神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

旗掛石

2011-04-15 23:06:00 | 磐座
旗掛石(はたかけいし)。
場所:静岡県焼津市石脇下705(「(石脇)浅間神社」の住所)。東益津小学校の北東、約400m。石脇公民館の北側にある。駐車場なし。
石脇の「浅間神社」の鳥居脇に、注連縄が張られた巨岩が2つ並んでいる。これが「旗掛石」(または「鞍掛石」)で、徳川家康公がこの石に旗を立てかけ(鞍を置き)、傍らの松の木に馬を繋いだという。その名から、機織りの上達を祈願する信仰も生まれたという(近くの「勢岩寺」には機織地蔵が祀られている。)。また、そもそも「石脇」という地名も、この岩に因むという。
石脇「浅間神社」の社伝によれば、天正年間(1573~1592年)、当地がまだ武田領であったころ、「旗掛石」の近くに居館を構えていた原川新三郎は家康公に忠節を尽くしたことから、家康公が原川家を訪れた。「旗掛石」の故事は、そのときのものである。原川新三郎は元々、遠州・原川村(現・掛川市)の出身で、当神社は延徳3年(1491年)に出身地の「浅間神社」から原川家の屋敷神として勧請されたものという。
江戸時代の絵図によれば、「旗掛石」はもっと高い岩として描かれている。現在はかなり地中に埋まってしまっているのかもしれない。当地は、高草山の登山口の1つであり(案内板がある。)、高草山を見上げる位置にあることから、古代からの磐座だったとされている。そして、諸資料でも言及されていないが、当「浅間神社」の社殿の背後にも大きな石が露出している。社殿の向きも南向きではなく、南西を向いているのは、この石を祀りたかったからではないだろうか。
それはともかく、神体山としての高草山に対する信仰、及び古代東海道の守り神としての聖地であったところに、「浅間神社」が勧請された、ということになるのだろう。


「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(浅間神社)


写真1:旗掛石


写真2:「(石脇)浅間神社」鳥居。祭神:木花咲耶姫命。


写真3:社殿の背後にも大きな石が露出している。
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志太郡衙跡

2011-04-12 23:10:12 | 史跡・文化財
志太郡衙跡(しだぐんがあと)。
場所:静岡県藤枝市南駿河台1-12(「志太郡衙資料館」の住所)。青島北中学校の北側にあり、JR東海道本線「藤枝」駅の北西、約1.6km。駐車場は、青島北中学校の東側にある「青島公民館」の駐車場を利用。資料館を含め、見学無料。
国道1号線(近世東海道)沿いの藤枝市郡(こおり)は、その地名から、江戸時代から古代の郡家(郡衙)所在地と推定されてきた。国道1号線「大手」交差点を中心に東西500m、南北400mの範囲で発掘調査が行われ、掘立柱建物跡のほか、貢進木簡や「益厨」の墨書土器が出土した(「郡遺跡」)。このため、この辺りが「益津郡家」所在地だったことが確認された。因みに、「大手」という地名は、今川氏により天文6年(1537年)に築かれた「田中城」(珍しい円形の縄張りを持つ。)の正面入口(大手)に当たることによる。ここに「田中城」が築かれたのも、古代以来の政治的中心があったからかもしれない。
一方、「志太郡家」跡とされる「御子ヶ谷遺跡」は、地形上の問題から全く存在が予想されておらず、昭和52年に行われた日本住宅公団(当時)の宅地造成工事で発見された。地形上の問題というのは、この場所が、北側を塩出谷川、南側を低湿地、東西を丘陵によって囲まれた地形で、郡家所在地としてはかなり狭い南北70m、東西80mの範囲となっていることである。この遺跡からは30棟の掘立柱建物跡のほか、木簡、「志太厨」・「大領」などと記された土器などが大量に出土したことから「志太郡家」と認められた。昭和55年10月には国指定史跡となり、平成2~4年にかけて郡家の諸施設の建物が復元された。なお、「青島公民館」周辺にあった「秋合遺跡」も郡家施設の一部であったらしく、地形的な制限から、施設が分散して建てられていたようだ。しかも、奈良・「正倉院」所蔵の駿河国正税帳には、郡家付属の正倉(税として徴収した稲殻を収納する倉)が24棟あると記されているが、その遺跡はまだ発見されていない。
それにしても、志太郡家(御子ヶ谷遺跡)と益津郡家(郡遺跡)は、瀬戸川を挟んで約3kmしか離れていない。この2つの郡家の郡司は、同じ一族か、かなり親しい関係にあったとみられている。


藤枝市のHPから(志太郡衙資料館)

文化遺産オンラインのHPから(志太郡衙跡)


写真1:「志太郡衙跡」(御子ヶ谷遺跡)。東側の丘から見下ろす。右手に見えるのが塩出谷川で、他の三方を丘で囲まれている。


写真2:建物の骨格を復元。


写真3:建物の柱の位置を示す。奥の丘が写真1の撮影場所。
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志太の浦

2011-04-08 23:06:42 | 史跡・文化財
志太の浦(しだのうら)。
古代東海道は、「初倉」駅から東に進み、牧之原台地を下りた後も、直線的に東進するルートが有力であるが、いったん南に進んで当時の大井川主流(現・栃山川)を渡ってから現・黒石川に沿って自然堤防上を東に進むルートという説もある。最新の「藤枝市史 通史編上」(平成22年3月)の付録(古代東海道と条里地割の推定図)は、「初倉」駅から東北東に進み、現・焼津市中新田付近で方向を東北に変えて「小川」駅に到るという推定をしている。
志太平野での古代東海道は、発掘調査の結果ではないものの、「小川」駅推定地から日本坂峠までのルートは殆ど異説は無いように思われる。これに比べて、「初倉」駅から「小川」駅までは、いくつかの推定ルートがある。これは、大井川の流路がどうなっていたか、という問題と、もう一つ、往古には志太平野に「志太の浦」という海又は湖の入江があったとされているからで、それをどのように避けていたかという問題があるからである。
従前「志太の浦」は、かつて大井川の河口は現在よりかなり西にあり、その河口から駿河湾の入江だろうと思われていた。一方、前出の「藤枝市史」では現・小柳津を中心とした、かなり広い範囲の潟湖を想定し、「小川」駅は、その「志太の浦」の南東端に位置するものとしている。ただし、「藤枝市史」自身が認めているように、現・小柳津辺りは「益頭郡」に属していたと思われるので、これを「志太の浦」というのはやや無理もあるような気もする。
さて、「志太の浦」を詠みこんだ万葉歌がある。作者は不詳だが、駿河国の歌とあるので、「志太の浦」は志太平野のどこかにはあったのだろう。その歌の歌碑が、藤枝市志太の瀬戸川河畔にある「金比羅山緑地」という小山の上にある(写真1)。原文は「斯太能宇良乎 阿佐許求布祢波 与志奈之尓 許求良米可母与 余志許佐流良米」だが、「斯太(志太)の浦を 朝漕ぐ舟は 由無しに 漕ぐらめかもよ 由こさるらめ」と読む。意味は、「朝早くから志太の浦を漕いでいく舟は、理由もなく漕いでいるのだろうか、いや理由はあるのだろう。」。恋人のところに泊まって舟で朝帰りしてきた男を眺めて歌ったものと思われている。当時は通い婚が普通なので、朝帰りは変ではないが、作者は何か不自然なものを感じたものか。あるいは単に、うらやましかっただけかもしれないが。
なお、万葉集では「志太の浦」の用例はこの歌のみだそうである。したがって、「志太の浦」の場所も何も、殆ど情報がないのだが、この歌からすれば、「朝漕ぐ」ことは不思議だが、舟を漕ぐこと自体は不思議ではなかったということが窺われる。当時から水上交通も普通に使われていたのだろう。

「志太の浦」万葉歌碑。
場所:静岡県藤枝市志太3-19-4(静岡県神社庁加盟の「天満宮」の住所。歌碑のある「金比羅神社」は、「天満宮」から山上に上っていったところにある。)。瀬戸川に架かる勝草橋の南端のところから、瀬戸川右岸の堤防上の狭い道路を西へ進む。山というよりは小さな丘の「金比羅山」の北麓に駐車場がある。なお、「金比羅山緑地公園」は桜の名所でもある。


写真1:「志太の浦」の万葉歌碑(金比羅神社境内)


写真2:「金比羅神社」。祭神:大物主神。

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熊野神社(静岡県焼津市東小川)

2011-04-05 23:14:34 | 神社
熊野神社(くまのじんじゃ)。祭神:熊野三社(伊邪那美命・速玉之男命・事解之男命)
場所:静岡県焼津市東小川5-9-3。小川中学校の北西、約500m。駐車場なし。
社伝によれば、大永6年(1526年)に小川城主長谷川元長が紀伊から熊野三社(本宮・新宮(速玉神社)・那智神社の総称)を勧請したという。しかし、「焼津市史 民俗編」(平成19年7月)によれば、長谷川氏以前に、時宗勢力の進出とともに勧請されていた可能性があるとされる。というのは、同じ東小川に時宗「寶城山 海蔵寺」があり、元は天台宗「寶城山 安養寺」といったが、嘉元3年(1305年)、時宗二祖真教上人が当地に来たとき、時の住僧観海が時宗に改宗したとされる。時宗の祖・一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」という名号札を配り、名号を唱えるだけで往生できると説いた。名号札を配ることを賦算というが、あるとき名号札の受取りを拒絶され、一遍上人が思い悩んだとき、熊野権現が現れて励ましたという。このように、時宗と熊野信仰はつながりがあり、時宗信徒が熊野神社を勧請した、あるいは逆に熊野神社信奉者が時宗僧を招いたのかもしれない。
もう一つの伝承として、当神社境内に「那閉神社」があるが、それは昔、式内社「那閉神社」が当地に鎮座していたからだという。旧・小川村では婿が幅を利かすことを産土病(うぶすなびょう)というが、それは「熊野神社」が後から入ってきて、元からの「那閉神社」を押しのけて本社になってしまったからであるという。
さて、焼津市といえば、小説家・小泉八雲が東京帝国大学文学部講師であったとき、好んでしばしば訪れた場所としても知られている。そして、当神社も、その散歩コースであったらしく、こんな話が伝わっている。八雲、長男の一雄、山口乙吉(焼津で八雲が滞在していた魚屋の主人)、書生の奥村の4人が当神社の境内を散策していたところ、社殿の裏側で山口乙吉と奥村は地面が火のように熱くなるのを感じたが、八雲と一雄にはわからなかった。不思議に思った八雲は、周囲をしきりに探索したが、結局何も発見できなかったという。焼津には、地下に天然ガス層があることが知られており、あるいはその天然ガスが地上に出てきて燃えたのかもしれない。


「神社探訪」さんのHPから(熊野神社)


写真1:「熊野神社」参道入口の鳥居。松並木の参道が残され、向かって右側は「宮前公園」となっている。


写真2:「熊野神社」正面


写真3:「熊野神社」社殿


写真4:境内社「那閉神社」。「熊野神社」本殿の向かって左脇にある。
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駿河国の古代東海道(その2・小川駅)

2011-04-01 23:57:09 | 古道
古代東海道の、駿河国で最も西の駅家は「小川」駅となる。焼津市小川(こがわ)が遺称地で、益頭郡小河(何)郷に当たるとされる。牧之原台地上の「初倉」駅から東に下りてくると、現在ではすぐに広い大井川にぶつかるが、往古は、現在の黒石川と栃山川の間に大井川の主流が流れて、多くの枝川にわかれていたらしい。このため、①台地を下りてから北東に進んで大井川を渡り、そこから東に向かって現・黒石川の左岸の自然堤防上を進むルートと、②「初倉」駅から真っ直ぐ東に進み、現・栃山川に達する現・大島または上小杉付近で大井川を渡り、やや方向を北に変えて黒石小学校付近を目指すルートの2つが考えられているが、古代東海道の直線性を重視すれば、後者が自然のようである(金田章裕氏などの説)。
黒石小学校の北側の焼津市小川に「鈴宮」という小字があり、ここには駅鈴を祀った神社があったのではないかという説がある(現在は水田になっているが、以前には小祠があったという。)。そして、その先(北)は、三ヶ名(旧・豊田村)と西小川(旧・小川村)の境で、北東に向かう直線的な道が残っている(写真1)。発掘調査などが行われていないため、「小川」駅の具体的な場所は不明だが、条里地割に沿い、旧・村境にもなっていたことから、この道路が古代東海道であった可能性は高いと思われる。
発掘調査といえば、この近くに「小川城址」(道場田遺跡)がある(写真2)。「城」と言っても、中世のことだから、土塁を巡らせた館(屋形)というところだろう。この城の主は「法永長者」と呼ばれた長谷川政宣で、駿河今川氏に内紛が起こったとき、後に駿河今川氏第7代当主となった今川氏親(幼名・竜王丸。母は伊勢新九郎(北条早雲)の妹である北川殿。)を匿った人物である。また、「鬼平犯科帳」の主人公である鬼平こと長谷川平蔵宣以のご先祖様でもある。中世の小川は、「小川湊」として栄えたので、古代東海道の「小川駅」とは直接には結びつかないだろうが、やはり交通の要衝であったとはいえるだろう。
さて、三ヶ名と西小川の境を北東に直行する道は、条里の方向とも一致し、式内社「焼津神社」の少し西側を通過する。そして、朝比奈川と瀬戸川の合流点のすぐ下流で川を渡り、北向きにやや方向を変える条里地割に沿って、高草山山麓の石脇に到る。そして、ここから日本坂の峠越えとなる。なお、「小川」駅からは、小川の湊から舟で現・静岡市駿河区用宗辺りに向かうルートや、石脇から浜当目に向かい、大崩海岸を通るルート(大崩海岸が通れなくなったのは、焼津港が近代的に整備されて潮の流れが変わり、砂浜がなくなったかららしい。古い写真などをみると、「たけのこ岩」は砂浜に立っている。)もあったとされる。ただし、いずれも荒天になると使えないルートなので、日本坂峠越えが正式ルートだっただろうという。


「タクジローの日本全国お城めぐり」HPから(駿河 小川城)


写真1:西小川と三ヶ名の間の直線的な道路(焼津市西小川5ー29-14付近)。かなたに高草山が見える。


写真2:「小川城址」(道場田遺跡)
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