病院で寝て鼻に蒸気を掛けている父。
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2月2日昼過ぎ 見舞いに母と一緒に病院に行って、「はい こんにちはー 来たよ」と父にいっても、相変わらず反応がありません。 父の顔は土気色で顔色が悪い。「こういうのを死相っていうのかな」といいながら、顔をふきます。 濡れ脱脂綿で眼の周りをぬぐうと いつもは強く眼をつぶるが、今日は反応がありません。 唇も赤みがない。 手をふいて離すと パタッと手が倒れます。 全然 筋肉が機能していません __ おや~元気ないな。
ナースステーションへ行って、担当医に病状を聞きたいと告げます __「父の顔が土気色で唇も赤みがないのですが ...」「担当医が今日は病棟にいないので直ぐに連絡がつかないのですが ...」「3時頃まではいますので連絡がつけば お聞きしたいと伝えて下さい」と伝言を頼みました。
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額は普通に暖かいが、体温計で脇の下を計ると39度を越えています。 氷枕をしているが、ここ2~3日 体温が下がりません。 口を開けたままも同じですが、口の辺りに手をかざすと 息を吐いている感じが薄いか __ ありません。「どうも呼吸が弱いな」というと、母が手首をとって脈を診る。「脈がないようだよー」と両手を診ても同じだといいます。
「ナースステーションへ行って看護士を呼んできて」と母に頼見ます。 看護士がやってきて色々と処置するが、どうも芳しくない様子です。 担当医もやってきて心臓に聴診器を当てたり、瞳孔を診るが ...「亡くなられています」でした。 そうか、我々が来た頃かその直前に老衰で死んだんだ (担当医の所見は肺炎でした)。 看護士や担当医は「午前中は反応があったのですが ... 我々の力が及ばず 申し訳ありませんでした」といってくれました。
12月下旬 肺炎で緊急入院してから徐々に衰弱が進み、我々家族はいつか "その時" が来ると予想していました。 だから父の死も驚くことなく受け入れることができます。 これが突然だったら、驚きや悲嘆が急にやってくるから、慌てふためいていただろう。
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2月2日~3日は葬儀場に安置 __ それから通夜 (4日) 告別・火葬 (5日) して、家代々の墓がある隣県へお骨を持って行き (6日)、読経・納骨 (7日) という儀式が待っています。 人間、死ぬにも色々と手続きが必要でそうそう簡単には休めません。 これら葬儀場とお寺それぞれ二箇所の手配でてんてこ舞いでしたが、ここ3年あまりの間に 叔母と父の葬儀の喪主と、私は2度も経験したことになります。
父はこの7日で満89歳になるところで、十分にその寿命を生きて、思い残すことはなかっただろうと解釈しています。 いや あったかな __ 本人もそれを意識していたのか いなかったのか、それはもう分かりません。 苦しまずにロウソクの火が消えるように亡くなったのが、せめてもの慰めです。 本人は死を感じなかったと信じています。 感じられないほど神経も機能しなかったでしょう。
最後に話したコトバは、1月10日に母が知り合いと見舞ったとき、「○○です 分かりますか」に対し、「… 分かるよ」でした。 その後は殆ど寝ているか、時折薄目を開けるだけで反応らしい反応はあまりなく、吸い飲みを唇に持って行くと、飲みたい時は少し飲み、飲みたくない時は首を微かに振るか手を振っていました。 人間らしい会話・感情・機能が徐々に失われていく __ これが寿命を全うするということなのでしょう。 病院からの電話「容態が急変」で駆けつけることもなく、「ご臨終です」もなく、苦しむところを殆ど見ずに済んだのが家族にとっても救いでした。
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告別式会場では、リクエストした モーツァルト他クラシック曲/社交ダンス曲/フォーレのレクィエムなどをエレクトーンで生演奏してもらいましたが、雰囲気にあったいい演奏でした。 父も喜んでいたでしょう __ 今は墓の中で休んでいることでしょう。 独り住まいになりましたが、母もやっとゆっくりと休めますよ。
今日はここまでです。