イエス・キリストは使徒たちに「邪悪で無精な奴隷」として裁かれる、奴隷とタラントの例えを教えられました。この「邪悪で無精な奴隷」はイエスの命じられた神の王国の良いたよりを証しのために宣明することを怠っていますので、現在十分に見分けることができます(マタイ25:24~30)。イエスのこのタラントと奴隷の例えは、1世紀の使徒たちの時代から実に、20世紀の1914年以降の終わりの日に成就した内容です。イエスに祝福された「善良で忠実な奴隷」のもとに集う人たちは幸いです(マタイ25:21,23)。
イエスはまだ使徒たちと共にオリーブ山上におられます。ご自分の臨在と事物の体制の終結のしるしに関する使徒たちの質問に答えて(マタイ24:3)、今イエスは一連の三つの例えのうち最後の例えで、弟子たちに教えられます。この例えの中で羊はご自分の右に選ばれ、やぎは左に置かれ、羊の義なる者は永遠の命に入り、やぎは永遠の命の切断に入ることを説明されました。羊の義なる者はどのように、小さな者・油注がれた兄弟たちに仕えるのか、左におかれるやぎはどのようにその小さな者・油注がれた兄弟に仕えたのか、イエスはこれから生じる重要な真理を語られた内容が次の通りマタイの福音書に記されています。
「「人の子(イエス)がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼(イエス)は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に、やぎは自分の左に置くでしょう。
それから王(イエス)は自分の右にいる者たちにこう言います。「さあ、わたしの父(エホバ)に祝福された者たちよ、世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたし(イエス)が飢えると、あなた方は食べ物を与え、わたしが渇くと、飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると、あなた方は温かく迎え、裸でいると、衣を与えてくれました。わたしが病気になると、世話をし、獄にいると、わたしのところに来てくれました」。そのとき義なる者たち(羊)はこう答えるでしょう。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておらえるのを見て食べ物を差し上げたり、渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたがよそからの人であるのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」。すると王(イエス)は答えて言うでしょう。「あなた方に真実に言いますが、これらわたしのうち最も小さな者の一人にしたのは、それだけわたしに対してしたのです」。
ついで彼(イエス)は自分の左にいる者たち(やぎ)にこう言います。「のろわれた者たちよ、わたしから離れ、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火(滅び)に入りなさい。わたしが飢えても、あなた方は食べる物を与えず、渇いても、飲む物を与えてくれなかったからです。わたしがよそからの者として来ても、あなた方は温かく迎えず、裸でいても、衣を与えてくれませんでした。病気であったり獄にいたりしても、世話をしてくれませんでした」。その時、彼らもこう答えるでしょう。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢え、渇き、よそからの人であり、裸であり、病気であり、あるいは獄におられるのを見て、あなたに仕えませんでしたか」。その時、彼(イエス)はこう答えるでしょう。「あなた方に真実に言いますが、これら最も小さな者の一人にしなかったのは、それだけわたし(イエス)に対してしなかったのです」。そして、これらの者(やぎ)は去って永遠の切断に入り、義なる者たちは永遠の命に入りなさい」」(マタイ25:31~46)。
人間は、天の栄光のうちにあるみ使いたちを見ることができません。それでみ使いたちを伴った、人の子イエスキリストの到来も、人間の目に見えないに違いありません。イエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は、1914年に起きましたが、その目的は何でしょうか。イエスの重要な真理の預言は、世界中の人々がイエスの前に集められ、羊をご自分の右に、やぎを自分の左に置くのです。イエスは恵みを受けるご自分の右に選ばれた者・羊たちがどうなるかの根拠を説明し、「王国を受け継ぎなさい」と言われています。この例えの羊はイエス・キリストと共に天で支配をするのではなく、神の王国の地上の臣民になると言う意味で、神の王国を受け継ぎます。「世の基が置かれること」は、アダムとエバが、人類を受け戻す神エホバの備えから益を受けられる最初の子供たちを産んだときに生じました。
羊が王イエスの恵みを受ける理由は、上の聖句に示されている通り、「最も小さな者の一人」とは、イエス・キリストと共に天の神の王国政府を構成する油注がれた兄弟・14万4千人の兄弟の地上に残っている兄弟たちです。イエスによれば、彼らに善を行う羊の義なる者は、イエスに善をおこなうことと同じなのです。それで羊の義なる者たちは永遠の命に入ります。一方やぎとして左に選ばれる人たちは、「永遠の火」、つまり永遠の命の切断に入るのです。それは最も小さな者の一人、つまり油注がれた地上に残っている兄弟に仕えず、不満・不服を述べているからです。それはイエス・キリストに善を行なわなかったことを意味しているのです。
それで、この邪悪な事物の体制が大患難で終りを迎える直前に、羊の義なる者たちは永遠の命へ、やぎの不義なる者たちは、永遠の命の切断に入るのです。あなたは羊としてイエスの右に選ばれる人であれば幸いです。この選びはこれから生じるのです。
孫到着の 終着駅は 春の宵 今日の一句
王国会館の「生け花」
ありがとうございます!
キリストが裁きのために来臨される時についてはJWみやさんが以下のように書いておられましたが、この点で質問があります。
>このイエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は、1914年に起きますが、
わたしはマタイ25:31に書かれてある「人の子の到来」を1914年ではなく将来に起きる出来事としてとらえているのですが、これは間違いでしょうか?
将来と考える理由は二つです。
一つはその到来が「栄光のうちに」生じるもので、また「すべてのみ使いが彼と共に到来する」とマタイ25:31に書かれてあるからです。
キリストはまだこのような仕方で到来しておられないためこの到来は将来に起こることと考えました。
もう一つの理由はマタイ25:46「そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」と書いてあることです。
キリストの到来後時を移さず永遠の命または永遠の切断が始まるような書き方がされていますが、1914年後まだこの裁きは生じていません。
したがってここで言われている人の子の到来は将来のことだと考えました。
以上、人の子の到来を将来に起きる出来事とわたしが考えた理由を聖書から申し上げましたが、JWみやさんはどのようにお考えでしょうか?
お教えいただけましたら幸いです。
こんばんは♪
娘と孫が来ており、就寝しましたので、やっと今から
聖書の紹介時に取りかかります♪
詳しく書きたいのですが、時間が限られており手短に回答させて頂きます♪
ご承知の通り、イエスが神の王国政府の王として任命されたのは1914年です。
しかし、マタイ25:31~46までで紹介しました、
世界中の人々を神の王国の王のイエス・キリストが、羊とやぎに分ける業は、紹介記事に書きましたように、
これから生じます♪
まだ分ける業は行われていなく、紹介しましたように、
この邪悪な事物の体制が大患難で終りを迎える直前に羊とやぎに分けられると私たちは理解しています。
ですから、もう少しの将来に生じます♪
この終わりの日に生活する私たちにとって、
小さな群れの油注がれた地上に残っているクリスチャンと共に奉仕し、
神エホバのご意志を守り行いたいものです♪
感謝とクリスチャン愛を添えて♪
娘さんとお孫さんが来ていらっしゃるのですね!
とても楽しい一時をお過ごしかと思います。
ご家族を大切になさるJWみやさんのお人柄を垣間見ることができます。
記事とご回答いただいた内容をまとめると以下2点のようになるかと思いますが、間違っておりませんでしょうか。
【1】マタイ25:31の出来事が生じる時期 → 「1914年」
(マタイ25:31の出来事とは以下のとおりです)
人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に[到来する]と,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。
【2】マタイ25:32,33の出来事が生じる時期 → 「将来」
(マタイ25:32,33の出来事とは以下のとおりです)
「そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。」
度々確認させていただき申し訳ございません。
お忙しいかと思いましたので、手短にお教えいただけるような形で質問させていただきました。
お時間のある時で差し支えございませんので、お教えいただけませんでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
こんばんは♪
やっと、今日も聖書の紹介記事を書く時間になりました♪
ご質問の件は、昨日回答させて頂きましたが、
マタイ25:31は、1914年に天で生じました。
マタイ25:32,33は、これから先の「将来」に生じます。
その「将来」は、イエス預言の、この事物の体制の終わりの複合的なしるしが、その通りに生じていますので、近い将来と考えらます(マタイ24:3~14)。
ですから、緊急感を抱き、イエスの命じ、模範を示された
神の王国の良いたよりを宣明する必要があります(マタイ24:14.ルカ4:43)。
イエスの教え、神エホバのご意志を守り行う方々は幸いです♪
感謝とクリスチャン愛を添えて♪
マタイ25:31は1914年に天で生じたとのことですね。
やはりマタイ25:31は1914年ではなく将来に起きる出来事と私には思えます。
先日はその理由を「聖書」からお伝えしましたが今回は別の理由を「ものみの塔」からお伝えさせていただきます。
ものみの塔2013年7月15日号3ページから始まる記事の15節には次のようにあります。
―――マタイ 24章29節から25章46節に記された預言において,イエスは今の終わりの日と,来たるべき大患難の際に生じる事柄をおもに取り上げました。イエスはその預言の中で,エルコマイというギリシャ語動詞の変化形を用いて,ご自分が「来る」こと,すなわちご自分の到来つまり到着に8回言及しておられます。例えば大患難については,「彼らは,人の子が……天の雲に乗って来るのを見る」,「あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らない」,「あなた方の思わぬ時刻に人の子は来る」と述べています。さらに,羊とやぎのたとえ話の中では,『人の子がその栄光のうちに到来する』と述べました。(マタ 24:30,42,44; 25:31)これら四つの箇所はいずれも,将来にキリストが裁き主として来る時に適用されます。
また同じ記事の18節には次のように書かれてあります。
―――マタイ 24章46節の前の幾つかの節で,「来る」という語は一貫して,イエスが裁きを宣告し執行するため大患難の時に来ることを指しています。(マタ 24:30,42,44)また,この記事の12節で考慮したように,マタイ 25章31節にある「到来」も,その同じ裁きの時に生じます。
これらのものみの塔の説明からマタイ25:31の到来は1914年ではなく将来に起きる出来事と考えられると思うのですが、いかがでしょうか。
おそくにこんばんは♪
本日の聖書の個人研究を兼ねた聖書の紹介記事を、いましがた書き終えました♪
マタイ25:1に関し、私の言葉不足で申し訳ございません。
イエスの神の王国の王としての臨在は1914年に始まりました。
エホバのご意志通り、イエスがこの事物の体制の裁きに到来するのは、
啓示19:11~21の通りに、これから先、つまり近い将来のことになります。
ですから、羊とやぎに分ける業は、
この邪悪な事物の体制の裁き・終結の大患難の直前、近い将来に成就します♪
「ものみの塔」誌の紹介の通りです。
ですから、神の王国の良いたよりを緊急感を抱き、
イエスのご指示通りに宣明する必要があります♪
感謝とクリスチャン愛を添えて♪
ありがとうございます!
結局最初の質問に戻ってしまうのですが、それではJWみやさんが記事に書いていらっしゃった
「このイエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は、1914年に起きますが」
というご説明は、正確には
「このイエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は、将来に起きますが」
という意味と理解して大丈夫でしょうか。
こんばんは♪
とても暖かな天候に恵まれました♪
春休みで帰っていた娘と孫は夕刻に東京に帰って行きました・・・
元の生活に戻りますが、静かになりました・・・
「この・・・」の言葉は、記事を紹介する時に、
目に見えない様で、1914年にイエスが神の王国(天の神の王国政府」の
王に就かれた重要なイエスの預言の成就を説明し、
それ以降のこれから先、
その王イエスが近い将来に行われる羊とやぎに分ける業の根拠と、その結末を紹介致しました。
記事の紹介で紹介のマタイ25:31~46はこれから先、
つまり将来に生じることを説明しました。
少し、誤解を与えたのであればお詫びを申し上げます。
感謝とクリスチャン愛を添えて♪
娘さんとお孫さんはお帰りになったんですね!
ご説明くださりありがとうございます。
つまり「このイエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は1914年に起きましたが」という文章は1914年のキリストの『臨在』について説明したものであってそもそもマタイ25:31に書かれているキリストの『到来』の説明ではなかったということですね。
とはいえ「人の子がその栄光のうちに到来し」というマタイ25:31の言葉から始まる一連の聖句の直後に「このイエスの神の王国政府の王の権能をおびて到来する時は、1914年に起きましたが」という説明があると、だれもがこの説明はマタイ25:31のキリストの到来について説明したものだと判断します。
それでそういう誤解を与えないためにこの説明文から「この」という語を削除して記事を修正してくださったということですね。
理解不足で大変申し訳ございませんでした。
またご配慮いただき誠にありがとうございます。