Ryojinブログ

剣道のこと、オオカミ復活運動のこと、そして紀州犬のことやいつも行き来している大好きな京都のネタなども綴っていきます。

いじめ、体罰、虐待、暴力を考える。

2019-03-06 09:57:31 | 随想・・・。

  昨今こんな言葉ばかりが目に付くようになりました。

更にセクハラから始まった色んなハラスメントのまるで嵐ですなぁ・・。

嫌な世の中になったもんですね、僕としては・・・。

  体罰容認者ではありませんし、もちろん虐待などあってはならないことです。

僕は体罰という言葉の響きにもいつも何処か違和感があるのですがね。

  もちろん体罰と暴力は違うと思いますが、悪意ある体罰はこれはもうれっきとした暴力な訳で、それが体罰を与える側の権力や立場を利用したものなら更に嫌らしい悪だと思いますね。

  例えば命ぜられた長時間の正座やランニングなど、よくあるスポーツの世界のしごきみたいなものや、はたまた連帯責任などと言って個人の行いで皆で罰を受けるなどという軍隊でもあるまいしそういう馬鹿げたこと、この未だにびこるこのカビのようなものが現に存在する訳で、何度も云いますがとにかくその背景には常に権力や強い立場と云うものがあって、それがそこから発せられるものである・・この事がとても嫌なことなのですよね、僕的には・・・。

  僕も20年近く剣道の指導に携わり様々な場面に遭遇しましたが、一瞬の感情で思わず手が出て、頭を張ったり(もちろんごく軽くですよ・・)また励ましや勇気付けの為に背中や尻を叩いたりしたことは枚挙に暇ありませんがね、そんなことも含め全部が「体罰」と一緒くたにされるというのは相当疑問がありますね。

  セクハラなどというのも同様で、賢い大人の女性(子供ならその父兄も含め)ならそんなこと見極めることなど簡単にできますよ、きっと・・。

稚拙でヒステリックな大人は別としてですね(最近多いような気がしますけど・・・)

要するに体罰や体罰のようなものも含め、それがすべて悪であるという考えには納得がいかないのですよね、僕には・・。

  そう、手を出した者の心の持ちよう一つで「善の体罰(罰という言い方も変なのですが・・)」も悪い体罰(いわゆる暴力ですよ・・)もあると思うんですよね。

その辺の見極めであったり状況判断の仕方が大切な訳で、無知で未熟な大人のしでかしたことをいちいちヒステリックに騒ぎ立てそれをすべてに当てはめると云う、今の世の中の風潮にはほとほと辟易しちゃうのですよね。

  「虐待」・・前にも書きましたが血のつながりがあろうと無かろうと世の中には親子でない親子というものは必ず存在します。

これってどこかで実感として強く感じます。

やっぱりまわりが助けてやらないとねぇこれ・・単純にそう思いますね。

「いじめ」のことだって同じですよ。

  以前他所の父兄ですが、とにかく自分の子供が試合に負けたりするたびに殴ったり正座させたり運動場を走らせたりしている男がいましてね、バカだなぁと思いつつもいつも見て見ぬ振りしてたのですが、ある日僕はついにそれを見かねてブチ切れてしまいまして、そいつの頭を張り飛ばしてやった事ありましたよ。

同じような事二回ありました、手を出したのはその時だけですけどね。

  幸いそいつも素直に反省してくれて良かったのですが、ちょっとでも反抗的な態度であれば大ケンカになっったやも知れません。

差し出がましいことと見て見ぬ振り決め込むのも状況によってはあるでしょうが、他人が強行にでもしてやらなければならない場合もことの他多いのですよね、ただその判断の苦渋はあると思いますが、そんな時物事冷静に考えるのですか?

その場の感情で判断してやらなければならない事だってあるんですよ、きっと。

  先日の心愛ちゃんの事件、あまりに可哀想で見てられなかったですよ。

児相も気の毒だけど、例え組織の問題であったとしても、そこには一個人がその勇気を振り絞ってでも後先考えずに戦わなければなければならない場面ってあると思うのですがね。

そのことつくづく思いましたね。

  まぁ何を言いたいかって、そんなところなのですよ、要は・・・。

結局は何に於いても、どんな場面に於いても、それは「人」によるんだと云うこと・・・そんな処かなぁ・・・。

 

コメント
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