*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之
「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」を複数回に分け紹介します。4回目の紹介
原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-
1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。
事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、
一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。
死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。
そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、
あまりにも生々しく記録されていた。
(P3「まえがき」から)
「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」
2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。
「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。
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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査」の紹介
前回の話:ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 ※3回目の紹介
当時の運動の中心人物で、かつてウラン鉱山で働いた経験もあるナシ農家の榎本益美さん(77)が振り返る。
「動燃は、住民を懐柔するためにありとあらゆる手段を使ってきました。動燃職員が地区の区長ら有力者を隣町の温泉に招き、飲ませ食わせの接待をしていた。最初はみんな残土の全面撤去を求めていたのに、コロッと態度を変え、『反対運動なんてやめろ』と言ってくる人もいました。私も、自宅を訪ねてきた地元の町議から『1千万円出すから、もう黙っていてくれ』と言われたことがあります。それでも工作がうまくいかないと、町長や町議会の有力者が個別に住民を説得することもあった。『撤去しないで現地保管でいいんだ。それで納得しろ』と強要されたこともありました」
放射性物質を含む残土の処分は、それを運び出した先の地域でもさらなる反対運動を招くため容易ではない。動燃はウラン残土を「捨石」と呼び、なんとか地区内に置いたまま処分したことにしてごまかすつまりだった。それには、地元の同意が不可欠だった。
方面地区の反対運動を突き崩すために、いかに自分たちの意向に沿う住民を地元で増やしていくかーそのために動燃が地元住民たちに仕掛けた「工作」を書き記したのが、冒頭の極秘資料だったのだ。
問題の資料では、地区のほぼ全員にあたる20世帯の住民について、
①氏名(TEL) ②生年月日(才) ③職業 ④PNC(動燃の略称)に対する理解 ⑤人脈・本人に対する工作 ⑥家族関係 ⑦地権の有無 ⑧備考
の8項目に分け、詳細に調べ上げていた。まさに「思想・素性調査」リストである。
とりわけ、反対派住民の記述は詳しく、入念にマークしていたのがよくわかる。先の榎本さんについては、特に大きなスペースが割かれていた。
<昨年(88年)8月15日以来、反対の筆頭に立っている><元鉱山労働者として放射能の恐ろしさをPNC(動燃の略称)が教育していなかった等、被害者意識が強く、市民グループ、社会等、プレス等をバックに「全面撤去」を主張し、全区民を巻き添えにしている>
この内容からも、榎本さんに対する動燃の敵対意識がひしひしと伝わってくる。リストの項目④「動燃に対する理解度」は、当然<×>となっていた。
※続き「第1章 ウランの里「人形峠」で行われた戦慄の住民思想調査 」は、12/8(月)22:00に投稿予定です。