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原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

動燃「工作」体質の起源 ※4回目の紹介

2014-11-21 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第6章 動燃「工作」体質の起源」を複数回に分け紹介します。4回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第6章 動燃「工作」体質の起源」の紹介

前回の話:動燃「工作」体質の起源 ※3回目の紹介

 このリストでは、81年度、82年度のそれぞれに<判定>の項目が設けられ、「A」「B」「C」「観」などとマークがつけられていた。どうやら、共産党に近いと思われる順にランク分けがなされていたようだ。「観」の印は、「経過観察」といったところだろう。

 そして、この「思想チェック」には”ネタ元”があった。リストの右上に、こんな「但し書き」がされていたのだ。

<「良」は良識派 「勝」は勝田署 「公」は公安調査庁 「県」は県警 の情報を基にする>

「良識派」については後で詳しく述べるが、その言葉から想像されるような、一般的な良識のある人間のことを指すのではない。共産党に対抗するために動燃内部に作られた「秘密組織」の名称である。

「勝田署」「県警」は、それぞれ東海村に隣接した茨城県勝田町(現・ひたちなか市)にある茨城県勝田署(現・ひたちなか西警察署)と、茨城県警本部のことだろう。

 さらに、公安調査庁からも情報を提供されていたという。公安調査庁は法務省の外局で、破壊活動防止法などに基づき、過激派や新興宗教などの監視を行なっている団体だ。活動範囲は公安警察と重なるが、警察が持つ逮捕権などを持たない別個の団体である。

 公安警察も公安調査庁も、日本共産党を監視対象にしていることは以前から知られている。動燃はこうした公安当局から、情報を得ていたのだ。

 そのことは、ランク判定の<理由>の項目の、次のような記述からも裏付けられる。

<「勝」 S(県議の名)宅へ出入り多し。○○祝う会出席 I宅出入り多し 57(82年か)役選時プラカード持ち>
<「勝」 北部活動者会議へ出席>

 このように、動燃職員は公安警察によって細かく監視されていたことがわかる。

 もっとも、<理由>の項目の大部分は「良」マーク、つまり動燃職員で作る「良識派」からの情報で埋められていた。

<「良」 創価学会・・・反共>
<「良」 選挙時に○○、○○に近い>
<「良」 日共 村儀選の頃、S宅に出入り>
<「良」 同調者か民青 勝田で手話の会(ボランティア)>

 自前の「スパイ網」である「良識派」も、かなり協力、かつ大規模なものだったようだ。職員らは、一挙手一投足を監視されていたのである。

※続き「第6章 動燃「工作」体質の起源 」の紹介は、11/25(火)22:00の投稿予定です。


動燃「工作」体質の起源 ※3回目の紹介

2014-11-20 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第6章 動燃「工作」体質の起源」を複数回に分け紹介します。3回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第6章 動燃「工作」体質の起源」の紹介

前回の話:動燃「工作」体質の起源 ※2回目の紹介

◎「公安警察」から教わった”スパイ心得”

 日本共産党はかつて「暴力革命」や「社会主義革命」を肯定していた時期があり、冷戦下、ソ連や中国など東側諸国とのつながりも深かった。こうした経緯から公安警察の監視対象となり、その状況は現在まで続いているといわれている。「対共産党」という面では、動燃と公安警察は利害が一致し、協力関係にあったと考えられる。

 西村氏が東海事業所に配属された80年代前半当時、動燃内部では、若手職員の間で浸透しつつある共産勢力に警戒感を強めていた。

 章の冒頭のU巡査部長からの聞き取りメモの続きを見ていくと、公安警察も「原研」を”ターゲット”としてマークしていたことがわかる。

<原研東海を洗っている中で、動燃がその延長線上で活発化しており、現在、党勢拡大に必死になっている。従来、原研に主力を置いていたが、これから動燃も力を入れていきたい>

<原研大洗S、Nは民青、Iは党員である>

<新左翼の戦略の中で原子力関係機関があり、スキあらば人間の送り込みを図っている。その場合、職員でダメなら下請企業ということが含まれている。かつて活動家であったというものは完全に切れたといは言えない>

 民青とは日本共産党の青年組織である日本民主青年同盟のことである。公安警察は原研の内部を「洗って」、誰が共産党員かを調査していたのだ。

 そしてなぜか、動燃職員に”スパイ心得”のようなことまで教示している。

<生きた情報の決め手は、直接接して取ることである。しかも、より活動家へ近づく(シンパ→民青→党員)ことが勝負である。「だろう」ではダメ、「・・・だ」がポイント。フィルターを通した情報は限界がある>
<情報交換はギブ・アンド・テイクが原則。一方的なことではない>

 公安警察から伝授された”スパイ技術”は、動燃内部で実際に使われていた。80年代前半、動燃東海事業所労務課の主要な関心事は、職員の中の共産党員をあぶり出すことだったのである。

「西村ファイル」の中にあったタイトルのない、B4判13枚にわたる一覧表。そこには、動燃東海事業所所属の134人の職員がリストアップされていた。

 氏名・所属部署の横には、<日共><日共か民青><同調者・元民青ではないか><センスは日共か民青><質の悪い日共><社会党左派の流れ><変人><隠れた部類 判断しかねるが要観察><改心はしている感じ>などとある。リストは第一章の人形峠事業所で行われた方面地区住民への「思想チェック」とそっくりだ。「思想チェック」源流には、動燃が抱える組織的な”体質”があったのではないだろうか。

※続き「第6章 動燃「工作」体質の起源 」の紹介は、11/21(金)22:00の投稿予定です。


動燃「工作」体質の起源 ※2回目の紹介

2014-11-19 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第6章 動燃「工作」体質の起源」を複数回に分け紹介します。2回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第6章 動燃「工作」体質の起源」の紹介

前回の話:動燃「工作」体質の起源 ※1回目の紹介

◎もう一つの研究機関「原研」との因縁

 広瀬氏の話に出てくる日本原子力研究所は、2005年に核燃料サイクル開発機構(旧動燃)と統合され、現在は日本原子力研究開発機構(JAEA)となった組織だ。設立は、日本の原子力政策の黎明期である1956年。茨城県東海村に研究所を設け、原発にかかわる研究を行なっていた。

 ところが、原研は次第に、日本共産党の影響下にある労組「原研労」が主導権を握るようになっていく。広瀬氏が続ける。

「反核のイメージが強い共産党も、かつては原子力の平和利用に限っては賛成の立場で、”原発推進派”だったのです。ただ、核兵器の開発につながるプルトニウムを燃料とする高速増殖炉の開発には反対の声が強く、日本政府の方針である『核燃料サイクル』の推進を、原研には任せられなくなったわけです」

 そこで目をつけたのが、原研と同じ56年に発足していた原子燃料公社。当初は人形峠でのウラン採掘などが主な業務だったこの団体を発展させ、原研に代わる「核燃料サイクル」開発のための組織として立ち上げたのが、動燃だったのである。

「そうした経緯もあって、動燃はただの研究開発機関とは性格が違う。資本家対労働者、対左翼という発想が強く、『核燃料サイクル』の実現を妨害する反対派を抑えこむためには、無茶な工作をしても許される、という傲慢な言動が生まれてきたのです」(広瀬氏)

 確かに、「西村ファイル」の中には、原研を敵視・警戒するような記述が随所に見られる。第5章で指摘したように、輸送船「あかつき丸」に関する情報をどれだけ説明するかランク付けした際も、「原子力ムラ」の”身内”であるにもかかわらず、原研だけ「B」ランクになっていたことが思い浮かぶ。

※続き「第6章 動燃「工作」体質の起源 」の紹介は、11/20(木)22:00の投稿予定です。
公安警察から伝授された”スパイ技術”・・・
<生きた情報の決め手は、直接接して取ることである。しかも、より活動家へ近づくことが勝負である・・・フィルターを通した情報は限界がある>


動燃「工作」体質の起源 ※1回目の紹介

2014-11-18 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

第6章 動燃「工作」体質の起源」を複数回に分け紹介します。1回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「第6章 動燃「工作」体質の起源」の紹介

◎公安体制「総勢60名」にじむ左翼への敵視

 動燃の「工作」体質の起源はどこにあるのだろうか。それを「西村ファイル」からたどっていくと、1980年代前半、西村氏が茨城県東海村の動燃東海事業所の管理部労務課に配属されていた時の資料に行き当たる。そこには当時、動燃が「敵」とみなしていた日本共産党との、公安当局も巻き込んだ泥沼ともいえる闘争の記録が残っていた。そのことが一目でわかる、こんな資料から紹介しよう。

<公安体制
(1)総勢60数名 第一線情報収集部隊は33名である
(2)原研情報筋の固めとして、本庁から表彰を受けることになった。併せて、県警本部内でも公安は受けることになった
(3)来年、課長の人事異動がある 後任は勝田署長(?)>

「公安体制」と書かれていることからもわかるように、この書類は警察筋からの情報を、動燃職員が聞き取ったメモ書きである。

 タイトルは「労務情報について(メモ)」。83年12月21日に作成され、聞き取り相手はU主任(巡査部長)となっている。手書きで「マル秘」のマークが書かれている。

 それにしても、総勢六十数名の「公安体制」とは物々しい。いったい何のことなのか。なぜ警察の秘密情報を、動燃職員が”共有”しているのだろうか。


 日本の警察組織の中には、左翼・右翼の過激派や新興宗教団体によるテロ、外国のスパイ行為などの危険性に対処することを任務とする公安部門が存在する。警察庁警備局を筆頭に、最大組織の警視庁公安部、各道府県警本部や、その下の各警察署の警備部と、ピラミッド構造の全国組織が形成されている。

 70年代の学生運動の際、過激派の動向を把握し、対処すべく執拗な捜査を繰り広げていたのは彼らである。90年代後半には、オウム真理教をめぐる一連の事件の際に警視庁公安部が捜査を担ったことで一般人にも広く存在を認知されるようになったが、具体的な活動内容が公表されることはなく、その全容は今も謎に包まれたままだ。

 日常の業務としては、身分を隠して過激派などの動向を尾行・監視したり、相手組織内に協力者を作って情報提供させたりといった活動をしているとされる。いわば警察内の「スパイ部門」ともいうべき組織なのである。

 前掲の資料からわかることは、動燃がそうした公安警察の関係者と、逐一情報をやりとりしていた、ということだ。こうした動燃の体質について、反原発市民運動の経験に長く携わってきた広瀬隆氏が解説する。

 「実は、動燃の成り立ちからして曰くがあるのです。もともと日本の原子力分野では、日本原子力研究所(原研)という研究開発機関が先に設立されていましたが、やがて共産党系の労働組合に主導権を奪われてしまった。そこで、原研に対抗するために新しく設立された組織が、動燃なのです」

※続き「第6章 動燃「工作」体質の起源 」の紹介は、11/19(水)22:00の投稿予定です。
公安警察から伝授された”スパイ技術”・・・
<生きた情報の決め手は、直接接して取ることである。しかも、より活動家へ近づくことが勝負である・・・フィルターを通した情報は限界がある>


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※17回目の紹介

2014-11-17 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。17回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※16回目の紹介

 トシ子さんら遺族が動燃を相手どって起こした訴訟でも、この点が争点になった。西村氏が虚偽の発表を強いられたことが死につながった、と訴えたのである。

 裁判に証人として出廷した大石元理事長や大畑元理事らは、

「理事長は西村氏に、正直に話すよう指示した」と反論した。

 これは動燃側の一貫した主張である。前述したように、西村氏の死の前日の会見の「想定問答集」では、理事長へ報告した時期を「1月11日」としていた。にもかかわらず、西村氏に対しては「(会見で)正直に(12月25日と)話すよう」指示していたというのだ。T氏がトシ子さんに渡した文書でも、西村氏の”自殺”の原因として、会見で「勘違い答弁」をしてしまったことを苦にしたのではないか、と推察している。

 結局、一審判決は、西村氏の「勘違い」だったとすれば、会見後に誰も発言を訂正しなかったことなどについて「不自然な面があることは否定し難い」と指摘。さらに、大石理事長が12月25日調査チームから報告を受けたことを否定した証言について「信用することができない」と切り捨てた。しかし、会見で西村氏が虚偽の発表をしたのは強要されたものとまでは断定できないとして、遺族の求める損害賠償を認めなかった。

 高裁、最高裁でも一審判決は覆らず、裁判は2012年1月末に終結したが、いくつかの「謎」がいまも未解決のまま残されている。

 当時の動燃幹部はどう答えるのだろうか。残念ながら、大石博元理事長は08年に他界している。取材班は元秘書役のT氏を直撃した。

 ー西村氏は、会見でウソを言うことを強要されたのではないか。

 「会見前の打ち合わせでは、理事長は『すべて正直に言っていい』と指示していた。西村さんがウソを強制されたことはありません。私は理事長のそばにずっといたから。記者からの厳しい糾弾に、つい間違った日付を言ってしまったのではないか」

 ーTさんも同席したトシ子さんへの説明の席で、大畑元理事が青ざめた顔で席を立ったと聞きました。

 「覚えていない。そういう事実があったかどうかという確証はないでしょ?最後まで一緒にいたんじゃないのかな」

 ー遺書の「勘違い」の誤字が、Tさんの書いた「一考察」と同じだったが?

 「私は彼の遺書を見ながら書いたんだから、何も不思議はないんじゃないでしょうか」

 ー西村さんの遺書にあまりにも誤字が多いのも不自然です。

 「漢字能力に欠けてたんじゃないですかね。(西村氏は)文書課長?だからって字を間違えちゃいけないんですか?」

 ー西村さんが受け取ったとされるファクスが消えてしまった。現場にいた大畑元理事がファクスを抜き取った可能性も指摘されていますが?

 「ありえないですよ。あの方はそういう人じゃない。おおらかな、正直な人だから。僕の個人的な推察で申し訳ないんですが、遺品は警察がご家族にお返しになったわけですよね。その中に入っていたんじゃないか。入ってなかったとトシ子さんが言っている?なら、西村氏のお兄さんがマズいんじゃないのかな」

 遺体の第一発見者で、裁判にも被告側証人として出廷した大畑元理事にも話を聞こうとしたが、

 「もう裁判がすんで、一切、報道関係の取材は受けないことにしています。(遺体の状況などは)警察が発表している通りです」

 と取材を拒否した。

 西村氏の死から17年。遺骨は、いまも埋葬されていない。トシ子さんが、死の真相が明らかにされるまで埋葬しないと決めているからだ。動燃を相手どった民事訴訟が終結したいまも、トシ子さんの「疑惑」は少しも解消していない。いや、むしろこの「西村ファイル」の解明でさらに深まっている。

「『もんじゅ』の事故が起きた時、『これは、誰か死人が出るかもしれない』と直感しました。動燃という組織の存続にかかわるほどの大事故でしたから。でも、まさか自分の夫が死ぬことになるなんて思わなかった。夫は絶対に自殺するような人ではない。私は、夫は殺されたと思っています。あの日、何があったのかを突き止めたい。私はまだ、あきらめていません」(トシ子さん)

 住民工作、思想調査、組織選挙・・・これまで本書で指摘してきたように、動燃は「国策」である核燃料サイクルの推進を名目に、さまざまな事実を「隠蔽」し、「秘密工作」に従事してきた。日常的に「ウソ」や「ごまかし」が要求され、原発反対派をつぶすためなら手段を選ばない”秘密の業務”もあった。幹部や職員の感覚は、完全に麻痺していたのではないか。

 その矛盾が一気に噴き出し、世間の批判を浴びたのが「もんじゅ」事故だった。「ウソ」が優先され、「真実」が隠される異常な混乱の中で命を落とした西村氏が、原子力ムラの「工作」の犠牲者であったことは間違いない。

※「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」の紹介は、今回で終了です。

※ひきつづき11/18(火)22:00~「第6章 動燃「工作」体質の起源」の紹介を始めます。
公安警察から伝授された”スパイ技術”・・・
<生きた情報の決め手は、直接接して取ることである。しかも、より活動家へ近づくことが勝負である・・・フィルターを通した情報は限界がある>


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※16回目の紹介

2014-11-14 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。16回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※15回目の紹介

 それでは、西村氏はなぜ記者会見で事実とちがう発表をしたのか。それは西村氏個人の判断だったのか。

 いくつかのヒントが残されている。

 まず、先ほど書いたように<もんじゅ事故に係る調査>の時系列表には、12月25日に「本社2時ビデオ」の存在が理事長に報告された、とはっきり書かれている。

 ところが、これと矛盾する資料があるのだ。西村氏の会見の直前、1月12日午後5時半に作成された「想定問答集」には、「本社2時ビデオ」の存在を本社が知ったのは、
<12月22日から1月11日の調査の過程で判明>
と、あいまいにぼかされている。さらに、なぜすぐ発表しなかったのかと聞かれたときの答えとして、

<記録が十分ではなく、関係者の話を総合し事実を把握するのに時間がかかった>
という言い訳のコメントまで考えられていた。

結局、理事長へ報告した時期についてはこう書かれていた。

<理事長等へは、昨日概要報告、本日最終報告>
 つまり、「1月11日」に初めて報告されたことにしていたのだ。


 実は、これは当時の動燃にとってもっとも隠しておきたいポイントだったと思われる。

 そもそも、数々の隠蔽で世論の総攻撃を受けるなか、12月25日に発覚していた「本社2時ビデオ」の存在を1月12日まで公表しなかっただけでも”炎上”は必至。さらにこの間の12月27日、衆参両院の科学技術委員会に参考人として招致された大石理事長は、「本社2時ビデオ」の存在を公表せず、ひた隠しにしていた。

 もし、理事長が12月25日の時点で「本社2時ビデオ」の存在を知っていたという事実が発覚したら、どうなっていただろう。大石理事長の更迭は避けられず、悪くすれば動燃の生命線である「もんじゅ」の廃炉まであり得る情勢だった。

 1月12日、西村氏の直前に会見した大石理事長は、「本社2時ビデオ」について「本社上層部はこのビデオの存在を知らなかった。そのことは断言できる」と説明。詳細は担当者に答えさせるとして席を立ち、西村氏は会見を引き取った経緯がある。

 こうした状況から、トシ子さんは、

「夫は会見でウソを言うように強要されたのではないか」

 との懸念を強くした。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/17(月)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※15回目の紹介

2014-11-13 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。15回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※14回目の紹介

◎怪死の鍵を握る”謎の記者会見”

 なぜ、西村氏は死に至ったのか。その後の裁判で判明した事実なども合わせて、ここで改めて検証することにしよう。間違いなく言えることは、ここでもやはり、動燃の「隠蔽体質」が、死の謎を解く大きな障壁となっていることだ。

 西村氏の死の直接の原因となったと推測されるのは、死亡前夜(96年1月12日)、科技庁で行われた記者会見だ。

 実は、事故直後の現場を写した「2時ビデオ」は、撮影直後から本社に運ばれて視聴され、その後、保管されていた。「ビデオ隠し」に本社は関与していないというそれまでの説明がウソだったことが発覚したのだ。便宜上、本社に保管されていた「2時ビデオ」を「本社2時ビデオ」と呼ぶ。

 会見でもっとも重要だったのは、その「本社2時ビデオ」の存在を動燃幹部が把握したのはいつか、という点だった。西村氏は、動燃本社が「本社2時ビデオ」の現物を職員の机の中から発見して存在を確認した日付を「96年1月10日」と説明した。ところが、この説明は事実ではなかった。

 調査チームが初めて「本社2時ビデオ」の存在を把握したのは95年12月23日。当時、プラント2課の職員だったK氏が調査チームに対して、

<12月9日AM本社出張者(動開本部M)が2時及び16時のVD(ビデオ)をダビングし、その日の夜行で本社に持ち帰っている>
<遅くとも12月10日午前中の早い時間には本社の関係者は見ているはずである。また、みないはずがない>

 などと証言した時のことだ。

 翌24日には、K氏は自らの証言内容を文書にして、調査チームのS団長に持参。25日に、本社のY副主幹が机に保管していたビデオの実物を調査チームに提出したことが、次のように記録されている。

<(25日)17時頃 Yは反対派対応を終えた後、ヒヤリングを受け、状況説明を行うとともに、問題の2時物ビデオを提出した>

 同日、S団長が大石博理事長に事実関係を報告した。

 この事実は、調査チームがまとめた<もんじゅ事故に係る調査>と題された時系列表の中でも、しっかりと記載されている。

<12月25日(月) 昼頃 S団長から理事長に、本件を報告。本社関係者からも詳しい事情調査をするようにとの指示>

 つまり、理事長がこの件を「95年12月25日」に把握したことは間違いない。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/14(木)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※14回目の紹介

2014-11-12 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。14回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※13回目の紹介

 一連の経緯で特に不可解なのは、”消えたファクス文書”の謎である。

 西村氏は13日未明、ホテルの部屋で動燃本社から5枚のファクスを受け取った直後、3通の遺書を書いて自殺したとされている。ファクスの内容は、前日の自らの会見の内容を文字に起こしたものだった。

 ところが、そのファクスの現物がどこにもなく、いまだ行方不明のままなのだ。トシ子さんの訴訟の代理人となった海渡雄一弁護士がこう語る。

「ファクスには、西村氏は何か重要なメッセージを書き残していたか、あるいは動燃職員が西村氏にあてて何かを書き込んでいた可能性があります。それが記者会見のミスの叱責だったかもしれない。その言葉が西村氏を自殺へ追い詰めたのではないか。そんな重要なファクスが証拠として出てこないのは、あまりにもおかしい」

 トシ子さんは、動燃側に少しでも資料を出させるため、労災保険を申請した。ところが動燃はこれを拒み、担当者も逃げるように接触を避けた。死の経緯について説明を求めても、いっこうに取り合ってもらえない。理事長にも手紙を書いたが、何も返答はなかった。労災申請のために出勤簿を提出してもらうこと一つとっても、「いま調べている」などと理由をつけて数ヶ月も引き伸ばされた。

「動燃がようやく出してきた出勤簿は、なぜか1996年1月の欄だけ夫が普段使っていたものと違う印鑑が押されていました」(トシ子さん)


 4月になってようやく、トシ子さんは大畑理事とT氏の2人に会い、西村氏の死について説明を受けることになった。トシ子さんが振り返る。

「呼ばれた場所は動燃本社近くの居酒屋で、2人はお酒を飲みながら話をした。どういう神経をしているのかと腹が立ちました。Tさんは夫の死について『発作的に自殺をしてしまったんだよ』などと説明しましたが、私が『事実と違うと思います』などと反論すると、黙ってしまった。さらに『主人が受け取ったファクスを返してほしい』と言うと、隣にいた大畑理事は驚いた様子で顔色を変え、席を立った。そして、そのまま一言のあいさつもなく、どこかに消えてしまいました」

 たび重なる不可解な対応だったが、このとき、トシ子さんはT氏から<西村職員の自殺に関する一考察>という文書を渡された。T氏が西村氏の死の原因について考えをまとめたものだった。

<(西村氏が)記者会見に出席した際、プレスから厳しい質問にさらされ回答している中で勘異い当弁をし、その場のムードから素直に訂正が出来ず頑張り切ってしまったのだと推察しました>

 そこには「勘異い」という、なぜか遺書と同じ「誤字」が使われていた。

 トシ子さんの懸念は、さらに深まった。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/13(木)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※13回目の紹介

2014-11-11 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。13回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※12回目の紹介

 葬儀も奇妙だった。遺族は当初、60人ほどの小さな会場を予定していたが、動燃側の要求で数百人が入れる大きな葬儀会場に変更。最低でも車6台分の駐車場が必要だということだった。実際、1月15日に行われた葬儀の参列者は動燃職員を中心に約1500人にのぼり、元科技庁長官・田中真紀子氏や梶山静六官房長官ら政官界の要人が出席し、科技庁事務次官が弔辞を読み上げるなど、仰々しく行われた。

「葬儀会社との打ち合わせで、動燃から弔辞を読むのは4人と言われて、びっくりしました。葬儀会社も『出棺が間に合わない』とおろおろしていた。動燃が一方的に決め、遺族にはほとんど相談もありませんでした」(トシ子さん)

 弔辞を読んだのは、動燃の大石理事長、科技庁の石田寛人事務次官、動燃の元理事で関連企業会長の竹之内一哲氏、そして前出の秘書役T氏であった。T氏は西村氏と同じ中大法学部出身で、西村氏と同期入社。当時、大石理事長の秘書を務めていた。

 4人とも泣きながら弔辞を読み上げた。式場もすすり泣く声が響き渡った。葬儀に参列した動燃職員はこう証言する。

「西村さんには失礼ですが、たとえ動燃の理事長が亡くなっても、あれほどのVIPが参列することはないでしょう」

 だが、弔辞を読んだ4人は誰一人として西村氏と親しい人物ではなかった。

 この一大”セレモニー”を機に、世論の風向きは急速に変わっていく。

「激しかったマスコミの動燃批判の論調がかなりソフトになり、ニュースの扱いも明らかに小さくなっていきました」(前出の元動燃職員)

 動燃の対応は、考えれば考えるほど不可解だった。トシ子さんは不信感を募らせていく。

「葬儀では、動燃が職員以外の弔問客を厳しくチェックしていたらしく、後で何人かから苦情を言われました。さらに『友人代表』として弔辞を読んだTさんが、なぜか直筆の弔辞を回収しに私の家まで来て、ワープロ打ちのものに差し替えていきました。何か不都合なことが書かれていたんでしょうか」

 こうした疑問が積み重なり、トシ子さんはこんな思いにかられるようになった。

「夫の死は政治的に利用されているのではないか。夫は、動燃生き残りのための『生け贄』にされたのではないか」

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/12(水)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※12回目の紹介

2014-11-10 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。12回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※11回目の紹介

 遺体とともにトシ子さんが家に帰ると、自宅にはすでに10人ほどの動燃職員が駆けつけていた。「身の回りの世話をする」と言って家にあがると、遺体を運び込んだり、シーツを敷いてその上に安置したりといった作業を無表情で淡々と行った。その間、自宅にかかってくる電話は職員が受けた。

「彼らは、マスコミの取材に対応する、ということで『家族はいま取り込んでいる』などと言って追い返していました。近所の人の弔問まで断っていた。私が外部の人間と接触したり、取材を受けたりするのを恐れていたようでした。そして、なぜかこの日から家のインターホンが壊れていたのです」(トシ子さん)

 この日の午後、当時の動燃理事長、大石博氏(2008年に死去)が記者会見で、西村氏が自殺したと発表。自分宛に書かれた遺書を読み上げた。ところが、あろうことかその内容も「改ざん」されていた。

<ビデオの編集の件が事故から事件に変えた最大の要因であり、動燃の体質論までに捉えられてしまったことはプロパー職員の一人としても残念でたまりません>(オリジナル)
<ビデオの編集の件が事故から事件に変えた最大の要因であることを残念に思います>(理事長読み上げ)
<私の勘異いから、理事長や役職員に多大の迷惑、むしろ「本当のウソ」といった体質論に発展させかねない自体を引き起こす恐れを生じさせてしまった>(オリジナル)
<私の対応のまずさから、深刻な事態を引き起こす恐れを生じさせてしまった>(理事長読み上げ)

「本当のウソ」「体質論」などの文言が削除されたり、勝手に加筆、入れ替えなどがなされ、10カ所以上の表現が変わっていた動燃にとって、それほど不都合な内容だったのか。ビデオだけでなく、遺書までもが「工作」に利用されていたのだ。


 残された遺書自体にも、不自然な点がいくつかあった。

まず、筆跡が一部、本人のものと違っていた。西村氏の時間の書き方は独特で、「西村ファイル」の文書ではどれも「時」よりも「分」の数字が小さく書かれ、「分」の下に下線が引かれていた。ところが、遺書はこの書き方ではなく、普通に記述されていた。

 また、遺書の中には「勘異い(勘違い)」「反展(発展)」「遠り越し(通り越し)」と、いくつかの誤字が見られる。この点、トシ子さんは首をかしげる。

「長年、文書課で役所に提出する書類をチェックする仕事をしていたから、夫は誤字、脱字には厳しかった。いくら気が動転していても、こんな書き間違いはしないはずです」

 2人の息子について「子供達をよろしくお願いし、お別れとします」としか書かれていなかったことや、遺書が動燃の社用の便箋に書かれていたことも不自然だった。

「当時、次男は成人式を2日後に控えていて、夫もスーツ姿を見るのを楽しみにしていた。そのことにもまったく触れず、子供達の名前も書かなかったのはおかしい。律儀な性格の夫が、社用の便箋を遺書に使ったというのも違和感があります。カバンの中に残った遺品には、ノートなど記録用の紙が一枚もなかった。翌日、出張に行くというのに、そんなことがあり得るでしょうか」

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/11(火)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※11回目の紹介

2014-11-07 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。11回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※10回目の紹介

◎「謎の死」の後の不自然な対応

 ビデオ隠し問題の内部調査を続けていた西村氏は、96年の年明けから再開された調査に忙殺され、自宅に帰ったのは1月8日と12日の2日間だけだった。そしてこの12日が、トシ子さんが西村氏に会った「最後の夜」となってしまった。

「11日の深夜11時ごろに電話をかけてきて、『明日の科技庁長官就任の所信表明を録画しておいてくれ』と言われました。日付が変わった12日午前1時ごろにようやく帰ってきましたが、寝顔を見ると相当疲れていた。出社は遅くていいと言っていたのに、いつもどおり午前7時半には起きて出社しました。忙しくて言葉は交わせませんでしたが、ドアを開けて出ていく背中が、夫を見た最後になってしまいました」(トシ子さん)

 その翌日の13日早朝、西村氏は東京都中央区のビジネスホテルの非常階段の下で、変わり果てた姿で発見された。12日に科技庁内であった「ビデオ隠し問題」についての記者会見を終えた後、翌日の敦賀出張に備えて、帰宅できずに宿泊していたのだ。

 遺体の第一発見者は、出張に同行するために同じホテルに宿泊していた大畑宏之理事。早朝6時、約束の集合時間になっても西村氏がロビーに降りてこないことを不審に思い、フロントで鍵を借りて8階の部屋に入ると、西村氏の姿はなく、遺書らしき3通の文書が残されていた。

 慌てて西村氏の姿を探すと、非常階段の昇降口付近でスーツ姿の西村氏がうつぶせに倒れているのを発見。西村氏は救急車で病院に運ばれたが、死亡が確認された。遺書が残されていたことなどから、警察は自殺と断定。司法解剖などは行われなかった。

 トシ子さんが当時を振り返る。

「動燃の理事から『西村が死亡しました』と電話で告げられ、思わず受話器を取り落としてしまいました。その後、『お宅にハイヤーを向かわせたので用意して待つように』と再度、電話がありましたが、とても信じられませんでした。病院の霊安室で対面した夫の遺体は、8階から飛び降りたとは思えないほど損傷が少なくて、アザや擦り傷があちこちにあった。夫のカバンとコートは、何故か警察ではなく、その場に現れた大畑理事から渡されました。大畠理事は『私がいたのにこんなことになってしまって』と、青い顔をしていました」

 警察官から渡された遺品は、白い封筒一つだった。中に入っていたのは、西村氏の腕時計と小さな鍵と財布、身分証だけ。衣服や、遺書を書いたはずの万年筆などその他の遺品がどこへいったのか、いまもわからない。

 遺書は動燃理事長、トシ子さん、動燃秘書役のT氏に宛てた3通だった。

 直後は気が動転していたトシ子さんだが、時間の経過とともに落ち着いてきた。驚いたのが動燃側の対応の”異様さ”だった。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/10(月)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※10回目の紹介

2014-11-06 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。10回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※9回目の紹介

 見過ごせない問題はまだある。

 資料を見ていると、動燃は事故直後から真相を隠蔽する方向で動いていたことがよくわかる。当時の「もんじゅ」のプラント2課長M氏の聴取記録によると、最初に事故現場に入る前に、S副所長とこんなやりとりをしたのだという。

<消防には入らせないようにしようということになった。(中略)何とか動燃だけ入って消防を入れさせないようにするため、入口付近を覗くだけだし、消防は防護具やその使い方を知らないので不慣れであるから動燃だけ入れさせてくれと自身で消防に要望した>

 事故直後、配管から漏れ出したナトリウムが建屋のあちこちで炎上し、現場は白煙に包まれた。火災報知機が鳴り響くなか、いち早く駆けつけた消防に対し、動燃側はそれを拒んだのである。

「ビデオ隠しが一段落して、本社で管理職が集まった時でした。『あの時、消防に中に入ってもらってすべて見られていれば、隠し通せないとあきらめがつき、あそこまで批判されることはなかった』という話が出た。最初に隠そうとしたことが最後まで響いた」(元動燃幹部)

 周囲の状況も考えず頑なに「隠蔽」を優先するこの姿勢は、もはや動燃全体、いや原子力ムラ全体に染みこんだ体質だったのだろう。

 他の職員からの聴取記録を見ても、驚くべき発言が多々あった。たとえば、「2時ビデオ」の隠蔽が発覚した時の動燃内部の会話を、ある職員はこう説明している。

<出すということであれば、M次長が発見した(本部にないとまずい)という話にしようということになった。
[シナリオ M課長が、係員から受け取ったビデオを本部の机に入れて(しまったのが、プラント2課長)、それをM次長が発見したことにした]>

 さらに、プラント2課の職員たちはこんな証言を残している。

<10時入室の件については、河瀬敦賀市長が、朝来所した際にどの位の話をするか緊対本部では悩んでいた>
<市長が帰った後に詳細が判明した方が良いとの判断から、10時入室のストーリーが決まった>
<県・市・消防も2時に入っているのを見ているので、自身は「バレるよ」と言っていた。2時は扉を開けて覗いただけにしようという事になった>

 地元のトップに対してすら「2時ビデオ」の存在をひた隠し、「10時入室」のストーリーをでっち上げる。ナトリウム漏れという大事故が起こり、その収束と原因究明が最優先されるべき局面なのに、「シナリオ」や「ストーリー」という言葉が随所に出てくるのである。こうした聴取記録からは、ウソをつくことへの罪悪感は感じられなかった。

 結局のところ、動燃の本心はこの一言に尽きるのだろう。西村氏の聞き取りに対し、プラント2課のある職員がこう答えていた。
<(ナトリウムの)大漏洩という印象を与えたくなかった>

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/7(金)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※9回目の紹介

2014-11-05 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。9回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※8回目の紹介

◎シュレッダーにかけられていた「プラロイド写真」

 1月3日の聴取記録には、驚くべき新事実も含まれていた。

 事故から約6時間後の12月9日午前2時に職員が初めて現場に立ち入った際、ビデオのほかにポラロイド写真も撮影していた。

 当時の報道では、現場の職員が「写真は煙ばかりでよくわからなかったので捨てた」と説明している。漏れ出したナトリウムが煙状に広がり、何も写っていなかったのだという。S副所長の聴取記録にも、
<ポラロイドはとったが皆真白でダメだった>
と、同じ趣旨の発言が書かれていた。

 ところが、である。当時の「もんじゅ」技術課長の聴取記録を見ていくと、これらの証言とまったく違うことが書かれていたのだ。

<県の調査の前に副所長はポラロイド写真をシュレッダーにかけさせていた。2時のポラロイドは後で強引に出させて見たがチャントうつっていた>

 副所長は「2時ビデオ」の隠蔽どころか、現場の重要な証拠となるポラロイド写真まで破棄させていたのである。

 このポラロイド写真のことが表に出るのは、聴取記録を見る限り、この時が初めてだった。聴取によって新たに重大な「隠蔽」が発覚したというのに、その後、動燃がこの問題について調査したり、発表したりした形跡はまったくない。当然、97年7月にようやくまとめられた動燃の調査報告書でも一言も触れられていない。

 もしも、この事故が刑事事件になっていれば、これは立派な証拠隠滅ではないか。指示したS副所長や実行した担当者が罪に問われる可能性が十分にある、重大な事案だ。

 取材班はこの件についてJAEAに質問したが、「現時点では確認できない」と言うばかりだった。結局、この「幻のポラロイド写真」は闇に葬られてしまったのである。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/6(木)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※8回目の紹介

2014-11-04 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。8回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※7回目の紹介

 だが、S副所長が明らかに自らの意思で「隠蔽」に動いていたことは、他の職員の聞き取り調査の記録からも明白だ。

<大学の先輩・後輩の関係からか、S副所長からY副主幹に12月11日(月)頃電話があり、「2時ものビデオはしまっておけ」と言われた。その時、管理課Iの机の引出しから、Yの引き出しに保管場所を変えた。また、12月22日(金)に同じくS副所長から電話連絡があり2時ものビデオ抹消を指示された>

しかし、この「Y副主幹」はS副所長の言う事を聞かず、自分の判断でビデオをそのまま所有していたのだ。


 S副所長の役割は、これだけではなかった。この「2時ビデオ」の隠蔽どころか、「16時ビデオ」の改ざんもS副所長の指示だった。

<プレス公開用の編集はSが指示した。(1分といった訳ではない)>
<県市が4時の立入りのマスター(ビデオ)を見せろとなるので、(中略)4分もの(結果的に4分)を編集するよう担当者に指示した>

 S副所長が、ビデオ改ざんに対して罪悪感を感じていなかったことは、12月23日の聴取記録にはっきりと残されている。

<私としては本編集は正しいものと理解しており、P2課(プラント2課)職員あるいは技術者であれば同様な編集内容になったものと考える>

<また、生のテープをそのまま提出すれば彼ら(マスコミ)の情報公開かも知れないが、結果としては別の騒ぎになったものと考える>

 つまり、真実を公表することによって起きる「別な騒ぎ」を恐れて、ビデオを改ざんしたのだというのだ。

 S副所長とO所長は「16時ビデオ」について、こんなやりとりをしていた。

<(編集の)指示は、S副所長がした。所長が承認した>

<映像が生々しいのでやめようという話になった>


 しかも、聞き取り調査でS副所長は、交通事故を例えに出して自らの考えを正当化していた。彼らの思考パターンが如実に表れた発言なので、ぜひ注目してほしい。

<交通事故の報道を考えた場合、事故後における損傷した車両の映像や道路等に付着した血痕は報道されるが、人体が分離したような映像は放映されないものであり、後日正式な報道により事故時の状況が文章にて報道されている。

 今回も、ある一定の情報をPNC(動燃)より提供し、事故の調査結果とともに事故時の状況を正確に伝えるべきものであったと考える>

 この論理、二つの点でおかしい。まず、ナトリウムで真っ白に覆われ、排気ダクトに穴があいた現場の映像は確かに生々しいが、損傷した人体の画像とはまったく別次元のものだ。むしろ、事故の重大性を正しく伝えるためには、たとえショキングでも公開する必要がある映像である。

 もう一つは、この交通事故の例えに当てはめるならば、動燃は事故を起こした加害者にあたるという点である。

事故の当事者である加害者の判断で、「ある一定の情報」を選別するのは明らかにおかしい。

 S副所長が語った「反省」の項目には、このように書かれていた。

 <現場、来客対応、プレス対応等、明確に分担をわけて欲しい。現場の人がプレスに責められるとポロッと出る>

 真相を「ポロッ」と語ることがまずいのだという。事実、「ビデオ隠し」問題は、地元自治体や科技庁による立ち入り調査の際に、現場の職員がビデオの存在を告白したことで発覚している。

 S副所長の理屈からすれば、現場の人間が直接、外部の人間に接触して真相が漏れてしまったことが失敗だった、ということになる。つまりS副所長の「反省」は、事故が起きたことや、隠蔽を行ったことではない。隠蔽に失敗し、社会的に非難を浴びて動燃が窮地に陥ったことへの反省なのだ。


 取材班はS副所長にも話を聞こうと大阪府にある自宅を訪れたが、家族らしき人物がインターホン越しに「体調が悪く取材には答えられない」と語った。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/5(水)22:00の投稿予定です。


もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※7回目の紹介

2014-11-03 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。7回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※6回目の紹介

 すでに退職しているO氏は、いま何を思うのだろうか。取材班が直撃すると、
「いまでも腹が立っている。福島の原発事故に比べたら放射線も全然出ていないのに、新型炉っていうので騒がれちゃってね」

 やはり当時と変わらず、被害者意識を隠そうともしない。さらに聴取記録を見せると、

「『自分が被害者』とは言ってない。それは傲慢でしょう。この資料、本当にあったの?いくらでも捏造できるじゃない」

 と逆に疑いの目を向けてくる。ビデオを隠し、現場を隠蔽しようとしたのは、いったいどこの誰だったのか。

 そのビデオ隠蔽や改ざんについて改めて問いただすと、

「事実をそのまま公開しなさいというのはあまりにもちょっと・・・かえって火をつけるというか。よかれと思ってやったことが、逆の結果になっちゃって。でもあれだけ騒がれたからね。あんたの不手際だ、と言われたら、そういうことになるよね。だからずっと謝ってきた。役所にも謝ったし。(もう一度同じことが起きたら)きっと一生懸命説明するよ。一緒に現場に行きましょうって言って。もうそれで勘弁して下さいよ。嫌なことを思い出させるなあ・・・」

 と苦々しい表情で会話を打ち切った。


◎情報公開は「ソフトに、次第に明らかになる」

 O所長のような考え方は、決して彼特有のものではない。O所長とともに「ビデオ隠し」を指示したS副所長の説明は、さらに不可解だ。翌96年1月3日に名古屋で行われた聴取に、このように語っている。

<(事故から約6時間後の1995年12月9日午前)2時に副所長が立入りの司令を出した>
<ビデオはとるつもりはなかったが、担当者が持込みとった>
<技術的には役に立たないビデオと思った>

 自らの判断で事故現場への立ち入りを命令したこと、そして担当者によるビデオ撮影を認識していたことを認めている。

 さらに、
<かくすつもりはなく、次第に明かになるというのが公開の考え方であった。最初から公開についてはフルオープンと言っていたが、オープンの仕方はソフトにやっていくつもりであった>
<ビデオが一人歩きすると困るという認識があり、ここでふんばってしまった>

 あまりの馬鹿らしさに開いた口がふさがらない。情報を「次第」に、そして「ソフト」に公開することが「フルオープン」なのだという。自分たちに都合の悪い情報は隠し、情報操作することが「フルオープン」。これが動燃の”常識”だったのだろう。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/4(火)22:00の投稿予定です。