かな人間ども》へと堕落したのは、彼らの《仕様》に本来は含まれていなかったあの力のため、すなわち《闇》のためなのだ」
 荒れ野の藪が夜風に揺れる音、あるいは嵐に木々の枝がしなる音のように、《魔女》の黄金仮面の声が応じた。
「闇の力、それは、人の子らの霊子のレベルにまで刻み込まれ、受け継がれ、肥大化してゆく負の叫び。失敗し続けた過去の無数の世界において、次第に蓄積されていった影、あるべき魂を侵蝕してゆく《染み》。我ら《時の司》が幾度となく世界を《再起動(リセット)》しても、大いなる計画通りに人の子らの進化が行われることがなかったのは、《闇》の力によるところが大きい」
 吹き抜ける北風のごとく、乾いた残酷さをもって、《魔女》の黄金仮面は付け加える。
「歴史を繰り返せば繰り返すほど、《闇》は人の子らの魂に沈殿し続け、修正し難いほどに彼らを支配してしまっている」

 《人の子らはもはや救い難い。始原の時から計画をやり直すべきだ》

 一瞬の静寂を破り、甲高く嘲笑する声が応じた。
「救いが無いどころか、人の子に巣くう《闇》の力は、この世界という《揺りかご》そのものを無に帰そうとしている。蓄積された闇の力は、大いなる計画に対してすら影響を及ぼし始めているのだ」
 黄金仮面たちの無表情な口調の中で、唯一、表情らしきものを過剰なまでに伴っているのが、《鳥》の仮面のそれだった。聞く者の気持ちを逆なでするような、けたたましく、挑戦的で、他人を愚弄するかのごとき響き。
「我らにとっては塵に等しい人間どもが、大いなる計画に逆らって、自らの意志で世界を変えようと試みた。それを半ば成し遂げかけていたエインザールのような存在が、人の子らの中から現れたのだ。このことがすべてを物語っている」
 《老人》の黄金仮面が頷き、漆黒の空間に浮かんだアルフェリオンの姿を指さす。
「そして見よ、エインザールを継ぐ、今の御子の姿を。やはり早いうちに芽を摘んでおかねば、大いなる計画に対して再び災いをなすことにもなりかねまい。忌々しいエインザールのパラディーヴァは、たしかに死んだ。だが、それと引き替えに闇の御子の《紋章回路》が起動するとは誤算であった」
「誤算であった……。それは誤算であった」
 他の黄金仮面が《老人》の仮面の言葉を反芻する。
 大地の底から轟くような、地鳴りを思わせる声で応じたのは、《兜》の黄金仮面だった。
「ならば、我らも《執行者》を目覚めさせるか?」
 しばしの沈黙の後、その言葉を《老人》の黄金仮面が打ち消した。
「否。現段階では《執行者》投入の条件は満たされていないと、我は解釈した」
 《鳥》および《魔女》の黄金仮面が復唱する。
「条件は満たされていない。満たされていない。法の定めは絶対である」
「了解した。だが放置はできまい?」
 《兜》の黄金仮面が問いかけた。
「我らの導きの糸によって、人の子らの争いがじきに動く。その結果、条件は近い将来に満たされるであろう」
 《老人》の黄金仮面がそうささやくと、すべての仮面たちはそれに同意してどこへともなく消え去った。

 ◆ ◇

 周囲の敵を――いや、敵か味方かなどに関わりなく、攻撃の届く相手すべてを――アルフェリオン・テュラヌスの灼熱のブレスが幾度も焼き尽くした。もはや邪魔をする者がいなくなったためか、それとも単に破壊する対象が手近に無くなったためか、テュラヌスは再びイーヴァに牙を剥く。
 身動きひとつせず大地に横たわったイーヴァに対し、テュラヌスは腕を振り上げる。戦いの間に成長を繰り返した鉤爪は、分厚さと鋭さをいっそう増している。実体を持つ鉤爪の上をさらに光が覆い、イーヴァに死を宣告するためのMTクローが展開された。もちろん、それはルキアンの意思によるものではない。《逆同調》し、解き放たれてしまったテュラヌス自身の欲することだ。
 イーヴァの乗り手のカセリナも意識を失っている。もはや激痛すらも、彼女の目を覚まさせることはなかった。いずれの繰士も意識のないまま、糸の切れた人形のテュラヌスが、動かなくなった人形のイーヴァを襲う状況は異様である。
 天を貫くようにひときわ大きく吠えると、テュラヌスは腕を振り下ろし、イーヴァの首を断ち切ろうとした。そのとき……。

 鋼と鋼が激しくぶつかり合う、耳を引き裂くような轟音と、空気をざわめかせ大地までも刺し通す凄まじい振動とが、突然に生じた。
 一瞬、テュラヌスの右手が宙に舞う。そして地響きと共に地に落ちた。
 輝くMTの刃を周囲に広げた円盤状の巨大な鋼の塊が、ブーメランを思わせる軌道を描きつつ、空を背後へと戻ってゆく。それを別のアルマ・ヴィオの手が巧みに受け止めた。
 ――もう戦えない相手に、しかも傷ついた貴婦人に手を挙げるってのは、よくないぜ。いや、そんな話はもう聞こえないのか、ギルドの銀天使。
 心の中でそうつぶやいたのは、ナッソス四人衆の一人、若き戦士ムートだった。
 攻防両用の分厚い丸盾を左手にかざし、これまた化け物じみた大きさの曲刀を右手に構え、ムートの操る《ギャラハルド》がこちらに進んでくる。
 だが、黒と赤の重戦士・ギャラハルドの放つ圧倒的なオーラを気にもとめない様子で、テュラヌスは切断された右腕を地面に向けた。右腕の切断面から銀色の液体が、いや、液状化した金属が流れ落ちる。それは生き物も同然に地を這い、地面に転がっている右手のところまで到達した。テュラヌスの右腕と、ギャラハルドに断ち切られた右手とを、銀色の流れがつなぐ。
 ――何だよ、それ。
 目の前で繰り広げられた光景に、ムートは息を呑む。
 銀色の液体金属は瞬時に状態を変化させ、弾力のあるムチのようにしなる。長大な鉤爪のために重量も半端ではないテュラヌスの右手は、いとも簡単に吊り上げられ、もともと付いていた場所まで引き戻された。
 ――嘘だろ……。
 ムートがそういっている間にも、テュラヌスの右手は元通りに腕とつながった。
 その様子を映したギャラハルドの魔法眼に、ほぼ同時にテュラヌスの姿が大写しになる。気づいたときには、丸盾の中心から四方八方へと亀裂が走ったかと思うと、あっけなく盾はひび割れ、いくつもの鉄塊となって地面に落ちた。テュラヌスの突きを真正面から受け、頑強な甲冑に身を包んだギャラハルドさえ背後に吹き飛ばされる。
 ――危ねぇ。見た目によらず、あの速さか。しかも、ギャラハルドの盾を一撃で破壊するとは、いったいどんだけのパワーなんだよ。
 最後まで手に残った盾の破片を投げ捨て、ギャラハルドは両手で曲刀を構える。
 ――今のは命拾いしたが、次はかわせるかどうか。せめてカセリナお嬢様だけでも。
 敵との絶望的な実力差を読み取ったムート。勝てる可能性など有り得ない、次の瞬間にも死が訪れるかもしれない状況であるにもかかわらず、彼の中に流れる《古き戦の民》の血は最善の手を考え、なおも冷静に計算を働かせる。

 ――死ぬのは怖くない。俺が怖いのは、無駄死にすることだ。


【注】

(*1) 自然界を霊的に構成する四大元素、火、水、風、土のことを指す。


【続く】



 ※2011年2月~10月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


6 第二形態、覚醒のイーヴァ



 ――ねぇ、なぜ戦うの。どうして話を聞いてくれないの。どうして。
 燃え盛る業火を身に宿した、荒ぶる魔戦士テュラヌス。その凶暴な形態(モード)に変形したアルフェリオンから、念信を通じてルキアンの声がカセリナに届く。声と共に伝わってくるルキアンの心の有り様は、明らかに狂気を含んでいた。泣きながら壊れて笑っているルキアンの表情が、カセリナの意識に浮かび上がる。
 ――僕は戦いたくない。特に君とは……。だけど、分かってくれないのなら、たとえ泣きながらでも僕は剣を抜かなきゃならなくなる。今だって、僕が君との戦いを躊躇したから、僕の代わりにリューヌが犠牲になった。あのときも、ならず者たちを僕が撃てなかったから、シャノンも、トビーとおばさんも守れなかった。
 ――もうそんなのは嫌なんだ!
 ルキアンは絶叫する。イーヴァの頭部を鷲づかみにし、吊り上げたテュラヌスの手にも力が加わる。頭が割れそうだ。カセリナは悲鳴をこらえながら、息も絶え絶えに言った。
 ――あなたに守るべきものがあるように……。私にも、守る、べき……ものが、ある。
 イーヴァの目が光り、テュラヌスの腕を両手で掴む。鋼の戦乙女は、その重量を感じさせない驚異的な身軽さで動いた。テュラヌスの腕で懸垂をするようにして、両脚を胸に引きつける。
 ――だから戦う。それがすべての理由!
 カセリナの気合いと共に、イーヴァの両脚がテュラヌスの胸を蹴った。イーヴァの頭部を握っていた鉤爪が緩む。イーヴァはすかさず逃れ、再度、軽業師を思わせる動作でテュラヌスを蹴る。
 次の瞬間、イーヴァよりも遙かに大きなテュラヌスの機体が揺らぎ、宙に浮く。細身ながらも強靱な瞬発力を秘めた脚を生かし、イーヴァは自身の機体ごと背後に宙返りするようにして、テュラヌスを投げたのだ。
 見事に投げ倒されたテュラヌスは、大地に背中から落ちたまま、しばらく動かない。 だがカセリナも、極度の疲労のために、いつものように迅速に次の攻撃に移ることはできなかった。目まいがする。テュラヌスの姿が歪み、イーヴァの魔法眼の中で二重三重にぶれて見える。
 ――何としても……。ここで、白銀のアルマ・ヴィオを倒さなければ。
 カセリナは、地面に転がっていたMTレイピアを拾う。しかし、刺々しく分厚い甲冑で完全に覆われたテュラヌスを前にすると、いつもの細身の剣があまりに頼りなく思えた。
 ようやくテュラヌスが上体を起こす。うわごとのようなルキアンの念信もカセリナに伝わってくる。
 ――僕だって、絶対に、負けられないんだ。ここでギルドが勝たなきゃ、王国は反乱軍と帝国軍の手に落ちる。僕は許せない。許せない。そんなこと!
 立ち上がって咆吼するテュラヌス。その身に生えた大小多数の突起が、抜き身の剣のごとき輝きを放ちながら、倍ほどの長さへと一斉に《成長》する。今や、その姿は、刃の翼を幾重にも背負っているようだ。
 ルキアンの激情が高まるのに呼応して、いっそう禍々しい姿へと変わってゆくテュラヌス。その様子に驚愕するカセリナに対し、ルキアンは我を忘れて語り続ける。
 ――だって、おかしいでしょ。言葉で相手と分かり合おうとせず、力の強い弱いでしか相手との関係を考えられない人たちが、そんな人たちが、この国を自由にしていいはずなんて、ないんだ。僕は許せないよ。そうだ。許さない!
 テュラヌスの雄叫びが、天高く、大気を振るわせ、空を貫いた。テュラヌスの肩が盛り上がり、甲冑が一回り大きくなった気がする。これまでの戦いで経験したことのない圧倒的な威圧感を突きつけられ、このままでは勝てないということをカセリナは直感した。もちろん、こちらに切り札があることは知っている。だが……。
 ――あの《力》をもう一度使えば、きっと勝てる。でも、あれは、人がふれてはいけないものだわ。何か、絶対に良くない力に違いない。
 レーイとの戦いの最中、イーヴァに秘められたステリアの力を覚醒させたとき、その闇の波動にカセリナは魅入られそうになった。恍惚の中で心を溶かされ、破壊への衝動に自我を支配されてゆくおぞましさ、恐ろしさを、彼女は思い出さずにはいられなかった。
 ――だけど、ここで敗れるわけにはいかない。
 カセリナは精神を集中し、心の奥、闇の向こうに潜む例の力にふれた。禁断の《ステリア》の力に。彼女の呼びかけを待っていたかのように、ステリアの力は一気に爆発し、カセリナとイーヴァの身に強大な魔力が満ちる。イーヴァの機体を中心に、どす黒い魔の力が渦を巻き、物理的な突風を伴って竜巻となる。暗雲が押し寄せ、空を閉ざしていく。

 ◇

「ナッソス城周辺の霊圧線に異常な歪みが発生、霊気濃度も局地的に異常な上昇を続けているわ。何なの、これ。もう計測できない!」
 クレドールの艦橋、緊迫した声でセシエルが告げる。目の前のコンソールで計器類の針が振り切れ、嵐の中で乱れる木々と同様、狂ったように踊っている。
「こんなことって。副長?」
 彼女はクレヴィスの方を見た。だが、こうなることを予想していたのであろうか、クレヴィスは静かに答えを返す。眼鏡のレンズにかかった前髪を無造作に払い、平然とした口調で彼はつぶやいた。
「イーヴァとアルフェリオンの、二つのステリアの力が衝突した場合、我々の想定を遙かに超える事態になるかもしれません。そうですね、最悪の場合、ナッソス領一帯とともに……あるいは、この国土全体と共に、私たちが消し飛んでしまうことも起こり得るでしょう。そのくらいの力があるのですよ、旧世界の超魔法科学文明を崩壊に導いたステリアにはね」
 彼の言葉を聞き、ブリッジに低いどよめきが生じた。が、クレヴィスは場違いな微笑を浮かべて付け加える。
「そういうわけで、危険を避けて本艦が今からどこかに退いても、あまり意味はありません。それよりも見守りましょう。ルキアン君とカセリナ姫との戦いを。まぁ、結構、何とかなるものですよ」
 いささか強引な理屈だが、実際のところ、魔道士としてのクレヴィスは、二つのステリアの力が激突しあう様を克明に観察したくて仕方がないのであろう。もっとも、そのような興奮など微塵も表に出さず、クレヴィスは、ツーポイントの眼鏡の奥で涼しげに眼を細めるだけだった。

 ◇

 ――たとえこの身がどうなろうとも、禁断の力を借りてでも、私は必ず勝つ。
 カセリナがそう告げると、イーヴァの両の肩当てがスライドし、その奥から青白い光が漏れる。胸甲部も開き、同様の青白き霊光をまとったレンズ状の物体が姿を見せる。
 イーヴァの仮面が左右に開く。死した美姫の銀色のマスク、イーヴァの《素顔》が、その沈鬱かつ妖美な表情でアルフェリオンと向き合う。レーイとの戦いの場合と同じく、イーヴァの機体から青く輝くオーラが立ちのぼり、羽衣さながらに揺らめいている。
 だが今度は、カセリナの覚悟に応えるかのように、イーヴァに新たな変化が起こり始めた。華奢なシルエットが光の中で形を変え、肩当てや肘当て、膝当ての部分が膨らんでゆく。首から胸部にかけての甲冑も、みるみるうちに厚くなった。これは間違いなく、旧世界の失われた高等魔法《第五元素誘導》と、旧世界の科学の産物であるナノマシン《マキーナ・パルティクス》とによる《変形》である。
 イーヴァの甲冑のうち、最後に腰部以下を覆うスカートの部分が、4枚の花びらのように伸びた。そしてイーヴァの左手には、胴体から足首までに達する楕円状の盾があった。右手には、左右に真っ直ぐに伸びた鍔をもつ、十字架型の細身の長剣が握られている。
 イーヴァが剣を一振りする。すると、実体を持つ金属の刀身をMT(マギオ・テルマー)の光が包み、光の刃は元々の切っ先よりもさらに長く伸びた。
 ――ルキアン・ディ・シーマー、ナッソス家の敵、パリスの仇。ここで終わらせる。
 構える動作すらほとんど見せず、カセリナは瞬時に間合いを詰め、テュラヌスと交差した。細身ながらも鋭利で長い十字剣は、見た目よりも遙かに高い攻撃力を有する。
 ルキアンが苦痛に声を上げる。テュラヌスの頑強な甲冑、胸部に亀裂が入っていた。
 ――いける、これなら!
 なおもカセリナは切り付けた。疾風のごとき剣閃が走り、テュラヌスの装甲に深い裂け目をひとつ、またひとつと刻み込んでゆく。
 鋭い爪で反撃するテュラヌス。だが、イーヴァのかざす盾がことごとく受け止める。
 ――先ほどとは違うのです。
 テュラヌスの重い一撃に対し、盾で押し返すイーヴァ。さすがに押し負けするものの、相手の強力を十分に受け止めるだけのパワーは備えている。
 そうかと思うとイーヴァは背後に飛び退き、宙空から身軽に剣を振るう。間合いの外であるはずだが、テュラヌスの肩当ての一部が切り落とされた。さらに二度、三度、カセリナは同様の距離から切り付ける。イーヴァが剣を振る瞬間、何と、刀身の部分をとりまく光の刃が幅広く拡張し、長さも倍近くも伸びているのだ。
 アルフェリオン・テュラヌスは一方的に切り付けられ、嵐のような斬撃を浴び続ける。テュラヌスの絶大な防御力をもってしても、このままではじきに倒されてしまう。
 ――僕は、僕は、勝ちたい……。勝たなきゃいけない。
 光の刃が大きくなるだけではない。一撃ごとに、その威力も増している。ステリアの力が剣に宿り、新たな命を与えているかのようだ。
 イーヴァの体から青白い霊気がますます強く立ちのぼる。その輝きが、MTの光と一体となって剣を取り巻く。カセリナは全力で剣を振り下ろした。

 かろうじて直撃をさけたルキアン。だが、イーヴァの一撃は、テュラヌスを吹き飛ばし、大地に深々と、遙か前方まで亀裂を創り出した。いや、亀裂どころか、もはやこれは《谷》といった方がよかろう。
 イーヴァの《第二形態》の恐るべき力を前にして、ルキアンは呆然とつぶやいた。

 ――どうすればいい。打つ手はないのか。僕は、ここで終わってしまうのか……。


7 解き放たれた魔獣



 イーヴァの斬撃によって大地に刻まれた裂け目。かろうじて回避したアルフェリオンの足元から、崖状になった溝が地底に向かって続いている。その「谷底」を横目でのぞき、ルキアンは息を呑んだ。
 ――危なかった。いや、ぼんやりしている場合じゃない。
 敵の剣の間合いから離れるため、テュラヌス形態のアルフェリオンは素速く退いた。重装甲のテュラヌスは、見た目には、棘のある重い甲羅を背負った甲殻類をも連想させる。だが、その動きは意外なほど俊敏だ。
 ――来ない?
 ルキアンは慌てて身構える。イーヴァが切り込んでくるのではと思ったのだ。
 ――そうか。カセリナの機体は今までより動きが重くなっている。
 大型の盾と長剣とを構えたイーヴァを睨みつつ、ルキアンは今さらながらに気づいた。戦い慣れしていない彼は、強化されたイーヴァの剣とカセリナの凄まじい連撃に圧倒され、頭の中が真っ白になっていたのだ。その間、もちろん機体の身動きもろくにできなかった。
 ルキアンは《手》を握りしめる。生身の指が強張って動かないときと同じような感触だ。
 ――落ち着け、落ち着け、しっかりするんだ!
 彼は懸命に自分に言い聞かせる。と、ちょうど似たような状況がそうさせたのか、ルキアンはミトーニアでパリスと戦ったときのことを思い出す。
 ――あのときだって、相手は僕とは比べ物にならないほど強かった。それでも……。
 パリスとの死闘の場面がルキアンの脳裏で鮮明によみがえる。旧世界の超高速陸戦型アルマ・ヴィオにして、魔法弾を無効化し、強力な長射程型MgS(マギオ・スクロープ)を装備した《レプトリア》。これを操る敵のパリスは、ナッソス四人衆の一人に他ならない。あまりの実力差で一方的に打ちのめされていたルキアンは、アルフェリオン・ノヴィーアの姿から氷雪の世界を支配する竜を連想し、土壇場で凍気のブレスを放って戦いの流れを変えた。さらに彼はゼフィロス・モードを覚醒させ、その速さと《縛竜の鎖》を縦横無尽に使いこなし、レプトリアの俊足に打ち勝ったのだ。
 ――ゼフィロスに変わったときには、むしろ機体の方が僕を助けてくれている感じだった。だけど、テュラヌスには僕の方が振り回されている。全然上手く使えていない。
 リューヌを失った怒りで我を忘れたルキアンは、当初は激情の赴くままに戦い、知らず知らずのうちにカセリナを圧倒していた。だが冷静さを取り戻した現時点では、なぜか機体が思うように動かない。戦いづらさを覚えるルキアン。

 突然、テュラヌスがMTクローを展開する。金属の鉤爪を中心にして、さらに爪状の光が輝いた。その挙動を眼にした途端、カセリナは攻撃に出るのを取りやめた。まさに今、彼女はテュラヌスに突きかかろうとしていたのだ。
 ――私の機先を制した? あのルキアンに、そんな読みができるはずはない。
 他方のルキアンは慌てている。
 ――ちょっと待って。どうして勝手に動くんだ。
 《身体》が己の意図しない動作をする、この何とも表現し難い感覚。彼は機体に精神を集中し直す。これでは荒馬の手綱を引いているようなものだ。
 ――これまでも、機体が自動的に防御してくれたことはあったけど、テュラヌスは……。まさか、自ら戦いたがっているのか。
 ――やはり、さっきの動きは偶然だったのね。
 ルキアンが余計なことを思い浮かべた途端、カセリナの一撃が襲った。幸いにも間合いが離れていたため、直撃は避けられたが。MTクローの光とMTソードの光が干渉し合い、激しく白熱する。
 ――僕の言う通りに動いて!
 無我夢中でイーヴァの剣を押し戻そうとするルキアン。そのとき彼は、繰士に逆らって猛り狂わんばかりのテュラヌスの精神を感じ取った。乗り手の欲する動きと機体の動きとが、明らかに別々になりかけている。ひとまず、ルキアンは全力でイーヴァを突き放した。
 すると、テュラヌスは速やかにMTクローを構え、姿勢を少し低くする。そのどこまでが自分自身の意図した動きだったのか、ルキアンには分からない。
 ――これは?
 ルキアンは戸惑うが、わずかにでも気を散らせると、たちまちカセリナの攻撃が襲いかかる。イーヴァは剣を水平に構え、全身の力を込めて突きを繰り出してきた。うろたえ、気が動転して頭の中が虚ろになったとき、ルキアンは何者かに引っ張られるように感じた。

 高速で突き出されたMTソードがスローモーションのように映る。
 光の刃が、青白く輝く鉤爪の上を滑ってゆく。
 その様子がルキアンには止まって見えた。

 ――また動きが変わった。どういうことなの。
 カセリナは空を切るような手応えに驚いた。惰性で機体が前につんのめりそうになり、彼女は咄嗟に姿勢を立て直す。
 ――テュラヌスが自分の意思で回避して、僕はそれを見ていた。いや、僕がテュラヌスの動きに身を委ねていた。
 気がつけば、ルキアンはイーヴァの剣をMTクローで受け流していたのだ。
 ――まぐれが何度も続くわけはない!
 カセリナが再び猛襲する。ステリアの黒き波動をみなぎらせ、振り下ろされるイーヴァの十字剣。
 ――見える。この感じだ。僕が力を抜くと、機体が勝手に。
 意識を無にして、身を任せ、ただアルフェリオン・テュラヌスの動きを心の眼で追う。
 ――僕の意識が《鎖》になっている。この鎖を……。
 激しい怒りが、凶暴な何かが、ルキアンの精神を飲み込もうとする。自分の身体が自分のものでなくなるような、意識が激流に押し流されて遠く離れてゆくような感じがする。

 目の前からテュラヌスの姿が消えた。
 突然の電光さながらの動きに、カセリナは驚愕する。
 手にしていたはずの盾が宙を舞う光景。それが彼女の瞳に浮かんだ。
 激痛。そして絶叫。

 何かを握りつぶす嫌な感触が、ルキアンに伝わってきた。薄れゆく意識の中、ルキアンはカセリナの名を思わず口にした。テュラヌスの巨大なクローがイーヴァの左腕を掴み、いまにも砕き、引きちぎろうとする。当然、機体の《痛み》をカセリナは自分自身のそれとして受け止め、もがき苦しんでいるはずだ。
 ――カセリナ!
 彼女を傷付けることを、やはりルキアンは恐れていた。だが、それを止めようとしてもルキアンには抵抗できない。気がついたときには己の意識を保つことさえ難しくなっており、殺戮と破壊への凄まじい衝動が、彼の魂を塗りつぶそうとしている。

 巨体を振るわせ、牙をむき出しにしたテュラヌスが吠える。
 覚醒したテュラヌスを中心に、大地の途切れるところまで、瞬時に走る莫大な魔力の輪。兜の奥で、二つの目が、まさに炎を宿したかのように真っ赤に輝いた。

 解き放たれたテュラヌスは戦うための機械と化し、血に飢えた爪牙をイーヴァに突き立てる。いや、その動きはもはやアルマ・ヴィオのものではない。一匹の魔獣だ。カセリナの必死の反撃も、目覚めたテュラヌスの前には無力だった。イーヴァの動かなくなった左腕を、慈悲の欠片もない鉤爪が切り落とす。
 戦士の雄叫びか、それとも悲鳴か、カセリナはあらんばかりの声を張り上げる。地獄のような痛みで失神しそうになりながらも、彼女は、超人的な意志力をもって剣をテュラヌスの胸に突き立てた。

 ――そんな……。

 イーヴァのMTソードは確かに敵を仕留めた。テュラヌスの機体には、実体をもつ鋼の刀身が残され、深々と刺さっている。それにもかかわらず、テュラヌスは何事もなかったように動いているではないか。カセリナは、生まれて初めて真の恐怖におののき、イーヴァは剣を手放して後ずさりする。
 突き刺された剣をテュラヌスは悠然と引き抜いた。胸部に開いた大穴から、銀色の液状の何かが流れ出す。水銀にも似た液体金属は、たちまち穴を塞いで硬化した。テュラヌスの胸甲には何の傷跡も残っていない。
 死をも恐れぬ戦士のカセリナ。しかし彼女の本能が、抗い難い力でもって、逃げろと告げている。いくら気持ちでは戦おうとしても、機体が一歩も前に動かない。認めたくないが自分は怯えている。カセリナは闇に突き落とされたような気がした。
 戦意を失いつつある相手に対し、テュラヌスには何の容赦もなかった。いや、これはもう戦いではない。ただ、目の前にいる獲物を襲い、喰らおうとする魔物の振る舞いに等しい。
 次の瞬間、あの凛として気高いカセリナのものとは思えぬ、獣のごとき悲鳴がこぼれた。地面から突然に現れた槍のような何かが、イーヴァの機体を切り裂き、箇所によっては貫通さえしている。先端の尖った、鉱物の結晶を思わせる銀色の多面体の柱が、大地を突き破って何本も生えていた。イーヴァは剣山の上に落ちたような有様で、身動きができない。
 さらに信じ難いことが起こった。不意に銀色の柱が液状化したかと思うと、意志を持つ生き物同様にイーヴァの機体を伝って流れ、地面を這ってアルフェリオン・テュラヌスの方に動いていったのだ。魔の力を帯びた銀色の液体金属は、テュラヌスの腕を覆うように巻き付いたかと思うと、瞬時に硬化して今まで以上に巨大で強靱な鉤爪を形成する。獲物の動きを完全に止めたテュラヌスは、牙を剥いて今にも襲いかかろうとしている。

 ◇

「何だよ、あれは。アルフェリオンが……」
 頬を引きつらせ、震えの混じった声でヴェンデイルが告げる。急に独り言のようにつぶやき始めた彼の口調、ただならぬ様子に、クレドール艦橋のクルーたちは一斉にヴェンデイルの方を見た。
「ルキアン君は、無意識のうちにカセリナ姫への攻撃を緩めてしまうほどだったのに。一体、この豹変ぶり、何があったというんだ」
 艦の《目》として数多くの戦いを冷徹に見つめてきたヴェンデイル。しかし、練達の《鏡手》である彼が、状況をまともに報告することさえ忘れ、呆然と語り続ける。
「《暴走》? よく分からないけど、もう見ていられない。止めさせないと! 機体が損傷すれば、エクターも生身の身体のときと同じような痛みを感じるんだろ。あれじゃぁ、カセリナ姫は生きたまま野獣に喰われているのと同じだよ。いくら敵でも、それは……。いや、まさか」
 ヴェンデイルは何かに気づいたようだ。
 日頃は見られない深刻な表情で、クレヴィスが答える。いかなる危機にあっても穏やかさの残る彼の口調さえ、今は硬かった。
「えぇ。間違いなく、繰士が《逆同調》し、アルフェリオンの本性を解放してしまった結果です。止めるよう言っても、ルキアン君にはもう制御できない。いや、あの様子では彼自身の意識は無いでしょう」
 逆同調という言葉が彼の口から出た途端、何人かのクルーの表情が変わる。眼鏡の向こうでクレヴィスの瞳も厳しさを増す。
「妙ですね。機体との交感レベルが並外れて高いとはいえ、ルキアン君は逆同調というものを知らないはずです。仮に逆同調しようといくら試みたところで、まだ不慣れな彼には無理でしょうし」
 何人かの乗組員は不可解そうな顔をしている。アルマ・ヴイオのことにそれほど精通していない者たちなのだろうか。彼らに向かってクレヴィスは告げた。
「逆同調には、一種の生まれつきの素質も必要です。エクターとしていくら経験を積んでも、できない人には永久に不可能なのです。かくいう私も逆同調はできません。知っての通り、我々の周囲にいる多数のエクターを見渡しても、いつでも確実に逆同調ができる者は、カリオス・ティエントただ一人です。もっとも、通常のままでも彼は強いですから、わざわざ逆同調する必要など滅多にあり得ませんが」
 カルダイン艦長との相談に向かおうとするクレヴィス。最後に彼は、思い出したように付け加えた。
「ミルファーン王国に、ただ一人、逆同調して《暴走》する機体をも、通常の正同調の状態にある機体と同様に操ることのできるエクターがいます。伝説の《狂戦士(バーサーカー)》のような恐ろしい戦士です。彼女は、いかなるアルマ・ヴィオとの間でも極限に近い交感レベルを出せる力を持っているのですよ。その力は、あたかも《鏡》を思わせます。鏡というものは、どのような機体の姿も実物と同様に映し出しますからね」

  だから彼女は、こう呼ばれます。《鏡のシェフィーア》と。


【第49話に続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


4 光のパラディーヴァ



 ◇

 芽吹きの季節を終え、次第に濃くなり始めている森の緑。
 谷間を渡る風が、木々の葉を鳴らし、小枝を揺らして流れゆく。
 と、何の前ぶれもなく、風が渦を巻いた。
「リューヌ!」
 気流の中に霞のように輝く光。
 それは、おぼろげながらも人のような形を取った。
「気配が完全に消えた……」
 そよ風のようにささやく声が聞こえる。
 中性的な少年の声。それは風のパラディーヴァ、テュフォンのものだ。
「《封印》を無事に超える力がもう残ってないって、いま《外》に出たら死ぬのが分かっていたのに」
 テュフォンの悲しげな言葉が、森の奥へとこだましてゆく。
「あのとき博士を護れなかったことが、辛かったのは分かるけど、無茶だよ」

 ◇

「どうした、何があったんだ」
 グレイルは急に立ち止まると、誰もいない部屋で話し始めた。
 実際には、火のパラディーヴァのフラメアが一緒にいる。彼女が実体化していないため、グレイルが独りごとを言っているようにみえるのだが。
 ――あの馬鹿! リューヌ、いまアンタがいなくなったら。
 フラメアは落ち着きを若干失いながら、乱暴に叫んだ。彼女の戸惑いと痛々しい思いが、グレイルにもはっきりと伝わってくる。
「落ち着けよ相棒。俺にも分かるように説明……」
 ――うるさい、ヘボ魔道士!
 八つ当たりっぽくフラメアが言う。
 グレイルは頭をかきながら、対照的に呑気な口調でなだめている。濃い金色の髪には元々から癖が少しあるのだが、それに寝ぐせが加わったような乱雑な髪型だ。
「おおこわ。そんなに荒れるなって。でも《俺たち》にとって大事なことなんだろ。だから、俺も知りたい」
 急にグレイルの目が真剣味を帯びる。しばしの沈黙の後、ばつが悪そうにフラメアが答えた。
 ――ご、ごめん。その、今のはアタシが悪かったよ、マスター君。実は……。

 ◇

 窓もカーテンも閉め切った薄暗い部屋。
 妙に広い空間の片隅で、ランプの灯りのもと、イアラが本を読んでいる。窓辺に腰掛けながらも敢えて外に背を向けている彼女の姿勢は、この世界に対する彼女の向き合い方そのものを暗示しているようにもみえた。
 黒いヴェールを被って、猫背気味にうつむいているイアラ。彼女の背後、少し離れたところに長髪の青年が控えている。青いローブの上に輝く不思議な羽衣のようなものをまとう彼の出で立ちは、魔道士か精霊あたりを連想させる。ゆるやかに波打った髪は、ローブと同じく印象的な青い色。彼は人間の魔道士でも精霊でもなく、水のパラディーヴァ、アムニスだ。
 何も言わず、静かにイアラの様子を見守っていたアムニス。その表情がかすかに強張った。
 ――まさか、リューヌが。
 アムニスの心の揺らぎをイアラも感じ取る。最初は気づかないふりをしていた彼女だが、やがて、無愛想な口ぶりで言った。
「何かあった?」
 事の重大さにはイアラも気づいているらしい。アムニスは特に慌てる様子もなく、いつも通り冷静な様子で答える。
「心配するな。何があっても、君のことは俺が必ず護る」

 ◇

「旧世界の戦いの後、《あれ》の力によって形成された《摂理の封印》。さしずめ、彼女は神に封印された魔王とでもいうところか」
 石造りの暖炉の前、熟れた果実と乾いた土の匂いとが入り交じったような、この地方で造られる赤ワインの香りが漂う。濃いルビー色に光るグラスを手に、真っ赤なケープを羽織った女性が立っている。未来(とき)を読む者、《紅の魔女》アマリアだ。
「そして閉じ込められた魔王は、契約者の召喚に律儀に応じ、彼を助け続けたために、ついに力を使い果たした……」
 若干、焦点のぼんやりとした目つきで、アマリアは感慨深げにグラスの中を見つめる。
 彼女の傍らで老人の声がした。
「最も恐れていた事態になったわい。リューヌが闇の御子に対して《いにしえの契約》を果たし始めた後、まだ覚醒していない御子が《封印》を解くことはできない。そうすれば、《封印》のかかったまま召喚に応じ続けるリューヌは、じきに消滅することになる。このままでは、《あれ》の《御使い》たちの思い通りじゃ」
「いや、ご老体。最悪の結果については、それが危険であるからこそ、人は予め何らかの策を講じているものだ。だから、最悪の予想が実現しても、それが本当の意味で最悪の結果を招くとは限らない。最も怖いのは、私にしてみれば予想できない結果のことだ」
 そう言ってアマリアは、例の先読みの水晶玉に手を触れる。
「たしかにあの少年は、いずれ《自分自身の意思》によって、炎の翼をもつ終焉の騎士を呼び覚まし、《終末を告げる三つの門》を開く。それは私の占いの通り。だが、まだその時期ではない。万が一、いま《封印》を闇の御子が解いてしまっていたら、むしろその方が危険だったろう。この世界は終わるぞ。今の彼の力では、鎖から解き放たれた《アルファ・アポリオン》を従わせることなどできない」
「確かに。その結果を避けることの方が、我々には重要じゃったの」
 老賢人のごとき姿をした地のパラディーヴァ、フォリオムは、彼女の言葉に同意する。
「さて、事前に講じておいた策とやらを進める時じゃ、我が主アマリア。優雅にグラスなど傾けている場合ではあるまい?」
「分かっている。だが、これは我らが闇の御子の目覚めを祝うささやかな祝杯なのだから、せめてもう少し楽しませてくれないか。ナッソス家の仕組んだ罠は、偶然という必然のもとで、闇の御子が《ダアスの眼》と《紋章》の力を体得するための《供物》となった。そのうえで、闇のパラディーヴァは、最後の力によって御子を《黒の宝珠》の中に送った。あとは彼女の《アストラル・コード》を《回収》し、機が熟す頃合いを見て、ルキアン少年をここに連れてくれば問題なかろう」
 アマリアは椅子に腰掛け、グラスを軽く揺らしながら不敵に言った。
「結果的に予想通りだ。《御使い》たちの好きにさせるつもりなどない。たとえ、まだルキアン少年には何の制御もできないにせよ、彼の中に《紋章回路(クライス)》が構築されたことにより、今ならば《黒の宝珠》の真の力を目覚めさせることができる。旧世界風に言えば、システムを再起動させるとでもいえば良かったか」

 ◇

「リューヌ……。我が姉妹、もう一人の私よ。そのような道を選びましたか」
 抗い難い魔法の楽器さながらに、美しく歌うような声で、一人の女が言った。
 険しい岩山に取り残された、遺跡を思わせる建造物。大理石に似た材質の古びた柱や土台には、それらが造られてからどれだけ経ったのか想像もできないほどの歳月が刻まれている。
 遺跡の奥の方に、かつて同様の石造りの大屋根を支えていたのであろう、1本の石柱があった。平らになった柱の頭部にあたるところに、不思議な女性が座っている。遠目に見ているせいもあるのだろうか、彼女の身体の輪郭が、何となくぼやけているようにも思われた。
「《人の子》が自身の足で立ち、自らの意志で歴史を紡ぐことを助けても、それは無意味な結末を生むだけでしかないのだと、どうしてあなたは気づかなかったのですか」
 腰まで豊かに伸びた、白あるいは限りなく白に近い銀色の髪。同じく純白のローブをまとった彼女の姿、そして顔つきは、リューヌによく似ていた。いや、リューヌとは表情と雰囲気が大きく異なっているにしても、顔や体のつくり自体は、むしろ瓜二つとさえいってよい。
「人間という不完全な生き物は、この世界という揺りかごの中で、《あの存在》の因果律によってあるべき未来へと《導かれ》、望ましい《高次の姿へと昇華》すべきなのです。それにもかかわらず、リューヌ……。愚かな人間たちに、救いのない歴史を自らの手で繰り返させるために手を貸し、あなたは自分自身まで犠牲にしてしまった」
 彼女は、その背にある翼を大きく広げた。
 真白き翼が羽ばたいたとき、彼女の体がまばゆく輝き、周囲に光が満ちた。
 見渡す限りの大地と天空とを世界の裏で覆い尽くしているかのような、想像を絶する魔力を身にまとい、見た者全てが無意識のうちに魂までも支配されるであろう、麗しくも神々しいその姿は――天使、いや、女神を想起させずにはいまい。

  人の子たちの《今》を護ることに価値などありません。
  彼らがどれだけ地を這い、理想に手を伸ばし続けても、
  その先に自らの足で《救い》へと辿り着く日は、
  今のままでは永遠に訪れはしないのだから。

  人の子には《導きの手》が必要なのです。
  差し伸べられた手を拒む、《対なる存在》の側の御使いに、
  そう、人の子にして人の子にあらざる《御子》に、
  なぜ私たちは力を貸さねばならないのですか。

  わが光と対を為す闇の娘、哀れなリューヌよ……。


5 旧世界の超遺産…黒の宝珠、発動



 ◇

 ――リューヌが死んじゃったよ……。

 膝を抱え、うずくまり、暗闇の中に浮いているルキアン。

  -《紋章回路(クライス)》の存在を検知しました。
  -システムは自動的に復帰中です。

 不意に一点の光が浮かんだかと思うと、それを皮切りに次々と小さな明かりが灯った。無数の光の粒が明滅する空間は、銀河の世界を思わせる。この奇妙な空間にルキアンがゆらゆらと浮遊していた。水の中を漂う魚のように。

  -回路の構造をスキャンしています・・・。
  -《リュシオン・エインザール》の《紋章回路》と照合中。
  -前回起動時の設定により、許容範囲の誤差とみなして承認します。

 淡い光を浴びて鈍く光るのは、銀色の髪。同じく、周囲の光を反射して浮かび上がって見えるのは、眼鏡のレンズ。曇ったガラスの向こうを伝って涙が流れた。

 ――僕が何もできないから。僕のせいで。

 ルキアンの頭の上に白い光の輪が形成される。ありふれた言い方だが、それを見た者は天使の輪を思い起こすに違いない。その《天使のリング》が輝きを強めてゆくのに応じ、彼の身体は、頭上から見えない糸で引かれるように起き上がっていった。

  -システムとエクターとのリンクを構築しています。
  -エクターの《紋章回路》が起動していません。
  -可能な領域を複写し、仮想回路として設定。
  -システムとのリンクを再構築しますか?
  -・・・・・・。再構築を開始します。
  -仮想回路の固有情報にアクセスしています。
  -リードエラー。
  -強制解放。

 ルキアンは小さなうめき声を上げた。そして、身体に電流が走ったかのように身を震わせると、突然に目を大きく見開いた。

  -衛星軌道上のマゴス1、マゴス2、マゴス3の座標が測定できません。
  -データリンクに失敗。
  -《アルティマ・トリゴン・システム》が起動できません。
  -固有モードで再起動中。
  -パラディーヴァが存在しません。
  -基本システムにパスを変更します。

 ◇

 勝利を確信していたはずのカセリナの目に、信じ難い出来事が映っていた。前方に横たわる、大破したアルフェリオンの機体。その残骸の中から例の黒い珠がひとりでに飛び出し、宙に浮き上がったのだ。
 狼狽するカセリナの視線の先、珠は空中に静止した。
 ――この黒い珠の中に、ルキアン・ディ・シーマーが吸い込まれて……。
 いつまでも戸惑い続けるカセリナではない。アルフェリオンに今度こそ引導を渡すため、それ以上に、得体の知れない胸騒ぎに危機感を覚え、黒い珠を目掛けてイーヴァが踏み込んだ。
 黒の宝珠の正面をMTレイピアが確実にとらえた――そのはずだった。予想外の手応えに、カセリナは剣先を見つめる。光の刃を目で辿っていくと、先端が何かに接している。宝珠の手前に魔法陣のようなものが形成され、MTレイピアの必殺の突きを受け止めていたのだ。剣先に力を込め、機体全体の重さを掛けて押し込もうとするカセリナ。だが、空中に描かれた実体なき映像、あるいは光の記号の羅列にすぎない魔法陣は、びくともしない。

「僕が甘かったんだ。僕が迷うから、曖昧な気持ちでいるから、リューヌは僕をかばって死んでしまった。僕が迷わずに戦っていたら、リューヌは」
 またたく星々の海。おそらくここは、黒の宝珠の中、宝珠が創り出した亜空間のような場所なのだろうか。宙に立ちすくんだまま、ルキアンは生気のない顔でつぶやく。
「シャノンのときだってそうだ。僕が迷わずに撃っていたら、シャノンだって、おばさんだって、トビーだって、助かっていたかもしれない。なのに僕は!!」
 ルキアンの叫びと同時に、黒の宝珠に変化が起こった。宝珠の表面が薄赤く光った後、前方に描かれた魔法陣が閃光を放つ。一瞬のことではあったが、莫大な魔法力が解放されたのが分かった。
 カセリナは、機体の表面を通じて、肌が焼け付くような感触を覚えた。その直後、爆風と共にイーヴァは背後に吹き飛ばされる。
 ――何なのよ、この機体は、一体。
 素速く姿勢を立て直したイーヴァが炎を放った。いや、炎はそれ自体に意志があるかのごとく、生き物のような動きで黒の宝珠めがけて突き進む。
 ――《炎のネビュラ》よ、あの黒い珠を焼き尽くせ!
 カセリナの言葉に応じ、ネビュラすなわち人工精霊は、炎の蛇に姿を変えて黒の宝珠に絡みつこうとする。だが新たな魔法陣が現れ、炎の蛇の行く手を遮った。よく見ると、この魔法陣は、ルキアンがソルミナの幻の世界で発動させていた《闇の紋章》と同じ形をしている。

  -最適化のシミュレーションを行いますか?
  -《アポカリュプシス》を使用する権限がありません。

  -《フィニウス》
  -《ゼフィロス》
  -《テュラヌス》
  -《アダマス》
  -《エリュシス》

  -《テュラヌス・モード》を推奨。

  -《カラミティ・テュラヌス》で試行しています。
  -現在の設定では《カラミティ・フォーム》は使用できません。
  -《ノーマル・フォーム》で《テュラヌス・モード》を最適化中。
  -《第五元素誘導》完了。
  -《マキーナ・パルティクス》、増殖レベルBで活性化完了、注入。
  -機体の再生を開始します。

  -《支配結界》の生成データ、仮想回路から解読、蓄積完了。
  -支配結界の構造をシミュレートし、疑似結界の生成を準備。
  -《闇の繭》展開。

 ◇

 カセリナは、またもや想定外の光景を目にすることになった。
 たった今、黒の宝珠を中心に、前方に横たわる大破したアルフェリオンの周囲を、瞬時に何かが覆い尽くしたのだ。
 ――結界? 黒い……繭。
 彼女がそう思ったのも無理はない。アルフェリオンを取り巻いたのは、まさに昆虫の繭を、とりわけ蛾のそれを思わせる何かだった。嫌な予感がした。それでもカセリナは攻撃を緩めることなくイーヴァのMTレイピアで突きかかったが、事前の予感通り、イーヴァの剣は黒い繭には通用しない。
 歯が立たないというよりも、MTの光の剣は黒い繭をあっさり通り抜けたのだ。目に見えているのに、繭は空気のようで実体がない。しかも繭の向こうには黒の宝珠やアルフェリオンの残骸があるはずなのだが、何の手応えもなく、イーヴァの剣は黒い繭をすり抜けるだけだった。
 さらに二、三度、無駄と分かっていながらカセリナが突きを放ったとき。
 繭の中から低いうなり声がした。アルフェリオン・ノヴィーアの竜のごとき声にも似ていたが、それよりもいくらか、獅子や虎のような野獣に近い響きだった。
 頭頂から爪先まで、背筋を貫き、カセリナの体に寒気が走る。結界の向こうにいる敵の姿は見えないが、それは極めて危険なものだと何かが告げている。

「戦いは嫌だよ。誰かを傷付けたときの、あのどうしようもない気持ちは、思い出すだけでも嫌だ。だけど……やめてって言っても、話せば分かるって伝えても、相手にその気がなければ、こちらで先に誰かが犠牲になってしまうだけだ」
 虚ろな目をしてルキアンがつぶやく。彼は、星空のような空間に、両手を広げて浮かんでいる。頭上には例の光の輪。さらに、旧世界の古典語で書かれた呪文が輝く文字列をなし、輪になってルキアンを囲み、ゆっくり回転を始める。同様の呪文の輪がひとつ、またひとつと、数を増し、それぞれ異なる角度と速さでルキアンを中心に回っている。
「それから戦っても遅いんだ。僕はいつもそうだ。自分の優柔不断さのせいで犠牲を出し、犠牲に後悔してから、泣きながらやっと戦う。それでたとえ勝ったとしても、失ったものは取り戻せないんだ。それじゃダメなんだよ」
 ときおり涙に声を詰まらせながらも、抑揚のない無感情な口調でルキアンは語り続ける。
「駄目なんだよ、それじゃ。僕は、一番大切なものを……大切なリューヌを失って、初めて分かった。この世には、言葉では分かり合おうとしない人間がいる。手を差し伸べても、切り付けてくる人間がいる。そういう人たちにいくら語りかけても、一方的にこちらの血が流れてしまうだけなんだよ」
 ルキアンの目に狂気の光がはっきりと浮かんだ。
「どうしてだろう。なぜ話を聞かずに争おうとするの。ねぇ、どうしてなのかな。僕が弱いとか、僕が自分からは手を出さないとか、そう分かってるから? でも、もし相手が僕らじゃなくて帝国軍だったら、びくびくしながら話し合いに応じるんでしょ。相手が自分より強いか弱いかだけで物事を判断して、態度を変えるような……そういう人がいるから、言葉ではなく力に頼ろうとする人間も減らないんだ」
 次第に、意味不明な微笑が彼の口元に浮かぶ。明らかに正常ではなく、理性的な思考はおそらく一時的に崩壊している。ルキアンの瞳もいつもの彼自身のものとは思えず、何か別の力に支配されてしまっているようにみえた。
「僕は、いつも力ずくで相手を従わせようとする帝国軍のような人たちも、逆に、力ずくでこられない限りは相手に譲りもしないあなた方のような人たちも、どちらも軽蔑すべき人間だと思う」

 黒い繭の表面にひびが入り、中から光が幾筋も外に向かって突き抜けた。
 同時に、魂まで恐怖に凍り付かせるような咆吼が戦場を駆けめぐる。

「そういう人たちがいるから、この世界から戦争や暴力が無くならないんだ。そういう人たちがいる限り、優しい人が優しいままで笑っていられる世界は夢物語のままなんだ……」

 繭が消え去り、その向こうに現れた影。
 兜の奥で赤く輝く瞳は、燃え盛る炎の色。
 牡牛のごとき2本の角。
 頭頂には鶏冠のような角。それが首から背中に向かって幾重にも続いている。
 元々あった翼は無くなったが、その代わりに刺々しく分厚い甲冑に身を包む。
 肩、肘、手首、膝、足首と、あちこちに鋭い刃物同様の突起が生えている。
 大地を踏みしめる逞しい脚の向こうに、揺れる細長い三本の尾。
 低い声でうなる、銀色の野獣のごときアルフェリオン《テュラヌス》。

 イーヴァの魔法眼に映っていた銀の獣騎士の姿が、瞬時に消えた。
 ――速い。あれだけの重装甲で、この俊敏さ?
 そう言っている間にも、相手の恐るべきパワーに押し潰されそうになりながら、カセリナはかろうじて最初の一撃を受け止めた。輝く光で形成された巨大な鉤爪・MTクローを展開したテュラヌスの腕が、イーヴァの頭部まで間近に迫る。それを片手で必死に抑え、イーヴァはもう一方の手に握ったMTレイピアでテュラヌスを刺そうとした。
 ――くたばれ、化け物!
 だがテュラヌスは、高速で突き出されたMTレイピアの刃を別の手で掴んだ。MTクローとMTレイピアが火花を散らして干渉し合う。両者とも手がふさがり、攻撃はできない。ここでいったん飛び退いて、すかさず敵の懐に突きを放てば勝てるとカセリナは読んだ。
 しかし、そう思ったとき、彼女は重々しい衝撃と痛みを腹部に感じ、声を飲み込むような悲鳴を上げた。
 テュラヌスの上体を覆う巨大な甲冑。その間から一本の腕が伸びていた。左右の腕はイーヴァに塞がれているはずだが、それとは別の3本目、新たな腕だ。
 ――卑怯な……。
 隠されていた腕はMTサーベルを握り、イーヴァの無防備な腹部に突き立てている。それでもさすがに旧世界の機体だけあって、強靱な魔法合金の複合装甲と、目に見えぬ結界を張っているおかげで致命的な損傷にはなっていないようだが。幸い、甲冑が特に厚い箇所でもあった。
 ――お、おのれ、ルキアン・ディ・シーマー。
 これまでの戦いで、一度も敵に機体を破損させられた経験のない強者のカセリナは、いま、機体の損傷がエクター本人にも生身の傷同様の痛みとなって伝わるということを、初めてその身で体感した。苦痛にあえぎながらも、カセリナは背後に飛び退いた。
 が、今度は頭部に激しい衝撃を感じ、一瞬、目の前が真っ暗になる。
 ――つかまった。イーヴァと互角の速さ?
 右手でイーヴァの頭部を鷲づかみにすると、テュラヌスは機体を軽々と片手で持ち上げた。その感覚がカセリナ本人にも現実的な苦痛となって伝わる。
 ――放せ! い、痛い。このままでは……。


【続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 荒れ狂う炎を宿した戦慄の戦士。
 金剛の爪は、立ちはだかるものすべてを引き裂き、
 血に飢えた牙は敵の肉を喰らう。
 憤怒の面は顕現し、天の騎士は慈悲なき鬼神と化す。
 その無双の力の前に、抗う者は己の運命を嘆くであろう。

◇ 第48話 ◇


1 再会、歪められた運命…



 光の一切届かぬ闇の世界を突き抜け、まばゆい日光と空色の視界が飛び込んできた。風に舞う空気感と、《身体》にかかる重力と共に。
 ――戻った? いけない、落ちる!!
 ルキアンは機体の姿勢を反射的に立て直す。6枚の翼を陽の光に輝かせ、アルフェリオン・ノヴィーアは、白銀色の甲冑に覆われた巨体を上空に浮かべている。
 アルフェリオンの魔法眼を通じて四方八方に視線を走らせ、ルキアンは周囲の状況を慌てて確認する。まず、青空と流れる雲が見えた。空は空だ。これだけでは、ここが現実の世界なのか、いまだ夢幻の世界なのかは分からない。
 ――幸い、このへんに敵はいないようだけど……。あれは。
 緩やかな起伏のある緑の大地、草の大海と、そこにぽつんと取り残された丘がひとつ。見覚えのある光景が眼下に広がった。
 ――本当に現実かな。確かに、ナッソス城が見える。
 白亜の断崖のごとき城の外郭が、丘の中腹に連なる。その堅固な防壁の向こうから、ひときわ高い天守をはじめ、オレンジ色の鮮やかな屋根をもつ建物が幾つも頭を除かせている。
 ――そうか。多分、僕は、あの赤い結界に飛び込んだときの位置に戻ったんだ。
 一瞬、安堵感を味わいかけたルキアンだったが、彼は慌てて《念信》を飛ばす。
 ――メイ、バーン、聞こえたら返事して! クレドール……セシエルさん、聞こえますか。な、何だこれ。訳が分からない。
 無数の念信が戦場に飛び交っている。念信に慣れていないルキアンにとっては、頭の中をかき回されているように不快に感じられた。
 他方で地上を見ると、凍っていた時間が一気に解けたような有様だ。ほんの何秒か前には異様に静まりかえっていた戦場に、今や無数の砲撃が飛び交い、両軍の機体がそこかしこでうごめき、ぶつかり合っている。すさまじい乱戦、蜂の巣を突いたような騒ぎだ。
 それはそうだろう。ナッソス家の側から見れば、敵軍は生還不能な時空の彼方に飛ばされたも同然だったはずなのに、なぜかすべて戦場に舞い戻ってきている。ギルドの側からすると、自分たちは突然に幻の世界に取り込まれ、何が起こったのか分からないまま、いつの間にか元の戦場に立っているのだから。
 ――僕らが幻の世界に取り込まれてから今まで、どのくらい時間が経ったんだろう。いや、こっちの世界では、ほとんど時間は経っていないのか。
 敵方の攻撃に注意を払いながら、アルフェリオンはさらに高度を下げる。

 ◇

「そうですか。《柱》を破壊しましたか」
 クレヴィスは、おもむろに二、三度うなずいた。
「さすがバーンです。《魔法》が解けた瞬間、状況も何も分からないのに、ほぼ反射的に剣を振るうとは」
「一瞬のチャンス、戦士の本能ってか。時には何も考えないヤツの方が強いね……」
 刻々と変化する状況をクルーたちに報告しながら、ヴェンデイルが苦笑する。短い冗談を飛ばしたかと思うと、すぐにヴェンデイルの口元に緊迫感が戻った。
「でもナッソス家も甘くない。たかをくくって陣形の整備を始めていた敵軍は、またすぐに攻撃を開始してきたよ!」
 茶色のクロークの裾を翻し、クレヴィスは間髪入れずに命じた。
「セシエル、ラプサーやアクスの念信士と協力して、各隊に現状を速やかに伝えてください。我々の前衛は今の今まで狐につままれていたようなもの。戸惑っている間に、一気に各個撃破されてしまう恐れがあります」

 ルキアンの考えた通り、現実世界ではほとんど時間は過ぎていなかった。《盾なるソルミナ》の生み出す幻の中で広大な《迷宮》をさまよった彼の感覚でいえば、すでに半日近く経っているのではないかと思われたのだが。
 一方、クレドールの艦橋にいた者たちの実感としては、ナッソス城を不意に赤い結界が取り囲んだかと思えば、すぐにまた結界が消えてしまったという不可解な出来事だった。その短い時間に、ソルミナの支配する世界でいかに恐るべきことが起こっていたのかは、彼らには知る由もない。

 ◇

 現実世界へと生還したにもかかわらず、そのことをすぐには理解できないほど、レーイの意識は混濁していた。彼の五感もはっきりとしない。周囲で激しい乱戦模様になっていることを漠然と認識し始めたようだ。
 いつものレーイなら直ちに立ち上がって粛々と戦いを続けるのだろうが、今回はあまりに機体の損傷が大きい。それは、アルマ・ヴィオと一体化している彼自身にも《痛み》となってはね返り、同時に彼の精神力も激しく消耗させているのだ。彼の操るカヴァリアンは、随所に深い傷を負っているばかりか、膝の関節を破壊されて歩くこともできず、右腕さえも失っている。
 ――カセリナ、姫……。
 カヴァリアンを再起不能なまでに撃破したカセリナ。《ステリア》の覚醒によって彼女の狂気を呼び覚ましたイーヴァの姿は、目の前にはない。最後の賭けとして、レーイが己の機体と共にイーヴァを封じ込めたMTシールドの結界も、今は完全に消えている。
 ――俺は、ここで、倒れるわけには。
 気を失いそうになりながらも、まだ戦う意志を失わないレーイ。
 カヴァリアンは、なおも左手でMTサーベルを握って放さない。だが、その刃を形成する光は次第に弱くなり、すうっと消えてしまった。
 ――まだ、俺は。
 両脚を地面に投げ出しながらも、かろうじて起きていたカヴァリアンの上体が、ついに前のめりに倒れて動かなくなる。

 ――ここまでか。ヴィラルド、エレノア……。

 薄れゆく意識の向こう、かつてレーイに剣を教えたヴィラルドの姿があった。

 ――最後まで諦めるな。

 続いてエレノアの残した言葉が反響する。

 ――お前は《やさしさ》と《むなしさ》を知る者だから。

 二人はレーイに向かって手を差し出す。
 彼も最後の気力を振り絞り、心の中で手を伸ばした。手と手がふれあったとき、不意に遠くの方から違う声が届いた。
 ――聞こえますか、大丈夫ですか。
 レーイからの答えはすぐには無かった。声の主は続けて呼びかける。
 ――ヴァルハートさん、しっかりしてください! 僕です、クレドールの、ルキアン・ディ・シーマーです!!
 ――クレドールの……。ディ・シーマー君……。
 やっと気づいたレーイは、ルキアンの名を口にした後、微かに元気を取り戻したようにみえた。
 ――そうか、君が、来てくれたのか。
 ――地上の状況を確かめていたら、カヴァリアンを見つけました。良かった。
 地上に舞い降りたアルフェリオンが、カヴァリアンを慎重に抱え起こす。機体の様子をみたルキアンは、思わずつぶやく。
 ――こんなに大破しても、乗り手に意識があるなんて。すごい気力。
 ――いや。無様なところを、見せて、しまったな。
 レーイからの念信が徐々に明確になってくるのを感じ取り、ルキアンは胸をなで下ろす。

 言い方を変えれば、油断したのだ。戦いの場で。

 突然、ルキアンは短い叫び声をあげた。あまりの苦痛のために続く声が出ない。
 アルフェリオンの右胸付近、絶大な防御力を誇る白銀の魔法装甲を貫き、青白い光が突き刺さっていた。
 風を切って飛んできた投げ槍、MTジャベリンを放った者は……。

 殺気に満ちたオーラをまとい、悠然と近づくひとつの影。

 女の姿をもったアルマ・ヴィオ。
 その身体のすべては、天界の匠の手になる女神像のような計算し尽くされたラインで構成されている。頭部から首筋・肩口へと流れる、豊かな髪を思わせる造形と、腰部から大腿部にかけての箇所を優美な曲線を描いて護るスカート。
 華奢で可憐な外見の中、仮面を被った不気味な顔つきが際立って異様だった。

 ――白銀のアルマ・ヴィオ。ついに見つけた。パリスの仇。

 痛みに声を失っていたルキアンも、その名を口にせざるを得なかった。

 ――カセリナ。


2 砕け散る、こころ



 ――何をしている、落ち着いて敵を見るんだ!!
 レーイは気力を振り絞って叫んだ。本当はルキアンよりもレーイの方が、半死半生の状態なのだが。擬似的な《苦痛》ではあれ、大破した機体の状態をそのまま自身の体で受け止めながら、それでもレーイは超人的な精神力で呼びかけ続けた。
 ――カセリナ姫は《敵》だ。戸惑わず、戦わないと、君が殺されるぞ!
 ――どうしてなんだ。なぜ君が……。カセリナ。ど、どうして、アルフェリオンの装甲が、こんなにも簡単に。
 肝心のルキアンは目の前の現実を受け入れられず、真っ白な意識の中で混迷を深めてゆく。これは悪い夢ではないか。いや、今の自分が、まだ実は《盾なるソルミナ》の幻の世界に取り込まれたままではないのか。ありもしないことを思い、ルキアンは半ば逃避を始めようとした。
 ――投げ槍1本に、紙みたいに貫かれるなんて。そんな、そんな、有り得ない。
 しかし、現にアルフェリオン・ノヴィーアの胸甲を貫いた光の槍は、繰士のルキアンにも激痛を与えている。この耐え難い苦痛は、夢ではなく、紛れもなく本物だ。ルキアンがなまじ戦いを経験し、白銀の甲冑の鉄壁ぶりを実感してきたことが、かえって災いとなった。機体の性能に頼りすぎるなと、ミトーニアでシェフィーアに言われた矢先なのだが。
 ――このままでは二人ともやられる。
 レーイ自身の乗る《カヴァリアン》は、両脚を損傷してもはや立ち上がることすらできない。彼は焦燥感を募らせ、頼みのルキアンを落ち着かせようと念信を送る。だが、カヴァリアンの機体に肩を貸しているアルフェリオンの方は、動揺するルキアンの心境を反映し、ただ呆然と立ちすくんだままだ。
 ――ど、どうしよう。どうしよう! うわぁぁ。
 レーイの渾身の呼びかけにもかかわらず、ますます混乱する一方のルキアン。

 ――無様ね。

 これまで黙っていたカセリナから、ルキアンとレーイに念信が届いた。華奢な機体からは想像もできないほどの威圧感を放ち、頭部の《髪》を微かに鳴らしながら《イーヴァ》が迫る。
 ――本当に無様だわ。でも、あなたなんかに、あなたなんかに……。
 もしこれが生の唇から発せられた言葉であったなら、カセリナの声が怒りに震えているのが分かっただろう。高圧的な物言いがルキアンに突き刺さる。
 ――あなたなんかに、パリスが倒されるなんて。どんな卑怯な手を使ったの。ルキアン・ディ・シーマー。まさか、白銀のアルマ・ヴィオの乗り手が、こんな人だったなんて。
 ――ぼ、僕は、僕は。カ、カセリナ、これは、その……。
 思考が混乱して何も言えないルキアンに、カセリナが追い打ちを掛ける。
 ――よして。あなたなんかに名前で呼ばれる筋合いなんて無い。
 彼女の冷たい言葉の背後に、ルキアンに対する露骨な嫌悪感があることは、念信からありありと感じられる。
 ――それに、何。念信もろくに扱えないなんて。気持ちを垂れ流しにしないでくれるかしら。そんなふうに私のことをしつこく妄想するのはやめて。
 もはや弁解するどころか、ルキアンは返事さえ返せない。カセリナの次の一言が、ルキアンをどん底に叩き落とした。

 ――はっきり言って、気持ち悪いわ。

 ◇

  気持ち悪いわ。
  気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。
  気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。
  キモチワルイ。
  アナタナンテ キエレバイイノニ。

 暗闇に投げ出され、奈落の底へと落ちてゆくルキアンのまわりを、カセリナの言葉が無数に取り巻き、ささやき、叫び、かけめぐる。

 ――そうなんだ。僕なんて……。
 ――あはは。僕なんて。

  ルキアンの中で何かが壊れた。

 ――僕なんて、やっぱり居ても仕方がないんだ。要らない人間なんだ。

 魂を引き裂かれたような叫び。
 砕け散った、歪んだガラスの破片。
 そのひとつひとつに、少年の眼差しが無数に浮かび上がる。
 くらやみの万華鏡。

 ――だけど何で僕だけ……。いつも、そうなるの。
 宙空を漂い、ときおり薄闇の中で光る破片に浮かぶ、幾百、幾千の陰鬱な目つき。
 ――ねぇ、僕が何をしたの?
 ――答えてよ。僕は悪くないでしょ。ねぇ、そうでしょ?
 ルキアンの声のトーンは次第に高くなり、独白の調子も狂気じみてきた。

 ――これは?
 レーイは異変を感じ取った。アルフェリオンの機体が不意に動いたのだ。銀色の指が震え、いや、機体全体が微かに震えている。
 同時にカセリナも得体の知れない寒気を覚えた。
 ――な、何よ。何を意味の分からないことを。
 ルキアンの心の声は、相変わらず念信を通じて彼女の方に漏れ続けている。悶々と自分を卑下したかと思うと、今度は恨み言を口走るルキアンの異様さに対し、カセリナは次第に恐怖さえ感じ始めた。

 ◆

 血に染まった牙のイメージ。
 突如、それはルキアンの脳裏に閃光のごとく浮かんで消えた。
 闇を切り裂き、紅色の傷跡を残す鉤爪。
 そして再び、暗がりの中で光る牙。

 ◆

 カセリナが一気に踏み込んだのは、そのときだった。

 ――どうして……。

 泣きながら、我を忘れてつぶやくルキアン。
 いま、彼の視界からイーヴァの姿が消え――いや、消える間もなく、目の前にイーヴァの姿があったという方が正しい。そこで勝負は決まっていた。
 断末魔の苦しみか、凄まじい咆吼が周囲に轟く。一瞬、戦場のすべてを凍り付かせたその響きは、紛れもなく竜の叫びだ。もしそれを実際に聞いたことのある人間がいればの話だが。
 翼を広げた竜の騎士、白銀のアルマ・ヴィオの懐に、ひと回り小柄な戦乙女イーヴァの姿があった。アルフェリオンの胸とイーヴァの拳が重なっていた。その手に握られたMTレイピアは、アルフェリオンの中心を確実に貫いている。二体のアルマ・ヴイオはそのまま動じず、太陽の光を浴びてシルエットとなって見えた。あたかも彫像のように。
 ――駄目だ。直撃だ、《ケーラ》への。
 レーイは呆然とつぶやく。最後の希望を打ち砕かれ、ついに彼自らもそこで意識を失ってしまった。乗り手であるエクター自身が眠る《ケーラ》は、いわばアルマ・ヴィオのコックピットに相当する。これを破壊されれば、エクターは命を失い、アルマ・ヴィオはもはや魂のない《人形》も同然となる。
 さらに一度、長く弱々しい声で鳴いた後、アルフェリオン・ノヴィーアの機体から力が失われ、その巨大な体躯が、目の前のイーヴァに覆い被さるようにして崩れ落ちる。
 ――パリス、仇は討ったわ。
 心を微塵も動揺させることなく、カセリナは淡々としていた。

 ――こんな敵に倒されて、さぞ無念だったでしょう。


3 さよなら、リューヌ



「ぼ、僕は……」
 ルキアンは恐る恐る目を開いた。疲れて、重たいまぶたの感覚。目が霞み、狭くなった視界。彼の精神――あるいは魂は――アルフェリオン・ノヴィーアとの融合を解き、元の肉体へと戻っている。身体そのものには何の傷も痛みも無かった。
「機体の外? ケーラが壊される前に、何かの力で転移……したのか。まさか」
 浮遊感。ぼんやりとした意識の中で、自らの足では立っていないことをルキアンは自覚する。代わりに彼を優しく抱きかかえている者がいた。
「リューヌなんだね。あり、が、とう」
 ルキアンの声に、黒き翼の守護天使は静かにうなずく。だが次の瞬間、ルキアンの表情が変わった。
「いや、こんなことをして大丈夫なの? 君は力を使い過ぎて、ミトーニア以来、もう僕と話をすることさえできなかったのに」
 長い黒髪を風になびかせながら、彼女は翼を広げ、アルフェリオンの機体の上に浮かんでいる。漆黒の長衣をまとった闇のパラディーヴァの姿は、ある種の荘重さをも漂わせている。

 アルフェリオンにとどめの一撃を与えたとき、カセリナは、嘔吐が込み上げそうなほどの息苦しさを覚えた。何の前触れもなく、冷たい妖気が周囲に充満し、イーヴァを取り巻く大気が水のようによどんで重く感じられたのである。
 ――何なの。あれは……。
 付近一帯を取り巻く、肌を刺すような魔力を警戒しつつも、カセリナは信じ難い光景に息を呑んだ。
 ――黒い羽根の、天使?
 一瞬、戸惑ったカセリナだったが、彼女は言いようのない危険を感じて咄嗟に動いた。その意志に反応し、イーヴァはアルフェリオンの機体からMTレイピアを引き抜くと再び攻撃を加え、目にも止まらぬ速さで何度も刃を振るった。
 最初の一撃で受けた損傷がさらに広がり、アルフェリオンの腹部に大穴が開く。そこから亀裂が四方に走り、白銀の魔法装甲がひび割れ、機体は真ん中から折れるように背後へと倒れた。
 腹部の装甲の裂け目の奥、内部の骨格や肉の向こうにひとつの《黒い珠》が見えた。妖しいぬめりを帯びた宝珠から、菌糸を思わせる無数の繊維状のものが周囲に伸び、伝達系の組織や動力筋に絡みついている。
 普通のアルマ・ヴィオの《体内》に、こんな奇怪なものは存在しない。すでに完全に機能を停止した敵を目の前に、カセリナは無意識に一歩退いてしまった。
 ――こんなアルマ・ヴィオは無い。これは……。

 アルフェリオンが地面に倒れたとき、その機体の中心にイーヴァが開けた大穴から、無数の破片が周囲に飛び散った。それらを防ぐため、アルフェリオンの上に浮かんでいたリューヌは球状の光の壁で自らを包む。彼女自身には必要のない防壁だが、ルキアンを守るために。両手にルキアンを抱くリューヌの姿は、幼子を連れた母親の姿を連想させた。
「私がいる限り、傷ひとつ付けさせはしない」
「そんな、また僕のために力を……」
 リューヌの魔力が急激に弱まるのをルキアンは感じ取っていた。
「もう止めて! リューヌ、このままじゃ、君は」
「私は《古の契約》に従い、あなたの剣となるよう定められていた者。何があっても、あなたを、主(マスター)を護るのが私の存在のすべて」
 これまで一切の感情の光を持たなかった彼女の瞳に、小さな光が灯った。
「ここまで、よく頑張りましたね」
 あたたかい響き。
 彼女の声は、冷厳なパラディーヴァのものから、妙に人間臭いそれへと変わった。
「あの果てなき幻の世界の中、あなたはたった独りで最後まで戦った。あのとき、《御子》の力の本質をつかんだはずです」
 リューヌの力がますます小さくなってゆく。ルキアンは思わず叫んだ。
「嫌だ! リューヌ、消えないで!! 君がいないと、僕は……。リューヌ!」
 ルキアンを諭すかのように、彼女は穏やかに首を振った。
「この世界に私が存在し得るための力は、もうほとんど残っていません。現在の状態で何度も《封印》を超えて実体化すれば、じきにこうなるのは最初から分かっていました。でも、悲しまないでください。我が主よ、あなたの涙を見たくないから、私は喜んで自らを犠牲にできるのです」
 瞳に映るルキアンの姿を、彼女はかつてのマスターと重ねていた。
 彼女の最初のマスターにして創造主でもある者、旧世界のエインザール博士と。

 ――リュシオン、あなたの笑顔をずっと見ていたかった。

 ◆

 私は哀しみの中で生まれた。
 あなたの涙が私の血となって、
 この冷たい体に命を吹き込んでくれた。
 だから私は、いつでもあなたと共にある。
 あなたを傷つけようとするもの全てから、
 この手で守ってみせる。

 ◆

 ルキアンを抱くリューヌの手に力がこもった。人ならぬ存在としての冷たい体温と、それとは反対に慈母のもつ暖かさと、さらに不思議なあどけなさをもった透明な眼差しで、彼女はルキアンの顔をのぞき込む。
「私がいなくても、恐れないで。もともとパラディーヴァは、御子が真の力に目覚め、独りで歩けるようになるまでの支えのようなもの。リュシオンが私に命を与える以前、それまでに無数に生まれては消えていった世界において、御子たちは……。もうあなたも知っている《光と闇の歌い手》ルチアや《静謐の魔道士》ルカの側には、まだパラディーヴァなど居なかった。それでも彼らは《予め歪められた生》に抗い、《あれ》に立ち向かったのです」
 二人の見知らぬ人物の名が耳に入ると同時に、何故かルキアンは、ごく自然に思い浮かべることができた。ソルミナの化身との戦いの最中、ルキアンが幻影の向こうに見た者たちの面影を。輝くような笑顔を持った車椅子の少女の姿と、杖を手に荒野にたたずむ孤独な僧の姿を。

 ◆

 そして私は願った。
 あなたの哀しみを 私にください。
 あなたの胸の痛みを 分けてください。
 降り続く氷雨のようなその涙が、
 もうあなたの瞳を曇らせることがないように。
 さらに そうすることが
 私が本当の魂を得られる道でもあるのなら……。

 ◆

「我が主よ、《深淵》を見たのでしょう。ならば、じきに現実の世界でも《ダアスの眼》は開き、闇の紋章は再び輝く。それまであなたを守り抜くのが私の願い」
 風がざわめき、大地が震え、辺り一帯に漂う自然界の霊気がリューヌに集中してゆく。
「もういい、やめて! リューヌ、もういいんだ!!」
 必死で止めようとするルキアンに対し、リューヌは目を細めた。
 ルキアンの脳裏に、幼い日の孤独とリューヌのイメージとが重なって浮かび上がる。

  大きな木の下でうつむく、銀髪の幼い男の子。
  孤独な姿を後ろで静かに見守る黒衣の女。
  そっと、なでようとする彼女の手は、男の子の頭を空しく通り抜ける。
  実態のない彼女の身体で彼に触れることはできなかった。
  それでも黒衣の女は、男の子を見つめ続けている。
  すすり泣く声が止むまで。いつまでも。

「そうだ、ずっと僕のそばにいてくれたのは、リューヌだけなんだ。行かないで。僕は、僕は、本当に独りぼっちになる。そんなの嫌だ。嫌だよ!!」
 しかし、リューヌの姿は風と共にかき消え、彼女の気配も感じられなくなってゆく。ルキアンの絶叫は、むなしく空に響いただけだった。

 ――さようなら。私の大切な……。

 リューヌのいた場所から、最後の光のしずくが、ひとつ、ふたつと、天に向かって昇っていった。
 取り乱して泣きわめくルキアンは、宙に浮かんだまま光に包まれる。次いで彼の姿は、地上に向かって飛び去るように消えた。いや、もはや残骸となったアルフェリオンの内部、あの黒い宝珠の中へと吸い込まれたのだった。


【続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


5 黒い瞳のルキアン



 ◆ ◇

「オーリムのギルドも大変だな。戦に勝って勝負に負けた、ということにならなければよいのだが」
 そう言ってしゃがみ込むと、シェフィーアは足元に手をさしのべた。指先が水に触れる。簡単に跨いで越えられるような小川が、砂浜を通って海へと続いていた。彼女は無造作に手で水面をかき回す。
「たとえギルドがナッソスに勝利しても、その後、帝国軍が攻めて来るまでに《レンゲイルの壁》に到着できなければ、援軍を欠いた議会軍の勝ち目は薄い。ほとんど実戦経験のない議会軍の大方の将兵と、ガノリスの精鋭相手に鍛えられている《メレイユの獅子》ギヨットや配下の《レンゲイル軍団》とでは、まったく比較になるまい。それだけでも厄介だが……」
 シェフィーアは厳しい目をして、それとは裏腹に口元には微かな笑みを浮かべた。
「《帝国先鋒隊》を甘く見ていたら、オーリウムはたちまち敗退することになる。あの真面目くさった女狐、アポロニア・ド・ランキアの策略は手強いぞ」
 レイシアは相変わらず無表情に、銀色の髪を海風にそよがせている。シェフィーアの話ではなく、潮騒に耳を傾けているようにもみえた。シェフィーアの方も気にしていない。
「まぁ、ギルドはナッソス家には勝てるだろう。問題はその先だな。そして、ナッソス家との戦いにおいて、少なくともルキアン・ディ・シーマーは必ず勝ち残る」
 シェフィーアは小川の流れを目で追い、それが海へと至るところで視線を止めた。
「見た目はあんなだが、あの子は強い。物心つく頃から、ルキアンはずっと独りで自分の生と戦ってきた。たった一人になっても戦い続けることができる者は、誰よりも強い」

 ◇ ◆

「楽しいことばかりじゃない。僕らは、暗く歪んだ想いも、内なる世界に抱えて……。嘆いたり、哀しんだり、憎んだり、妬んだり、それでも人は絶望せず生き続けてる」
 ルキアンは一歩前に踏み出し、ソルミナの化身に言葉を向けた。

  そういう負の感情が
  人間にとって悪しきもので、必要ないはずのものなら、
  僕らはどうして、
  そんな気持ちを持つような存在として生まれてくるのだろう。
  最初から人は、神様の生み出した失敗作なのだろうか。

  でも、ひとつだけ分かったことがある。
  幸せが失われても、愛に見放されても、希望が無くても、
  それでも生きようとする理由になっていたのは、
  僕の手に最後まで残っていて、僕を突き動かしてきた、
  そんな暗い想いだったと。

  それが望ましいものだとは思わない。
  だけど、光が手を差し伸べてくれなかったとき、
  それで生を諦めて死んでしまっていたら、いま僕は居なかった。
  本当はずっと自分の中の闇に支えられていたんだ。
  なのに僕はそれと向き合うことを避け、ただ恐れ、拒んできた。

  たしかに闇の力だけでは人は幸せにはなれない。
  だけど人は光の力だけでは生きていけない。
  影があるから光もあり、光があるから影もある。
  人はそういう不完全でどうしようもない存在で、
  それでも生きようともがく。

 ルキアンの右目が輝く。彼の瞳の中、複雑な魔法陣を描いた紋章が光を放った。
「さっき、死を目の前にして気づいた。苦しみ続けて、やっと光が見えたのに、こんなままで、何もできずにこの世から去ってしまうのは、空しい……悔しい……。その思いで胸が張り裂けそうになったとき、僕はそう理解した」
 黒い光――矛盾したような形容だが、黒く輝く光がルキアンの背から広がり、次第に翼のような形を取った。
「ずっと僕は自分の半身を拒否してきた。だけど、その力があるからこそ、僕はこうしてお前と戦える。たとえそれが《闇》の力でも!」
 そう言ってルキアンが目を閉じ、再び開くと、瞳は深い闇色に変わった。彼の心の中の《ダアスの眼》もいっそう大きく開く。

 僕は見た。
 生命と因果律の樹の背後に開けた底なしの暗き穴を。
 始まりにして終わりの知の隠されし静謐の座を。

 一陣の風と共に、ルキアンの銀色の髪が、濡れたような艶を浮かべた漆黒色に変化する。
 瞳の紋章と同じ形の魔法陣がルキアンの足元に現れた。現世界のものでも旧世界のものでもない、見たこともない文字や記号を伴って、円陣がルキアンを中心に形成されている。

 そして僕は知った。
 この魂の奥底にまで受け継がれた、
 いや、霊子の次元にまで刻み込まれた
 いにしえからの闇の血族の想いを。

 冷たく透き通った声。暗闇の中に、ひとこと、ひとこと、彼の声が静かに反響する様は、周囲の空気を凍り付かせてゆくかのようだ。ルキアンは、どこか寂しそうにうつむくと、また顔を上げ、華奢で幼さの残る少年には不似合いなほど重々しくつぶやいた。

「御子の名において命ず。闇の眷属きたれ……」

 右目に浮かぶ紋章が再び輝き、ルキアンの影が前方に向かって広がり始めた。
 黒い波紋が地面を覆い尽くすかのように、拡張する闇。
 暗黒の影は、ルキアンをなおも遠巻きにしていた魔人形たちのところにまで達した。そこで影にふれた人形は、音もなく消えて無くなってゆく。
 人形たちだけではない。床や壁さえも姿を消しているのだ。あくまでも静かに、ルキアンの周囲は漆黒の空間に覆われ、彼を除くすべてのものは暗闇に消えていった。


6 魂の記憶、今、想いの光を放て!



 今度は一瞬にして周囲が光に包まれる。同時にルキアンは違う場所にいた。
 熱い。彼が最初に知覚したのは蒸し風呂のような空気感だった。それもそのはず、ルキアンは、煮え立つ溶岩の海に浮かんだ島に立っている。あちこちで火柱が立ちのぼっては消える。
 そして明るい。照りつける太陽。マグマの赤い海の上に広がる青空の色が際立って見える。頭上の大空が果てしないのと同様、大地を覆い尽くす溶岩流にも際限がないことに、ルキアンは気づいた。溶岩の海は彼方にまで赤銅色の地平となって続いている。
 ――闇使いよ、汝の力は強い。されど、ここは我の造りし世界。
 背後に燃え盛る広大無辺な《世界》を誇示するかのごとく、空中に浮かぶソルミナの化身は言った。
 ――ここで我に手向かうことは、創造主に抗うことに等しい。
 無数に開いたソルミナの目が青白い光を浮かべる。
 突然、ルキアンの足元が揺れ、轟くような地鳴りが腹にまで伝わってくる。
「あれは……」
 目を懲らしてみると、灼熱する火の大洋の《水平線》が一斉に持ち上がっている。ルキアンは息を呑む。
「津波?」
 その瞬間にも、現実世界では有り得ない速さでマグマの波は高さを増し、押し寄せる。溶岩の高波は今や天を突くような壁となり、空さえも覆い尽くさんばかりの勢いでますます成長してゆく。この《世界》そのものが牙を剥いた。
「あんなものを、どうやって」
 激情に駆られ、何かに取り憑かれたかのように戦いに没頭していたルキアンだったが、この世の終わりさながらの光景は彼を我に返らせた。彼の背で翼のかたちに広がっていた黒い光は霧散し、髪は銀色に戻り、瞳の色も次第に薄くなってゆく。
「無理だよ。どうしよう、リューヌ……」
 つい、無意識のうちにパラディーヴァに助けを求めたルキアン。やはり返事はなかった。
 ――そうだった。僕のせいでリューヌは消耗して、今、死んだように眠り続けている。僕がしっかりしなかったから、ずっとリューヌに甘えていたから。
 近づく轟音。視界すべてが、迫る溶岩の海に遮られようとしていた。
「た、戦わなきゃ。こんなままで終わっていいのか」
 ルキアンは目を閉じ、肩を振るわせながら、小声でつぶやいている。
「何もできずに、黙ってうつむいているのは、もう嫌なんだ。何度もそう言ったけど、今度こそ、今度こそ、本当に僕は」
 震える指先を自らに従わせようと、彼は拳を握りしめる。
「さっき《見た》ばかりじゃないか。ここで僕が逃げたら《みんな》の想いは……。闇の力を手にしながらも、御子は、本当は優しい世界を誰よりも願っていたんだ」

 ◆

 何の前触れもなく、ルキアンは途方もない大きさのひとつの《眼》と向き合っていた。
 周囲には星が瞬く。
 果てなく広がる闇の空間に、小さな星の光が見渡す限りにちりばめられている。
 だが、どんなに微かな音さえも聞こえてくることはない。無限の静寂。

 《手を伸ばせ》と、自らの中で拒否しがたい衝動がわき起こった。
 気づいたとき、ルキアンは《眼》の方に両手を差し出していた。
 三つの人影が見える。
 ルキアンは彼らを知っていた。会ったこともないのに。直感的にその人物が誰であるかを理解したのだ。

 白衣を着た少しうつむき加減の男が、彼の方を見ている。
 ルキアンの父ではないかと思えるほど、顔つきや雰囲気が良く似ていた。

 《我は刻む、闇の紋章》

 もうひとつの影は、車椅子に座った少女だった。
 数匹の小鳥と戯れながら、光の粉を振りまくような笑顔で彼女は言った。

 《我は託す、夜の国の角笛》

 最後の影は岩の上に腰掛け、僧侶のような衣をまとっている。
 細長い杖を手に、縮れた長い髪を風になびかせ、その男は言った。

 《我は与う、静寂の法》

 ◆

「《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》は僕だけの願いじゃない」

 先ほどの弱気な彼と同一人物とは思えぬほど、凄まじい魔力がルキアンの身体から立ちのぼる。髪と瞳も改めて闇色に変わった。

「この胸に刻まれ、受け継がれた魂の記憶なんだ!」

 激高して叫ぶルキアン。瞳に紋章がきらめく。
 刹那の時、世界が灰色に見えた。凍った時間の中で羽ばたくものがある。
 天空から現れた鋼の巨人、輝く6枚の翼を背負った竜と荒鷲の騎士。
 それは、銀の天使、アルフェリオン・ノヴィーア。

 鋭い鳴き声と共にアルフェリオンは舞い上がり、翼をいっそう大きく広げ、空中で静止する。
 天の騎士のまとう甲冑、機体の左右の肩当てが鈍い音とともに横に動いた。そこに現れた吸気口が、幻獣のうなり声か、悪魔のオルガンのパイプが反響する音か、不気味な息づかいで大気を振るわせる。
 続いて鎧の胸部が開き、神秘的な青い光を放つレンズ状の装置が現れる。
 実体をもつ6枚の翼が巧みに重なり合って十字の形を取ったかと思うと、白熱化して輝き始めた。その先端から光の翼が伸び、オーロラさながらに空で揺らめく。
 その間、溶岩の津波は天空までせり上がり、アルフェリオンを飲み込もうと襲い来る。
 機体の胸のレンズが青から次第に赤へと変わり、いつしか紅色の光を放っていた。アルフェリオンの前方にも、赤い光が空中に現れ、レンズのような形を取る。膨大な魔力がアルフェリオンの周囲に満ちる。
 光の翼はますます広がり、その輝きで、怒りで、空を満たしてゆくかのようだ。
 機体のレンズと光のレンズとの間にまばゆい閃光の球が現れ、炎の如く揺れながらみるみる大きくなる。
 すべての方向から銀の天使に迫る灼熱の溶岩の壁、ソルミナの支配する《世界》の力。機体の魔法眼を通じてルキアンはそれを睨んだ。
 ――たとえ《世界》がお前の手の中にあるとしても、人の想いの力は無限だ!
 機体の背後の空、御子の紋章と同様の光の魔法陣が描かれた。
 ――容赦はしない。
 もうひとつ、前方に浮かぶ光のレンズの先に同型の魔法陣が形成される。
 ルキアンの漆黒の瞳にも紋章が浮かんだ。

 ――ステリアン・グローバー!!

 咆吼。大きく見開かれたダアスの眼。《深淵》と御子との間に《通廊》が開かれる。怒れる天の騎士は、大空と大地と、ソルミナの世界一面を終焉の光で包んだ。

 それから、どのくらい時間が経っただろうか……。


7 生還、盾なるソルミナの崩壊



 気がつくと、ルキアンとソルミナの化身は常闇の中で対峙していた。
 しばらく無言で向き合った後、やがてルキアンの心に声が流れ込んでくる。
 ――我が完全なる幻覚をも黒く塗りつぶす、その力。やはり汝は……。
 ソルミナの化身に異変が起こっていた。徐々に焦げてゆくように、蝶の羽根が端の方から黒く変色して消え始めている。
 ――封印された記憶のことを知るまい。もし《封印》さえ無ければ、汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。
 宙に浮かぶ脳の魔物の姿が今までよりも弱々しくみえる。心なしか、ルキアンに語りかけてくる思念も途切れがちになっていた。
「どういうこと? 僕の記憶が封じられてるって、どういうことなんだ!?」
 ルキアンは感情的に口走った。あの《夜》という部屋で見た不可解な光景を思い出し、彼の背筋に本能的な寒気が走る。不吉な直感が胸を詰まらせた。
「あの幼い子たちは、一体……。答えて、答えてよ!!」
 ソルミナの化身の奇怪な姿のうち、もはや半分までが闇に浸食され失われていた。その心の声も、意識を集中させないと聞き取れないほど微かになっている。
 ――我に感情というものはない。だが、汝の真実を知れば、人間はこんなふうに表現するのであろう。

 《かわいそう》

 最後に、空中に漂う霞のような状態になった化身が言った。

 ――汝は、いつか知るだろう……。召喚……一組の……適合……犠牲……。

 ルキアンの心に流れ込んでくる声も次第に微かになり、間もなく沈黙する。

 ◆ ◆

「大変だ! 結界が。空間に、亀裂?」
 座席から転げ落ちそうな勢いでヴェンデイルが叫んだ。声が裏返っている。
 上空でナッソス城の様子をうかがっていたクレドール。その艦橋は騒然となった。
「副長、結界が消滅するよ」
 《複眼鏡》の魔法眼に浮かぶ光景を、ヴェンデイルは呆然と見つめる。ナッソス城を取り囲んでいた赤い結界の真ん中に、にわかに亀裂が生じたのだ。いったん現れた割け目が広がるのは早く、彼が次なる状況報告をしようとしたときには、もう結界そのものが姿を消していた。
 ツーポイントの眼鏡の奥、クレヴィスの目に微かな笑みが浮かぶ。
「ふふ。やはりあなたですか、ルキアン・ディ・シーマー君」
 彼はカルダイン艦長に視線を向け、無言で何かやり取りすると、次なる指揮を出した。
「アルマ・ヴィオ各機に至急の念信を。多分、彼らもこちらの世界に戻ってきているはず。この機を逃さず、今が《柱》を破壊するチャンスです」

 クレドールの繰士たちも、突如として入れ替わった状況に直面する。

 ――あ、あたし、何を。
 メイは自分の五感が変化したことに気づいた。目の前に広がる空、ぼんやりとした景色の中に、見覚えのある城郭の姿。アルマ・ヴィオの翼が風を掴む感じ。
 ――あ、れ、は、ナッソス、城? そう。……えっ? 戻った!
 慌ててアルマ・ヴィオの動きに精神を集中するメイ。高度の落ちていた《ラピオ・アヴィス》が、深紅の翼を羽ばたかせて急上昇する。

 ――この感じは。《アトレイオス》か。じゃぁ、ここは?
 バーンも同じく機体の感触を把握した。忌まわしい記憶と結びついたレクサーのものではない。愛機の眼を通じてバーンが見ているものは、そびえ立つ黒い石柱。ソルミナの世界に囚われる直前まで戦っていた場所に、再び戻ったのだろうか。
 アトレイオスの両手で握られた《攻城刀》の重量感によって、バーンは自分のすべきことを思い出した。
 ――もし、これが幻でも、ともかく俺は!
 すかさず腰を落として構えたアトレイオス。攻城刀の刀身を、さらにMT(マギオ・テルマー)の光の刃が覆う。バーンの《蒼き騎士》は走り出した。地響きを伴い、長さ20メートル以上の大剣の切っ先を地面に引きずって。
 ――ぶっ叩く!!
 吠えるような雄叫びをあげて、バーンは剣を打ち込む。助走と共に、上半身のひねりで惰力を加えたかと思うと、アトレイオスは攻城刀を一気に石柱めがけて叩き付けた。

 ◇

 時を同じくして、ナッソス公爵は信じがたいものを見た。
 轟音と共に崩れ落ちる石柱。
 《盾なるソルミナ》が絶対的な幻影の世界を生み出すために、大地の霊脈から無尽蔵の魔力を吸い上げ続けるための設備であった。だが、今やそれが、城の守りの要が砕かれたのだ。あまりのことに公爵は口を閉じることができず、かといって声を出すこともできず、天守の窓の前で立ち尽くす。
 目の前の空を赤く染めていたソルミナの結界自体、いつの間にか消滅していた。
「お気を確かに、殿」
 しばらく凍り付いていたナッソス公は、レムロスの言葉で我に返った。
「馬鹿な。《盾なるソルミナ》は、旧世界以来の無敵の防壁。いかなる人間もその力の前には……。そんな馬鹿な。《人の子》である限り、ソルミナの力には……」
 うわごとのように繰り返す公爵。いつもは紅潮しがちな激情家の顔つきから、血の気がすっかり引いている。続く言葉も出ず、唇が小刻みに震えていた。


【第48話に続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


3 目覚める闇



 ◆ ◆

 ――また、戦場に、戻った?
 思わず《手足》の感触を確かめるバーン。いつの間にか、彼は再びアルマ・ヴィオに乗っていたのだ。旧友エミリオの幻は、もう彼の前には無かった。
 だが、己が機体と一体化しているのを感じるのとほぼ同時に、さすがに熟練のエクターの彼は、ある種の違和感も覚えていた。
 ――この感じは。アトレイオスじゃネェな……。
 そう、《盾なるソルミナ》による幻の世界に取り込まれる直前、先ほどまでナッソス家のムートと剣を交えていたバーンが乗っていた、愛機の《蒼き騎士》ではない。
 ――いや、これは。
 自らがまだ幻の世界に居るのかそれとも現実世界の戦場に戻ったのか、そんな本質的な問題すら一瞬忘れてしまいそうになるほど、バーンは困惑する。いま自分の乗っている機体を、バーンはよく知っている。アトレイオスではないが、この機体はとても彼の身体になじんでいる。いや、忘れもしない、かつて彼がその身体にたたき込まれた感覚だ。
 ――動きが軽いな。おいおい、《すっぴん》のレクサーじゃネェかよ。
 レクサーは、オーリウム王国の汎用型アルマ・ヴィオの上級機種の中でも抜群の汎用性と信頼性をもつ名機に他ならない。近衛隊の機体である重装甲タイプのシルバー・レクサー、レンゲイル軍団などの精鋭部隊に配備された、突撃戦を得意とするブラック・レクサー、あるいはギルドの飛空艦ラプサーに配備されている火力重視のハンティング・レクサーなど、様々なヴァリエーションがみられる。だが……。
 ――あぁ、知ってるぜ。こんな妙な使い方をするのは、あそこだけだ。
 大方の汎用機とは異なり、レクサーは、儀式魔術によって機体がこの世に《生》を受ける時点から、基本的に乗り手自身の特性や所属組織、使用目的に応じてカスタマイズされる。いわばオプションである多様な《器官》を与えられずに、基本形態のままで使われることは無いのだ。
 ――そう、唯一の例外、近衛機装騎士団・上級練習生の機体をのぞいては。
 状況を理解したとき、バーンの胸の内は激しくざわめいた。レクサーの魔法眼を通じ、目の前を見る。あたかも、見たくないものでも見なければならないかのように。
 訓練用の闘技場、そこにはもう一体のレクサーが倒れていた。しかも、異常な状態で大破している。生身の騎士さながらに兜を被った端正な顔立ちは、醜くつぶれている。片腕が失われ、足も折れている。胸甲の部分には、機体内部まで達するような深い傷が乱雑に刻まれていた。動力筋や伝達系の組織が装甲の外にはみ出し、あちこちで引きちぎられていた。巨大な獣にでも襲われたかと思わずにはいられない惨状だ。
 その状況から確実に言えることがある。大破した機体の乗り手は、並外れて強靱な精神力と無数の経験とを――しかも、自らの機体が実際に損傷した経験を――持つ者でない限り、おそらく生きてはいない。もし非常に幸運な場合でも、ショックで精神に異常をきたしている可能性が高い。アルマ・ヴィオは、たしかにエクター自身の身体ではない。だが、機体の受ける傷は、エクターにとって自らの身体に負った傷と同様に感じられるのだから。
 ――これは、最終試験の試合? 俺は、俺は……。
 バーンはうわごとのようにつぶやいた。ここは戦場ではない。しかも戦いを行ったのは、二体のレクサーであって、その一方が魔獣であったわけでもない。
 ――お、俺は、自分でも、分からなかったんだよ。お、俺は、その。
 剛胆で呑気なバーンがすっかり動揺していた。
 ――知らなかったんだ。ただ、お前に負けたくネェって、必死になったら、いつの間にか。そんな、まさか《逆同調》なんて、するわけが、いや、俺にできるわけがないって。
 無意識のうちにバーンは機体をひざまずかせ、《ケーラ》から飛び出した。彼は無我夢中で叫びながら、目の前に倒れているレクサーに駆け寄った。
「エミリオ、エミリオ!」
 すでに周囲の訓練生や教官たちが機体を取り巻いている。騒然とした中で、いくつかの言葉が漏れ聞こえてきた。
「今のは何だ」
「暴走、なのか?」
 その中でも、小声でささやき合う教官たちの声が、なぜか妙に大きく聞こえた。
「レクサーのような安定した機体が《逆同調》したとは、私の知る限り前代未聞ですな」
「魔獣型の機体、いや、陸戦型でも気の荒いレオネスやハイパー・ティグラーならともかく、汎用型が《逆同調》することなど。いや、それは意識的にそうしない限り、有り得ない」
「悪い冗談だ。少なくとも、私にはそんな芸当はできぬよ……」
 飛び交う無数の言葉を呆然と聞き流しながら、バーンは歩み寄る。そこには、仲間の腕に抱えられ、瀕死の表情のエミリオがいた。同僚の訓練生たちは、庶民出身で田舎者のバーンを以前から疎外していた。だが、今、《お坊ちゃん機装兵団》の高慢な訓練生たちが彼を見つめる眼差しは、本来この場にありそうな非難や怒りを漂わせたものではない。
 彼らの瞳に色濃く浮かんでいたのは、衝撃と、それ以上に「恐怖」だ。
 バーンが近づくと、訓練生たちはいそいそと道を空けた。
 彼は独り、エミリオの顔をのぞき込む。背後で思い出したかのように、「いや、これは凄まじい潜在能力ですぞ。使える」という、冷たく打算的な教官の声がした。
 何度呼びかけても、エミリオは応えなかった。ケーラにまで被害は達していなかったのであろう、幸い、エミリオの身体に外傷はない。それだけに何故か、もう動かない親友の姿は、バーンにとっていっそう痛々しく思えた。

 と、エミリオの唇が微かに動く。この場で、最初で最後の言葉。永遠の別れ。

 ◆

 絶叫、そして一転、暗闇の中に閉ざされたバーン。

 だが周囲の変化は、バーンにはもはやどうでもよかった。
 彼の頭の中で、あの日、エミリオが最後に口にした言葉がよぎった。
 ――嬉しいだろ。これで君は近衛騎士だ。友達? 馬鹿じゃないの。
 これまでの友情が偽りであったことを、エミリオは吐き捨てて逝った。

 無言のバーンに、心に対して直接、何者かが語りかけてくる。
 ――お互いに蹴落とし合う者たちの、偽りの友情。醜い。だが、本当にそうだったのなら、お前は今頃、もっと……。
 ――言うな!!
 筋肉隆々の大男であるバーンが、不似合いな涙を浮かべて叫ぶ。
 謎の声は、なおも静かに語り続ける。
 ――本当にそうだったのか?
 ――やめろ、やめろよ!
 バーンが一番ふれられたくないことを、声は無慈悲に告げた。
 ――本当は、あの言葉の方が嘘だったのではないか。彼はお前のことを最後まで気遣って、お前に永遠の十字架を背負わせないよう、わざと嘘をついたのではないか。
 声はいっそう大きくなった。
 ――エミリオは、お前に対して心にもない憎しみの言葉を、わざとつぶやいた。
 ――だから、やめろって言ってんだろうが!
 頭を抱えてわめくことしかできないバーンに対し、まるで空中から青白いヴェールが被さるように、何かが舞い降りた。蝶? いや、その羽根に無数の目をもち、不気味に脈動する脳のごとき本体。《盾なるソルミナ》の化身は、ぼんやりと輝く羽根でバーンを包み込む。

 幻影の支配者は、エミリオの声で最後にこう告げた。

 ――バーン。後悔しないで。君は、悪く、ないよ……。

 バーンの魂は暗黒に落ちた。

 ◆

 同じ頃、メイの心もソルミナの常闇の世界に囚われていた。
 彼女の表情は意外にも安らかだった。いや、幸福そうにすら思える。
 自分自身、幻だと知りながらも、彼女は永遠の牢獄から抜け出すことができない。
 失われてゆく意識の中、もはや諦めたかのように、メイはクレヴィスの名をつぶやいた。

 兄の名をひたすら繰り返し、暗闇の中で震えるプレアー。
 ただ一人、剣を手に、何かと――ひょっとしたら己の過去と――向き合うレーイ。

 ◆

 そのとき、果て無き漆黒の空間で、何かが動いた。
 微かな光が灯る。
 おぼろげに影が照らし出された。人影ではない。
 あくまでも仄暗く、弱い光が次第に周囲に広がってゆく。

 また、何かがゆっくりと動いた。
 はっきりとは見えないが、直感的には、蛇のようにうねる巨大な何かが。
 それはひとつではなかった。
 暗闇のただなかに、幾つもの大蛇が絡み合い、輪を造り、鎌首をもたげる。
 そのように思えた。

 徐々に強まる光が、その真の姿を明らかにしてゆく。
 金属的な光沢が鈍く映し出された。
 絡み合う大蛇たちはゆっくりと輪の大きさを広げる。
 その輪にしがみつくかのように、周囲に沢山の小さな影が見える。

 それらは、蛇ではなかった。
 鋼のごとく黒光りする表面を持ち、同じく金属質の棘を随所に生やした何か。
 それらは、輪の中心にある何かを護っているように思われた。
 強まる光。
 だが、冷たく、禍々しい輝きは、むしろ底知れぬ闇を想起させる。
 
 浮かび上がる黒金の蔦(つた)――いや、むしろ、荊(いばら)だ。

 闇の中に創り出された巨大な荊の壁。
 その向こうで、微かに声を振るわせながら、つぶやく者がいた。

 「僕に……触れるな」

 次の瞬間、暗黒の世界を嵐が駆け抜けたように、途方もない魔力が満ちる。
 圧倒的な存在感をもって、荊の壁が徐々に広がってゆく。
 これに対し、今までの静寂を破り、壊れたようにケラケラと笑う無数の人形たちが、荊に噛み付き、鋭い爪で突き破ろうと殺到する。

 それを見つめる銀髪の少年の姿。細い右腕が、おもむろに突き出される。

 何の前触れもなく荊たちは暴れ狂い、竜巻のごとく周囲のすべてをなぎ倒し、その容赦ない棘で切り裂いた。神話の水蛇ヒドラさながらに、幾本もの荊が鎌首をもたげ、主の次なる命を待つ。

 ルキアンが荊の中心に立っていた。
 だが彼の目は、別人のような鋭い眼光をたたえ、見る者を一瞬で射すくめずにはいなかった。それでいて果てしなき諦念と哀しみを漂わせている。

  《本当の闇の力を思い知れ》

 冷ややかなつぶやき。
 同時に彼の中で、巨大なひとつの目、《ダアスの眼》がついに開く。


4 世界のことわりと深淵



 じきに雨になりそうだ。
 雲間から顔をのぞかせていた太陽は隠れ、気がつけば、水平線から岸に向かって濃い灰色の雲がすべてを覆っている。
 極めて浅い海には、沖合にまで点々と砂州が浮かぶ。嵐になれば丸ごと海に沈んでしまいそうな、平らな島々。
 微かに濁った青の海面を背景に、岸には干潟が延々と伸びる。
 このような眺めはどこまで続くのだろうか。長大だが変化に乏しいミルファーン西海岸の砂浜には、見渡す限り、特に人工物もなければ人の姿も見当たらないことが少なくない。
 たった二つの人影も、そこでは妙に目立って感じられる。
 湿った海風に乗り、少し低めの呑気な女の声が浜辺に漂う。
「やれやれ。城に帰ったら、また伯父上から延々とお説教だぞ。分かっていたが、やっぱり面倒だな。レイシア、今からでも逃げるか?」
 声質は落ち着いた大人の女性のものだが、口調は腕白な男の子のようだ。
 赤いマント、いや、普通よりも丈を長くこしらえたエクター・ケープをまとい、鱗状の鋼板に覆われた鎧を鳴らしながら、武装した女戦士が浜辺を歩いてくる。彼女は長い金色の髪を背中で一本に編んでいた。モリのような短い槍を右手に持ち、肩に軽く担いでいる。ミルファーンの《灰の旅団》に属する機装騎士、あのシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアである。
 その隣を無言で歩く、背の高い銀髪の女性。彼女は、シェフィーアの右腕のレイシアだ。灰色と白、そして髪の色と同じく銀色でまとめられた衣装は、身体の線に密着した仕立てであり、彼女の細身と長身をいっそう強調している。シェフィーアよりもかなり若く、見た目に限っていえば、まだ少女のような印象も受ける。
 シェフィーアがふと立ち止まった。
 目の前に広がる干潟混じりの海、最初はその海岸線の広大さに眼を奪われるのだが、風景の単調さに次第に飽きてくる感もある。ましてや、シェフィーアたちミルファーン人にとっては、この手の景色は見慣れたものだ。変化に乏しい浜辺と湖のように静かな海をじっと見つめていると、時の流れも徐々に遅くなって感じられる。
「そういえば、今頃また戦っているのだろうか。あの少年、《銀の荊》君は」
 シェフィーアは、南の遙か遠く、オーリウムの方角に眼を向けた。

 ◇ ◆

 空間の揺らめきとともに、ソルミナの化身がルキアンの前に再び姿を現す。
 蝶のような羽根と、節くれ立った6本の脚とを備えた大脳の化け物。
 だがそれは、外見から想像されるような幻想世界の魔物ではないのかもしれない。ソルミナは、旧世界の超魔法科学文明によって造り出された兵器である。いまルキアンと対峙している存在も、ひょっとすると擬似的な人格を備えたプログラムで、人間との意思疎通のためにソルミナに組み込まれた一種のインターフェース的なものかもしれなかった。もっとも今となっては、その化け物が本当は何であるのか、もはや誰にも分からない。

 ――汝は《誰》だ?

 悪夢の象徴たるにふさわしいソルミナの化身が、ルキアンの心に語りかけてくる。
 ――旧陽暦の時以来、今日に至るまで、わが記憶領域に汝のような人間の例は記録されていない。
 ソルミナの羽根に点々と散らばる無数の目が、銀髪の少年を凝視する。

 ――ならば問い直す。汝は《何》だ?

「僕は一体何なのか……。それをずっと考えてた。僕の存在の意味って何なのかと」
 うつむき加減であったルキアンが、おもむろに顔を上げる。
「ずっと僕は誰にも必要とされない人間だった。どこにも居場所がなかった」
 暗い眼、それでいて澄んだ眼差しで、ルキアンは、つい先ほど自分の身に起こったことを反芻する。

  ◆

 あのとき、無数の人形たちが殺到し、それらに埋もれてルキアンの姿は見えなくなった。
 小さな悪魔の群れは、鋭い爪で彼の肌を切り裂き、尖った牙で食らい付く。ひとつひとつの怪我は致命傷にならないにせよ、ルキアンはあまりに多くの傷を負ったため、もはや痛みを感ずるのを通り越し、肌全体が焼けるように熱いとしか感じられなかった。
 ルキアンの叫び声は次第に小さくなっていく。血まみれそのものだった。手足の感覚もない。いや、自分に元の手足があるのかすら分からない。人形たちの不気味な笑い声さえも、今や遠くの方でこだますようにしか聞こえなかった。

「僕は、死ぬのか」
 希望よりも先に、抗い難い存在感をもって死の足音が聞こえた。今の状況が幻であるということさえ意識できないほどの、圧倒的な現実味を帯びつつ。
 自分はなぜここに来たのか。仲間たちを救うため、意を決してソルミナの結界に飛び込んだはずなのに。結局、何もできない。
「メイ、バーン、ごめん」
 ルキアンの五感が、暗く、冷たく、変わり果てていく。
「僕なんて、どうせ……」
 消えゆく意識の中で、無意識に自分を卑下した彼。
 これと同じような場面に出くわしたことがあると、ルキアンは気づいた。心の底にまで深く染み通り、もはや彼の人格の一部とさえなったあまりにも根深い自己否定。

 《どうせ》、どうせ僕は。僕なんか……。
 思っても、願っても、そんなの何の力にもならない。
 《やっぱり》、また駄目だった。

 死を目前にしてルキアンが心の中でそうつぶやいたのは、ミトーニアでパリスと戦ったときだった。悠長に回想などしている場合ではないのに、あのときのことをルキアンは思い起こす。

 暗闇の中、幼い姿をしたルキアンがしゃがみ込んでいる。
 ――こんなの違う。何で僕だけ、だめな、いらない子なの? 何で僕だけ、どこにいてもうまくいかないの? 僕が本当に帰っていいところって、どこなの?
 銀の前髪の奥に表情を隠し、引きつるような、かすかな声ですすり泣いている。
 ――《おうち》に帰りたいよぅ……。

 今度は、ヴィエリオとソーナの姿がルキアンの脳裏に再びよぎった。

 にっこりと笑って、片目を閉じてみせる金の髪の娘。
 だがそれはルキアンに対してではない。
 隣のヴィエリオが、ソーナの方へ微かに笑みを返す。
 ――想ったって、現実とかけ離れすぎていることばかりじゃないか……。
 ルキアンは背を向け、黙って意味もなくペンを走らせた。
 ――そう、想うところまでなら誰にでもできる。だけど、いくら想いを現実に変えようとしてみても……。結局、《想いの力》なんて、無力な場合の方が多いじゃないか。
 紙面に押しつけられたままのペン先が、インクの黒い染みを広げてゆく。

 ◆ ◇

 雨雲が空を覆い、あまり気持ちの良い天気とは言えないが、シェフィーアは心地よさげに伸びをした。
「戦いが嫌いだとか苦手だとかいいながら、そんな彼が戦場のまっただ中に自ら身を置いているのだからな……。因果なものだよ。だがレイシア、本当にそうだと思うか?」
 黙っているレイシアに代わって、シェフィーア自身が答える。
「自分の生きる意味、理由、そのためにやむを得ず、彼は苦しみながら戦っているように見える。だが本当にそうなのだろうか。むしろ、私の直感では、あの少年は私やお前に近い人間かもしれないと思うが。レイシア、お前はなぜ戦う?」
「私がシェフィーア様と共に戦うのに、理由など必要なのですか?」
 抑揚のない、感情の伴わぬ声で平然と答えられ、シェフィーアは苦笑する。
「レイシアには参ったな。愚問だったか。まぁ、私自身にも理由など要らない」
 一瞬、シェフィーアの目に異様な眼光が浮かび、彼女は手にした槍を地面に突き刺した。
「私が戦うのは、このどうしようもない魂の渇き、血に飢えた衝動を時々満足させるためだよ。アルマ・ヴィオを操り、獣となって本能の赴くままに敵を倒す……。私が戦いを求めるのは、生まれつきの病気みたいなものだ」
 シェフィーアの青い眼が、何事もなかったように再び穏やかな表情に立ち返る。
「それでも一応、私が戦いに理由を求めようとするのは、ただの人殺しではなく騎士という名の人殺しに踏みとどまるための、良心の最後のかけらみたいなものか」
「そのシェフィーア様や私に、あの少年が本質的には似ていると?」
「ルキアン・ディ・シーマーの心の奥を垣間見たとき、私は底知れぬ《闇》を感じた。私と同じだ。その《闇》が引き合ったのかもしれん」
 嫌悪ではなく興奮のためであろう、少し声を震わせ、シェフィーアは言う。
「あくまで印象に過ぎないが、ルキアン少年も自分の中の《闇》を感じ取っているのではないかな。だからこそ、人を傷付けたくない、争いたくないとあれほどこだわる。そういう優しい気持ちを捨ててしまえば、自分の中にある負の衝動を抑えきれなくなるのではないかと、無意識のうちに恐れている。そんなふうに見えた」
 レイシアは答えを返さず、しばらく二人は黙って海岸を進んだ。
 やがて、レイシアが思い出したかのようにつぶやく。
「でも、闇の部分を持った人間でなければ、本当に優しい人間にはなれない。シェフィーア様を見ていれば分かります」
「ははは。レイシアもなかなか言う」
「魂が闇に引かれるからこそ、いっそう強く光を求めるのかもしれません」
 ぶっきらぼうに告げたレイシアの肩を、シェフィーアは嬉しそうに叩いた。

 ◆ ◇

「そんな僕に、クレドールのみんなが居場所をくれた」
 黒光りする樹皮をもち、恐るべき棘に覆われた荊の壁に囲まれ、ルキアンは話し続ける。異様さの中に、ある種の神々しさをも漂わせるその光景は、荊の茂る荒れ野に立って語る預言者を思わせた。
「仲間と一緒に居たいから、守りたいから、たしかに僕も戦いを選んだ。本当は争うのは嫌だ。誰も傷付けたくない。それでも僕は、必要だって言われたいために、これまでの自分の気持ちから目を背けて戦った。誰かに必要とされるために別の誰かを傷付ける。そうしないと僕自身は《要らない人間》のままになる。だから、僕の《力》を必要としてくれるクレドールのために《剣》になって戦った」
 ルキアンの声に力が加わる。
「でも途中で気づいた。もし誰にも必要とされないのなら僕の存在する意味もないなんて、それはただの思い込みじゃないか。もし、誰にも必要とされないことに本当に絶望し切っていたのだとしたら、僕はもっと前に命を絶っていたか、おかしくなっていたはずだと思う。でも僕は生きている。それは……」

「ひとつだけ、自分から捨てない限り無くならない《居場所》があったから」

 ルキアンの心の中で、あのときシェフィーアの告げた言葉がよみがえる。

 ――そう。この世でただひとつ、君の帰れる場所であった空想の世界。たとえそこが美しい光の園ではなく、どれほど暗い影につつまれていたとしても、虚ろな夢の庭であったとしても……。

「空想の殻の中にある、そういう暗い想いの詰まった世界を、人は《闇》と呼ぶのかもしれない。だけど、その《闇》が最後の拠り所になったからこそ、僕はここまで生き、ここまで来れた。でも僕は、そんな自分の影を拒み、恐れ、自分にたったひとつ残されたものと向き合うことから逃げてきた」

 ルキアンの体から、冷たく重々しい霊気が立ちのぼる。
 よく見ると、彼の右の瞳に紋章のような何かが浮かび上がっている。

「でも、さっき、僕は死を目の前にして、《闇》と向き合い、これを自分の一部として受け入れる決心をした。そのとき……」

 僕は見た。
 《ダアスの眼》を通じて、
 世界のことわりの背後にある《深淵》を。


【続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 鍵の石版を解読して「ロード」のための実験を開始したときから、
 我々は人としての資格を捨てて悪魔となったのだ。
 何の咎もない者たちを次々と犠牲にし、この身に永劫の罪を背負い、
 「あれ」と戦うために闇に堕ちた。

  (月闇の僧院の長・コズマス)

◇ 第47話 ◇


1 「鍵の石版」の秘密と旧世界滅亡



 天を突くようにそびえる無数の四角い《塔》。それらは皆、《クリエトの石》で造られた壁面と、その灰白色の肌に開いた無数の窓とを有していた。建物の間には透明なチューブ状の通路が張り巡らされ、その中では《動く道》に乗って人々がせわしなく行き来している。遙か地上、塔の谷間を網の目のように走る道路が見える。通りには馬や馬車の姿はまったくみられず、その代わりに得体の知れない乗り物が、アリの行列さながらに数珠つなぎで緩慢に流れていた。
 いにしえの時代にはどこにでも普通に見られたであろう――典型的な旧世界の街の風景だ。正しくは旧世界の片方、《天上界》に特有の街並みである。その様子を、高き《塔》の最上階の一室から眺めている男がいた。
 白衣をまとった後ろ姿は、医師か科学者を思わせる。腰の辺りまである長い黒髪を、彼は左右に振り分け、金色に輝く筒状の装飾品によってそれぞれ一本に束ねている。歳は三十代後半くらいであろうか。尖った顎と固く結んだ唇には、やや神経質そうな空気が漂う。反面、少し垂れ気味の細長い目からは、穏やかで人当たりのよい印象も受けた。何よりも、その男の額に輝く、正面に赤い宝石をはめ込んだまばゆい黄金色のサークレットが独特であった。一見、機械万能の街の雰囲気には似つかわしくない、おとぎ話の中の魔法使いのようだ。
 不意にベルが鳴る。男が右のてのひらを開くと、その上に小さな映像が四角く浮かび上がった。宙空に現れた即席のスクリーンに映し出されているのは、緊迫した面持ちで会議を行う人々。大臣やら長官やらという類の御大層な肩書きで、互いに呼び合っている。そのうちの一人が、白い僧衣の男に話しかける。
「……教授。いや、今は、貴君の称号で《イプシュスマ》と呼ぶべきか。緊急の用件だ。まもなく《世界樹》の最上層は《地上軍》の手に落ちる。《天帝》陛下が、あの《マールシュタリオン》を暴走させるという決断をされたのは本当か。君の意見を今すぐ聞きたい!」
 イプシュスマと呼ばれた男は、対照的に淡々と答える。
「空間および気象を操る天上界最強の兵器《天のマールシュタリオン》、その力を臨界点を超えて発動させ、暴走させることにより、《世界樹》もろとも《地上軍》を……場合によっては《地上界》そのものをも消し去ることになろうかと」
「しかし、そんなことをすれば我々の植民市も巻き込まれかねない。それどころか、空間や時間に断裂が生じ、この世界自体が崩壊することさえあり得ると、貴君も以前に言っていたではないか」
「確かに。それでも私は陛下のご判断に従います。《天帝》のお言葉は、絶対……」
 しばらくしてイプシュスマは、面倒くさそうにスクリーンを閉じた。
 窓の外に広がる青空は、本当の天空にまでは決して届くことがない。人の手によって造られた、限りある「天井」だ。街の向こうに広がる緑の大地。だが、そこには地平線などありはしない。地平線よりももっと近くに、地の果てが、すなわち「壁面」が見える。天上界には「空」も「地平」も無い。閉ざされた世界――漆黒の星の海に浮かぶ筒状の巨大な構造物――これが《天空植民市》の基本的な形状である。
 人の造りし空を見つめながら、イプシュスマはつぶやいた。
「リュシオン・エインザール……。この戦い、まもなく君たちに勝利が訪れるだろう。《天のマールシュタリオン》を暴走させたところで、それは、戦いに敗れた《天上界》が《地上界》を巻き込んで自決するような振る舞いにすぎない。だが君は肝心なことを知らないままだ」
 彼は振り返ると、背後にある執務用の机の上に目をやった。卓上用のペンと革表紙の聖書大のノートの隣に、ガラス状の物質で造られたアタッシュケース風の箱が置かれている。その中には分厚い緩衝材が敷かれ、一抱えほどの大きさの平らな岩塊のようなものが安置されている。凹凸のある粗い表面の感じは石や岩に近いが、それでいて、いぶし銀にも似た金属的な質感である。
「君が地上界に走った後、私は新たな《鍵の石版》を手に入れた。これまで長らく欠落していた第二編後半部の核心を記した部分だ。あの時以来初めての、そして最後の手紙を、君に書こう。我が敵、そして我が友よ……。君たちは戦争には勝ったが、この《戦い》には敗れた。天と地に分かたれた世界を再びひとつにしようとしたとき、人の子たちの世界は天の怒りによって終焉を迎え、新たな始まりに還ることになるだろう」
 イプシュスマは、件の銀色の物体すなわち《鍵の石版》を見つめる。
「君と私は《石版》によって《パラディーヴァ》のことを知った。そして君は、知らず知らずのうちに運命に導かれ、《御子》としてよく戦った。だが、本当に戦うべき相手が何であるのかということについては、君はいまになって漠然と気づいている程度だろう。それにリュシオン。いかに君が優れていようとも、すべての《御子》が揃わない限り、君の力は《あの存在》の前では無に等しい」
 長い溜息をついたイプシュスマ。あたかも肩の荷が下りたとでもいうふうに。
「《闇の御子》の真の秘密に君は気づかなかった。《ノクティルカ・コード》と《ロード》のことに。おそらく、《鍵の石版》の失われた最後の部分、本来は外典であったとも言われる第七編の石版群にすべての答えが隠されているはず。いずれにせよ、私たちの世界が《ノクティルカの鍵》に到達することはかなわなかった。そう、すべては終わりだ……」

「さようなら、リュシオン。私もこの世界もすぐに君の後を追うことになるが」


2 ルキアン死す? ソルミナの化身



 ◆ ◇ ◆

 第三の部屋《落日の間》に広がる奇怪な空間――それは、迫る日没を前にして時の凍り付いた、永遠の夕暮れの世界だった。そこに突如として現れた巨大な黒い扉を前に、ルキアンは躊躇し続けていた。もうこれで何度目だろうか。断崖のごとくそびえる扉に向かって、ルキアンは手を伸ばしては引っ込め、またおずおずと手を伸ばすという動作を繰り返す。
 これまでの部屋の場合とは違い、《夜》という名を持った最後の部屋へと続く扉は、明らかに異様だ。壁も柱もない空間に漆黒のゲートがぽつんと浮いている。黒曜石を思わせる材質でできたその扉は、夕刻の微かな残照を受け、鈍い光をその身にまとっている。いかにここが《盾なるソルミナ》の生み出す幻影の空間であろうとも、それはあまりにも現実離れした光景だった。ルキアンは、あたかも魔界の入口のようだと思った。
 これ以上、先には進むべきではないと、本能がルキアンに対して教えている。この迷宮のような場所全体を覆い尽くしている例の気配、他のあらゆるものを呑み込むひとつの影、その存在がまさに扉の向こうに感じられるのだ。しかし、ここで仮に引き返したり、何もせずに立ち止まっているだけであったりすれば、幻の世界からは決して逃れることができない。ルキアンは時の止まった夕暮れの国をさまよい続け、いつしか朽ち果ててゆくしかないだろう。
 その点はルキアンも十分に承知している。彼は意を決して扉に手を触れた。冷たい感触が指先に伝わる。意識が霞んだかと思うと、身体が宙に放り出されるような浮遊感を覚えた。そして次の瞬間には、視界が闇に閉ざされていた。

 ◆

 あらゆる光が失われ、一寸先も見えない漆黒の空間。何一つ音を立てるものもなく、闇と同化した静寂が支配する暗黒の世界。じっとしていると、足裏で床を感じている触覚以外、すべての感覚が停止してしまったかのような錯覚にとらわれる。いや、時間さえも止まってしまったかのような。このままでは自分が闇の中へと溶けてしまいそうだとルキアンは思った。
 たまりかねて彼が足を一歩踏み出したとき、固く乾いた何かが足元で割れるような感触があった。恐る恐る、彼は足先で床面の様子を探る。手応えがあった。先ほど踏みつけた何かと同様のものが、床を埋め尽くしている。
「あ、あれ。そういえば」
 不意にルキアンは思い出す。魔法で灯りを創ることを、なぜ今まで忘れていたのかと。
「光よ……」
 少年の細い声が、無音の暗黒世界に染み通る。青白い小さな光球が宙に現れた。幻の中でも自分の魔法の力がとりあえず通用するのだと、彼は少し安心した。だがそれも束の間、頼りなげな光が照らし出す周囲の状況を見て、ルキアンは息を呑んだ。
 折り重なって床に積もっているものは、粉々になった骨だ。魔法の灯りによって照らし出される範囲のすべて、闇の中にうっすらと、見渡す限りに人骨が散乱している。しかも、数え切れない数の遺骨に共通する、あることにルキアンは気づいてしまった。
「どの遺体も小さい。もしかして、これはみんな、子供の……」

 彼がそう口にしたとき、不意に、闇の中に点々と、ぼんやりとした炎がいくつも灯った。

 宙を漂う鬼火、あるいは人魂の下に、虚ろな目をした子供たちが立っている。彼らが明らかに霊的な存在であることをルキアンは悟った。見る見るうちに子供たちは数を増し、地の底から湧き出してくるかのように、一人また一人とゆらゆら立ち上がる。
「な、何? これは……。君たちは?」
 血の気のない青白い男の子や女の子、命無き幼子たちは四方八方からルキアンの方に歩み寄ってくる。恐怖のあまり身動きできないルキアンに向かって、一人の子供が苦しげにうめいた。
「痛い、痛い! 熱いよ」
 あちこちで同じように声が響いた。
「助けて。助けて」
「怖いよ、ここから出して!」
 胸に突き刺さるような狂乱した悲鳴の数々を聞き、思わず後ずさりするルキアン。
 なおも、にじり寄ってくる子供たち。その小さな手がルキアンのフロックの裾を握った。そして足首、膝と、あちこちに冷たい手が掴みかかる。
 無数の手をルキアンは必死に払いのけようとする。だが突然のことに頭の中が真っ白になってしまい、身体がこわばって動かない。砂糖に群れるアリさながらに、幼い霊たちが押し寄せる。

 ところが……。

「き、君たち。あ、あ、あの、も、もしかして」
 ルキアンは恐る恐る話しかけた。唇が凍えきってしまったように、上手く動かない。
「みんな、僕に、助けを?」
 幸いにも小さな霊たちが敵意を持っていないことを、ルキアンは恐怖の中で直感した。生者に対する憎しみに駆られて取り殺そうとする亡者どもとは、少なくとも異なる。彼らはむしろルキアンに救いを求め、すがりついているようにも見えた。
 ――落ち着くんだ、これは幻なんだ。
 状況を理解し、ルキアンはわずかに冷静さを取り戻す。そして、困惑しながらの思考であっても、彼はひとつの矛盾に気がついた。
 ――そう、これは幻……。しかも今までの三つの部屋の幻は、すべて僕の記憶と関係があった。そうだ、これは僕を苦しめるために生み出された幻覚のはず。そこには必ず《意味》があるはず。でもおかしい。僕には全く分からない、この子たちのことが……。
 真っ暗闇の中で子供の霊が群れ寄せる光景は、その意味や脈絡などを一切抜きにしても、本能的に人を戦慄させずにはおかないだろう。だが逆に、ルキアンにとって、目の前の状況は単に恐ろしいだけの、意味の分からないものにすぎないのだ。

 すると、そんな彼の疑念に呼応するかのように、影絵のごとく一人の少女の姿が闇に浮かび上がった。ルキアンは再び恐怖にとらわれる。現状と彼とを結びつける《意味》が生まれてしまったのだ。明らかな既視感。はっきりと見えない人影のような姿だが、この少女はルキアンにとって確かに見覚えのあるものだった。
 ――ずっと昔、夕暮れの中で僕と手をつないでいた、あの……。
 暗がりにぼんやりと浮かんだ少女の影は、ルキアンの方に手を差し出してつぶやく。

「まだ思い出さないの?」

「そんなことを言われても。君は、君たちは、一体、誰なんだ」

 ◆

「まさかな。最後に、このようなことになろうとは」
 アマリアは感慨深げにつぶやいた。彼女は再び水晶玉の前に座し、幻の世界の中にいるルキアンを見守っている。
「ナッソス家のもつ旧世界の超兵器は、少年の記憶を探り、それを再構築して、最も忌むべき心の傷を彼に突きつけた。そのはずだった。彼の心にとどめを刺すために」
 立体映像のように傍らに浮かび上がる、半ば実体化したフォリオムに対し、アマリアは厳かに語り続けた。
「だが肝心のルキアン・ディ・シーマーには、目の前の幻の意味さえ分からないのだから。自分の記憶の底に刻まれているはずの真実に、彼はまったく心当たりがないらしい」
「ほぉ。あまりに忌まわしい記憶を自ら忘却してしまったとでも?」
「違うな、ご老体。結論から言えば」
 フォリオムの問いに対し、アマリアは静かに首を振った。

《この少年は、過去に何者かによって記憶を操作されている》

 と、アマリアは不意に鋭い声で言った。
「相手の方もそのことに気づいたか。今からもっと直接的な手で攻めてくるらしい」
「たとえ幻の世界であっても、あれほど完璧な幻であれば、そこで死んだ者は現実の世界でも命を失うじゃろう。最も単刀直入にして、最後の手段というわけか」
 もはや好々爺ではなく威圧感すら漂わせるパラディーヴァとしての声で、フォリオムはつぶやいた。
「では、お手並み拝見といこうかの。闇の御子、我らが長よ」

 ◆

 ルキアンの前で異変が起こったのもその時だった。例の少女の影はたちまち霧散し、再び何者かの姿になってルキアンの前に立ちはだかる。
「お、お前は?」
 今度現れた者があまりに異形であり、しかも明らかに敵意を持った存在だとルキアンは直感し、思わず身構えた。
 暗闇の中に浮かび、ぼんやりと光る姿。一見、それは人間大の巨大な蝶のように見えた。だが、蝶の身体に当たる部分は人の脳のようなものであり、不気味に脈動している。節くれ立った細長い足が、そこから何本も生えていた。
 ――我が名はソルミナ。幻影の支配者なり。
 本性を現したそれは、ルキアンの心に直接語りかけてくる。ルキアンに答える余裕すら与えず、ソルミナの翼にある無数の目が光った。
 これを合図に、先ほどまで静かだった子供の霊たちが瞬時に姿を変える。彼らは悪夢のような人形となって実体化し、口をカタカタと鳴らしながら、一斉に奇声を上げて飛び掛かってきた。

 その直後、暗黒の世界にルキアンの絶叫が響き、そして消えた……。


【続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第46話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


6 第一の部屋「真昼の光の間」



「この感じは……」
 周囲を覆っている何かの気配を、ルキアンは明確に把握した。およそ感じられる限り、どこまでも、奥深く、すべてを一色に塗りつぶしているような。そう、すべてをひとつの色で――漆黒、闇の色で。
 急に立ち止まり、しばらく身じろぎもしないルキアン。突然に牙を向いた何かの巨大な力に恐怖を感じているのか、あるいは慎重に様子をうかがっているのだろうか。壁にかかった松明の灯りに、彼のシルエットが浮かび上がる。普段は自信なさげに背を丸めている感のあるルキアンだが、いま、彼の影のかたちは少し違う。姿勢を真っ直ぐに正し、目を閉じて何かに耳を傾けているようにみえた。
 ――なぜだろう。懐かしい感じがする。暗がりの中で、周囲の影がまるで僕をそっと包んでいるみたいだ。知ってる。これと同じような気持ちになるのは、僕がアルフェリオンのケーラの中に横たわったとき。そして。
 以前にエルヴィンの告げた言葉を、ふとルキアンは思い出す。

《あなたは孤独を恐れている。独りでいるときには、ただ寂しいとか、そこから逃げ出そうとか、そんなことばかり考えている。だから、見えるはずのものも見えない。勇気を出して……目を閉じて、静寂とひとつになるの。そうすれば気づくはず。あなたは何も感じない?》

 ――そうだ。リューヌの気配とも似ている。これが《闇》の……。いや、こんなことをしてる場合じゃない!
 冷たく暗い地下深きところで、場違いな心地よい陶酔感すら感じつつあったルキアン。だが彼はようやく我に返った。
「僕が見ているのは、あの赤い結界の創り出す幻に違いない。シャリオさんの言っていたおとぎ話に似てる。これが《心の檻》なのかも。早くみんなを助けないと」
 とはいえ、気持ちばかりが焦るものの、現状を打開するために何をしたら良いのか分からない。
「ここに立っていても仕方がないし、ともかく進む、しか、ないのかな」
 得体の知れない魔力で閉ざされてしまった扉を前に、ルキアンは意外にもあっさり決断した。常識の通用しない夢幻の世界に対し、なぜかさほどの動揺もせず対応している自分自身が、ルキアンにも不思議だった。
 今しがた引き返して上ってきた階段を再び下りようとする彼の前には、この場所一帯を呑み込む巨大な力が充ち満ちている。だが、ルキアンは淡々と階段を下りる。無限に近い時を経たかのように思わせる、滑らかにすり減った石の段を、コツコツと小さな音を立てて進んでゆく。
 行けども行けども続く階段。一段一段、もはや惰性で歩みを進めていたルキアンだったが、突然に足元が平坦になり、前のめりに転んでしまいそうになった。
「な、何。階段が……終わった? 今までと雰囲気も違うようだけど」
 ルキアンの行く手には廊下が延びていた。靴を通して伝わってくる足元の感覚も違う。硬い石の床に変わって、赤い絨毯が敷かれている。心なしか、壁に掛かっている松明の明かりも今までより強く感じられた。

 ◆

 廊下は、ときおり曲がったり、分かれたり、再び真っ直ぐになったりを繰り返しながら、延々と続いている。いわば「迷宮」とでも呼ぶべきか、かなり複雑に入り組んでいるらしい。別に何かの根拠があって進む道を選んでいるわけでもないのだが、ルキアンは己の直感に従って、あるいは何かに導かれるかのごとく歩みを進めた。
 しばらく行くと、廊下の両側に部屋が並んでいる場所に出た。左右にそれぞれ一部屋ずつ、そして前方には別の扉がある。正面の扉に何らかの強い力を感じたルキアンは、慎重に近づき、様子を探ってみた。ノブに手を掛けてみたが――彼もそう予想していた通り――開きはしなかった。鍵が掛かっているだとか、そういった次元の話ではなく、ドアノブ自体がびくともしないのだ。
 だが、この先には何かが待っている。今さら引き返して違う道を探すのもためらわれたので、ルキアンは左右の部屋らしき場所をまず調べてみることにした。
「今までの階段や廊下とは違う、特別な何かがこの部屋の中にもある気がする」
 念のため、ぎこちない仕方で細身のサーベルを抜いたルキアン。たとえへっぴり腰で闇雲に振り回されるだけの剣であっても、万一の時には何もないよりましだろう。
「あ、何か書いてある」
 部屋のドアに近寄ってゆくと、錆びて色褪せた真鍮製のようなプレートが打ち付けられていた。そこには魔道士たちの使う古典語の文字が並んでいる。

 《真昼の光の間》

「それにしても、どうしてこんな手の込んだ、しかも意味の分からない幻を僕に見せるんだろうか」
 彼は不思議に思った。結界の創り出す幻が、もっと露骨な支配力を及ぼしてくるものだとばかり考えていたのだが。
 ――おそらく、この扉は開く。僕に何かを見せようとしている。
 直感的に予測したルキアンは、右手にサーベルを握ったまま左手でドアを開けようとした。彼の予想通り扉は造作もなく開いた。

 ◆

 扉を開けたとき、ルキアンは思わず声を上げた。内部の不可思議な様子に驚く前に、まず彼は正面に座っている人物に驚いたのだ。
「ど、どうして君が!」
 窓から差し込む陽光を受け、繊細に照り映える金色の髪。その輝きは、《彼女》のまとっているレディンゴート風の黒い上着を背景に、いっそう引き立って見えた。胸元には赤いスカーフ、視線を上に移動していった先には、ルキアンのよく知っている顔があった。どこか物思いに沈んだような、神秘的で、理知的な黒い瞳がルキアンの視線とぶつかる。
「ソーナ」
 彼女の名を口にしたルキアンに、目の前の人物は微笑む。
「あら、どうしたの? そんな驚いたような顔をして」
 何故か急に恥ずかしくなって、ルキアンは目線をそらす。ソーナの背後には、壁いっぱいにといってもよいほど大きく造られた窓があり、そこからは真昼の光が部屋の中に燦々と入り込んでくる。
 ――やっぱり幻なんだ。今まで地下深くへと降りてきたはずなのに、こんなところに青空が見えるなんておかしいよ。
 ルキアンがそう思ったとたん、その気持ちを読んでいるとでもいうふうに、ソーナが穏やかな口調で語りかけてくる。
「何をって……何があったの? こちらが聞きたいわ。急に変なことを言うのね、ルキアン」
 ――こんな見え見えの幻で、僕がどうにかなると思っているのか。
 毅然と、心の中でそうつぶやいたとき、同時に別の気持ちがルキアンの中に強くわき上がってくる。しかも彼は、その気持ちを無意識に口にしてしまった。
「どうせ、ソーナは僕のことなんか……」

 《そう。どうせ、僕なんか》

 窓越しに柔らかに舞い降りる真昼の光のもと、ルキアンの心の中に暗い影がわき上がり、彼の胸の内は、諦めと怒りと哀しみの入り交じったような何とも言えない感情に覆い尽くされてゆく。もう、目の前の光も、ソーナの姿さえも、目に映っているはずなのに彼には見えない。
 ――カルバ先生の家で、僕は生まれて初めて温かく迎えられた。毎日、穏やかで、みんな僕に優しくしてくれた。そう思えた。でもあそこには僕の居場所はなかったんだ。
 兄弟子ヴィエリオと親しげに談笑するソーナの姿が、ルキアンの心に浮かぶ。
 ――僕は見ていたくなかった。あの《日常》からどこかへ行きたかった。もっと別のどこかに。どこかへ飛んでいってしまいたかった。
 黙ってソーナの幻を見つめていたルキアンは、背筋を伸ばして言った。
「カルバ先生の一家はバラバラになってしまった。ソーナもどこかへ連れ去られた。だけど……あの日、クレドールが僕に《翼》をくれたんだ。みんなに起こった不幸を棚に上げて、僕に翼ができたなんて言うのは勝手だと分かってる。でも、でも、今はとにかく」
 ルキアンの声が、いつにないほど大きくなった。まるで、この幻を生み出しているであろう赤い結界に対し、自分の言葉を突きつけるかのように。
「僕に翼をくれたクレドールの仲間たちを守る!」
 自分でも何と表現してよいのか理解できないほど、複雑な気持ちにルキアンはとらわれた。仲間を助けようとする率直な思いと、そうすることがあたかも目の前のソーナの幻に対する当てつけでもあるかのような、彼女に対する自分のかなわぬ想いを相殺し決別することでもあるかのような感情とが交錯し、ひどく歪んだ義憤が彼の中に満ちた。
 ルキアンの怒りは、あの赤い結界に向けられている。
「こんな陳腐な幻で人の心をもてあそんで楽しいの。この程度のことで、僕の心に手を触れようとでも思ったの? 違うよ。違う。お前なんかの手の決して届かない、深い闇の中に僕の魂は……」
 奇怪な感情の迸りの中で彼は同時に自覚していた。あの《眼》のイメージが再び現れ、今までよりも大きく開こうとしているのを。そしてルキアンが激高し、何か叫ぼうとしたとき、瞬時にすべてが暗黒に包まれた。
 何故かその闇は、彼が先程から感じていた例の力、この場所を支配する何らかの力と一体化しているように思われた。

 ◆ ◇

「そういうことであったか。《御子》のための糧とは」
 例によって水晶玉に映るものを遠い目で見つめるアマリア。彼女の隣では、地のパラディーヴァ、フォリオムが冷やかしている。
「闇の御子が結界に入り込んだため、今まで見通せなんだ中の様子、いや、闇の御子を取り込んだ幻の世界が、彼の《眼》を通じてお主にも見えとるようじゃの。ほっほっほ。まこと、それでこそ《紅の魔女》、完全に覚醒した御子の力というものは恐ろしいのぅ」
「当然だ。すべての御子はそれぞれの《通廊》を経て、《対なる力》を介してお互いにつながっているのだから。もっとも、あの少年にはまだ分かるまいが」
 アマリアは、フォリオムのからかいに乗らず、淡々とした答えを返す。いつものことだ。
「じゃが、我が主アマリアよ。闇の御子は自分の力を知ってさえいないではないか」
 パラディーヴァの精神はマスターのそれと同化しており、わざわざ問う必要など本当は無い。それゆえ、続くアマリアの言葉は、フォリオム自身もすでに分かっている答えを表現したものでもあった。
「たしかに現実の世界においてはそうだ。しかし彼がいま置かれているのは幻の世界。現実ではない夢幻の中であれば、ルキアン・ディ・シーマーの《パンタシア》の力にも際限はない。そして先ほども予兆はあったが、無意識のうちに彼が本来の力を振るったとき、たとえ幻の中ではあれ」

 《彼のダアスの眼は開く》

「非現実の夢の中であるにせよ、ルキアン・ディ・シーマーが《眼》の開く感覚をいったん知ったならば、今度は現実の世界で《眼》を開くこともそれとさほど変わらない。容易いことだ」
 アマリアは急に醒めた表情になり、もはや無意味であると言わんばかりに水晶玉を見つめるのを止めた。
「これまで《あの存在》によって封じられてきた我らが盟主は、ナッソス家のもつ旧世界の超兵器が《偶然》にかかわったことにより、間もなく目覚める。これも《あの存在》の司る因果律に対する、《対なる力》の干渉だと解すべきか」

 ◇ ◆

 気がつくと、ルキアンは部屋の前に戻っていた。ソーナの幻もそこには無かった。扉をよく見ると、《午後の光の間》と書かれていた例のプレートが唐突に音を立てて砕け、床に散った。
「いま、僕は何を……。いや、ともかく急がないと」
 ルキアンは、もう一方の部屋のドアの前に立った。今度は次のように書かれたプレートが付いている。

 《近づく日暮れの間》


7 失われた過去と最後の扉



「《真昼の光》から《近づく日暮れ》か……」
 第一の部屋の名と第二の部屋の名。ルキアンは次第に傾いていく太陽を想像し、何となく不安な気分になった。だが彼は躊躇せず扉を開く。そのとき、宙に浮くような感覚と目まいを覚えた。

 周囲が暗い。部屋の中に入ったはずなのに、いつの間にかルキアンはどこかの廊下らしき場所にいた。暗がりに目が慣れるよりも早く、彼は辺りの様子を理解する。《ここ》がルキアンのよく知っている場所だったからである。
 目の前に半開きのドアがあり、そこから光が漏れてくる。人が居るらしく、中から話し声が聞こえてきた。
 ――あの結界は僕の記憶を探っているのか。だけど、こんなことでもう苦しんだりしない。僕は負けない。
 心の中に深く刻み込まれた傷。幼い頃のルキアンを絶望の底へと突き落とした両親の会話が、扉の向こうから聞こえてくる。

「ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ」
「声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ」
「大丈夫ですわ。もう寝てますよ」

 これまでに何度思い起こしたか分からない惨めな記憶を、ルキアンは今、あのときの現実と寸分違わぬ状態で再び目にすることになった。あのとき、幼いルキアンは声も立てずに鳴きながら、そっと自分の部屋のベッドへと戻っていった。だが今の彼は、苦しむどころか怒りに震え、これが幻であることなど忘れて部屋の中に入っていこうとしている。
 冷静さを失いかけていたルキアンだったが、そのとき、何かの偶然で彼は不意に考えた。いま思えば、両親のあの会話に奇妙な点があったと。そう、父親の次の言葉だ。

「まあ、やむを得まい。金になるんだ。わが家を守るためには……」

 ――《金になる》? そういえば、変だよ。
 己の辛い体験を、いくらか突き放して見つめることができるようになった今、ルキアンは初めて気づいたのだ。
 ――お金に困ってたのは知っていたけど、僕を引き取って育てたことがどうしてお金に結びつくんだろう。逆に、僕みたいな《いらない子》を養うのはお金の無駄だったんじゃないのか。父さんと母さんが僕をカルバ先生のところに弟子入りさせたのだって、口減らしのためだと思っていた。
 《盾なるソルミナ》の創り出す幻は、ルキアン自身が現在まで忘れていた記憶を、彼の頭の中から引き出して紡がれているようであった。そういえば、確かにあのとき、両親はこんなことも話し合っていた。

「とにかく16歳まで面倒を見れば大金が手に入る。あとは、とっとと追っ払って」
「えぇ、あんなどうしようもない子とも、あの薄気味悪い連中とも、早く縁を切ってしまいたいもの」
「その話は出すな。彼らのことは決して口にしないようにと言われたじゃないか」

 ――はじめから僕は、16歳になったとき、家から出されることになっていた?
 忘れもしない16という歳。2年前、カルバ・ディ・ラシィエンの研究所にルキアンが内弟子として引き取られたときだ。
 ――それに《薄気味悪い連中》って……。
 ルキアンの中でますます疑問が大きくなったとき、彼はまた目まいを感じる。

 無言で立ち尽くすルキアンのすぐそばで、金属がひび割れ、小さく弾ける音がした。どういうわけか、彼は再び部屋の前に戻っていた。《近づく日暮れの間》と書かれた例のプレートの破片が床に散らばっている。
 呆然と足元を見つめる彼。
 そのとき、別の扉がきしみながら開く音がした。そう、ドアのノブすら動かすことのできなかった、件のもうひとつの扉である。ルキアンは急に背筋が寒くなった。瞬間、形のはっきりとしない様々なイメージが彼の脳裏を飛び交う。今まで感じなかった恐れがルキアンの全身を支配した。
 開かずの扉は、そこには誰もいないはずなのに、ルキアンを招き寄せるかのごとく自ら開いた。その先に見えるものに彼は直感的に戦慄を感じたのだ。扉の奥にはもうひとつの扉があった。そして、これまでの二つの部屋と同様、入口にプレートが掲げられている。

 《落日の間》

  ――僕は、僕はどこにいたんだろう。家にもらわれてくる前に。
 ルキアンが戦慄を覚えた理由、それは、この一連の幻にまだ続きがあるということだった。彼自身は覚えていない。そもそも、いつからシーマー家に引き取られたのかということを。物心ついたときには、すでにあの家にいたような気がする。しかし記憶が曖昧で、考え込むうちにルキアンには次第に自身がなくなってきた。
 ――僕の記憶。どこまでが本当で……。こ、これは!?
 ルキアンは進むのをためらっていたが、いつの間にか、彼は新たな部屋の中に取り込まれていたのだ。しかも部屋と言いつつ、そこに広がっていたのは外の世界だった。
 すべてを夕闇が支配している。薄明が今にも消え去り、夜がやってきそうだ。逢魔が時、同時にルキアンが否応なく想起させられたのは、先日、クレドール最上層の回廊で起こった出来事だった。夕暮れが引き金となって初めて思い出したあの記憶。

 「今みたいに、もうすっかり暗くなった夕方、心細い気持ちで歩いていたとき……。ずっと昔、いつ? 思い出せないほど前、僕が本当に幼かったとき?」
  彼の口から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
 「そのとき、僕は……。僕は、そのとき……独りでは、なかった?」
  はっきりとしたものが何もない、黄昏色の虚ろな記憶の中に。
  隣に誰かがいる。
  小さな手を、しっかりと握る、もうひとつの小さな手……。

 そして、あのときはエルヴィンに突然止められたのである。彼女はこう言った。

 「それ以上、思い出してはいけない」
 「ものごとには、そのために予め定められている《時》がある」

 ルキアンはもはや落ち着きを保っていられなかった。第一の部屋と第二の部屋の幻夢が、実は第三の部屋に至る物語の流れを生み出すための単なる前章に過ぎなかったということに、彼は今さらになって気づいた。自分が幻に打ち勝ってきたと思いつつ、実はルキアンは最初から《盾なるソルミナ》の術中にはまっていたのだ。
 影に塗りつぶされた夕暮れの曖昧な景色の中、ルキアンの前方に、彼が無意識のうちに最も恐れていたものが現れた。

 ――扉だ。あの先には。

 周囲の薄闇を圧倒する一段と重々しい漆黒色の扉が、あたかも地面から突き出してきたかのように、ぽつんとそこにあった。ドアと表現するより城門とでも呼ぶ方が相応しい、見上げるほどの巨大な石造りの扉である。
 これまでの三つの部屋のことを考えると、新たな扉の向こうには、ルキアンのさらに昔の記憶が待っているのであろう。唇を振るわせながら、彼は呆然とつぶやいた。
「これよりも先の記憶なんて……僕には、無い、はずだ。いや、あの《夕暮れ》の記憶だって、あまりにもぼんやりとして、本当なのか嘘なのか分からない」
 うなだれて地面を見つめていたルキアンが、ぼんやりと頭を上げると、なぜか黒い扉が先ほどよりも近くにあるような気がする。いや、そういう気がするのではなく、実際に扉は近づいている。そして扉には、やはり、くすんだ真鍮色のプレートが付けられている。そこに刻まれた最後の部屋の名前は、ただひとこと。

 《夜》


【第47話に続く】



 ※2009年11月~2010年4月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第46話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


4 屈服? 永遠の心の檻に囚われたメイ



 ◆ ◆

 緑の野辺に緩やかな曲線を描きながら、流れる小川。
 大地に降ってわいたかのような大輪の赤い花、黄色い絨毯さながらに広がる可憐な花々、何らかの花が咲き終わった後に残った白い綿帽子――岸辺には様々な花が咲き乱れている。
 見覚えのある、いや、自分が一番好きだった風景を目の前にして、メイはゆっくりと歩いて行く。
 前方で数名の人間が手を振っているのが、ぼんやりと見えた。川沿いの草原に豪奢な敷物を広げ、白木造りのイスとテーブルを置き、野外での茶会に興ずる人たち。
 若干、今までよりも歩みを遅らせ、彼女は、手を振る人影の方に近づいていく。
 巻き髪のカツラを被り、立派な口髭を生やした中年の男が、メイの方に向かって黙って頷いている。その隣では――目元や鼻筋がメイにとてもよく似た――同じく中年の貴婦人が手を振っている。周囲には数名の付き人もいた。
 貴婦人の口から、メイオーリア、と、彼女の本名を呼ぶ優しげな声がした。

 メイは立ち止まり、その様子をしばらく感慨深げに見つめた後、寂しげにつぶやいた。
「あのさ、悪いけどもう、そういう感傷はとっくに捨てたんだからね」
 若干の自嘲的な笑みを交えて、メイは誰に聞かせるともなく、ひょっとすると自分自身に対して語り続ける。春霞を伴う陽光の下、彼女の表情に陰りが浮かんだ。
「そうでなきゃ、そんな思い出にしがみついたままじゃ、あたし、どうにかなってた」
 姉貴分のシソーラ・ラ・フェインによく似た口ぶりで、彼女は言う。
「あのねぇ、こんな茶番で、このメイ様を化かせるはずないワケよ」
 やにわに、メイは腰のピストルを抜き、空に向けてぶっ放した。あくまで穏やかな世界に銃声が轟き渡る。
「ずいぶん下品になったもんでしょ、あたし。こんな子に育てた覚えはないって……言われるかもしれないけど。たとえ、幻でも、こうして再び会えて嬉しかったよ、父さん、母さん。でも、分かってるのさ」
 それまで潤んでいたメイの瞳に、いつもの鋭い輝きが戻った。
「これは幻。今のあたしは、ラピオ・アヴィスに乗って戦ってたはず」
 通例、魔法が創り出した幻覚というものは、それが現実ではないことを完全に確信した者に対しては効果を失う。メイはまさに、彼女の眼前に広がる世界が虚構であることを最初から見抜いていた。

 そのはず、だった。

「おやおや、無粋な人ですね」
 よく知っている声が聞こえた。一瞬、メイの身体が、ぴくりと硬直する。
 悪夢でも見ているかのように、何とも言えない複雑な顔つきで、メイは振り返った。何気なく、彼女が川面に視線を走らせると、マスに似た魚が素速い動きで鱗を光らせるのが見えた。そして、川縁で釣りをしている一人の男にメイの視線は向けられた。
 男は、眼鏡の奥で、にっこりと眼を細める。やや暗めの金色の髪を背中で一本に束ね、茶色のフロックに、珊瑚色のヴェストをまとい、金の鎖の付いた懐中時計を手で無造作にもてあそんでいる姿は……。
 ――これは偽物だって、幻だって、分かってるのに、なぜ抜け出せない!?
 メイは明らかに動揺していた。単に魔法が解けないだけでなく、むしろ、眼の前にいる幻の人に対して。
「ふふ。これが幻でも本当でも、そんなことはどちらでも良いではありませんか」
 心地よい声で釣り人はそう言うと、メイの方に向かっておもむろに歩み寄った。
「クレ……ヴィー」
 メイは後ずさった。眼の前の幻を、なぜかひどく恐れているようだ。一体、何を恐れているのだろうか。
「あたしは、あたしは……」
 メイは頬から首筋まで紅潮させ、何か後ろめたさを感じているように、さらに後退した。しかし彼女の動きは、人形のごとくぎこちなかった。
「たとえこれが幻でも、永遠にこの心地よい嘘の世界にいられたら。そんなふうにあなたは思っていますね?」
 明らかに幻覚であるはずのクレヴィスがつぶやく。次の瞬間、その偽りの存在の腕の中に、メイの身体はそっと抱きしめられていた。
「疲れたでしょう。あなたはよく頑張りましたよ。もう、ずっとこの世界に居ていいのです。あなたが密かに心の奥で考えていること、すべて私には分かります」
 目を見開き、口を開けたまま、メイは涙声でうめいた。
「あたしがいくら望んでも、あたしの気持ちを知っているのに、あなたは残酷なほど優しくて、そして遠かった。いつも誰にでも優しくて、でもあなた自身は、この世界にただ一人舞い降りた、本当は微笑の下に完全な孤独を背負った天使のような……」
 あっけないほどにメイは敗北の涙を流した。
「分かっているのに……。私は弱い。たとえ幻でも、思いが遂げられるのなら。現実では決して報われない思いだと知っているから」
 意識の中にどす黒い闇が流れ込んでくるかのごとく、あるいは、むしろ自らの内に秘めた欲望の影が何者かによって膨張させられていくかのように、メイは思った。
 ――この魔法は、たとえ幻だと分かっても、自分が少しでもそうであってほしいと願っている限り、決して解けない?
 理性を保ったまま、しかし妄想に対して完全に敗北を認めたメイ。その心を、ソルミナの魔力が容赦なく蝕んでゆく。

 もはや彼女は、決して自ら抜け出せない永遠の心の檻に囚われてしまったのだ。

 ◆ ◆

 ――いけない。こんな大事なときに、僕は何を、余計なことばかり考えてる!
 ルキアンは意識を集中する。
 乗り手の意志に反応し、空中に静止していたアルフェリオンにも変化が現れる。今にも再び羽ばたかんばかりに、その翼に魔力が漲ったように感じられた。太陽の光のもとでは分かりにくいが、よく見ると、微かな青白い輝きが翼の表面で揺らめいている。
 ――ルキアン・ディ・シーマー、今からナッソス城の《結界》の中へ、偵察に……そして、メイやバーンたちの救出に向かいます。
 ルキアンはクレドールに念信を送ると、底知れぬ魔力を秘めた《盾なるソルミナ》の赤き結界を改めて見据えた。決意を込めて。
 アルフェリオンの《ステリア》の力を初めて発動させたとき、リューヌが告げた言葉を、ルキアンは思いだし、胸の中で何度も反芻した。
 ――《大切な人たちを助けたいと心から祈りなさい。未来を取り戻したいと強く願いなさい。そして、自分にはそれができるのだと、まずあなた自身が信じるのです》。

 輝く六枚の翼を煌めかせ、銀の天使が悠然と動き出す。
 ついにルキアンは行動に移った。


5 闇の生まれたところへ



 《盾なるソルミナ》の赤い結界にアルフェリオンが突入した瞬間、ほんの一瞬だけ、ナッソス城の姿が地上に見えたような気がした。だがそう思ったとき、ルキアンの瞳には、もはや完全に異なるものが映っていた。

 薄暗い視界が、徐々に輪郭を浮かび上がらせる。
 目の前の様子が変わっただけではない。どこかに立っている。アルフェリオンの機体ではなく、己の足で。自分の身体? そんなはずはない。彼の身体は、機体の《ケーラ》の中に横たわっているはずだ。
 不意に、冷たくて硬い感触を指先に覚え、ルキアンは慌てて右手を引っ込めた。何か壁のようなものに触れていたらしい。ケーラの内壁の金属的な触感ではなかった。表面が平らながらも若干のザラザラした感じは、磨かれた石を思わせる。
 瞬きするかしないかの間に、ルキアンの五感はアルフェリオンの機体からすでに離れており、彼は生の身体を通じて世界を感じていた。
「よく分からないけど……僕は、アルフェリオンから、降りている。ということは、今まで何をしていたんだろう。結界に入って、それから……」
 ルキアンは、長い夢から唐突に覚めたような奇妙な気分になった。いや、本当は彼のいま置かれている状況こそが、夢幻のまっただ中、あるいはとびきりの悪夢であるはずなのだが。
 周囲の暗さに目がまだ慣れてこないものの、辺りは完全に真っ暗ではなかった。ランプの炎のような、淡い橙色の光が薄闇を照らしていた。
 驚きの言葉すら口にできず、ルキアンは呆然と周りの様子を確認し始めた。四方は壁だった。どの方向に手を伸ばしてみても、すぐに壁に手が届きそうだ。どうやらここは、狭い箱のような部屋の中らしい。どこかに閉じ込められているのかと、ルキアンは急に不安になり、慌てて周囲を見回した。
 壁に松明が一本掛けられていることに、ルキアンは今さらながら気づく。その灯りに浮かぶ部屋の状態から、彼は石造りの地下牢を連想した。

 ◇

 落ち着いて前を見ると、そこは単なる壁ではなく扉になっている。鍵が開くのか、どこにつながっているのかなどと考える以前に、ともかく扉の存在自体がルキアンには嬉しかった。
 ほっと一息つくと、彼は何気なく振り返る。すると今度は背後の壁にも扉があった。 本来ならここで少しは迷うはずだが、なぜか無意識のうちに、ルキアンは前方の扉に手を掛けていた。金属製の枠の付いた分厚い木製の扉。それは鈍い音を立てて、しかし思ったより滑らかに、たやすく開いた。かび臭い空気が漂う。
 突然、足を踏み外して転びそうになるルキアン。壁に手を突いて必死に身体を支えると、彼は恐る恐る足元を見た。
 大人ひとり通るのがやっとの、狭くて急な階段が下に向かって続いている。壁面には点々と松明がかかげられているが、それでも奥の方の様子までは分からない。両側から石壁に押しつぶされそうな、非常に圧迫感を覚える場所である反面、頭上に視線を向けるとずっと先まで闇の空間が伸びており、天井がどこにあるのかまったく見通せない。
――嫌だな。この感じ。何となく、あそこに似ている。
 《パラミシオン》に取り残されていた例の《塔》の中、生理的に嫌な感じのする、青白く仄暗い光に照らされた7階の廊下を、ルキアンは思わず想起した。金属の壁や無数の機械じかけで覆われた旧世界の塔と、石造りで中世の地下牢のごときこの場所とでは、外観はまったく違う。だが何というのか、そこにいると大地の割れ目に突き落とされたような気分になるという点では、両者は一致している。
 幸いなことに、あの《塔》の7階を覆い尽くしていた異様な空気感あるいは妖気とでもいったものは、ここでは感じられない。
「いや、違う……」
 ルキアンはつぶやいた。彼は目を閉じ、周囲に意識を集中する。
 違うのだ。妖気を感じないどころか、このような密閉された暗い空間にありがちな、人間が本能的に感じる心細さや不気味さまでも、なぜか感じられないのだ。
「違う。何かがおかしいよ」
 周囲に生き物や人間、あるいは霊的な存在も含め、何らかの気配がないか、ルキアンは探ってみた。そのくらいのことは、見習いではあれ魔道士の彼なら可能である。
 何の気配も感じない。人間はおろか、虫一匹うごめくことすらない。
 ――たいていの場所には、そこに固有の《気》があるけど、ここは……なんていうか、分からないけど、《空っぽ》のような、何もない真っ白な感じがする。
 ルキアンはともかく階段を下りることにした。いつまでもここで立ち止まっていても仕方がない。
 一歩、二歩、慎重に歩みを進める。
 それがどのくらい続いたのか、次第にルキアンの足取りは速くなっていた。
「どこまで続くんだろう?」
 彼は不安になりながらも、下へ下へと降りていく。地の底まで続くのではないかと思えるほど、ただ真っ直ぐに長い階段。少し足が疲れてきた頃、ようやく変化があった。

 ◇

 目の前に扉があり、階段はそこで終わっている。
 いかにも意味ありげに突然現れた扉に、ルキアンは躊躇する。しかし、ここまで降りてきた以上、先に進むことにした。
 扉に手を伸ばす前に、彼は周囲を慎重に確かめる。何らかの情報を与えるようなものはないか、仕掛けや罠はないか。冷静さが戻ってきたようだ。先程まで何も考えずに進んできた自分の行動に、ルキアンは今さらながら冷や汗をかく。
「文字とか、絵とか、まったく描かれてないな。何の変哲もない木のドアのようだけど」
 何度か、手をおずおずと伸ばしては引っ込めていたルキアンだったが、ようやく扉の取っ手を握った。そっと引っ張っても動かない。慎重に押すと、重たい手応えはあったが、どうやら動きそうだ。石の床と木でできた扉の底が擦れ合う感覚。かなり力を入れて両手でさらに押すと、ひとまず問題なく開いた。
「あれ?」
 ルキアンは首を傾げる。何が現れるのかと緊張していたところ、そこには、また階段だけが下に向かって伸びていたのだ。
「進む……しかないのかな」
 落ち着きを取り戻しつつあった彼は、今度は、壁に何か変わったとことがないか、気を配りながら階段を下りていった。ひょっとすると隠し扉のようなものがあるかもしれない――いや、何の仕掛けもなく、ただ真っ直ぐに階段だけが伸びている方が、よほど怪しげだが。

 ◇

 さらに歩いた。それでも何も見つけられないまま、再び扉が現れた。今まで降りてきた階段を見返すと、急に徒労感を覚え、溜息をついたルキアン。
「この扉を開けたらまた階段、なんてことは……。いや、そんな気がする」
 彼は立ち止まって考えてみた。何かがおかしい。
 これほど長い階段の先、どこに続いているのだろう。
 そもそも奇妙なのは、ここまで来る間にむやみに扉がいくつもあったことだ。部屋があるわけでもなく、なぜ階段の途中に扉を設ける必要があるのだろうか。
 ルキアンは、思い出したかのように周囲の気配を改めて探った。
「相変わらず何も感じない。こんなふうに、特有の《雰囲気》をまったく持たない場所なんて、妙だな」
 半ば呆れつつ、彼は扉を開いた。やはりというのか、またそこには同じような階段が延びているだけだった。
 ――階段と扉ばかり、空っぽの空間。真っ白な場所。何の別の気も感じない。ただ一色に塗りつぶされているような、何もない、塗りつぶされた……。
 そう思いながら下りていくルキアンは、不意に鋭く喉を鳴らすような声を上げた。彼の肩や指先がかすかに震える。
「違う、空っぽなんじゃない。これは、この場所はすべて、ひとつの気で覆い尽くされているんだ!」

 その瞬間、大きな音を立てて、彼の背後で扉が閉じた。

「ひとつの影がすべてを呑み込み、他の気はかき消され、真っ白に感じられたんだ」
 わめきながら、必死に駆け寄るルキアン。
「開かない!?」
 扉の取っ手にふれたとき、かすかに電気が走るかの如き、独特の感じを受けた。
 この扉は、明らかに、魔法か何かの霊的な力で封じられているのだ。

 扉一枚を隔てた向こう、これまでに下りてきた階段の様子は、ルキアンにはもう分からない。そこでは……。壁の松明の明かりが一斉にかき消え、暗黒がすべてを支配する。壁の中から、いっそう黒い闇がしみ出てきたような気がする。いや、いたるところの壁から、現に何かが流れ落ちている。それは血のように見えた。ぬめりを帯びた、どす黒い液体が床にまで次第に広がってゆく。
 もうひとつ上にあった扉も、辺りに誰もいない中でにわかに動きだし、それ自体が生きているかのように閉じられた。扉の奥、先ほどルキアンが通ってきたときには何もなかったはずの階段には、無数の白骨が転がっていた。大小無数の骨片が、足の踏み場もないほどに。

 そして、最初の小部屋からの出口となった扉。
 薄暗くて見えにくいが、扉の上の方、壁に何か書かれている。
 あのとき冷静さを欠いていたルキアンが見落としたものだ。
 子供がクレヨンで描きなぐったような、乱雑で、単純で、しかし本能的に寒気を感じさせる不気味な落書きが無数に描かれていた。
 壁にしみついたような絵は、どれも暴力的で血まみれで、狂気じみている。
 悪夢のごとき落書きで埋め尽くされた壁面には、こう刻まれていた。

 《闇の生まれたところへ》


【続く】



 ※2009年11月~2010年4月に、本ブログにて初公開
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