コルビジェの弟子でモヂューロール(コルビジェの比例配分)理論の発案者だったクセナキス.
1. もう42年も前の話で当時20代後半で、当時パリに住んでいてある日ある日、4区の方を歩いていると何やら付近とまったく調和しないジュラルミンの工場のような建物が建築中で、外に張り出した3本の円柱は赤、青、黄色に着色されて、本当に実に周りと調和しない違和感の建物だと感じて工事現場に近づいた….「何だこれは?」というのが当時の私のこころの声でした。
レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが設計したポンピドー・センター(国立芸術文化センター)が4区に突如出現した時は本当にびっくりした。その時は外側外壁に3段階式のエスカレーターで上までが公開されていて、乗って最上階で見た曇り空でパリの景色を見た時の印象は、なんとも言えない感激とは異なる感慨があった。
2.フランスは伝統を重んじるが、日本のように骨と建前が乖離し次世代という視点がない先送り政治と経済で、そのままで伝統を保存するのではなく、“新しい息吹を摂取し未来を切り開く変化を創造する、新しい美的価値観を持つ国”という印象をその時に感じた。アメリカのように多人種融合を前提とした、民主主義的を前提とした自由と圧倒的な革新的エネルギーと金銭至上主義的な、経済原理を前提とする圧倒的なパワーの経済的価値観の米国……。
全く異なる価値観の存在がそこには確実に存在している事実を。時間芸術とでも言うべき芸術的価値観を主体とした、長い文化的歴史観を通底した価値観と美的抽象的な芸術文化的価値観をその時に感じた。日本とも米国とも異なる欧州の価値観を肌に感じた。
3.私は当時もともと専門がグラフィックデザイナーだったが、キャリアスタートを上場企業でデザイナー勤務後、デザイン事務所を起業したが、ストレスから胃潰瘍と12指腸潰瘍12個が見つかり緊急入院した、検査結果が良性か悪性かで、残りの命が2ヶ月という医師による説明を聞いて考えが360度変わった。生き残れたらもうこの仕事はしない、少し頭を冷やためにパリに行くという考えが、自分の心と毎日対話してその時の身も心もボロボロの状況で感じた小さな心の声だった。
4.そして、ついにポンピドー・センターは開館した。開館の企画展は素晴らしいものでした…….、
そこで帰りに前庭に見慣れない放物線上の建築物であるテントがありました。そこで、エスカレーターをおりて、なんだろうと入り口の小さなPOPスタンド表示を見ると「クセナキスのポリトープ」開演時間は記憶が曖昧ですが、1日4回か5回ぐらいで入場料は当時のフランス・フランで14フランくらいだったと記憶しています。亡命してきたような心境でお金も余りなく高いなと思いましたが、なぜか
その外形のテント状が美しいと感じ、切符を買うために声をかけたらクセナキス本人が出てきました。
私は中の暗い椅子もない土間に座り(奥に若いアベックがいたが…)、ブリュッセル博物館のフィリップス館をクセナキスは設計してブーレーズの電子音楽が上演されたこともあり、コルビジェの弟子でモヂューロール(コルビジェの比例配分)理論の発案者だったクセナキスは、コルビジェの窓枠や椅子のプロポーションの多大な数学的な考察を与えた事実がある。そのフィリップス館に類似した放物線建造物の内部は天井内面が方眼上に電線が張り巡らされていた。
そこからは深黒の宇宙空間の遥か彼方から、一つの小さな光の点滅からはじまり左右対称に無数の光の点が移動し、背後に移動していき、また再び事な角度の遥か彼方の方向から同じように無数の光る点が
移動してゆく。そしてそれらが前後左右、ありとあらゆる方向から光が飛び交い、交差すると火花がショートして見ている自分に無数の火花が落ちてくる……そして音楽に合わせて一筋の白いレーザー光線が飛んでくる、そして音楽とともに無数の3次元の方向からそのレーザー光線がまたたく….
“それは今まで見たことも聞いたこともない魂が揺さぶられる衝撃”だった。
その時の体験は、それまでの自分のアートに対する価値観をまったく異なるものにした。ギリシャ、ダビンチ、ミケランジェロから続く西欧の2次元と3次元の美術・デザインに新しい価値観の美の章立てを追加した。
もちろんこの1977年の時代には3次元インスタレーションにサウンドをリンクさせた作品は存在しなかった。スターウオーズもロックコンサートの縦のりリズムに合わせた、動的レーザー光線の会場ディスプレーもまだ何もない時代だったからだ。そして、最後は音楽に合わせたそれぞれの動きがまた、元の空間に戻る様を引き算で時間が戻る体感を経験する。
5.それから私はNYへ行きMOMAの「エンゾ・フェラーリ展」のフェラーリの木炭デッサンをみてから、行き荒川修作さんのアトリエを訪ねた。まだ、その当時はサウスシーポートのウオーターフロント計画もまだなかった時代。SOHOがアート系やファッションの中枢ではなく過度期であり、ジャスパー・ジョーンズやラウシェンバークを見出したレオ・カステリ画廊がまだ出てきた直後だった、そういうまだ定まらない都市デザインの胎動の中でパリからきた自分の目にが、暴力的なアメリカの弱肉強食のすさまじいエネルギーを感じた。フランク・ロイド・ライトのグッゲンハイム美術館の
あまりにも美しい建築、無論、シカゴのミース・ファンデル・ローエの建築や伊藤博文たちが驚嘆した、シカゴの都市計画である地下階層のしくみや、シカゴ芸術大学とシカゴ美術館、ジョン・ハンコック・センターからの眺めも、それから自分がアートスクールを設立して数年後に訪れるとはその時は考えもしなかった。
6.今現在はすべてが変化している、特にこの20年での変化はこれまでの常識では測れないと感じる。普遍的な真実は変わらないが、テクノロジーの変化がいまデザインや経済的な企業における戦術面での変化は目を見張るるものがある。常に学ばないと時代に取り残されることと、新しいスキルを学ぶことが21世紀の新しい命題と言える。
私が住む横浜のみなとみらい地区(ウオーターフロント開発プロジェクトで誕生した)は、私がまだ美大生だった頃は桜木町駅の海側は大きな三菱造船所だった。造船所で働いていた仕事帰りのひとが、集う街が今の野毛の呑み屋街だったが、今は若い女性グループも来る街に変身した。都市デザインとは別の顔がそこに生きる人々の生活がある。21世紀クリスマス前の都市計画進行中の夜景がいまそこにある。