シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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呪われたヴァイオリン (4) シュタイナー

2012年12月08日 | 音楽関係の本を読んで
「チェリーニのヴァイオリン」
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「呪われた名器チェリーニ」からの紹介です。 呪われたヴァイオリン (1) (2) (3) からお読み下さい。
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チロルの製作家シュタイナーは、1658年 宮廷ヴァイオリン製作者に任命されて、インスブルックへ行き、楽団練習室の戸棚の楽譜の陰から古ぼけたヴァイオリン・ケースを偶然発見した。

蓋を開けると、美しい装飾のニスの奇麗なヴァイオリンがあった __「チェリーニのヴァイオリン」だった。 横板はニカワが剥がれ、パクパクしていた。 彼は早速修理にとりかかった。 表板を横板から剥がし始めると、突然悪寒がして体が震えた。 そして体全体が熱っぽくなってきたが、熱をおして夜遅くまでかかって修理を終えた。

数日経ってニカワが完全に乾いてから、弦を張り弓を当てると ガスパロの楽器は最初から素晴しい音を出した。 練習室でサラバンドやシャコンヌをひき、シャコンヌの二重音の所では火のような情熱的な音が出て、シュタイナーは大ヴァイオリニストになった気分で狂ったようにひき続けた。

曲が最高潮に達した時、真ん中の弦が二本パチンと切れて我に帰った。 その晩彼は高熱を出し、それが数日続いた。 その後 仕事ができないほど体が弱ったため、暇をもらって故郷へ帰った。

それからの彼は、商人に騙されて多額の借金を背負い、ルターの書物を持っていたという理由で投獄され、義父の負債で裁判にかけられ 楽器製作に必要な道具を全部取り上げられた。 ついに気が変になり、1683年この世を去った。
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1809年にインスブルックの博物館に陳列されていたガスパロの楽器をフランス兵が略奪、ウィーンへ持っていって居酒屋で同席した貴族の門番にケースごと二束三文で売った。

門番はそれを主人のレスリー伯爵に見せると、伯爵はイタリアの名器と見抜いて買い取った。 この楽器を愛用した伯爵は数年後に頭がおかしくなり、死んでしまった。 さて次は … (つづく)
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バイオリン JP 店長ブログから __ 2012/10/12 スタイナー Jacob Stainer 以下は雑誌『Strad』の受け売りです。

岩塩掘りの息子として1617年に生まれる。 16歳ごろの1633年にある製作者のもとに弟子入りしたと考えられており、現在知られている最初の楽器は1638年製と記されている。 クレモナかヴェネチアの製作者のもとに弟子入りしたと考えられているものの それは研究者の間でも推測の他にならず、はっきりとは分かっていない。

師匠が誰かは謎で、アマテイの影響を受けた人物であるとか、ベネチアにいたドイツ人製作者であるとか、諸説ある。 クレモナにもベネチアにも彼に関する住民登録などの資料は一切残されていない。

しかし イタリアで学んだことだけは有力な仮説だという。 ドイツの30年戦争も影響して1629〜31年 北イタリア飢饉で1/3の人口を失ったベネチアに多くのドイツ系製作者が移住していった。 スタイナーのイタリアでの足取りの詳細は不明ながら、多くの研究者はスタイナーの製作はイタリアの影響を非常に強く受けていると認めている。 アルプスより北ではスタイナーがはじめてクレモナ式の製作過程で楽器を作ったという。 故郷の Absam に戻って工房を開いたのが1638年ころ。

記録ではお金に苦労し引越しを重ねた末、1645年ころに結婚し、1650年に相続で家を入手。 1656年に交換で、以後永住することとなる自宅兼工房に移り住む。 1658年にチロルの宮廷と契約し、宮廷音楽家に楽器を提供することになるが、サラリーではなく製作ごとのコミッションだったという。

ハプスブルク家のオーストリア大公がドイツ語を話す住民の多い地域では はじめてこのチロルにオペラハウスを建設し、オペラ作曲家アントニオ・チェスティの元、宮廷音楽は栄えた。 それとともに宮廷向けに楽器を製作するスタイナーの名声はヨーロッパ中に広がり、スペイン宮廷へも楽器を納入することとなる。

しかし 1668年、異端の書物を読んでいた、教会批判をしたとの告発で有罪となる。 スタイナーはこの告訴を否認するものの、異端者として数ヶ月間、牢に入れられる。 出獄後 宮廷向けに楽器を量産するも、1680年ごろまでには製作活動も下火になり、さらには精神病を患うこととなり、経済的にも不遇の時を迎える。 その間の作品は秀作の誉が高い。 息子もおらず、弟子もなく、一人で製作していたと考えられている。

1682年ころに最後の作品をつくり、翌年、負債を負ったまま他界する。消え去ったレガシーを反映してか、死後5年後に作られた墓石には誤った生年月日が彫られている。
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以上

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