備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム238.民間信仰の神様(その2・首塚)

2010-02-05 20:15:31 | Weblog
①金谷の首塚(かなだにのくびづか)。
場所:備前市吉永町金谷。JR山陽本線「三石」駅の西、約3km。県道96号線(岡山赤穂線)沿いでなく、金剛川の北側になる。駐車場なし。
延元3年(1338年)、新田義貞が三石城の支城である馬転山城を攻め落とし、この地で首実検を行った首を埋めたとされる。首から上の病気に御利益がある。河原で卵形の滑らかな石を拾い、願い事や氏名・住所等を書いて供えるとよいという。ちなみに、首塚様のすぐ北にある「宝生山金谷寺正光院」(弘法大師開基という。)の本堂(観音堂)は、元はこの首塚様のある場所に建てられ、その後現在地に移転したらしい。「正光院」は古社「金彦神社」の別当寺であったという。

備前東商工会さんのブログから(金谷首塚様):http://ameblo.jp/shokokai-bizenhigashi/entry-10137124709.html#main

②与太郎神社(よたろうじんじゃ)。通称:与太郎様。
場所:玉野市八浜町大崎。県道405号線(山田槌ヶ原線)沿いで、玉野光南高校の東、約200m。駐車場なし。
「与太郎様」というバス停もあり、見ていると、今でもかなり参拝者が多い。一説によると、「玉野市 与太郎様」という宛名でも郵便が届くとか。「与太郎様」は実在の人物で、宇喜多与太郎基家。八浜合戦において、敵・毛利方の鉄砲に撃たれ、天正10年(1582年)討ち死にしたという。伝承によれば、近くの竹薮に隠れたが、農夫の目配せによって追っ手に気づかれて討たれた。このとき、基家は脚気を患っており、歩けない状態だった。その後、この村に不幸が続いたことから、基家へのお詫びと供養のため、墓を建てたという。ただし、遺骸は、備前48ヵ寺の1つ「大賀島寺」(宇喜多家の菩提寺)に葬られたとされるので、墓ではなく、供養塔であろう(今も拝殿の中にある。)。足の病気に御利益があり、線香の灰を足の痛むところに塗ると良いという。

有限会社東海建設さんのHPから(与太郎神社):http://tokaikennsetu.com/w-momoyotarou.html

③田中神社(たなかじんじゃ)。通称:田中様。
場所:岡山市中区国富1丁目。岡山朝日高校の北側にある国富東公園の中。駐車場なし。
伝承によれば、宇喜多直家と三村元親の有名な明禅寺合戦(永禄10年:1567年)において、三村方の武将・庄元祐(元親の兄)が奮戦中、わらじの緒が切れて足がもつれ、討ち取られた。そのとき「わらじの緒が切れなければ、宇喜多方をせき止められたものを」と慨嘆した。これによって、庄元祐の供養塔が、語呂合わせの「咳止め」に、また、足の怪我や病気に御利益があるといわれるようになったという。ところで、なぜ「田中神社」なのか。元は旧・第六高等学校(現・岡山朝日高校)の敷地内にあったが、その後、田んぼの真ん中に移されたからだ、とのこと。

五輪塔さんのブログ「日本掃苔録」から(田中神社):http://soutai.livedoor.biz/archives/51009360.html


備前国は周囲の群雄割拠で、長らく争奪戦の場となったため、首塚が多い。このブログは古社巡りが本意なので、これ以上はあまり書かないつもりだが、いずれも病気治癒などの「流行(はやり)神」で、近世以降、人々の神様への期待が身近なもの、個人的なものに移ってきたことが窺われる。


写真上:「金谷の首塚」


写真中:「与太郎神社」(与太郎様)


写真下:「田中神社」(田中様)