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上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる③

2022-12-26 22:10:35 | 日記

上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる③

 この髪塚からあまり遠くないところに美術館や博物館が立ち並んでいる一帯があって上野文化村と称するらしい。美術館や博物館は一国の国力のバロメーターであるからこれが充実しているかどうかは、昔なら鉄鋼の生産高今なら車の生産高などと並ぶ大事なポイントで等閑にしてはいけない。

 この文化村の一つ国立東京博物館の奥に、「法隆寺館」という名前であったかどうかの記憶が定かではないが法隆寺の文物だけを集めた広壮な建物があるのには驚いた。わたくしには法隆寺はなじみの寺で小中高3度遠足で行かされた。小は記憶にないが、中高は百済観音を拝観したのでよく覚えている。わたくしは東大寺を知っているので、法隆寺は地味で目玉商品のないお寺であるなと甚だ失敬な感想を持っていた。その法隆寺にここで出会うとは驚きであった。ただ法隆寺館の中は、建物は大きいのに多くの陳列があるわけではなくちょっと寂しい。法隆寺の文献が多く収蔵されているようで内外の日本の古代史を研究する人に資料を提供する目的の館かもしれない。

 これが東京の国立博物館の敷地内にあるとは多分日本の始まりは法隆寺にありと認めたということだろうと考えてみた。ただいろいろ反論やらがありそうなのであまり宣伝しないで静かに資料だけを集めてあるのではないか。聖徳太子はいなかったという説まであって面倒だから静かに建物だけ建てておくという感じである。

 素人にはこの法隆寺の財政基盤がなかなかわかりづらい。古代このあたりの特産は材木であったと考えられる。ヤマトとは山の戸という意味で山の入り口を意味すると考えられる。これに大和と書くのは、多分枕詞がその地を表す習慣に基づいているんじゃないのか。大いに和やかなる山の戸・・・・という風に山の戸という地名を言うときは必ずこの枕詞を付けていたんじゃないのか。そのうちに枕詞が地名そのものになってしまった。もっともこの地が大いに和やかであったかどうかは、はなはなだ疑わしい。なにしろ権力の集中するところだから闘争も派手であったと考えられる。法隆寺はその材木を大和川にいかだに流して売りに出していたのか。または船に加工して売っていたのか。船に加工すれば軍事にも交易にも使えるからかなり高値で売れたであろう。しかし売るのはいいけど、貨幣経済になっていないときに決済はどうしたのか。いろいろ疑問は湧いてくる。

 聖徳太子が7人の訴えを同時に聞いたという逸話があります。なんぼなんでも7人が一斉にわーわー言ってきたらそれを聞き分けるのは無理だろう。これは、太子は7か国語を自在に操って取引をしたと解釈するのがいいのではないか。それに太子が当時の大和川の河口であったと考えられる場所に四天王寺を建てたのもよくわかる。瀬戸内海を渡ってきた買い付け商人に入り口を示すためまたはちょっと上陸してもらって休んでいただくために赤く塗られた鳥居と接待する建物があると便利であろう。

 してみると、法隆寺も四天王寺もその始まりは宗教施設ではないような気がする。人々が足摺してほしがるものを製造販売することが儲けるコツであろう。わたしは、中国の古代国家では多分塩であったと思う。日本はよほどの内陸でなければ塩は簡単に流通するので、何だろうと常々思っていた。もしわたしの推理が正しければ船と言うことになる。そしてその製造流通を抑えたものが王者になる。

 現代ではそれが何であるのか。

 

 



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