僕は現在、かねてから夢見ていた京都と尾鷲を行き来するという生活にも慣れてきて、僕一人だと年間三分の一位は京都で暮らしています。もう少し多いかも知れません。
息子や娘が京都に住んでいると云うのも理由のひとつですが、別段彼らに会うためだけに京都に行くと云うことはありません。
例えば一週間滞在していてもほとんど顔を合わさなかったなどというのはざらにありますしね。
ただ家内もワンコ達も一緒に行くときはそうではありません、ほとんど毎日のように息子達一家が押し寄せて来ますから・・それに娘も加わり、まぁ一家団らんですね。
今はそういう生活リズムにすっかり嵌まっています。
もっとも、京都はとても近くなったせいもありますが、その距離や時間にあまり負担も感じないのですよね。
で、表題の事、地元のこの尾鷲では毎日の生活の中で否応なく買い物や散歩、たまに街に外食に出たりと云うことで、若い頃から良く見知った人やそう特別に声を掛け合う仲でもないけども何となく知ってる人、学校の先生、それに先輩や後輩、同級生等々若い頃と云うより子供の頃からの知り合いが多くいる訳ですね。
最近こういう人達と顔を合わせて、相手には失礼かもですが、うんざりしてしまう事があるのですよ。
要するに随分と年老いてしまった感のする人とか多いのですよ。
もちろん中にはいつまでも変わらぬ容姿を維持してる人もいるにはいますがね、少ない・・・。
その人が以前はどういう人だったのかとか知っているばかりにですね、歳とかわかるじゃないですか、でその時、自分のことは横に置いといて「ふぇー!」とか「えーっ!」とかになるときがあるのですよね。
いくら何でもあんた、じっ様が過ぎてるやろとか、ちょっとばぁ様過ぎちゃうか?とかですね、そういう人と出会うと「わぁー(>_<)」となり、その瞬間にやっぱ地元なんやなぁ、それ故に過去からの経緯とか知ってるもんなぁ・・。それも仕方ないわなぁ・・とまぁなるわけです。
あくまでも自分のことは置いといてですよ。(自分は若々しい方だと自負してますがね・・)
知ってるが故にそんな思いに駆られ、更にはあの人もこの人もいずれ消えていく・・そんな焦燥感にも駆られるんですよね。
それが「地元の憂鬱」となってる訳です。
京都には本格的に住まいし出してからもう十数年行き来していますが、もちろんその間、家の近所のおばさんやおじさん、若い夫婦や学生等々、それはそれで当然ながら存在し時間も経ているのですが、ただその人達との接触時間が少ないことやその人の過去の事はその十数年以降しか知らないので、時間が極端に遅く感じるのです。
そこでは僕は初めて住み着いた頃とほとんど変わり無いのですよね。
実際に経った年月とは別にです。
だから最近こんな事思うのでしょうね。
よくある定年後の田舎暮らし、それも見知らぬ土地での第二の人生的な生活ですね、それってこういう意味からも案外良いかもですよ。
自分が関わってきたその土地や共同体と同時に過ぎていくまわりの景色にいちいち惑わされずに済みますからね。まぁ、人生リセットみたいな感じですかね。
新たな刺激を受けながら、その土地では自分で年齢を決めて、そこから再スタートするみたいな・・それって案外素敵なことかもなどと思うのです。
自分が地元を離れ京都で過ごしているとふとそんなこと思うのですよね。
よその土地では僕は何者かも知られませんし、親しくなっても相手は僕が何者かの実感が少ない・・そんな気がするのです。
ですから、見知らぬ土地でのそれは都会でも田舎でも、そこそこの中間的な都市でも意外と面白いものなのかも知れませんね。
インフラが良くなって日本中以外と時間的には近くなりましたもの、そういう生活のスタイルも増えてきてもおかしくないですよね。
地元の憂鬱・・そんな事なんです。
ついでに、服装・・ファッションこれに疎くなるとダメですね、ふけこんでしまいますよ。
服装大事ですね、中にはおっさんでもおばはんでも一体何処でこんな服買ってるんだろうと思わせるような、多分大阪の新世界界隈に行かなければ手に入らないであろうようなとんでも服装の人いますからね。
綺麗にセンスアップしている人は、やはり何処か明るいし自信満々で若々しいですね、要するに自分に気を遣っているのでしょうね。
最後に話は少しそれましたが悪しからず。
今日からまた静かな・・?二人とワンコ達との生活に戻ります。