遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『読書の森で寝転んで』  葉室 麟   文春文庫

2023-09-27 16:34:17 | 葉室麟
 著者は2017年12月23日、66歳で惜しくも物故した。愛読作家の一人だった。これから更に・・・と期待していた時にこの訃報だった。噫。合掌。
 本書は、エッセイを主体に、対談、遺稿を併載している。目次に続く内扉の裏ページに文春文庫オリジナルと明記してある。2022年6月に刊行された。

 本書には、葉室麟さんが時代小説家になった背景や、個々の作品を創りだした作者の意図やその作品に托した思いなどが、エッセイ等の文脈の中で自作に触れる際に書き込まれている。愛読者として、その点を一番の着目点にしながら、少しずつ読み進めた。葉室麟さんの人と形、素顔がイメージしやすくなる一冊である。
 読み終えてからも長らく机の側に積んでいた。区切りをつけるために、読後感想を覚書を兼ねてまとめてみたい。

 全体は4章構成になっている。章毎にご紹介し、少し付記する。

<第1章 読書の森で寝転んで>
 本書のタイトルの由来になる章。「わたしを時代小説家へと導いた本」(「kotoba
」所載)を最初に、「毎日新聞西部本社版」に掲載された23編、「日本経済新聞」に掲載された4編、合計27編の読書エッセイが収録されている。最後に、「書店放浪記」(「日販通信」)という題のエッセイが載る。
 「『韃靼疾風録』司馬遼太郎」から始まり「『追われゆく坑夫たち』上野英信」に至る23編は、その書の読後感想とともに、著者への思い、書の書かれた時代背景への思い、その書から葉室自身の思いへと枝葉を広げる。エッセイは各篇4ページの分量でまとめられている。書評ではなく、あくまで随想が綴られている。
 「日本経済新聞」の方は、「空海」という題から始まる4編だが、こちらも同様である。たとえば、「空海」は高村薫著『空海』を読んだという書き出しから、思いを司馬遼太郎著『空海の風景』へと展開していく。
 書名・著者名の出てくる本を、葉室麟さんがどのように読んでいるかを楽しめ、かつ読み方の一例を学ぶきっかけにもなる。著者葉室麟を知ることにつながり愛読者としてはおもしろい。

 この第1章から、葉室麟を知るという視点で、いくつか引用しご紹介しよう。
*時代小説家へと導いた本:白土三平画『忍者武芸帳 影丸伝』『カムイ伝』、花田清輝著『東洋的回帰』『もう一つの修羅』、上野英信著『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』、長谷川伸『相楽総三とその同志』、山本常朝『葉隠』  p12-p18
*拙作の『銀漢の賦』(文春文庫)で武士の子である源五、小弥太と少年時代、友になり、長じては一揆の指導者になった十蔵に、わたしは『カムイ伝』の真摯な農民、正助の生きざまを託しているのかもしれない。  p13
*わたしは拙作『蜩の記』で・・・・主人公の戸田秋谷には筑豊の記録文学作家、上野英信の面影があると気づいて愕然とした。   p15
*「至極は忍ぶ恋」と考えることは、常朝が理想とした武士道に通じるものがあったのだ。いずれにしても同書(付記『葉隠』)から拙作『いのちなりけり』『花や散るらん』(共に文春文庫)の着想をえた。  p18-19
*(『小説 日本婦道記』山本周五郎のエッセイの末尾)
 そんな生き方を求めて苦闘していく女性たちの姿が描かれているから、この作品は感動的なのだ。そう思ったときから、わたしも女性を主人公にした小説を書き始めた。 p55
*小説に純文学かエンタメかという分類は必要ではないのだ。心に響くものだけが小説ではないか。  p69-70
*伝えねばならないものは何か。この世の矛盾への憤りであり、苦しむすべてのひとへの共感であろう。
 ただ、わたしにできるのは、ひとの内にある、
 -物悲しいやわらかさ
 を語ることだけかもしれない。そんな気がして不甲斐なさを申し訳なく思うのだ。p111

<第2章 歴史随筆ほか>
 「”西郷隆盛”とは誰だったか」から始まり、「酒を飲む」までのエッセイ19編が収録されている。葉室麟さんの歴史への視座をはじめ、身の回りの諸事への視点と思いがうかがえる。葉室麟の作品の裏側にある考えや心情が垣間見えて、楽しめる。
 ここでもいくつかご紹介しよう。
*西郷をわかり難くしているのは維新後に作られた、明治維新は尊王攘夷派による革命だったとする薩長史観の革命伝説だろう。  p132
*西郷の真骨頂は、デモクラシーに近い感覚を持ちながら保守的な政治活動を取ったところにある。・・・・やはり、西郷の心は信じるべきだと思う。  p134-135
*わたしにとって、(付記:『蜩の記』の主人公)秋谷が書いたものは白紙ではなかったということだ。(注記:随想文の前部で「小説としては、家譜と書くだけでいい」と)
 秋谷が筆をとって書き記したものは、上野さんが書いた炭坑労働者の記録であり、作品ではなかったか。
 そのことを思うと、小説はフィクションだが、書いていることは決して嘘ではないのだ、とあらためて思う。・・・・・・・・・
 だが、描いているのは、私が生きてきて、上野さんのように実際に会ったひとであることが多い。・・・そんなひとびとを虚構に仮託して描いてきたように思う。  p147-148
*わたしが思う(付記:立花)宗茂の魅力は、普通のひとの感覚を持ち、それを貫いたことにある。  p152
*宗茂の心の内には、茶で培っただけではないにしても、人生の厳しさと対峙し、内面を深めたことによる静謐があったに違いない。  p154
*少し翳りのある中年男になりたかったのだ。・・・・・・
 酒を飲むのは、生き方を学ぶことでもあった。   p224

<第3章 小説講座で語る>
 web「小説家になりま専科」2014年8月27日に載った講義録が収録されている。文芸評論家・池上冬樹氏に招かれて山形に赴き、小説講座で池上氏と対談した講義録である。
 この章の冒頭に「小説は虚構だけど、自分の中にある本当のことしか書けない。書くことは、心の歌をうたうことです」という文が載る。
 当然ながら、上記の引用と重なってくる。さらに、その語りには枝葉の広がりがありおもしろい。例えば、手塚治虫の『ジャングル大帝』や本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』ほかにも広がって行く。次のような箇所もある。引用する。
*僕は大学のサークルで俳句を始めたんですが、最初になんで俳句をやろうと思ったかというと、やっぱり寺山修司ですね。  p232
*文章というのは、何かを説明すればいいというものではないですよね。その人が持っている、精神の高みに人を連れていく。石川淳は「精神の運動」と言っています。それが、文章を読むときの大事さだと思うんです。・・・・高みという言い方はよくないかもしれませんけど、何か違うものを得る。それが大事なんです。      p233
*五十歳になったときに書き始めたというのは、過去というものに対して、自分の中で振り返るというか、自分の生きてきた中での、いろんな意味での決着をどこかでつけたい。その枠組みとして、時代小説がいいのではないかと、考えて書き出したんです。 p241
*技術は手段であって目的ではない。人に伝わるのは、本当の言葉だけです。 p259

<第4章 掌編、絶筆>
 ここには、「読売新聞大阪本社版」2016年4月3日に載った「芦刈」と題する10ページの掌編と、「我に一片の心あり 西郷回天賦」が載る。こちらは、著者が2018年から「オール讀物」で『大獄』第二部を連載開始するために、最後まで推敲を重ねていた序盤の遺稿だという。
 それと、最後に「オール讀物」2018年2月号に掲載された原稿が収録されている。葉室麟さんが、亡くなる2017年12月に病床で語っていた内容だそうだ。『大獄』第二部のテーマ、構想について残された音源を元に、「オール讀物」編集部が構成したもの。
「葉室麟 最後の言葉」である。噫!『大獄』第二部・・・・読みたかったなぁ。

 本書は、葉室麟愛読者にとり、やはり欠かせない一冊だと思う。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
「遊心逍遙記」に掲載した<葉室 麟>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在 70冊+5冊 掲載
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