遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下 松岡圭祐  角川文庫

2024-04-08 16:24:21 | 松岡圭祐
 クラシックシリーズの第12弾。このシリーズの最終巻となる。2006年5月に文庫本で刊行されたものに加筆・修正が加えられ、2009(平成21)年に完全版と題して改めて文庫が刊行された。この刊行から早くも15年が経っている。上下巻でなんと実質1,201ページという超長編小説。シリーズの最後を飾るに相応しいロング・ストーリーといえる。

 上巻の目次の次のページに、
 阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。
                    ---友里佐知子の日記より抜粋
という引用が記されている。この一行がこのストーリーを暗示していて、またこのストーリーのテーマにもなっている。

 ストーリーの冒頭は、メフィスト・コンサルティング・グループが一級建築士音無耕市に自白させるために仕組んだ大がかりな心理戦に岬美由紀が介入していくところから始まる。それは100人近くの不安神経症の人々を救出する為でもあった。救助した人々の一人、衣川智子から音無耕市がタイタニック計画ということを口にしていたと聞く。美由紀はこのタイタニック計画の意味を解明し、それを阻止する行動にで出る。これが一つの短編小説風にまとまった導入部になっている。いわば007の最初の導入部のような手法である。
 場面は一転し、能登半島の先端近く、石川県輪島にほど近い山中に建つ白紅神社に。ここは大晦日のNHK紅白歌合戦の勝利組を予言することで有名になり膨大な信者を集めてきていた。この予言を今回限りで打ち切ると宣言した年の大晦日に、鬼芭阿諛子が宮司風知卓彌の前に現れる。阿諛子の再来!! これがこのストーリーの重要な伏線になる。

 場面は二転する。岬美由紀が臨床心理士として日常活動に従事する場面となる。そこにいくつかのエピソード、問題解決が織り込まれて行く。そのプロセスで、ヘジテーションマーク(逡巡創、ためらい傷)、小学生の間で流行の裏技である位置情報を操作する神隠しなどの謎解きが描かれる。これまた、自然な展開の中で伏線が敷かれていく。

 場面は三転する。警視庁捜査一課の蒲生誠警部補と公安部の桜並克彦警部補が美由紀のマンションを訪れる。蒲生の要件はJAI845便の機長の死を殺人と判断し、鬼芭阿諛子への殺人容疑を固めるため。一方、桜並は恒星天球教という危険分子の捜査の一環で鬼芭阿諛子を捜査するためだった。
 白紅神社に鬼芭阿諛子がいる。今29才の阿諛子は宮司になっているという。阿諛子は美容整形している可能性があるので、本人の鑑定のために美由紀に協力してほしいという。美由紀は彼らに同行し、白紅神社に赴く。中核となるストーリーがここから始まる。

 神社社務所内の床の間に紅白の玉と箱が置かれ、その下に敷かれた布の一部がまくれあがっていて、そこからSDメモリーカードがのぞいていることに美由紀は気付いた。美由紀は、持参していた小型のモバイルパソコンにそのSDカードを差し込み、密かにコピーを試みた。
 蒲生・桜並・美由紀は阿諛子と神社で対面する。そのとき、阿諛子は同性同名であるだけで、恒星天球教や友里佐知子とは無関係と反論する。立証という点で反論しづらいところをつかれ、蒲生と桜並は立ち往生する羽目になる。
 巧妙な反論を準備する一方で、阿諛子はこの白紅神社が蓄えた金とこの神社を密かに占拠し、己の願望を成就するための拠点としていた。

 この後、ストーリーは、一旦SDカードに記録された内容に転じて行く。それは縦横にびっしりと並んだ1万ページ以上とおぼしき友里佐知子の日記だった。昭和40年8月7日、佐知子が17歳だった夏の日から唐突に始まる日記である。
 ここから友里佐知子のバックグラウンドが明らかになっていく。美由紀が膨大な日記の内容を読み継いで行く形で、このクラシックシリーズの全体が、友里佐知子の視点、彼女の人生の文脈としてつながっていく。その過程で上掲引用文の意味もまた明らかになる。
 さらに、佐知子の日記を介して、メフィスト・コンサルティング・グループの実態も明らかになる。特に、佐知子を見出したゴリアテ、後にグレート・ゴリアテと称される特別顧問のプロフィールも明らかに。さらに、メフィスト・コンサルティングで佐知子と共に同世代として教育訓練を受けたマリオン・ベロガニアとフランシスコ・フリューエンスのプロフィールも明かになる。フランシスコ・フリューエンスは後にダビデと称する特別顧問に昇進する。
 ストーリーの中核はあくまで鬼芭阿諛子の行動なのだが、少し視点をずらせると、この日記の内容をこのクラシックシリーズでのメイン・ストーリーと受け取ることもできる。過去のこのシリーズのストーリーの場面とリンクしていくからだ。そういう面白さがある。この点はこのシリーズを読み継いできた方にはよく理解できるだろう。
 
 そこで、再び鬼芭阿諛子の視点に戻る。彼女が画策している事は何か。それは、常に母と呼んできた友里佐知子の意志を継ぐこと、国家転覆である。そのためには、まず国会議事堂の破壊と国会議員の殲滅を同時に実行する襲撃作戦を準備し、完遂することだった。この白紅神社はそのための拠点に相応しい立地でもあったのだ。
 恒星天球教・友里佐知子の意志を継いだ鬼芭阿諛子と岬美由紀との最後の闘いが始まっていく。
 「阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。」という一文がどのような意味を持ち、どのように位置づけられていくのか。そこが読ませどころの一つにもなっていく。
 この引用文は本文では、上巻の330ページに日記の文脈の一部として登場している。
 
 このストーリー、心理学的な視点からは、「選択的注意集中」という技法が一貫して利用されていく。この描写が興味深い。
 上巻で敷かれた伏線が、こんなところで結びついてくるのかという箇所がいくつもある。上巻を読んでいるときはわからなかった部分が、ナルホド・・・と感じるおもしろさに転換していく。
 現在実現しつつある科学技術の成果物が、2009年のこの完全版では更に技術革新した形で、先取りされ組み込まれている。そこがおもしろいと思う。ネタバレになるのでこれ以上は触れない。

 最後に、このストーリーから印象深い箇所をいくつかご紹介しておきたい。⇒印以下は付記である。

*運命は五分五分。わたしはそう思っていた。だが、現実は違っていた。予想とは異なる結果があった。運命は変えられる。彼はそれを告げにやってきた。可変の運命、それが未来に違いないと美香子は思った。  上巻p362
   ⇒ 彼、美香子が誰を意味するか。これがターニング・ポイントになっている。

*ひとりの個が自然に持ちうる意識は決して他者の思いどおりにはならない。・・・・・・
 人間とは単純かつ弱い生き物だ、数になびく。反体制という不利な立場を悪とみなし、体制側を善と考えることで、弱者から強者の側へと乗り換えてしまう。・・・・・・悪とみなされる者への弾圧を、正義を守る勇気として正当化する人々が少なくない。それはとんでもない自惚れだ。真の勇気は反体制にある。   下巻p229-230
   ⇒ 友里佐知子が阿諛子を育てる基盤にした思考。
     このシリーズで、岬美由紀の思考とは対極にあると思う。

*あの女医はすごい、もしかしたら超能力者ではないか。そういう好奇心に満ちた興味本位の目が自分に注がれるように仕向けた。マスコミのインタビューでは、非科学的な能力と混同されたくはないと抗議するふりをしつつ、裏側では大衆の好む超能力への興味を掻き立てた。
 庶民は愚かだと友里は思った。科学的な権威であることをしめすリベラルな学者よりも、どこかいかがわしさを伴う特殊な人間にこそ、いままでになかった価値観が存在するかおしれないと感じて、会いたいと欲するようになる。  下巻p254
   ⇒ 大衆の心理をうまくつかんでいると思う。

*以心伝心(テレパシー)はない。真の意味での千里眼は存在しない。だから人は、心を通わそうと努力する。理解しあおうと人を思いやる。そこに人の温かさがある。人の心が見えないからこそ、人に優しくなれるのだろう。そのことに、ようやく気づいた。
 なにもかも見通せなくてもいい。それがわたしんおだから。   下巻p630
   ⇒ 周囲の人は感じていても、成瀬史郎の思いを見抜けない美由紀の内省。
     千里眼シリーズの掉尾に記されたこのギャップの描写がユーモラス!

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊

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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 松岡圭祐 角川文庫

2024-01-31 16:37:31 | 松岡圭祐
 新人作家・杉浦李奈の推論シリーズの第9弾。2023年8月に書き下ろし文庫として刊行されている。
 このシリーズ、出版業界の舞台裏に光をあて、そこにテーマと題材を見出して、ミステリ・フィクションに仕立てあげる。出版業界の舞台裏が表にでてくること自体が、読書人にとっては興味をかき立てるフェーズといえる。
 この第9弾は、タイトルにある通り、結果としては「人のしなない」ミステリ仕立てになっている。それはあくまで結果としてはということであり、巧みな落とし所となっている。ストーリーの変転で読者の思考を匠に困惑させる。李奈がこのミステリの意外な結末を導き出す役回りになる。さらに李奈にとってハッピーな結果が生まれるという次第。

 本作では、新人作家が発掘され、その作家と編集者がどのような人間関係を形成するのか、編集者が作品の完成までに、作品自体にどのように関与していくのか、あるいは関与する可能性があるのか。新人作家の頭脳から創作された最初の原稿がどのように変容する、あるいは変容させられる可能性があるのか。また、本という商品が完成するまでに、どのようなステップがあるのか。例えば、本の紙質の選定や装丁という側面がその一例である。本が出版される以前の舞台裏がリアルに書き込まれているところが、私には興味深い。こういう視点と出版業界知識が本作の副産物と言えるかもしれない。

 さて、杉浦李奈が鳳雛社の編集者・岡田眞博から出版の誘いを受ける。「数枚のプロットだけでも書いてくれたら」と。これに対して、李奈は長編『十六夜月』の原稿を仕上げて岡田に送信した。岡田は原稿を読み、主人公史緒里が悲劇的運命を回避していく終盤に圧倒されたと賞賛する返事を送ってきた。だが、その後、ベストセラー作りの巧みなやり手の名物副編集長宗武義男から横やりが入る。結末を読者皆が号泣を誘う方向に変える提案だった。李奈は宗武がベストセラー作家ともてはやされた岩崎翔吾の担当編集者だった理由がわかる気がした。李奈はそれを受け入れられないと拒絶した。こんなストーリーの出だしがどう展開するのか。まず、読者を戸惑わせる。

 宗武が別件として李奈に本を書いて欲しいと持ちかけてくるのだからおもしろい。宗武は、まず最初に、小説の原稿を読んで、プロの目からアドバイスを欲しいと李奈に持ちかける。未知の原稿を読める誘惑に負けて、李奈はその原稿を読むことになる。ここで李奈がその原稿について語るコメント自体が、読書好きには参考になる副産物。
 原稿の表紙の題名は『インタラプト』。一行目から「31歳の編集部員、岡田眞博は中途採用で鳳雛社に入った」という一文が出てくる小説。
 宗武は、ある新人作家につい最近までの事実をノンフィクション風ノベルに下書きとして書かせ、その原稿に宗武自身が朱を入れたという。その第八章まで書かれた原稿をベースにして、李奈に小説として仕上げて欲しい。それを李奈の作として出版するという仕事のオファーだった。これがこのストーリーの第一ステージである。
 ここまでで、既に出版業界の裏舞台の一局面が『インタラプト』の原稿文として織り込まれ、原稿への作家と編集者の視点がストーリーとして語られていく。この点もおもしろく参考になる。

 著者は宗武に次のとおり李奈に出版社の副編集長として、己の立場表明をさせている。
「創作に固定されたやり方などないはずだ。うちは今回このやり方をとる。あらかじめ打ち合わせをして、プロットを作り、そのあらすじに沿って書いてもらうというのも、ある意味で事前に方向性を定めておく方法だ。これはもっと効率的に、版元の要望と著者の創造性が一致をみる、画期的な手段だよ」(p89)と。
 「わたしの小説じゃない」と李奈は反発する。
 宗武は言う。岡田の周辺からの事実聴取をした上で原稿が書かれている。岡田には取材はしていない。だから、岡田に李奈が取材し、その結果を自由に加えて手直しして小説を書いてくれ。小説化にあたり、登場人物名等は一括変換で変えられる。現実を彷彿とさせる小説にしてほしいと。
 宗武と李奈が、駅のロータリーに駐めた大型ワンボックスカーの中で話し合いをしている時に、車の後尾のタイヤを故意にパンクさせる事件が起こった。その実行犯の顔を李奈は視認した。岡田だった。
 李奈は、宗武の小説化の依頼を受ける気はなかったが、鳳雛社の編集者として小説にオファーをしてくれた岡田についての事実を確かめたいという意志が李奈を動かす。小説『インタラプト』を引き受けるかは保留という条件付きでまず取材活動を引き受けることに同意した。ここからストーリーの第二ステージが動き出す。

 岡田の行動の裏付け取材が、鳳雛社に関わるさまざまな状況を明らかにしていく。
 この内容が一つの側面描写として、出版業界の舞台裏話につながっている。
 編集者岡田の様々な側面と行動が明らかになっていく。たとえば、鳳雛社は新人作家飯星祐一の『涙よ海になれ』という大ベストセラーを生み出した。それを推進したのが副編の宗武であり、ストーリーの結末は、宗武の意見が取り入れられ悲劇的な結末で創作された。それがヒットの一因になったという裏の経緯がわかる。この飯星祐一こと橋山将太を新人作家候補として見出したのが岡田だった。岡田は編集者として橋山とコンビを組んで、橋山の経歴を生かし、純文学の家具小説シリーズを出版していた。だが、売れなかった。橋山を宗武に引き合わせたことで、宗武の考えに沿った路線の小説を橋山が創作し、ベストセラー作家飯星祐一が誕生した。
 ベストセラー誕生の暴露話が具体的な経緯とともに明らかになっていくプロセスが興味深い。売れるように書くという商業主義の側面が描写されていておもしろい。

 今、飯星はあきる野市にある宗武の自宅近くに引っ越しし、執筆活動を続けているという。李奈は飯星に取材するため、宗武の車に同乗し、宗武の自宅に向かう。宗武の自宅に飯星が来て、取材に応じるために待機しているからだ。
 飯星に面談した李奈は、二階建てアパートの飯星が借りている住居に行くことになる。ここから、大きく状況が変転していくことに・・・・・。いわば、ストーリーは第三ステージに入っていく。
 『インタラプト』の下書原稿と李奈自身の取材活動というストーリーの進展は、いわば編集者岡田をはじめ主な登場人物をクリアーにしていくための準備段階だったと言える。ミステリの真骨頂が始まっていく。
 本作でも、進展してきたストーリーのどんでん返しが李奈の推理によって行われ、結末を迎えることになる。やはり、著者は巧妙なオチをつけた。

 さて、「人の死なないミステリ」というタイトルがどのように着地するのかは、本書で確かめていただきたい。このフレーズは、宗武のつぶやきとして記述されている。

 もう一点、本作全体を眺めてみて改めて気がついたことがある。
 本作の第1~2節と最後の第24節が作るストーリーの間に、第3~23節のストーリーが入るという入れ子構造になっている。そして、第1~2節と第24節には、出版に絡む発想の逆転が見られる。それが第3~23節の結果から生み出されている。
 そこに大きな問いかけが底流にあると思う。作家の創作に対して、本を編集するとはどういうことか。編集者とは何か。という問いかけである。そのこと自体、出版業界の舞台裏である。読者にとっては、作家の名と顔は見えるが編集者等出版側は出版社名しか見えない。

 最後に、本作で印象深い文をいくつか引用しておこう。
*小説家として成功したいと願う気持ちと、魂を売り渡してもかまわないという決心とのあいだには、大きな隔たりがある。どんな恩恵にあずかろうとも、『十六夜月』の史緒里を殺せるはずがない。  p55
  ⇒宗武の小説の結論部分を悲劇の方向に書き換えてほしいという提案に対して
*歩きながら李奈は思った。・・・瑠璃は以前の李奈と多くの共通項がある。大衆から認められたい理由が、孤独にともなう寂しさにあることに気づいている。それならあとは書くだけだろう。文芸こそ誇れる自己表現だと悟ったとき、瑠璃はきっと本物の作家になるにちがいない。  p237
  ⇒瑠璃は『インタラプト』の下書原稿を書いた新人作家
*わたしは現実に生きる人間ですから・・・・。多くの別れを経験して、より重く感じるようになったんです。小説とは登場人物に命を吹きこみ、読者と共有するものだと。 p271
  ⇒李奈が宗武に語る考え
*小説家が乗り越えていく創作の苦悩の日々に、信頼できるパートナー以上の存在はありえません。   p277
  ⇒パートナーとは編集者のこと。
*吉川英治のいったとおりだと李奈は思った。晴れた日は晴れを愛し、雨の日には雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。  p287

 ご一読ありがとうございます。
 

こちらもお読みいただけるとうれしいです。

『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
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『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』  松岡圭祐   角川文庫

2023-12-31 23:07:18 | 松岡圭祐
 このクラシックシリーズを読み継いでいる。本書が第11弾となる。
 本書は、2006年6月に刊行された『ブラッドタイプ』に修正が加えられて、平成21年(20095月に完全版と銘打って文庫化された。

 今までの作品群とは趣がガラリと変わった作品となっている。闘争・対決シーンが数多く登場するプロセスを介在させてストーリーが展開する次元から、人間心理の絡む社会現象と医療分野の難病に苦しむ人々を扱うという次元にシフトした作品である。岬美由紀は証明することが難しいテーマに取り組まざるを得ない状況に置かれていく。証明することが困難な課題にどのようにチャレンジしていくか。その解決策はあるのか・・・・。読者にとっては、逆に身近な問題につながっているテーマが扱われていることになる。

 ストーリーは、陸上自衛隊と米海兵隊の合同訓練をおこなっている米西海岸の施設を日本の防衛大臣が訪れ、海兵隊員がブーツに血液型を書き込んでいるのを目にして、「B型は撃たれやすいから前か」という迷言を発したという珍場面の報道記事から始まる。日高防衛大臣は、己が信じる血液型性格分類の知識を踏まえて勘違いな発言をしたのだ。この血液型性格分類というのがこのストーリーの核になっていく。特にB型の性格が問題視されるという現象がひろがっていくという社会現象が起こる。
 そういえば、結構血液型性格分類に関連した書籍が市販されていることにも気づく。
 日本でブームにもなった血液型性格分類というものの現象をベースに置きながら、それがどんな社会問題現象を生んでいるかの一面にも光を当てている。
 
 本作の状況設定が興味深いのは、その巧みな構成にある。
 日高防衛大臣の迷言は、事の発端にすぎない。だがそれを契機に、血液型性格分類が脚光を浴び、逆にそこから問題となる社会現象が頻出していることが明らかになる。それを解決するには、血液型性格分類に科学的根拠がないということを誰かが証明しなければ、世間の人々は納得しない。それを誰がやるか。
 岬美由紀は臨床心理士である。臨床心理士は民間資格であるが、文部科学省の後押しを得て、日本臨床心理士会が国家資格を目指すという動きをしていた。一方、厚生労働省が後押しをする医療心理士という民間資格の方もまた、国家資格化の動きをとっていた。国家資格の心理カウンセラー職を目指すこの二つの団体が、国家資格化に鎬を削っている状況だった。そのため、この二団体が、血液型性格分類に科学的根拠がないことを証明するという課題に取り組まざるを得なくなる。岬美由紀はその渦中に巻き込まれて行く。
 今回のストーリー展開での新機軸は、一ノ瀬恵梨香が臨床心理士の資格を再取得した。尊敬する美由紀の協力者として活動を共にするという要素が加わっていく。恵梨香の活躍がたくましさと面白味を加えることになる。また、彼女のキャラクターが楽しさを加える。

 もう一つは、本作に美由紀にとり臨床心理士の先輩である嵯峨が再び登場する。だがその嵯峨は急性骨髄性白血病の再発で入院生活となる。嵯峨は入院した病院で、己自身が病人である一方、白血病で入院している患者さんたちに、心理カウンセラーとしての己の役割を果たして行こうと決意する。そのプロセスが、本作ではパラレルに進行していく。
 丁度その時期に、「夢があるなら」という白血病患者を主人公にした泣ける恋愛ストーリーのドラマが爆発的にヒットしていた。だが、そのドラマが流布する白血病についての医療知識には誤解を生み出す間違いがあった。美由紀はこの点についても、その誤解を解き、世間の認識を変えさせていきたいと行動し始める。
 このストーりーでは、嵯峨自身の容態という点での展開に加えて、2人の白血病患者が登場してくる。一人は、北見駿一で10代半ばから後半という年齢。彼は治療費をガスガンの改造で稼ぐということを密かにしていた。嵯峨はこの少年のカウンセラーとして自主的に関わっていく。北見駿一が関わるサブストーリーが、彼の恋愛問題とともに、危なっかしい側面も含めて、織り込まれて行く。
 もう一人、厄介な女性の白血病患者霧島亜希子が登場する。彼女は骨髄移植を受けて己の血液型がB型に変化することを恐れ、適合する骨髄提供者がいたとしても、その提供を受けて、血液型がB型に変化するなら骨髄移植を拒否するという行動を取り続ける患者である。嵯峨はカウンセラーとしての意識から、骨髄移植を受けて健康を回復できるチャンスを実行するように彼女を導こうと努力し続ける。それが実行されるまでは、嵯峨自身が骨髄移植手術を受けるのを引き延ばそうと決意する。
 ここで、患者である嵯峨が別の患者にカウンセリングしつづけるというサブストーリーが進展していくことになる。

 ブラッドタイプの問題事象については、その実状の一例として、血液型性格判断研究所の所長で、血液型カウンセラーを自称する城ノ内光輝が登場してくる。世間でもてはやされているその道のプロとしてである。結局、美由紀はこの城ノ内との知的対決にも向かっていくことになる。

 このストーリー、ブラッドタイプという身近な問題を扱っている故に、日常の感覚を重ね合わせて読み進められる側面があり、興味深い。いわば、人間は自分の知りたい部分だけを事実として受け止めて、納得していくという側面を暴き出しているとも言えよう。
 白血病について、少しはイメージがわくようにもなった。治療の困難性も少しわかり、一方不治の病気ではないということも理解が深まったと思う。医療情報としては有益な側面を内包していると思う。
 
 このシリーズの中では、異色のストーリー展開であるところが、違った意味で一気読みさせる動因になった。ブラッドタイプそのものについての落とし所がおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。


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『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  松岡圭祐  角川文庫

2023-10-31 12:30:16 | 松岡圭祐
 千里眼クラシックシリーズの第10弾である。このストーリーはスケールが大きさが生み出す荒唐無稽さの要素、そこに幕末期以来現在まで連綿として話題に上る一伝説の要素、そこに臨床心理士の活躍する世界という要素が加わり、それらが巧みに組み合わされていく。エンターテインメント性に溢れた面白さが強みといえる。本書(完全版)は平成21年(2009)2月に文庫が刊行されている。

 前作の舞台となったイラクから戻ってきた岬美由紀は、またもや手許に届いた不可解な葉書がトリガーとなって、大事件に捲き込まれて行く。このストーリーでは、美由紀の意識の底に沈んでいた過去の悩ましい事実が重要な要素として絡んでくる。美由紀が事件に関わるプロセスで一之瀬恵梨香との運命の出会いが起きる。
 一之瀬恵梨香。美由紀が自衛隊に入隊した後に、美由紀の両親が交通事故死した。対向車に接触されたことが原因で、両親の車は道路脇に飛び出し、二階建てアパートを直撃。破損したガソリンタンクに引火して爆発事故が起き、アパートは焼失した。唯一、部屋にいたのが一之瀬恵梨香で、彼女は軽傷で助け出された。恵梨香は父親が自宅に火を付け無理心中をはかったことのショックでPTSDに陥り、ようやく立ち直り独り暮らしを始めたところだった。しかし、この事故が恵梨香のPTSDを再発させた。美由紀は死亡した両親の家を恵梨香に無償で譲渡した。そんな苦い過去の記憶を美由紀は背負っていた。

 このストーリーの読ませどころの一つは、運命的な出会いの後に美由紀の心の中に生まれる悔い、関係づくりの試みから生じる対立・葛藤、理解し合うことの困難性など、悩ましい思いに囚われ続けていく経緯の描写である。
 二人の再会は、恵梨香の反発から全てが始まっていく。ストーリーの進展において、美由紀と恵梨香の心理描写が底流をなしていく。勿論、恵梨香自身も事件のただ中に捲き込まれていくのだ。というよりも、恵梨香が戸内利佳子が訪ねてきたことにより、利佳子の発言を受け、恵梨香が衝動的に利佳子を臨床心理士である岬美由紀が勤務する病院前まで自分の車で送るという行動を取ってしまった。それが美由紀を事件に引き込み、恵梨香もまた渦中の人となる一因といえる。

 荒唐無稽さのベースになるのは、萩原である。埼玉、千葉、茨城の県境にあった広大な国有地の森林が伐採され、28の市と町が形成されて、萩原ジンバテック特別行政地帯が誕生した。ここには正式な地方行政は確立していない。埼玉県知事が便宜上の行政責任を持つ形が取られている。しかし、ジンバテックというIT企業が土地を所有し実質的な権限をもつ地域である。俗称、萩原県と皆が呼んでいる。
 ここが特殊なのは、同じサイズの住居が並び、人々はそこに住む。月10万円の生活費が支給され、就労の義務がないこと。病院、スポーツセンター、美容室、理髪店などは無料で利用できる。萩原線という八路線、270キロメートルの路線がある。
 家に引き籠もり何不自由なく生活したい人々が応募して全国から住人が集まった。800万戸もあった住居は移住者で埋まってしまった。そんな特異な地域である。
 その萩原県を一IT企業が資金面で支えているというのだから、ちょっと想像を絶する。それを実行させているのは、社長の陣馬輝義というIT富豪だった。一般企業にとって、これは何のメリットがあるのか。ここに荒唐無稽さのベースがある。
 逆にこの萩原県を実質運営するジンバテックと陣馬輝義が何をしようとしているのか。読者はこれから何が起こるのかということに興味を引きつけられずにはいられない。
 さらに、一之瀬恵梨香は、この萩原県に移住し、心理相談員と名乗っていたのだ。

 このストーリー、住民の一人である戸内利佳子が死後の世界・地獄の様を夢でみるようになり、それが夢とは思えないリアルさを感じるという苦しみを繰り返すようになる。テレビで、臨床心理士の岬美由紀がイラクから帰国の途についたという報道を見る。そして、臨床心理士に相談しようと思う。萩原線の駅に設置された案内ロボットに尋ねると、心理相談員・一之瀬恵梨香を、該当カテゴリで合致する3件の内の一つとして回答した。利佳子は萩原県に住む恵梨香を訪れる。それが結果的に利佳子が岬美由紀に会える契機となる。利佳子の夢の話を聞き、要因分析するためにも、利佳子の家を訪ねると約束する。逆に言えば、美由紀が萩原県の問題事象に一歩足を踏み入れることになる。
 
 一方、美由紀は鍋島院長から不在中にたまった美由紀宛のはがきの束を受け取る。その中に意味不明の文字を羅列した葉書にまず目を止めた。その謎解きを即座にしたのだが、それがきっかけで、帰国後早速、美由紀は東京タワーで発生した事件に自ら関わりを持っていく羽目になる。これまた想像外の事件なのだ。それは美由紀を誘い出す一つのステップにしか過ぎなかった。
 メフィスト・コンサルティングの最高顧問ダビデが絡んでくる。

 一之瀬恵梨香は、岬美由紀と間違われてメフィスト・コンサルティングのノンキャリアのスタッフに拉致され、ダビデと出会うことになる。その場所は、慶応4年の安房国をリアルに再現した宿場町だった。ダビデはあるところで、実際に壮大なシミュレーション実験をしていた。それは、ダビデが日本政府と密約を推し進め、ある利権を確保するための手段だった。
 読者をどこに導こうとするのか・・・・。そんな思いを抱かせる転調となっている。
 
 アプローチのやり方は異なるが、陣馬輝義とダビデの狙いは、德川埋蔵金の発見・発掘だった。その追求がどのように進行していくのか。それがメインストーリーとしての読ませどころとなっていく。德川埋蔵金、ロマンを感じさせるテーマである。
 
 上記以外の主な登場人物を簡略にご紹介しておこう。ストーリーの広がりにもつながるので。
 夏池省吾:財務大臣。ダビデの接触を受ける。総理への密約の連絡窓口になる人物。
      ダビデは夏池に100兆円の事業を示唆する。
 播山貞夫:現在は萩原県の一住民。元民間の考古学研究団体の副理事長。
      旧石器の発掘に絡む捏造事件を起こした人物。
      伊勢崎巡査の要望を受け、恵梨香は播山の自宅で彼と面談する。
 大貫士郎:ジンバテックの顧問会計士。岬美由紀に一方的に面談を申し出てくる。
      社長の陣馬輝義に妄想性人格障害の疑いがあるので相談に乗ってほしい
      というのが彼の第一声だった。結果的に美由紀はジンバテックの問題事象
      に、一歩踏み込んでいくことになる。
 塚田市朗:臨床心理士資格認定協会の専務理事。美由紀を要注意人物とみなす存在。
      美由紀を敵視する立ち位置から徐々に美由紀の協力者へと変容する。

 このストーリーでもう一つ興味深いことは、萩原県の住民から悪夢の訴えが頻出してくることから、臨床心理士たちが総動員され、緊急に現地派遣される事態に展開することである。現地でのヒアリング調査の情報が集約されてくることで、一つの仮説が導き出されていく。美由紀が仮説について重要な発言をするに至る。
 美由紀には、事態の核心に迫る一つの結論が浮かびあがってくる。

 最後に、本書のタイトルに絡む一点に触れておこう。
 上巻には、「蒼い瞳とニュアージュ」という章がでてくる。これは美由紀が幼い頃に母から読み聞かせられた絵本のタイトルであるという。この絵本が恵梨香とのリンキング・ポイントになっていく。そして「荻原県」という章には、「あの童話に登場する雲(ニュアージュ)とは、親をはじめとするおとなの存在を示唆している」(上、p373)と記される。つまり、ニュアージュは雲を意味する。
 さて、その雲の存在は何を意味するか。上記引用文の続きにその心理的意味合いが具体的に説明されていく。さらに、それは美由紀の確信する自覚につながっていた。

 さあ、本書を開いてお楽しみいただきたい。

 なお、私は未読なのだが、『蒼い瞳とニュアージュ 完全版』、『蒼い瞳とニュアージュ Ⅱ 千里眼の記憶』と題する二書が出版されているようだ。こちらも、いずれ読み継ぎたいと思っている。

 ご一読ありがとうございます。
 

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』 松岡圭祐 角川文庫

2023-10-05 14:51:32 | 松岡圭祐
 「作家太宰治、五通目の遺書発見か」という新聞報道記事から始まる。この五通目の遺書の鑑定を有名な筆跡鑑定家、南雲亮介氏が進める。この五通目の遺書は、南雲氏の筆跡鑑定の報告書が仕上がるまでは誰にも開示されないことに。その南雲氏は、筆跡鑑定を進めている途中で、重要な関係者の一部には本物に間違いないと洩らしていた。水曜日に報告書を仕上げるという直前に、有数の週刊誌の記者たちが渋谷区松濤にある南雲邸に駆けつけ、第一報を確保しようと1階の遊戯室で待機する事態になる。
 南雲亮介氏の仕事部屋は2階にあり、そこはピアノ室と同じ仕様の防音室で、ドアには鍵穴がなく、内側から施錠すると外からは開けられない。ドアの上には換気用の小さな孔が横一列にならんでいるだけ。南雲の仕事場でボヤが発生した。記者たちは、ドアのわきの壁面を一部壊して、ドアを開き、総動員で消火を行う騒ぎになった。
 南雲亮介氏は一酸化炭素中毒で死亡。五通目の遺書は焼かれてしまった。仕事場の机の上には、日本近代文学館から借りた資料は焼失せずに残っていた。仕事場のパソコンのHDDのデータは隅々まで無関係のデータでストレージが上書きされて、データは何も残っていない状態の復旧不可にされていた。密室での不審死事件が発生したのである。
 鑑定結果の報告書を仕上げ、脚光を浴びようとしていた南雲亮介が五通目の遺書を自ら焼き、自殺するとは考えられない。ならば、密室殺害事件なのか?

 少し以前に杉浦李奈のサイン会を扇田陽輔が訪れていた。彼は渋谷署の刑事で、この事件を担当した。李奈はKADOKAWAの担当編集者菊池に緊急だと急かされて、渋谷区松濤にある南雲邸に連れて行かれる。扇田刑事の要請でもあった。李奈はその事件の解明に捲き込まれて行く。扇田刑事に案内されて李奈は事件現場を観察する。当日南雲邸にいた南雲の妻の聡美、週刊誌の記者たちとも面談する。李奈は太宰治の遺書が絡んだ事件として、事件と太宰治にのめりこんでいくことに・・・・・。

 発見された五通目の遺書は焼失してしまった。太宰治作品の愛読家である李奈は、ここで改めて太宰治が愛人山崎豊栄と一緒に玉川上水で入水自殺するまでに至る一連の太宰治の過去の経緯を考え直し始める。五通目の遺書とみなされているものが焼失した以上、南雲亮介が本物だと口頭で告げていた記載内容は一切わからないのだから。

 この時点で、李奈はもう一つ気がかりなことを抱えていた。小説家柊日和麗(ヒイラギヒカリ)のことである。顔を出すと約束してくれていた李奈のサイン会に来てくれなかったし、何度かラインのメッセージを送っているのに既読がつかず、連絡がとれないのだった。彼は李奈と同時に本屋大賞にノミネートされた作家で共に大賞からは外れた。柊日和麗は、太宰とはまるで異なるが、繊細な純文学系の私小説を書く作家なのだ。
 
 「太宰はなくなるまでに、何度となく自殺未遂を繰り返している。心中相手のみ死亡という事態もあった。それらの苦い経験にも触れた『人間失格』は、捨て鉢な告白文学という印象に満ち、まさに遺書代わりとみなせるほどだった。
 ところがそのあとに連載した『グッド・バイ』は、いきなり軽快で笑える感じの落語調に転じている。いったいどういう心境の変化なのだろう」(p66)
 
 『グッド・バイ』は太宰治の遺作であり、連載の13回分を書いたところで絶筆となった。尻切れトンボで、突然ぶつっと切れている。短編程度の約30ページに留まる未完作品となった。
 本書の実質的なタイトル「太宰治にグッド・バイ」は、一つはこの『グッド・バイ』に由来するのだろう。もう一つは、この事件の解明に関わって行く李奈が、そのプロセスで太宰治の死への動機について考え抜いた結果として、太宰治論に区切りをつけるという意味でのグッド・バイでもあるのだと思う。
 
 扇田刑事は、南雲亮介の一酸化炭素中毒死と五通目の遺書の焼失について、物的遺品・証拠の分析を基礎にして、捜査を推進する。一方、この事件の相談に乗ることになった李奈は、五通目の遺書の内容を推論するために、太宰治の死への経緯について、彼の生み出した作品を改めて論理的に読み進めて、太宰の死に迫ろうとする。李奈は太宰治についての疑問に関して、縁を頼って識者に会い、己の考えをぶつけていくアプローチを取り始める。
 李奈が手始めに推論材料にするのが『グッド・バイ』という太宰の遺作なのだ。インターネット情報で確認してみると、「行動」と「コールド・ウォー」との間に入る「怪力(一)~(四)」が省略されているが、それを除き、全文が本書に引用されていて、李奈の思考材料となっている。
 ここから、李奈の太宰治論がストーリーの重要な一つの流れとして動き出す。太宰治の作品と太宰の自殺の経緯については、一つの仮説として、太宰ファンには興味深いことと思う。一方、私のように、太宰治の作品にそれほど親しんできていない者には、作家太宰治を知る参考になるところが多い。それが本書を読んだ副産物となった。
 太宰治その人とその作品を論じる上で、作家論とテキスト論という2つのアプローチがあることを知った。本書では太宰治の精神病理学的分析論にまで触れていく。興味深い。

 もちろん、李奈は扇田刑事から捜査の進展結果をその都度入手し、一方、再度、南雲聡美への事情聴取に立ち会い、週刊誌記者たちに再度面談することを断続的に重ねていく。おもしろい点は、殺害事件の捜査という本筋が、副次的な流れの印象になっていることである。いわば、事件解明への伏線を敷く形として、脇役的にストーリーに織り込まれていく印象が強いと私は感じた。

 もう一つのストーリーの流れは、李奈が自宅のマンションに戻って来たとき、エントランス前で、李奈の兄・航輝と30代半ばぐらいの女性が押し問答をしているのを目にするところから始まる。その女性は、鷹揚社の社員で柊日和麗の担当編集をしている小松由起だった。由紀は柊日和麗が失踪したと李奈に告げた。李奈は柊の行方を探すために由紀に協力する。一旦、マンションの李奈の部屋で、由紀から状況を聞く。その後、李奈は鷹揚社内の由紀の席まで行き、話し合いを重ねる。李奈は、鷹揚社の編集部の雰囲気を感じとるとともに、文芸編集長田野瀬抄造のスタンスを具体的に知り感じ取るようになる。田野瀬は、プロモーションではなくて、パブリシティの機会を最大限利用して書籍販売に役立てるという方針を徹底する人物だった。パワハラ、セクハラを意に介しないふるまいをする編集長である。
 由紀の連絡を受けて、李奈は開示された柊日和麗のスマホに記録されたロケーション履歴を知る。その履歴は李奈を三浦半島、城ヶ島へと赴かせることに。その後、三崎港交番から連絡を受け、李奈は柊日和麗が海中に漂う形で発見され死んでいたことを知る。もちろん、李奈と由紀は現地に行き、柊の死を確認する。さらに、ショックで入院した由紀を見舞いに行った李奈は、柊の部屋の本棚の裏に隠してあったという原稿を渡された。一枚目に『珊瑚樹』柊日和麗と記されていた。長編の分量の原稿。原稿を読んだ李奈はあることに気づく・・・・・。

 このストーリー、殆ど関連性が深まらずに進行するストーリーの流れが一つに合流していく。
 「まさかと思うが、関係者が一堂に会して、いまからポアロの謎解きか?」
 「あいにくポアロは来ません。わたしです」「いまから真相をお伝えします」
と、醒めた心の李奈が南雲邸の遊戯室で謎解きを始める。それが最後の大団円となる。

 なかなかおもしろい構想と展開による李奈の推論である。
 いささか、太宰治論の色彩が濃厚。だが、そこがおもしろいところといえる。
 このシリーズ、私にとっては、副産物のゲットが楽しい。

 ご一読ありがとうございます。
 

補遺
太宰治   :ウィキペディア
太宰治  近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
あの人の人生を知ろう~太宰治編  :「ジャンキーパラダイス」
太宰治について :「五所川原市」
太宰治 作家別作品リスト:Mo.35  :「青空文庫」
   人間失格   
   グッド・バイ 
   「グッド・バイ」作者の言葉 
   HUMAN LOST 
   苦悩の年鑑 
        
   道化の華  
   虚構の春  
   狂言の神  
   東京八景  
   姥捨    
   女神    
   親友交歓  
   薄明    
   家庭の幸福 
        
   春の盗賊  
   美男子と煙草 
   十二月八日 
   斜陽    
不良少年とキリスト  坂口安吾  :「青空文庫」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



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