シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

この闇は晴れないのか

2008年08月02日 | 事件事故の多い世
読読めば読むほど、底なしの闇の深さを思い知るような話しです。 その闇の洞窟の中で、光を知らずに 目が必要無くなった昆虫や魚などの小動物がうごめくのを見るような思いがします。
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「防衛フィクサーと呼ばれた男」(8月1日 児玉博 / NB online) __ ※追加1へ

ウィキペディアから__ 金丸 信 (かねまる しん、1914〜96年) は、日本の政治家、教育者。 衆議院議員 (12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官 (第35代)、国土庁長官 (第3代)、建設大臣 (第34代) を歴任 (※追加2へ続く)。

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国の予算が何兆円も動くと、そこにしがみつこうとする企業が蜜にたかる虫のごとく 集まってきます。 しかし、どう配分するかは政治家たちの胸先三寸で決められる、となれば 企業はあの手この手を使って権限を握る政治家に取り入ろうとするのは、ある意味 自然な流れなのかも知れません。

そこに交通整理をするご用聞きというか、太鼓持ちというか、得体の知れない窓口係が大きな顔をして政治家と企業の間に立ちふさがる、簡単に想像できることです。

この秋山某という「防衛フィクサー」は、そんな存在だったのでしょう。 国家防衛のためには、何が必要で何が必要でないかは関係がなく、「オレが国の防衛調達を決めているんだ」という、国民の意識からはズレて、いわば洞窟の中の目の退化した昆虫と同じような別世界に住んでいたのでしょう。

金丸某という政治家も、国のための政治ではなく、自分の勢力拡張のための政治を優先、キング・メーカーとして勢力を振い、首相の首をすげ替える (91年の海部首相辞任) こともしましたが、 92年の東京佐川急便事件で議員を辞職しました。 しかし、(罰金20万円という軽い) 略式起訴で済んだことに地検には世間から抗議が殺到、検察庁の石碑にペンキをぶちまけて抗議する市民も出る始末、最後は93年 脱税容疑で逮捕され、その政治力は断たれました。 写真の石碑には今でもその跡が残っていますね。

以上


※追加1_ 一時は強制捜査はないとまで言われていた “防衛フィクサー” 秋山直紀が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
 
防衛利権の闇に巣食う魑魅魍魎を一掃する__。防衛省を舞台とした汚職事件で東京地検特捜部の暴きたかった汚職の構造の、最後の しかし重要な位置を占める小片が秋山だった。
 
昨年11月15日 東京・永田町の悪名高き億ション「パレロワイヤル永田町」に特捜部の捜査のメスが入った。 捜査の対象となったのは1104号室と901号室。 それぞれの部屋には「安全保障議員協議会」、「日米平和・文化交流協会」という名前の団体が入居していた。
 
前者で局長を、後者の社団法人で常務理事を務めていたのが防衛利権の黒幕、秋山なのである。

秋山とは特別な関係にあると言われる久間章生を始め、額賀福志郎、石破茂ら防衛庁長官 (大臣) 経験者など 大物防衛族議員が名を連ねる安全保障議員協議会。 その一方で、後者の日米平和文化交流協会では三菱重工、三菱電機などの幹部を始め 日本を代表する重厚長大産業、商社などが会員となっている。
 
「防衛産業と言っても自らではなにも決めることもできない。 政治におんぶに抱っこだ。 だからその調整を俺がやってやったんだ」

逮捕前 自らの力を誇示するかのようにこう嘯いていた秋山。 その通り「パレロワイヤル永田町」の9階、11階を行ったり来たりと使い分けては、防衛利権の調整役としての存在を強めていった。
 
しかし なぜ秋山はこれほど人脈を築くことができたのだろうか? その源流をたどっていくと、大物政治家にたどり着く。 秋山同様「パレロワイヤル永田町」の住人にして、自民党最高実力者だった金丸信である。

金丸が権力の絶頂にあった頃、「青山のお婆ちゃん」と呼ばれる金丸の愛人がいた。 東京・青山に住んでいたため こう呼ばれたのは、有名な舞台装置会社の副社長も務めていた長田久代である。
 
長田の自宅、または東京・西麻布の高級麻雀店では夜な夜な 長田主催の麻雀が行われていた。 さながら角砂糖に群がるアリのように政治家、官僚、民間業者は競って権力者、金丸と卓を囲もうとした。
 
麻雀卓を囲んで交わされる会話は、際どいものばかりだった。 政治家、官僚は金丸の絶大な力を当てに、民間業者は金丸の名前を利用しては利権に与ろうとした。 まさに夜の裏国会であり、生々しい談合の現場であり、まるで利権屋の宴のようであった。
 
ジャラジャラと牌が音を立てる中、まめまめしくオシボリを運び、お茶を交換し、ビールをグラスに注いでいたのが、部屋の一室で常に待機していた秋山だった。 秋山は当時、長田の運転手をしていた。 大きな身体を丸めるように給仕する姿を覚えている政治家は少なくないはずだ。

明け透けに交わされる政治の裏話、利権話を間近で見聞きした秋山は永田町の政治力学、人脈を学んでいく。 権力者の周辺を徘徊していた秋山にも様々な輩が群がり始める。 永田町の古株の秘書がそうであるように、議員には内緒の付き合い、利権が生まれる。

秋山は、麻雀卓を囲んで交わされる利権話を怪しげな人物や団体に流したりもしていた。 その中にある団体があった。 秋山から得た情報を元に、日本道路公団 (当時) を恐喝するに及んで、秋山とその団体との関係が明らかとなった。 それがきっかけとなって、秋山は長田の運転手から身を引くこととなる。

長田の運転手を辞めたものの、永田町にどっぷりと首まで漬かった秋山が生きていく場は、やはり永田町であった。 竹下派の幹部だった元衆議院議長、綿貫民輔の秘書となっていた秋山にチャンスがめぐってきたのは、竹下派の分裂騒動だった。

日本新党の細川護煕を担ぎ、連立政権を擁立した竹下派幹部、小沢一郎は分裂に際し、金丸が握っていた防衛利権をごっそりとさらっていく。 金丸が、1980年に設立した日本戦略研究センターは純然たる軍事の研究、研鑽の場であったが、防衛産業に身を置く民間企業はそうは見ずに、次々と利権欲しさに会員となっていた。 その日本戦略研究センターを小沢にかっさらわれ、慌てたのは当時、野に下っていた自民党だった。
 
白羽の矢が立ったのは金丸の晩年、べったりとくっついていた久間であり、勘所を押さえていた秋山だった。 竹下派分裂後、小渕派の先頭に立ち、小沢と相対した元官房長官、野中広務もそれには異を唱えなかった。 秋山の怪しげな経歴も問題にされることはなかった。
 
秋山の逮捕は特捜部にとって、防衛省汚職事件の到達点であり、ある意味、始まりでもある。 なぜならば、秋山の供述によっては、政治家逮捕へと急展開する可能性があるからだ。
 
しかし、特捜部の見立ては悲観的である。 秋山は完全黙秘することにより、フィクサーとしての影響力を今後も行使しようとすると見ているからである。 秋山という男が抱える闇の深さの解明なくして、防衛省汚職の全容は闇のままであろう。
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※追加2_ ■ 政界のドン ■
中曽根康弘が総裁になるまでは、日本一の中曽根嫌いを自認し、田中が擁立するつもりであることを知って尚「おんぼろ神輿」とまで批判していた金丸だったが、中曽根内閣では自民党総務会長ー幹事長ー副総理と重用された。 鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており (裏向きには中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。

1984年 側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して 中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。 翌85年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。 結成前、田中は派内の勉強会と考えて容認していた。 しかし、結成の狙いが、金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知り、激怒。 切り崩しに遭うも、立ち上げに成功した。 田中は直後に脳梗塞で倒れた。 87年、「創政会」は「経世会」(竹下派) として正式に独立。 竹下の総理就任後は経世会会長に就任した。

同年に初当選してから文字どおり 二人三脚で歩んできた “金竹関係” だったが、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。 総理についた頃から、竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことを詰った金丸に配慮して、その後は度々極秘裏に金丸邸を訪れることになる。

89年 消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し 後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は福田赳夫後継に動いていたため面目を失った。 最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評した。 とはいえ宇野総裁は2ヶ月あまりで倒れると、最大派閥の会長である金丸は「キングメーカー」として大きな力を持つようになる。

宇野の退陣後、ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し 出馬を辞退させた。 91年の自民党総裁選では、派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持。

なお 金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。 本来、金丸は大の宮澤嫌いであった。 しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会との長年の蜜月から、今回がラストチャンスと、宏池会が必死で推す宮澤を 今度ばかりは支持せざるを得ないなどの理由から、渋々宮澤支持に転じた。

派内の渡辺支持派は、金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮沢支持に移行した。 宮澤政権誕生の行賞で92年、自由民主党副総裁に就任し、宮澤政権の支柱となった。 また 竹下派七奉行の中でも特に小沢一郎に目をかけ、89年、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は派内のベテラン議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。

長く国会対策委員長をつとめて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。 80年代末から、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。 特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は 金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。

90年 日本社会党の伝手を頼り、田辺誠らと訪朝団を編成。 団長として朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) を訪問する。 金丸と金日成主席が、日本語を用いて差しで対談を行う。 しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。 この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。

このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した (後に 金丸の脱税捜査の際に発見されたとされる無刻印の金の延べ棒数億円分、はこの時北朝鮮から貰ったのではないかとする噂が流布された。 また この延べ棒と同じ溶鉱炉で製造されたとされる延べ棒がオウム真理教の施設から発見されている)。

拉致疑惑についても 何の進展も齎されなかった事もあり、この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴び、自民党の承認を得られず 反故とされる。 このとき、83年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して、北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。

92年1月 自民党副総裁に就任。  3月に足利市で演説中に銃撃を受けるが、弾丸は全て外れる。 3月25日 世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国。 アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、これまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で法務大臣から上陸特別許可が下りた。

法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。 同月31日金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。 92年の埼玉県知事選挙では、畑和の後継を巡り 公示直前で土屋義彦の支持を徹回し、山口敏夫を担ぎ出そうとしたため 反発を浴びた。 また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎は強く批判している。

■ 失脚 ■
92年 東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚 (東京佐川急便事件) し、同年8月に党副総裁を辞任、事態の収拾を図った。 しかし 世論の反発が強く、10月に衆議院議員を辞職。 竹下派会長も辞任した。 裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張した。

小沢戦略なら論理は一貫しているが、長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。 しかし 結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。 金丸は、信じられないことだが 上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。 後に担当することになる弁護士は、金丸辞任会見をTVで他人事のように見ていたと語っている。

当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果 時効がかかっていた時期を見誤った。 浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが、客観的ではない。 結局 対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより 両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂に進んでゆく。

東京地検に政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。 しかし 特別捜査部さえ “巨悪” に手を出せなかったことから、地検は世間から凄まじい批判を受ける (「有力政治家には特別に計らう “特別捜査部” だ」とまで揶揄する評もあった)。 また 異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。 刑罰の軽さに批判が大きいが、前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。

一方 東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、当時の日本債券信用銀行 (日債銀) のワリシン (割引金融債) の一部が申告されていない (日債銀内では、金丸を “蟷螂紳士” とコードネームで呼び、申告漏れに協力していた) 事実を突き止めた。

93年3月 東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。 後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。 捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。 “金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの” と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン (金の純度 99.99%) であったとされる (村山治『特捜検察VS金融権力』) このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。

これによって同情論は消え、権威は地に堕ちた。 小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』では金丸が醜く描かれた上に、「金くれよん信ちゃん」と呼ばれ 馬鹿にされた。 金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。

逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。 少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。

以上

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