神が宿るところ

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駿河国の古代東海道(その11・長倉駅)

2011-10-21 22:14:23 | 古道
駿河国の古代東海道(駅路)は、「曲金北遺跡」(2011年6月17日記事)の発掘調査、条里制の研究、遺称地などによって、志太平野や静清平野については、殆ど異論のないルートが示されている。「蒲原」駅の場所については諸説あるものの、そこから東へは、①愛鷹山麓ルートか、②海岸沿いの砂州ルートかに絞られている。それも、当初は海岸沿いルートだったのが、山麓沿いに変更されたのではないかとも思われている。おそらく、海岸沿いに初期の古代東海道(駅路)が通っており、並行して愛鷹山麓に伝路があったが、後に(多分、平安後半の海進(海面上昇)によって)、従来の伝路が駅路に転用されたのではないかとみられている。
しかし、「蒲原」駅から先(東)の駅については、遺称地もなく、駅家の所在地は全くわかっていない。まず、「長倉」駅は、駿東郡(旧・駿河郡)長泉町、特に、その中の字名で長窪という地区が、古来から「長倉」駅の所在地として想定されてきた。ただし、「長」の字が共通するくらいで、根拠は薄弱のように思える。長泉町元長窪に鎮座する式内社「桃澤神社」(2010年9月3日記事)が駅家と関連するともいわれるが、それも特に根拠があってのことではない。
ところで、「長倉」駅は、時期による変遷があった。「続日本後紀」承和7年(840年)の条に、駿河国駿河郡の「永蔵」駅を伊豆国田方郡に移す、という記事がある。ところが、「日本三代実録」貞観6年(864年)の条(「柏原」駅廃止の記事である。)をみると、「永倉」駅は駿河郡に戻っている。駅名の表記がそれぞれ異なっているのが面白いが、元々の「長倉」駅と、いったん伊豆国に移転して再度駿河国に復した後の「長倉」駅が同じ場所なのかも、わかっていない。
さて、独断と偏見により、ルートと駅家所在地を想定してみる。まず、初期には、駿河湾沿いの砂丘上を進む。単純に進むと南に行き過ぎるので、現・沼津市片浜(因みに、JR東海道本線「片浜」駅の南側に古墳時代~近世の集落遺跡「東畑毛遺跡」がある。)付近を過ぎた辺りで、真東に向きを変える。そうすると、JR東海道本線「沼津」駅の約600m北を通る。「沼津」駅の北口周辺には「上ノ段遺跡」があり、発掘調査によれば、奈良~平安時代の住居跡141軒、掘立柱建物跡40軒以上の遺構が発見され、墨書土器、陶枕、帯金具なども出土したことから、駿河郡家址かとも思われる。そうすると、初期の「長倉」駅家もこの辺りか、もう少し東の現・沼津市大岡付近にあったのではないかと思われる。ここまで来ると、伊豆国の国府があったと思われる伊豆国一宮「三嶋大社」(静岡県三島市大宮町)付近まで、北東に4km程である。「長倉」駅がいったん伊豆国に移って、程なく駿河国に戻ったとすると、国境を僅かに越えた辺りに伊豆国の「長倉」駅があったと考えられる。ルート変更の時期は不明だが、古代東海道(駅路)が愛鷹山麓に移ったとすると、現・富士市中心部に想定される(移転後の)「蒲原」駅から、概ね現在の県道22号線(三島富士線)を東に進む。県道22号線は「江原公園」交差点で国道1号線と接した後、北東に進むが、同交差点からは真東に国道1号線が伸びている(因みに、同交差点のすぐ北に「辻畑古墳」(2010年9月17日記事)がある。)。国道1号線は、国道246号線との立体交差を過ぎると東南に向かうが、真東に直線的な道路があることがわかる。単純に東に進むと、伊豆国分寺付近を通って、「三嶋大社」に突き当たる。その道路の途中の「竹橋陸橋南」交差点を左折(北へ)すると、次の「横走」駅方面に行ける。ここまでピンポイントでなくても、その後の集落発展状況等も考慮して、黄瀬川岸の現・長泉町本宿、あるいは同下土狩付近に、後期「長倉」駅家所在地が想定されることになる。
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2 コメント

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古代駅路 (ぼ輔)
2013-02-27 22:47:22
曲金より足柄へ向かった駅路は、途中何処を通ったのか?
「大化の改新駅路」と「延喜式駅路」は途中の経路が違うことが知られている。
「長倉」駅を通ったのは、「延喜式駅路」ですが、他にも道が有ったと考えられる。
詳細は、「鎌倉街道を探そう!」これからその一段古い道を書く所です。
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古代駅路 (junko-f2)
2013-03-03 08:27:15
小生は今、旧・下総国内に住んでいますが、これから下総国の古代東海道について書こうと思っているところです。
ご存知の通り、下総国の駅路は大きな変更があったことが資料上も明らかです。その際、変更後の駅路は新たに造ったものではなく、以前からあったものを転用したと考えられています。駅路は、時代によって変遷があるほか、あるいは元々複数あったのかもしれません。
「鎌倉街道を探そう!」を拝見して、勉強させていただきます。
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