備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム199.備前市伊部の神社と備前焼

2009-08-06 22:40:03 | Weblog
前項で「履掛天神宮」に行ったので、余談。
現在の備前市伊部には備前焼の窯元・販売店が集まっており、備前焼は別名「伊部焼」ともいうほどである。そもそも伊部(いんべ)という地名は、古代の祭具製造氏族である「忌部」氏から来ているはずである。しかし、備前市伊部・浦伊部には国内神名帳に載る古社はない。これは何故なのか。
古代祭器としての焼き物は、最初、弥生式土器の延長上にある「土師器」(はじき)であったが、後に「須恵器」(すえき)も使われるようになった。「土師器」が野焼きで作られるため焼成温度が低く、硬さが劣った。「須恵器」は薪を使い窯で焼くため、焼成温度が高くなり、強度に優れる。しかし、祭器としては並行して使われたようである。
古社についていえば、「大神神社」(岡山市)には「土師宮」の別名があり、「片山日子神社」(瀬戸内市)は現在も長船町土師という地にある。一方、「美和神社」(瀬戸内市)は長船町東須恵に鎮座する。「安仁神社」(岡山市)の名の起源には諸説あるが、「埴輪」の「はに」ではないか、という説もある。興味深いのは、これらがいずれも式内社であることで、式内社とされたことと祭器としての土器生産の間に何らかの関連があったのではないか、とも見られ得る。また、「大神神社」以外は、旧邑久郡にある。
言うまでもなく、備前焼は須恵器の流れを汲んでいる。長船周辺にあった土器生産の中心地が何故、伊部周辺に移ったのか。「土師器」にせよ「須恵器」にせよ、素焼きの土器は、釉を使った焼き物に次第に駆逐され、祭器などにしか使われなくなった。そして、武家社会の進展により、祭器自体が使われなくなり、衰退した。土器生産集団は新たな庇護者を求めて、熊山を中心とした大寺の近くに移った。寺の瓦や食器などの需要があったからである、という。確かに、伊部の西に行くと、「大内神社」、「熊山神社」、「大瀧神社」、「靭負神社」などの古社が多くなる。ただし、これらの神社はいずれも土器生産とは直接関係がなさそうである。
そうすると、(例によって妄想だが)国内神名帳が成立した頃にはまだ、備前焼(の前身)の中心部は伊部にはなかった。逆に言うと、国内神名帳が成立したのは、平安時代後期から、いわゆる備前焼が生まれた時期(「古備前」といわれるものは鎌倉時代後期のもの)の前の間、ということになるのではないだろうか。


写真上:天津神社(備前市伊部629)。「履掛天神宮」を「伊部天神西宮」といい、当神社を「伊部天神東宮」という。ただし、主祭神は少彦名命。屋根瓦のほか、十二支の動物など、ふんだんに備前焼が使われている。


写真下:忌部神社(本殿)。上の天津神社の正面左手にある坂道を登っていく。祭神は陶祖:天太玉命(あめのふとたまのみこと)。もとは天津神社の境内末社として、小さな祠であったという。

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