*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之
「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、
「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」
を複数回に分け紹介します。16回目の紹介
原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-
1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。
事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、
一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。
死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。
そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、
あまりにも生々しく記録されていた。
(P3「まえがき」から)
「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」
2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。
「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。
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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)
前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※15回目の紹介
それでは、西村氏はなぜ記者会見で事実とちがう発表をしたのか。それは西村氏個人の判断だったのか。
いくつかのヒントが残されている。
まず、先ほど書いたように<もんじゅ事故に係る調査>の時系列表には、12月25日に「本社2時ビデオ」の存在が理事長に報告された、とはっきり書かれている。
ところが、これと矛盾する資料があるのだ。西村氏の会見の直前、1月12日午後5時半に作成された「想定問答集」には、「本社2時ビデオ」の存在を本社が知ったのは、
<12月22日から1月11日の調査の過程で判明>
と、あいまいにぼかされている。さらに、なぜすぐ発表しなかったのかと聞かれたときの答えとして、
<記録が十分ではなく、関係者の話を総合し事実を把握するのに時間がかかった>
という言い訳のコメントまで考えられていた。
結局、理事長へ報告した時期についてはこう書かれていた。
<理事長等へは、昨日概要報告、本日最終報告>
つまり、「1月11日」に初めて報告されたことにしていたのだ。
実は、これは当時の動燃にとってもっとも隠しておきたいポイントだったと思われる。
そもそも、数々の隠蔽で世論の総攻撃を受けるなか、12月25日に発覚していた「本社2時ビデオ」の存在を1月12日まで公表しなかっただけでも”炎上”は必至。さらにこの間の12月27日、衆参両院の科学技術委員会に参考人として招致された大石理事長は、「本社2時ビデオ」の存在を公表せず、ひた隠しにしていた。
もし、理事長が12月25日の時点で「本社2時ビデオ」の存在を知っていたという事実が発覚したら、どうなっていただろう。大石理事長の更迭は避けられず、悪くすれば動燃の生命線である「もんじゅ」の廃炉まであり得る情勢だった。
1月12日、西村氏の直前に会見した大石理事長は、「本社2時ビデオ」について「本社上層部はこのビデオの存在を知らなかった。そのことは断言できる」と説明。詳細は担当者に答えさせるとして席を立ち、西村氏は会見を引き取った経緯がある。
こうした状況から、トシ子さんは、
「夫は会見でウソを言うように強要されたのではないか」
との懸念を強くした。
※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/17(月)22:00の投稿予定です。