シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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カルショーが戦争レクを制作した経緯は?

2024年12月06日 | 音楽関係の本を読んで
上左から 『戦争レクイエム』ジャケ、作曲者のブリテン、ピアーズ、ディースカウ、ヴィシネフスカヤ。 下左から 『戦争レクイエム』別ジャケ2つ、カルショー。
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『戦争レクイエム』をプロデュースしたカルショーは (例の如く?) 予期せぬ苦労に遭います。
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ウィキペディアから __ ブリテンは作曲にあたり、テノールの P. ピアーズ、かねてから親交があったドイツのバリトンのフィッシャー=ディースカウ、ソ連のソプラノの G. ヴィシネフスカヤの3名が独唱者として歌うことを念頭に置いていた。
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デッカのトップは、録音費用を安価にするために初演のライヴ録音をカルショーに検討させますが、派遣されたエンジニアは教会での音響が不向きとの判断をします。 このトップは、音楽への情熱よりも費用の事しか頭にないのが解ります。
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1962年 コヴェントリーの聖マイケル教会の初演は、ピアーズ、ディースカウ、H. ハーパー (ソプラノ) の3名の独唱者、M. デイヴィス指揮バーミンガム市交響楽団、コヴェントリー祝祭合唱団、その他によって行われた。 ヴィシネフスカヤの出演はソ連当局が拒んだ。 初演は BBC がモノラル録音し、2013年にテスタメント社が CD 化した。

1963年 ロンドンのキングズウェイ・ホールで カルショーの制作でデッカにより録音された。 ヴィシネフスカヤの参加が可能となり、ブリテンが構想した理想的な独唱者が一堂に会した。 オーケストラはバーミンガム市響からロンドン響に変わり、指揮はブリテンが行った。
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「問題は、ヴィシネフスカヤ以外の出演者がこの作品を何度か歌っていたのに、彼女だけ歌っていなかった事だった。 自分がバルコニーに配置され、合唱団の中央で歌うと知った時 問題が起きた。 しかも猜疑心が強い性格だった。

ピアーズ、ディースカウは器楽合奏と共に演壇にあり、自分の場所もそこだと思い込んだのだ。 彼女はある種の差別、彼女の声を弱めるためと解釈した。 彼女はあちこちに電話をかけ、男性歌手達と同じ場所をもらえなければ帰ると宣言した。

ここで 彼女はこの作品について何も知識がない事に気が付いた。 説明しようとしたが、段々といい訳じみてしまい、やがて彼女は我を失い 床に倒れて叫び始めた。 最初のセッションは何も録音できず、彼女の叫び声がホール内を貫いていた。

翌朝 セッションの計画を変更しようとしたら、前日の事件など何も無かったかのようにヴィシネフスカヤが現れ バルコニーの位置につき、録音は予定通り完了した。 彼女の歌は素晴らしかった」
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カルショーはブリテンが意図した音楽の遠近感を出すため、混声合唱とソプラノ独唱はオーケストラ後方のバルコニーに配置し、男性独唱と室内オーケストラは指揮者の後方に、児童合唱はバルコニーの角に配置するなど、セッティングを重視して録音を行った。 この独特なセッティングは思わぬトラブルも招いた。 初めて参加したヴィシネフスカヤが、ソリストのうち 自分だけ立ち位置が違っていることを差別だと誤解して激しく取り乱した。 翌日 ヴィシネフスカヤの誤解は解け、録音に参加した。
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「最後に アルバム・デザイン担当部が、節約しようと美術学校を出たばかりの若者たちにカバーを作らせた。 塹壕戦での流血の場面が描かれた。 続くデザインは、兵士たちが素肌を
多く見せ、M. モンロー風の天使が描かれていた。 どれもゾッとする出来だった。

私は総譜の表紙が漆黒で、4つの言葉 “ベンジャミン・ブリテン __ 戦争レクイエム” で書かれていたのを見、完璧だったのに気が付いた。 美術部担当は私がふざけていると思った。 よく考えてくれと彼の席を離れた。

翌日 私はデッカのトップの前に立っていた。 彼の持つ受話器の向こうには、もう1人のチューリヒ在住のトップがいた。 2人の議論は “売れるはずもない現代音楽に多額の経費をかけ、作曲者名と作品名以外 何の情報もない、白黒カバーを私が求めたのは問題だ” という事だった。

チューリヒはかんかんに怒っていたが、トップは受話器を耳から離して怒鳴り続けるままにしていた。 彼が音楽家たちの名前をカバーの背面に掲げたらどうかと訊いてきたので “素晴らしいアイディアです” と応え、私の提案通りにカバーは印刷された。

プレス枚数の決定権を持つ トップ部下の業務執行取締役が、命じた最初のプレス数は数百セットだったので、国内市場だけで消えてしまった。 発売2週間後には 英米で品切れとなった。 米国ではロンドンから運んだマスター盤でプレスを開始した」

『戦争レクイエム』のレコードは、発売から1年で20万枚というクラシック音楽としては異例の売上を記録し、第6回グラミー賞において「クラシカル・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「最優秀合唱 (オペラを除く) パフォーマンス賞」、「最優秀クラシック・コンテンポラリー・作曲賞」の3賞に輝きました。
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カルショーは、デッカ内部では主任プロデューサーという地位だったのですが、アーチストと契約する権限は持っていませんでした。 EMI の W. レッグのように契約する権限を持っていたら、もっと早く多くのアーチストたちをデッカに取り込めたかも知れません。

カラヤンの『アイーダ』アルバムでも 当初の “安っぽいデザイン” に異を唱え、撤回させています。 デッカはカルショーに主任以上の権限 (アルバム・デザインにも口を挟める) を与えた方が結果的に良かったと想像しますが、(恐らく百人程度の小企業を牛耳る) トップの2人は、そこには頭が回らず 利益を上げる事にしか関心が無かったように感じます。

彼らがもっとアーチストや曲に目が向いていれば、カラヤンがデッカを離れずに もっと VPO と録音を増やしていたかも知れませんね。
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音楽家にはならなかったが (なれなかった?)、レコード向け録音の仕事に関わり、数々の名盤を制作、多くの苦労もしたが、業界人として立派に仕事をやり抜いたカルショー像が浮かんできます。 (若い頃の銀行での経験が活きて?) 上司や音楽家とも大きく衝突しない性格も好影響したのではないでしょうか。

続く

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