
ここ二日ばかりは、猛暑も幾分か和らぎ、少ししのぎ易くなってきましたが、まだまだ夏は終わっていません。 そこで涼しくなる話しを …
「ファラオののろい?で遺物返還=ドイツ人盗掘者が謎の病死」(8月23日 時事通信)_エジプト考古学最高評議会は22日、古代エジプトの遺物を遺跡から盗んだドイツ人の遺族がこのほど、この遺物を在独エジプト大使館に返還したことを明らかにした。 このドイツ人が遺物を持ち帰った後、原因不明の高熱などに襲われ死亡したためという (※追加1へ続く)。
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超常現象の謎解きから … 伝説_1922年11月4日、ハワード・カーター率いる考古学調査隊は、エジプトの「王家の谷」で古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメンの墓を発掘した。墓は未盗掘の状態であり、20世紀最大の発見とまで言われた。
しかし、その華々しい発見の影で、不吉な出来事が続出した。 有名な「ファラオの呪い」である (※追加2へ続く)。
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科学的説明のつかない現象、幽霊とか異常現象とか超能力とか、そんなマユツバ物の話しは 皆さん 好きですよね。
ホントー? うそー? とかいいながら、聞き耳を立てて聞き入るのが普通の人です。「バカくさい マトモな話しをしろよ」などという人はどちらかというと、まれなほうですね。
信じていないんだけれど、興味はある。 そういうコワい話しはチョット聞いてみたい。 ですから、恐怖・怪奇小説やお化け屋敷は大流行こそしませんが、すたれることはありません。
「恐怖のXX」「呪いのXX」「XXのたたり」という小話しは多いですね。 昔「口裂け女」という話しがありましたが、知っていますか?
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口裂け女は、1979年の春から夏にかけて日本で広まった都市伝説。 また04年には韓国においても発生した (ウィキペディアから)。
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そんな大衆の潜在的欲望というか潜在的興味があるから、「ファラオの呪い」話しは生き続けているのだと思います。
このブログの最後まで読むと、「なーんだ」という結果になりますから、「呪い話し」のままにしておきたい人はここで読むのをお止め下さい。
以上
以下は興味ある人のみ お読み下さい。
※追加1_遺族の男性がエジプト大使にあてた手紙によると、男性の義父が2004年にエジプトを旅行した際、南部ルクソールの「王家の谷」で、古代エジプトの絵画が描かれた幾つかの石を壁から取り外して持ち帰った。 ところが、義父は帰国直後、がんのほか、体のまひや原因不明の高熱に見舞われ、3年間重体で苦しんだ末に先週、死亡したという。
この男性は手紙の中で「これらの石が義父をのろったようだ」とし、石は元の場所に戻されるべきだとしている。
「ファラオ (古代エジプト王) ののろい」は、1922年にツタンカーメン王の墓を発掘した関係者が次々と不慮の死に見舞われたことから有名になった。
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※追加2_封印されていたツタンカーメン王の墓の入り口には、「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」と碑文が刻まれてあった。
そしてその呪いは現実のものとなる。 調査隊のスポンサーでもあり、墓の開封にも立ち会ったカーナボン卿が発掘の翌年の4月に原因不明の高熱で急死したのだ。 しかも同じ時、カイロ中の電気が停電し、イギリスではカーナボン卿が飼っていた犬が突然吠え出しかと思うと、急死した。 その5ヵ月後には、カーナボン卿の義弟のオーブリー・ハーバードも急死。 さらにその5年後にはカーターの片腕であった、アーサー・C・メイスも病死。
結局、1930年までにツタンカーメンの墓の発掘に関わった人たち22人が死亡。 1930年まで生き残ったのは、わずかに1人だけであった。 やはり、碑文に刻まれていた呪いは事実だったのである。
謎解き_この『ファラオの呪い』は、ツタンカーメン王墓の発掘話のときには必ずと言っていいほど出る話である。 しかし、この話は事実なのだろうか?
呪いの真相_まず碑文に刻まれていた呪いに関してだが、これはカーナボン卿を恨んでいたマスコミがデッチあげたホラ話だった。
なぜこんなホラをデッチあげたかというと、当時カーナボン卿はロンドンタイムズ紙と独占契約を結んでおり、タイムズ社以外のマスコミには一切情報を流さなかった。 そのため、世界中のマスコミから非難が集中し、カーナボン卿は記者たちから恨まれていたのだ。
では発掘に関わった者のうち、1930年まで生き残ったのは、わずかに1人だけというのは本当だろうか? これは実際に見てもらったほうが確かだろう。 以下は、調査隊メンバーの生没年である。
_表略_
これを見てもらえばわかるとおり、調査隊員13人中11人が1930年以降も生きていた。 さらに、オーストラリア・メルボルンにあるモナッシュ大学のマーク・ネルソン氏が、イギリスの医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」に発表した調査結果によれば、墓の開封に立ち会ったのは調査隊以外の人も含めて、全部で25人。
死亡時の平均年齢は70歳を超えていた。 呪いを受けたとされている者の多くは、関係者の親類とか、墓を見学に訪れた者だとか、発掘には直接関係していない者ばかりだった。 範囲をそこまで広げていいのなら、そりゃ中には早死にする人間だっているだろう。
では、この話の元ネタとなったカーナボン卿の死についてどうだろうか。 これは発掘の翌年に亡くなったのは事実であるが、死因は不明ではなかった。
カーナボン卿は、1901年にドイツで遭遇した自動車事故が原因で長いこと健康状態は悪く、エジプトに訪れるようになったのも、イギリスの冬の寒さに耐えられなくなったからである。 亡くなったのも、髭を剃っていた時に誤って蚊に刺された跡を傷つけ、そこから熱病に感染し、肺炎を併発したことが原因であった。
しかし、真相がわかっている現在でも「ファラオの呪い」という名のホラ話は、語り続けられている。 おそらくこれからも、ネタに困ったマスコミがいる限り、このホラ話は使い続けられることだろう。
以上
「ファラオののろい?で遺物返還=ドイツ人盗掘者が謎の病死」(8月23日 時事通信)_エジプト考古学最高評議会は22日、古代エジプトの遺物を遺跡から盗んだドイツ人の遺族がこのほど、この遺物を在独エジプト大使館に返還したことを明らかにした。 このドイツ人が遺物を持ち帰った後、原因不明の高熱などに襲われ死亡したためという (※追加1へ続く)。
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超常現象の謎解きから … 伝説_1922年11月4日、ハワード・カーター率いる考古学調査隊は、エジプトの「王家の谷」で古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメンの墓を発掘した。墓は未盗掘の状態であり、20世紀最大の発見とまで言われた。
しかし、その華々しい発見の影で、不吉な出来事が続出した。 有名な「ファラオの呪い」である (※追加2へ続く)。
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科学的説明のつかない現象、幽霊とか異常現象とか超能力とか、そんなマユツバ物の話しは 皆さん 好きですよね。
ホントー? うそー? とかいいながら、聞き耳を立てて聞き入るのが普通の人です。「バカくさい マトモな話しをしろよ」などという人はどちらかというと、まれなほうですね。
信じていないんだけれど、興味はある。 そういうコワい話しはチョット聞いてみたい。 ですから、恐怖・怪奇小説やお化け屋敷は大流行こそしませんが、すたれることはありません。
「恐怖のXX」「呪いのXX」「XXのたたり」という小話しは多いですね。 昔「口裂け女」という話しがありましたが、知っていますか?
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口裂け女は、1979年の春から夏にかけて日本で広まった都市伝説。 また04年には韓国においても発生した (ウィキペディアから)。
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そんな大衆の潜在的欲望というか潜在的興味があるから、「ファラオの呪い」話しは生き続けているのだと思います。
このブログの最後まで読むと、「なーんだ」という結果になりますから、「呪い話し」のままにしておきたい人はここで読むのをお止め下さい。
以上
以下は興味ある人のみ お読み下さい。
※追加1_遺族の男性がエジプト大使にあてた手紙によると、男性の義父が2004年にエジプトを旅行した際、南部ルクソールの「王家の谷」で、古代エジプトの絵画が描かれた幾つかの石を壁から取り外して持ち帰った。 ところが、義父は帰国直後、がんのほか、体のまひや原因不明の高熱に見舞われ、3年間重体で苦しんだ末に先週、死亡したという。
この男性は手紙の中で「これらの石が義父をのろったようだ」とし、石は元の場所に戻されるべきだとしている。
「ファラオ (古代エジプト王) ののろい」は、1922年にツタンカーメン王の墓を発掘した関係者が次々と不慮の死に見舞われたことから有名になった。
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※追加2_封印されていたツタンカーメン王の墓の入り口には、「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」と碑文が刻まれてあった。
そしてその呪いは現実のものとなる。 調査隊のスポンサーでもあり、墓の開封にも立ち会ったカーナボン卿が発掘の翌年の4月に原因不明の高熱で急死したのだ。 しかも同じ時、カイロ中の電気が停電し、イギリスではカーナボン卿が飼っていた犬が突然吠え出しかと思うと、急死した。 その5ヵ月後には、カーナボン卿の義弟のオーブリー・ハーバードも急死。 さらにその5年後にはカーターの片腕であった、アーサー・C・メイスも病死。
結局、1930年までにツタンカーメンの墓の発掘に関わった人たち22人が死亡。 1930年まで生き残ったのは、わずかに1人だけであった。 やはり、碑文に刻まれていた呪いは事実だったのである。
謎解き_この『ファラオの呪い』は、ツタンカーメン王墓の発掘話のときには必ずと言っていいほど出る話である。 しかし、この話は事実なのだろうか?
呪いの真相_まず碑文に刻まれていた呪いに関してだが、これはカーナボン卿を恨んでいたマスコミがデッチあげたホラ話だった。
なぜこんなホラをデッチあげたかというと、当時カーナボン卿はロンドンタイムズ紙と独占契約を結んでおり、タイムズ社以外のマスコミには一切情報を流さなかった。 そのため、世界中のマスコミから非難が集中し、カーナボン卿は記者たちから恨まれていたのだ。
では発掘に関わった者のうち、1930年まで生き残ったのは、わずかに1人だけというのは本当だろうか? これは実際に見てもらったほうが確かだろう。 以下は、調査隊メンバーの生没年である。
_表略_
これを見てもらえばわかるとおり、調査隊員13人中11人が1930年以降も生きていた。 さらに、オーストラリア・メルボルンにあるモナッシュ大学のマーク・ネルソン氏が、イギリスの医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」に発表した調査結果によれば、墓の開封に立ち会ったのは調査隊以外の人も含めて、全部で25人。
死亡時の平均年齢は70歳を超えていた。 呪いを受けたとされている者の多くは、関係者の親類とか、墓を見学に訪れた者だとか、発掘には直接関係していない者ばかりだった。 範囲をそこまで広げていいのなら、そりゃ中には早死にする人間だっているだろう。
では、この話の元ネタとなったカーナボン卿の死についてどうだろうか。 これは発掘の翌年に亡くなったのは事実であるが、死因は不明ではなかった。
カーナボン卿は、1901年にドイツで遭遇した自動車事故が原因で長いこと健康状態は悪く、エジプトに訪れるようになったのも、イギリスの冬の寒さに耐えられなくなったからである。 亡くなったのも、髭を剃っていた時に誤って蚊に刺された跡を傷つけ、そこから熱病に感染し、肺炎を併発したことが原因であった。
しかし、真相がわかっている現在でも「ファラオの呪い」という名のホラ話は、語り続けられている。 おそらくこれからも、ネタに困ったマスコミがいる限り、このホラ話は使い続けられることだろう。
以上