原発問題

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※10回目の紹介

2015-09-08 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。10回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※9回目の紹介


 小学校の隣にある役場に集まっていた村長はじめ村の幹部たちに頼んで、村で保管している陸軍の疎開米を出させ、おむすびをたくさん作らせることにしました。ところがこれは失敗でした。手を焼かれ、顔を焼かれて、おむすびを口に運んで食べられるような人は一人もいなかったのです。それであわてて、おむすびを鍋にもどして、グツグツ煮てゆるいおかゆにしました。

 村の人たちはその日早朝から、中学生以上は男女とも広島へ動員されていて、残っていたのはほとんど老人と小学生と赤ん坊ばかり。そこで小学生を集めて、上級生の男の子2人におかゆを入れたバケツを持たせ、女の子にしゃもじを持たせて、寝ている負傷者の口におかゆを流しこんでいきました。

 そして、とにかく治療できる場所をつくる必要がありました。校庭にぎっしり横たわる被災者のなかで、死んでいる人を見つけては運び出し、空いた場所に治療所をつくることにしました。明日からは歩ける負傷者には治療所にきてもらうという段取りです。

 私は動かなくなった人のそばに行って、生きているのか死んでいるのかを見分ける仕事を始めました。情けないことですが、医者がやる以外に、「この人は死んでる、この人は生きてる」ということを確かめる人は誰もいないわけです。「この人はダメ」と指示すると、村のおじいさん2人が、青竹2本に荒縄を編んだにわかづくりの担架にのせてかつぎ出しました。遺体は小学校裏の林に臨時につくった火葬場で焼いていきます。残酷な仕事でした。

 そういうなかに、いまでも忘れられない人がいました。

 私は横になって動かない人のところへむかって歩き回ります。まだ真っ暗になる前の時刻。夏ですから、夜7時ごろまで明るかったわけですが、明るいなかをまともな格好をしている私が歩いて行くと、負傷して横になっている人たちは「助けてほしい」、「なんとかしてほしい」と、みんな必死に私の目を見つめてきます。私は目が会ってしまうと、どうしてもそこへ座らなきゃならない。ところが一目見て「ああ、この人はあと30分」、「この人はもうあと10分もダメだろう」、あるいは「半日生きられるかもしれないけどダメだ」というのがわかりますから、そういう負傷者に手をとられたらなんにもできない。だから目を合わさないようにしていました。

 ところが、とうとう目をそむけそこなって、ある若いらしい男の人と目が合ってしまった。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/9(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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