城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

続古地図・絵図から見る山々 21.3.23

2021-03-23 19:03:30 | 山登り
 前回のブログー古地図・絵図から見る山々ーについて、山とものEさんすなわち奥揖斐山荘のオーナーから下記のコメントをいただいた。

「雷冥岳→雷倉=本巣市観光協会発行の本巣の山に「倉・冥・嵒は崖や露岩を表します。(雷倉の)中間部にある露岩帯のことでしょうか?」と書いてあります。また美濃国大絵図を虫眼鏡でみると西杉原と杉原の間にカタカナで「ツリハシ」とあります(藤橋には記入ナシ)地図を見るのは飽きないですね」

 コメント有り難うございました。そこでEさんが虫眼鏡で発見した」「ツリハシ」を「美濃国大絵図」で確かめた。

 確かに杉原と西杉原の間に「ツリハシ」とあるのを確認した

 問題は、このツリハシが、下記の「濃州横山川藤橋図」と同じものであるかどうかである。この図の解説文では、「揖斐川の上流部、旧池田郡横山村(現揖斐川町藤橋)近傍の揖斐川を横山川と称していた。そこにかけられた釣橋の図である。江戸期の「新撰美濃志」の横山村の項に、「・・・藤橋は村の東、杭瀬川の上流にかけ渡せり。〔中略)藤かずらにて両岸にかけ釣りたれば駿河の富士川の藤橋のごとく危ふき事限りなし。東横山村の方へ往来する人常にわたりて牛馬はわたりがたし・・・」と書いてある。横山と杉原は同じかつて藤橋村だったが、かなり距離的に離れている。だから、杉原の「ツリハシ」とこの「藤橋図」は違うものだと考えることができる。

 〔再掲)
 現況を見ると、横山村付近は両岸がせまっており、横山ダムが設置されているように断崖絶壁である。したがって、東横山と西横山(かつて役場があった)との間に釣橋があったとしても不思議ではない。先ほどの「美濃国大絵図」で目を凝らして見ると横山村付近は橋ともとれる様な梯子のような図が書かれている。これを釣橋だと考えるのは少し無理がある。従って、この疑問は今のところ解決できないと思う。


 加えて、合併前の村名はなぜ「藤橋村」だったのであろうか(冠峠に立つと「徳山村」→「藤橋村」→「揖斐川町」と表示があるのに気がつくだろう)。グーグルで「藤橋」と検索すると揖斐川町の藤橋以外では名前の「藤橋」の全国分布が出てくる。岐阜県には藤橋姓が約300人、そのうち200人が瑞穂市とあった。かつて福島県と宮城県の県境付近に「藤橋村」というのがあったようだ。昔から使われた「横山村」を棄てて(地域の地名は相変わらず「横山」である)、昔あった釣橋にかけて「藤橋」と名付けたのか。様々な疑問が湧いてくる。そしてこの横山にはソ連抑留問題、現地でなくなった旧日本兵慰霊等に永年取り組んできた横山周導さんがおられる。忘れてはいけない人である。


 ここからは昔の揖斐川に沿った交通事情についてである。今や揖斐川の市街を過ぎて、山に入るとトンネルの連続で昔の道路事情を知ることは難しい。市街から山に進むと、最初の関門が揖斐峡沿いの細い道、乙原を過ぎると崖沿いの狭い道と難所が延々と続いている。おじさんは大学生の時に横山ダムで2年間夏と春事務のバイトをしていた。市街の事務所からマイクロバスに乗り通ったのでよく覚えている(当時のアルバイトの日給は800円程度、やっと民宿に一泊できる金額だった)。皆さんは飛騨川バス転落事故を覚えているだろうか。昭和43年〔1968年)8月18日に起こり104名(うち9名の遺体が未回収)の犠牲者を出した。揖斐川でも久瀬村で転落事故が昭和52年に起こり、4名が亡くなった。少し残念に思っているのは、徳山村に一度しか行かなかったことである。この時は親父が運転する車で近所の人たちと一緒に本郷の旅館兼食堂で食事をし、冠峠まで登ったと思う。この点、Eさんはこの徳山村に仕事のため住んでいたこともあるくらいだから、とても詳しい(「奥揖斐山荘」で紹介されている)。

 昔のことは苦いことも含め懐かしいと思うようになったことは歳を十分重ねたということなのだろう。

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