■ 展覧会名 「クリムト展」
■ 会期 2019.4/23―7/10
■ 開室時間 午前9時30分から午後5時30分
※金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)
■ 休館日 5/7(火)、5/20(月)、6/3(月)、6/17(月)、7/1(月)
■ 場所 東京都美術館・上野
19世紀ウイーンに生きたクリムト没後100年記念展で、心に残ったことは構図構成に日本画からの縦長や横長の自由なコンポジションや、独自な色彩感覚など画家という専門的見地からの試みと、確かなデッサン力もあるが、やはり自己の世界観で大きな転換となったことが”生と死”でありそこを起点に、大きなテーマを追求したことが分かった。数多くの恋愛経験と悲しい別離体験、あるいは家族との死別などがその真摯な作品から伺い知れた発見は得がたい普遍的な画家という孤高の”魂”だった。
ここに添付した自分の息子との死別を描いた「亡き息子の肖像」、「リア・ムンク1」若い女性の死の肖像、すさまじい構図と女性と子供2人の「家族」は生きているか、亡くなっているかは不明と説明にあるが、これは亡くなっている情景で自己対話として鎮魂の絵画に感じる。むろん、クリムトの主要作品が今回は数多くあるし、そのすばらしい大きいサイズの絵画と、部屋一面の壁画作品の壮大な絵画もあるので、実際に見に行って鑑賞していただきたい。
➡ 残念な点: 50代から60代のおばさん2人組は以前から何度も言ってるが、世界の主要美術館では見られないが、何であんなにまわりに聞こえる声で訳の分からないことを話しているのか?そして携帯の着メロもなっている…言語道断である行為だ。人の足は踏むは押しのけるは..毒をばらまきにきているのか?これはあんまりだ…..
結局は絵など見ていない。それに比べ若い女性はほとんどが一人で、じーっと作品と対話している姿がほとんどでした。
はるか遠い国の美術館からわざわざ、この極東島国の絵画を愛する人々へ貸していただいているのだ。それはその国の美術館を外国などから、わざわざ鑑賞しに訪れた時にその名画が飾られていた場所に、「ただ今、日本に貸し出し中」という説明が表示されていることだ。中にはその名画を見たいために多くの時間とお金を貯めて訪れている人が数多くいるのだ。
そういう人はショックでおおいに落胆しているということを、含めてそのただ一つの名画を鑑賞できるという幸運に感謝しなければならない。複製やネットのデジタルでは分からないのだ、やはり世界でただ一点しかない貴重な人類の共通財産なのだから。黙ってじっと目の前の絵画と自分の眼と透明な心で、真摯に対面を心から歓び作家の魂と対話しようではないか、100年もの間、時間というふるいに残るいわゆる名画作品は世界美術史になぜ残るのか自分の眼でみて対話しよう。これはバーチャルでは解らないからだ。
理屈や言葉や説明はいらないのが、絵画と音楽という普遍的芸術なのだから….
そして一世紀も昔に描かれた絵画が本当にそこに存在している。それが本当に優れた芸術作品の存在と感じる。描いた画家の魂をそのまま目の前にしている幸福に感謝している。人が生きてゆく一度の人生で、さまざまな挫折や身近な人との別離、あるいは魂の相手との出会いや新しい命の誕生がある。まるで人生は学校のようであり季節という形態を持っているようであり、知性や論理を超えた宇宙の叡智との遭遇も時には経験するけれど、さまざまな宇宙探検や科学や医学の新しい発見も、この20世紀から21世紀の30年単位でみると、
心理学をはじめ人類の歴史上ほんとうに科学的で革命的な進歩があるが、やはり芸術は普遍な存在であることは私には感じている。基本的には人間は感情の動物であり、自分自身の行動論理も選択している動機は感情だと思う。バーチャルでは満たされない自尊感情や自分は何者か?なぜ生まれてきたのか?自分の生まれたてきた使命は何か?何によって知られたいのか?という自分のへの問いかけや願望が、自分の人生を決定している主要な要因だと感じる。そういう人間の内面を知ることでの意識の覚醒という点で、やはり芸術がベストと言えるのでははないか。
日々の暮らしでの注意点や自分の価値観が現実を創るという感じが最近は特に感じる。外ではなく内側の意識が自分の人生の全てを決めるという感がある。自己表現欲求と自己のアイデンテテイの現在進行形の自己表現が「人生はただ一度の時間芸術」TMだと思うが、あなたはどう感じますか?
■ 会期 2019.4/23―7/10
■ 開室時間 午前9時30分から午後5時30分
※金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)
■ 休館日 5/7(火)、5/20(月)、6/3(月)、6/17(月)、7/1(月)
■ 場所 東京都美術館・上野
19世紀ウイーンに生きたクリムト没後100年記念展で、心に残ったことは構図構成に日本画からの縦長や横長の自由なコンポジションや、独自な色彩感覚など画家という専門的見地からの試みと、確かなデッサン力もあるが、やはり自己の世界観で大きな転換となったことが”生と死”でありそこを起点に、大きなテーマを追求したことが分かった。数多くの恋愛経験と悲しい別離体験、あるいは家族との死別などがその真摯な作品から伺い知れた発見は得がたい普遍的な画家という孤高の”魂”だった。
ここに添付した自分の息子との死別を描いた「亡き息子の肖像」、「リア・ムンク1」若い女性の死の肖像、すさまじい構図と女性と子供2人の「家族」は生きているか、亡くなっているかは不明と説明にあるが、これは亡くなっている情景で自己対話として鎮魂の絵画に感じる。むろん、クリムトの主要作品が今回は数多くあるし、そのすばらしい大きいサイズの絵画と、部屋一面の壁画作品の壮大な絵画もあるので、実際に見に行って鑑賞していただきたい。
➡ 残念な点: 50代から60代のおばさん2人組は以前から何度も言ってるが、世界の主要美術館では見られないが、何であんなにまわりに聞こえる声で訳の分からないことを話しているのか?そして携帯の着メロもなっている…言語道断である行為だ。人の足は踏むは押しのけるは..毒をばらまきにきているのか?これはあんまりだ…..
結局は絵など見ていない。それに比べ若い女性はほとんどが一人で、じーっと作品と対話している姿がほとんどでした。
はるか遠い国の美術館からわざわざ、この極東島国の絵画を愛する人々へ貸していただいているのだ。それはその国の美術館を外国などから、わざわざ鑑賞しに訪れた時にその名画が飾られていた場所に、「ただ今、日本に貸し出し中」という説明が表示されていることだ。中にはその名画を見たいために多くの時間とお金を貯めて訪れている人が数多くいるのだ。
そういう人はショックでおおいに落胆しているということを、含めてそのただ一つの名画を鑑賞できるという幸運に感謝しなければならない。複製やネットのデジタルでは分からないのだ、やはり世界でただ一点しかない貴重な人類の共通財産なのだから。黙ってじっと目の前の絵画と自分の眼と透明な心で、真摯に対面を心から歓び作家の魂と対話しようではないか、100年もの間、時間というふるいに残るいわゆる名画作品は世界美術史になぜ残るのか自分の眼でみて対話しよう。これはバーチャルでは解らないからだ。
理屈や言葉や説明はいらないのが、絵画と音楽という普遍的芸術なのだから….
そして一世紀も昔に描かれた絵画が本当にそこに存在している。それが本当に優れた芸術作品の存在と感じる。描いた画家の魂をそのまま目の前にしている幸福に感謝している。人が生きてゆく一度の人生で、さまざまな挫折や身近な人との別離、あるいは魂の相手との出会いや新しい命の誕生がある。まるで人生は学校のようであり季節という形態を持っているようであり、知性や論理を超えた宇宙の叡智との遭遇も時には経験するけれど、さまざまな宇宙探検や科学や医学の新しい発見も、この20世紀から21世紀の30年単位でみると、
心理学をはじめ人類の歴史上ほんとうに科学的で革命的な進歩があるが、やはり芸術は普遍な存在であることは私には感じている。基本的には人間は感情の動物であり、自分自身の行動論理も選択している動機は感情だと思う。バーチャルでは満たされない自尊感情や自分は何者か?なぜ生まれてきたのか?自分の生まれたてきた使命は何か?何によって知られたいのか?という自分のへの問いかけや願望が、自分の人生を決定している主要な要因だと感じる。そういう人間の内面を知ることでの意識の覚醒という点で、やはり芸術がベストと言えるのでははないか。
日々の暮らしでの注意点や自分の価値観が現実を創るという感じが最近は特に感じる。外ではなく内側の意識が自分の人生の全てを決めるという感がある。自己表現欲求と自己のアイデンテテイの現在進行形の自己表現が「人生はただ一度の時間芸術」TMだと思うが、あなたはどう感じますか?