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 上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる②

2022-12-25 12:01:32 | 日記

上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる②

 西郷さんの銅像から少し行くと天海上人の髪塚というのがある。さすが徳川三代にわたる政治顧問として名をあげた人だけあって髪の毛だけでもこうやって立派な塚を作ってもらえる。もっともこの人上野寛永寺の創設者でもあるから、よくある会社や大学に創設者の銅像が飾ってあるのと同じことかもしれない。

 天海上人は百何歳まで生きた幕府政治の助言者であり、この人の構想で幕政の骨格ができたとされている。さらには、明智光秀が生きながらえてこの人になったという歴史ロマン話まである。この話はにわかには信じがたいが、徳川氏は春日局に見られるように明智の血筋を大事にしているからあるいは光秀その人ではなくともその血筋の人かもしれない。なにしろ何の前触れもなく急に出現した人である。しかも百何歳というのはなんぼなんでも長すぎだろう。親子二代にわたっているのではないかと思う。

 この髪塚には、天海上人が奈良の興福寺で修業したと(ほかの寺でも修行したともあるけど)彫りこんである。ここにことさらに興福寺を書いてあるのはなにか特別の意味があるのかもしれない。

 興福寺は他の奈良の古くからある寺院とは一線を画していて、藤原氏の氏寺であったから寺というよりは私的な役所というべきであろう。今なら大きな国の大使館みたいに治外法権のある場所であったに違いない。財政の基盤がどうなっていたかはわからないが、日本中に情報網をもっている組織ではなかったか。(現にここの多門院日記は中世史の研究には欠かせないものらしい。また興福寺のすぐそばから伊賀や甲賀に向かう街道が出ている。)この情報網をどう使うかが戦国までの権力闘争を勝ち抜く決め手であったかもしれない。

 ここで上人が勉強したのは、仏教経典ではないはずである。国家統治に関する知識や知恵であると考えられる。勉強したことを実地に応用出来て天海上人はなかなかの幸せ者であったかもしれない。

 信長さんが伊賀攻めをし、家康さんが伊賀の衆を助っ人にして三河へ帰還してのちその功を「半蔵門」の名前にして残したことからも、どうも伊賀またはこの周辺はこのころの日本史に重大な意味がありそうである。だれか調べて歴史小説にしてくれないかな。

 今の興福寺は、巨大な美術館みたいになってるけど廃仏毀釈の前は奈良公園全部が興福寺の僧侶の役宅であったという。大勢がよってたかって各地からあつまる情報を蓄積すれば、大きな力になるだろう。むかし、興福寺のそばを歩いたときその北側に奈良町奉行所があってそれが興福寺より低い場所にあり面積も小さいことに驚いたことがある。また、興福寺の南側すぐに芥川龍之介の短編で有名な猿沢池があって、そのほとりに古くからある色町があることにも驚いた。お寺のここまで近くに色町があっては、修行に差しさわりがあるはずだと思った。しかし、ここに勤める人は修行ではなく情報を集めて整理する仕事であれば、気詰まりなことも多々あるであろうから色町があっても不思議ではない。