ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.111レポート その4

2017-03-29 20:36:09 | Weblog
『パネルトーク』が終わり、休憩を挟んで第二部は、ジネンカフェではもう定番になりつつある『ワールドカフェ』いつもの白川陽一さんに代わり、今年のファシリテーターに〈(株)対話計画〉の三田祐子さんをお迎えしてのワールドカフェだ。

三田祐子さんは、もともと土木関係のコンサルさんなのだが、多様な人々がいる中で、〈住みやすい、過ごしやすいってどんな場なんだろう?〉と問いながら都市計画設計や測量をする一方、そこでの人々の関わりに重点を置いていることから、人にやさしいまちづくり連続講座や地域のまちづくりびと養成講座や公共施設の設計における市民との対話の場でのファシリテーターを務めるなど、限りなく現場に近い活動をされている。多様な関心を持った人々が、わくわくドキドキな場で出会い、多彩なテーマで、対話や交流をする”未来茶輪”を金山で開催するなど、いろんな”つながり”を大切にした場つくりに関心があるという。

『違いは個性、多様性の中で光る個性~みんな違って、みんないい~』というテーマにあわせて、あらかじめ対話のテーマを「多様な個性を大切にしてゆくために、わたしたちはどんな未来を子どもたちに手渡したいですか?」と考えておき、最終的には『パネルトーク』の3人のゲストさんのお話を聴いてから決めようと打ちあわせていた。しかし、加藤博子先生、竹内由美子さん、加藤真理子さん、それぞれの立場からのお話を受けて、対話のテーマはやはり「多様な個性を大切にしてゆくために、わたしたちはどんな未来を子どもたちに手渡したいですか?」に決めた。

時間的な制約もあり、存分な対話は行えなかったかも知れないが、それぞれのテーブルでは真剣な対話がなされていたようで、有意義な時間であったのではと、自画自賛している。

ジネンカフェVOL.111レポート その3

2017-03-29 20:31:54 | Weblog
『パネルトーク』ラストは、福祉相談支援の専門家でもあり、保育士でもあり、日頃から子どもたちとの接点も多いという、社会福祉法人浜松市社会福祉事業団相談支援員の加藤真理子さん。加藤真理子さんは、知的障害者入所更生施設から始まり、知的障害児者の余暇支援、就労支援、ケアホーム世話人、ベビーシッター、児童発達支援センター保育士など様々な福祉職を歴任され、現在は社会福祉法人 浜松市社会福祉事業団 浜松市発達医療総合福祉センター 相談支援事業所シグナル 相談支援専門員をされておられる。仕事以外に、障害者のアートや製品を紹介する団体OTSUに所属し、2015年にフィンランドにて展示会を行ってきたという。とにかくモットーは「思い立ったが吉日」まさに感覚で生きている人間。人と人とが関係することに最も興味を持っており、それが自分の原動力であり、ライフワークだという。

【現場を歩いて来てからの相談支援という仕事】
現在は相談支援員をされている加藤真理子さんだが、以前はずっと福祉の現場で仕事をされていて、相談の仕事をするなんて思ってもなく、また一番やりたくないと思っていたという。デスクに座って話を聴いて「ふんふん」と頷いている、動きもなにもないという勝手なイメージがあり、現場でないところなんて考えもつかなかったそうだ。しかし、たまたま最初に浜松市社会福祉事業団の児童発達支援センター(障がいのあるお子さんの通園施設)の保育士として働いていて、これもたまたま相談支援専門員の資格を取らせていただいたところで、現在の職場に移動になったという形になるのだという。自分がしてきた仕事の流れが知的障害の方の入所施設から通園施設、未就学のお子さんという現場を一通り経験させていただいたということもあって、それを踏まえた上での「相談支援」ということで〈これは流れがよいな〉と、タイミング的にもよかったのではないかと前向きに捉えているそうだ。

【相談支援という仕事】
しかし、相談支援という仕事を始めてみると、メチャクチャ忙しくて、いまの相談支援は計画支援といって、“じゃんぐるじむ“さんが使われるような福祉サービスを調整するというところでケアプランを立てさせて貰っているそうだが、利用者さんそれぞれが悩まれていることも違えば、〈こうしたい〉という要望も全然違うので、相談しに来るひとそれぞれのドラマがある中で仕事をさせてもらっているそうだ。

【相談支援事業所シグナルの理念】
加藤真理子さんが働いているところは、浜松市発達医療総合福祉センターというところで、浜松市の外郭団体なのだが、『はままつ友愛のさと』が愛称になっている。「相談支援」「医療(診療)」「通園施設(子ども)」「就労支援施設B型(成人)」の4部門あり、総合的な福祉サービスが受けられるところだ。加藤真理子さんが所属されている『相談支援事業所シグナル』には理念がある。〈ただあなたの声を聞こう 心静かに声を聞こう 一緒に語れる場所に 一緒に悩めるひとに 一緒に歩めるひとに〉ということで、忙殺される毎日を送っている。

【障害のない子どもの成長の過程】
加藤真理子さんははじめ、豊田市の社会福祉法人の入所更生施設に勤め、次に名古屋市の地域活動支援センターに勤めていた。ここでは珍しいイブニング型ディサービス事業をされていて、作業所に行っていた利用者さんを迎えに行き、夕食と入浴を提供して夜の8:30~9:00ぐらいにお送りするという仕事をされていたそうだ。夕方のアフター5というか、アフター4に出来る仕事だったので、楽しく余暇支援をされていたという。同じ会社で移動があり、日中のディサービス、就労移行支援事業所(次のステップに進むための就労支援事業所)、ケアホームの世話人を経て、この会社を退職したわけだが、福祉職とはいうものの、これまで〈障害〉のある方か、〈障害〉のある子どもさんしかみたことがないなと思い、そうではない子どもさんの成長の過程が解らなくなっている自分に気がつき(発達に障害があるかないかは1歳2ヶ月か、3ヶ月での診断で判断される)、保育士の資格は持っていたのでご縁があってベビーシッター会社にお世話になり、0歳~2歳までの健常児の保育に携わらせてもらったそうだ。ミルクを飲んでいるお子さんから、はじめて立ちましたとか、立って歩きました、トイレが成功するようになりましたとか、そういう過程を目の当たりに見せていただいて、ひとってこんなふうに段階的に育ってゆくのね…ということを知ることが出来たという。

【宣言した通りに…】
そのベビーシッター会社に就職する時に、加藤さんはそこの施設長に「私はもともと障害のあるお子さんの支援をしてゆきたいと思っていて、そのためには〈健常〉と云われるお子さんの成長の過程を知らなければと思いました。それを知った上でもう一度現場に戻りたいと考えています。その勉強をするためにここに来ました。次に行く場所が見つかれば、その時点で退職させて下さい」と正直に話をしていたという。そこで浜松市社会福祉事業団に採用された時点でベビーシッター会社を退職して、現在に至っているという。それは加藤真理子さんにとって、自然な流れなのだ。

【支援者側の想いだけではうまくいかない】
いままで働いてきたことを思い返しながら、自分の中で感じたことを幾つか挙げてみると、一つ目は「支援者側の想いだけではうまくいかない」ということ。これはもう初歩の初歩。大学で福祉を学んで直ぐに『地活』でも『就労支援型』でも働けるには働けるけれど、「福祉の店、頑張るんだ」みたいな気負いが出てくる。その気負いがくせ者で、〈誰かの支援をすることって、何かを手伝ったり、してあげるんでしょ?〉というか、「自分が何かを教えてあげないといけない。やってあげないといけない」ということで、最初の知的障害者入所更生施設では自分の想いだけを押しつけた支援をしてたのではないかと苦々しく思っているという。ご家族とはなかなか会えないし、ご本人も言葉よりも行動で意思を示すといった方たちだったので、かなり必死でその行動の意味を解ろうとしたけれど解らないという感じがあり、自分の気負いや想いだけではうまくいかなかったなあ~と、申し訳なく思っているそうだ。

【サービスはだれのもの?】
二つ目に「サービスはだれのもの?」現在支援を受ける人たちって実際の主役は誰かな?というところは、常に相談支援の中では考えられるのだそうだ。加藤さんたち相談支援員は、1歳から50歳代までの方のケアプランを立てている。ご本人と話をすることも多いのだが、お母さん方から話を伺うことがすごく多く、一つの例をあげると特別支援学校の高等部二年生のお子さんのお母さんが、いままでも放課後ディサービスを週5日間使えますということでケアプランを立てさせてもらっていたのだが、ある時「わたし、もうひとつ別の場所を土曜日に利用させていただこうと思っていて、ちょっと見学に行ったんですよ」という話を受けたという。そこはもともと通っていた放課後ディ施設とは全然違うタイプで、障害のある子のお母さんが立ち上げられた事業所で、〈その人はその人のままでよいじゃない。好きなことを好きなだけやればよいよ〉という感じの施設だったから、いままで積み上げてきた療育や教育が崩れてしまうのでは? と、学校も、もともと通っている放課後ディ施設の方たちも凄く心配されていたが、加藤さんはご本人が高等部を卒業するまでにそういう事業所を経験できるってプラスになると思って、「利用してみた感じ、また教えて下さいね」と言っていた。そのお子さんは色水を作ったり、クレヨンが大好きで絵を描いたり、ものを作ったりする子だったのだが、新たに通いはじめた放課後ディ施設ではそれを自由にやらせてくれるのだ。楽しくない筈はないだろう。しかし、学校やもともと通っている放課後ディ施設で同じことをするかといえばしなかったそうだ。つまり周囲の心配は杞憂に終わり、それまで学校や放課後ディ施設が培ってきたものは崩れていなかったのだ。というか、その人はその場その場で〈してはいけないこと〉とか〈してもいいこと〉をわきまえられるほど、しっかりしていたのであろう。

【本人が何をしたいかで、その場所を選ぶ】
そのお子さんが新しい放課後ディ施設に通い出して、加藤さんはその子のお母さんの変化に気がついたという。いつもは一時間面談して「〇〇(もともとの放課後ディサービス)に通われて、〇〇くん、どんな様子ですか?」と尋ねても、一言二言「うん、いつもと変わらない感じだねえ~」という感じなのだが、その子が新しい放課後ディ施設に通い出してからというもの、そのお母さんがお子さんの様子を「こんなこともした」「あんなこともやらせてもらった」「本当に楽しそうで…」という感じでよく話してくれるようになったのだ。それを加藤さんが指摘されると「あっ、そう」と自分でも驚いたリアクションだったという。いままでは他の兄弟姉妹もいて、その子にばかりかかりきりになるわけにもいかず、放課後ディサービスを使わざるを得なかったこともあるのだが、それはその子のためでもあったかもしれないけれど、自分のためという意味あいの方が強かったのではないか? でも週一度のその新たな放課後ディサービスは、完全に子どものために選択したんだと自分でも気づき、加藤さんにもそう言ったそうだ。加藤さんにとっては、やはり〈本人が何をしたいか?〉で、その場所を選んでゆく…ということは、こういうことなのではないかと、改めて教えていただいたというか、お母さんと共有出来た事例だという。いまはサービスありきの世の中になってきているけれど、〈誰のために、どんな場所を選択するか?〉は、加藤さんを含めて福祉相談支援員の方たちの大事な部分ではないのかと痛感しているそうだ。

【子どもを取り巻く役割分担】
支援をされている方たちって一生懸命されているのはわかるのだが、〈自分たちのところで何とかしなくては…〉という想いが強くて、それは素晴らしいことだと思う反面、その子の全体像がみえないと独り善がりな支援になりがちだという。加藤さんも施設の職員だった時はその場所の、その時間でしかその子がみられないので、その時に何とか頑張ろうと思うのだが、その子が他に関わっているところってあるのだろうか…全くみえていなかったとか。たまたま現在の職場が医療・福祉の総合的な施設なのでケース会議も頻繁に行っているし、関係機関と話しあって〈自分たちは何が出来る?〉〈自分たちが出来ることはして、後はお任せしましょう〉というような役割分担をした方が、それぞれがそれぞれの専門性を出しあった統合的な支援が出来るのではないかと思っているそうだ。

【生育環境の大切さ】
子どもさんを取り巻く生育環境も大切で、例えば障がいがある子は薬を飲んでことが多いので、学校の先生などは「薬を持たせて下さい」とか「お医者さんに薬を出してもらって下さい」とやたらと〈薬〉に拘るそうなのだが、ドクターに言わせると〈薬〉というものは対処療法に過ぎず、それとあわせてその子がどんな生育環境に置かれているのかを探り、それに対する支援をしてゆかないと、薬だけでは結果は出ないということだ。周りがその子をどういうふうに捉えるか、解りやすい提示が出来るかを、加藤さんは毎日感じているという。



【発達の段階を知っておく】
加藤さんも〈いわゆる健常児といわれるお子さんの育ち方〉を実地によって学んだように、ご本人が現在どんな段階にいて、どういうことが理解出来て、どういうことは難しいのかという質問を相談支援の中でお母さんにされているそうだ。「(本人に)何度も何度も言っているのに解らないんです」と言われるお母さんが多いそうだけれど、言葉の理解が難しくて行動で示さなければ伝わらないお子さんだったりすると、お母さんに対して「言葉ではない部分で伝えていかないと解らないよ」と諭したり、先ほどの加藤博子先生の〈褒め褒め(リフレーミン)〉で「この子、こういう部分があるんですけど…」と、どうしても課題の部分がたくさん出るのだそうだ。「でも、逆に言えばこういうことだよね」というふうに言い方を変えて「ここはこういう風に思っているのではないですか?」とか「悪戯して悪いことをしたいのではなくて、お母さんこっちをみて、みてと言っているのでは? それがそういう方法を採っているだけで、お母さん、僕のことを解ってよと言っているのではないのかなあ?」と伝えているとか。

【褒めるのも難しい】
相手を褒めるという行為も難しくて、褒めどきとか褒めるタイミングとかみたいなものがあって、難しいとお母さんたちがよく言われるのだが、日本人の気質なのか褒めるってなかなか難しくて、大袈裟に褒めるとわざとらしくて、自分が恥ずかしくなってしまうけれど、子どもさんが少しずつ何かを達成してゆく。大人としては何年生だし、男の子だし、女の子だし、出来ていてほしいなと思う気持ちも大事なのだが、いま子どもさんがそれに向かってちょっとずつ階段を上っているよというところに関して、〈いま上れたんだけど…〉と誇らしげにお母さんをみるんだけど、出来て当然みたいな反応をされると、ご本人はものすごく悲しいので、そういう細やかな目線でお子さんの成長を見ていっていただきたいと、加藤真理子さんは思われている。

【ひとの想いに寄り添う】
加藤真理子さんは相談支援員として、ご本人やご家族の想いに寄り添ってお仕事をされているわけだが、ご家族もご本人をどうみているのか? どうみていくのかというところも、相談支援員としてお伝えしているという。

【子育て、発達支援とは】
加藤さんが勤める浜松市発達医療総合福祉センターには診療所もあるので、どういった障害をもったお子さんですという情報は、加藤さんたち相談支援員にも入って来る。けれどそれは基本的にそういう特質が疾患としてはあるのだけれど、その子としてはいまこういう段階で、ここを頑張るところですよというところをみているのだそうだ。保育士さんと一緒に保育園や小学校にお母さんたちから依頼を受けて訪問することがあるとか。訪問して先生からお子さんの状況を訊いたり、相談に受けたりして「このお子さんはこういう段階なので、こういうふうな声かけだと本人に解って貰えないから、こういう形に変えるとよいですよ」というようなリフレーミングを先生たちに対して現場でされることもあるそうだ。また、頑張っているのはお子さんだけではなくお母さんやお父さんたち、ご家族も同じなのでご家族に対しての評価も大事にされているという。医療関係者はよく「数値で出せ」とか「数値にしなければわからないよ」と云われることが多いそうだが、加藤さんの知りあいに竹内由美子さんの話に出た山元加津子さんがやられている〈指談〉を、言葉のない重度のお子さんが19歳の時に取り入れたら、それが見事にはまってその子は筆談するようになったという。ホワイトボードにいろいろなことを書くそうだが、出て来る言葉が竹内さんの息子さんみたいに凄くきれいで、世の中で起こっていることも全て解っているし、特別支援学校では〈型はめ〉とか〈玉転がし〉しかしてこなかったのに、妹さんがテストの素因数分解の問題をホワイトボードで書いていたら、その問題を普通に解いたという。我々が捉えていると思っていることはその人のほんの一部分でしかなくて、その目に見えている部分だけで判断しがちだけれど、それは受けて側の捉え方によって変わるのだということを、加藤さんは彼によって教えられたという。その彼がある時急に「駅」へ行きたがった時があり、お母さんたちは〈出かけたいのだな〉と思っていたら、兄弟姉妹が好き過ぎて帰って来るのを家の中で待っていられない。だから駅に行きたかったのだということが、その筆談をするようになってわかった。つまり彼の気持ちは、お母さんたちの思い込みとは違っていたというわけだ。直ぐにパニックを起こすのも、単にホラー映画が怖かっただけだったとか…。感じていることは我々と変わらず、いまでは彼を中心に支援会議が開かれて飲み会もして、てんかんも持っているのだが、自分で医師と筆談で相談して薬の調整をされているそうで、本当に驚かされるという。お母さんもそんなふうにコミュニケーションが取れるようになって嬉しいと言ってみえ、加藤さんたち支援者側もひとりひとりにあったコミュニケーションツールを発見し、取り入れたいところではあるが、なかなか難しい。どうしても一般的なコミュニケーションの方法を使わざるを得ないところもあって、最大公約数の人たちにあわせた形で「この中で生きて下さい」という感じ。でも、そうではない場所、そうではない方法で拡がって行くことも、加藤さんは目の当たりにして自分の支援に対する考え方も変化してきたのだという。


ジネンカフェVOL.111レポート その2

2017-03-28 22:00:45 | Weblog
パネルトーク二番手は、日進市で発達障害児とそうではないお子さんを育てながら、NPO法人の理事長としても活動されている竹内由美子さん。竹内さんは2005年5月に共助グループ[じゃんぐるじむ]を立ち上げられ、2011年5月NPO 法人格を取得する。現在は支援事業として日中一時支援事業j クラブ、放課後デイサービスJ class、地域活動支援センターじゃんぐるじむwonder・juku の3事業所を運営。当事者として必要な事業を今後も展開していく予定。次男のGくんが知的障がいを伴う自閉症で、診断当初はA 判定だったが、8歳の冬に突然言葉がでてB 判定に。目指はIQ 向上ではなく、『QOL(生活の質)向上!』を合言葉に切磋琢磨の日々を送っている。

【“じゃんぐるじむ”の名前の由来】
竹内由美子さんは、現在高校三年生と二年生の男の子のお母さん。次男のGくんには知的障害を伴う自閉症の障害がある。竹内さんが理事長をされている〈NPO法人じゃんぐるじむ〉は、障害をもった子どもの家族とその支援者の会として2005年5月に、日進市の療育施設「すくすく園」に通っていた7名の母親たちにより結成された。〈じゃんぐるじむ〉の名前由来は、公園の遊具のなかても“じゃんぐるじむ”は沢山の人数で自由に遊べる数少ない遊具であり、しかも“じゃんぐるじむ”で遊ぼうとすると、全員が上を向かないと遊べない…ということで、子どもたちはもちろん、その家族も一緒に上に向かって上って行こう。そんな想いで名付けたという。2012年5月には、NPO法人として新たなスタートを切った。

【“じゃんぐるじむ”活動のあらまし】
NPO法人として、“じゃんぐるじむ”は社会の一員として地域にあたりまえに存在したいと願っていて、子どもたちの生活環境を整え、ハード面からもソフト面からも住みやすい社会をめざし、その実現をのために5つの事業を柱にした活動をされているという。一つ目は、保護者同士だからこそ解る悩みや問題を一緒に考えてゆくことを目的とした「ピアサポート事業」。二つ目はクリスマス会やバーベキューなどの家族間の交流を深めて、お互いを理解するための機会を提供する「交流事業」。三つ目はメールやWEB、情報誌での発信を中心に福祉制度などの勉強会や、将来を見据えた施設見学を行う「情報提供事業」。四つ目は上映会や講演会などの企画・運営、大学や専門学校での講師活動や、小・中学校や高校での福祉実践教室などの「啓発事業」。2007年12月に日進市で行われた『人権を考えるつどい』を運営し、特別支援学校の先生を描いたドキュメンタリー映画『四分の一の奇跡』を上映したことがきっかけで啓発事業に取り組むようになり、山元加津子さんを描いたドキュメンタリー映画の第二作目『宙の約束』では竹内さんとふたりの息子さんが出演し、障害についてや、Gくん自身の想い、その兄としての想いを話させてもらったという。五つ目は「支援事業」として、障害のある方の日中における活動の場を提供する〈日中一時支援事業じゃんぐるじむj クラブ〉。学齢期の子どもの放課後や学校の休校日における居場所づくり、生活をするための支援を行う〈放課後デイサービス事業J class〉。障害のある方が将来就職や地域において自立した生活を送れるように、いろいろな機会を提供する〈地域活動支援センターじゃんぐるじむwonder・juku〉 の3事業所を運営されている。〈支援事業〉としては、《サポートファイル》等々支援グッズの開発を行っているそうだ。

【サポートファイルとは?】
竹内さんたち、障害をもつ子どものご家族は、周囲の人たちから何度も同じことを質問されるのだという。〈病院に行くきっかけはなに?〉とか、〈何が出来るの?〉とか、〈コミュニケーションツールは?〉とか。いろいろな相談支援の窓口に行く度に同じ質問を繰り返しされ、またそれに同じく答えなければいけない。想像するだけでも嫌気が差してくるが、それを打破したいという思いから《サポートファイル》という支援ツールを開発されたとか。A4サイズになっていて、必要な情報をコピーして支援者に渡せることが出来るようになっている。これははっきりした書体で描かれているので、ポケットに入るようなA5サイズに縮小コピーしても読み取ることができるシートになっているそうだ。その他にも日進市や長久手市から事業委託を受けて、福祉ガイドブックの作成なども手がけている。

【竹内さんが息子さんの障害を疑うきっかけ】
竹内さんが次男のGくんに障害があるのかなと気づいたのは、Gくんが1歳になる少し前だったとそうだ。長男とは年子だったので、育ち方の違いが出てきたのだ。8ヶ月ぐらいまではお座りをして、テレビをみて、眼もキラキラして、障害を疑ったことはなかったという。幼児は1歳ちょっと前ぐらいになると「いないいないばあ」をすると何らかの反応をみせるものだが、Gくんは「いないいないばあ」をしても反応してくれなかった。それから竹内さんの心はザワザワしてきて、もしかしたら…というふうに思ったという。当時の竹内さんは〈障害をもっていたら、この子は将来どうなるのだろう?〉〈わたしの人生はどうなるのだろう?〉と思って、周囲の人たちにバレないうちに何とか普通の子にしようと思い、必死だったそうだ。その当時Gくんは言葉がないタイプだったのだが、それも療育をすれば何とかなると思っていたそうだ。

【バイブルに基づいて療育に励んだものの】
それは、家の中をすべて構造化させるところから始まった。構造化というのは〈ここで勉強する〉〈ここでご飯を食べる〉〈ここで運動をする〉というように、解りやすく場面を変えてゆくことをいうのだが、家の中でもそれを実践していたのだ。でも、Gくんがよくなることはなかった。柳田節子さんが書かれた『言の葉通信』という本があり、それはやはり言葉が出なかった子どもさんの保護者の〈こういうことをしたら言葉が出た〉という経験談や事例が綴られた本で、当時の竹内さんはそれをバイブルにして持って歩いていたそうだ。しかし、Gくんが幼児の頃に話し始めることはなかったという。Gくんが話し始めたのは、小学校二年生の冬だった。

【幼稚園から長男と一緒に卒園を迫られる】
家庭ではGくんも兄のHくんと同じように成長していったのだが、幼稚園では勝手が違ったそうだ。その当時Gくんは発達教室というところに通っていたのたが、受け入れてくれるところがどこにもなかったという。そこで兄のHくんが通っていた幼稚園に年子ということもあって、発達が遅い子として入れてもらった。それでもHくんが卒園する時にGくんも卒園して下さいと幼稚園から言われ、どうしてあと1年あるのに長男と一緒に卒園しなければならないのだろうと思ったが、実は、Gくんは自分の幼稚園のクラスではなく、兄のHくんの教室で過ごしていたのである。それを竹内さんは知らなかったのだ。Hくんが卒園してしまうと、Gくんをみることが出来ないので、お兄さんと一緒に卒園してくれませんか? という話だったのだ。そこで行き場をなくしたGくんのために、竹内さんは療育施設の『すくすく園』に通うことにした。

【就学問題】
次のターニングポイントは、Gくんが『すくすく園』を卒園して、小学校にあがる時だ。その当時はまだ言葉が出てなかったので、Gくんを『特別支援学校』に通わせるか、『普通小学校』に通わせるか悩んでいたという。竹内さんは胸の内を長男のHくんに打ち明けて相談した。「もしGが同じ学校にいたら、Hは馬鹿にされるかも知れない。みんなから指を差されるかも知れない。それでもいい? Hとは違った特別支援学校に通うことも出来るんだよ」と。するとHくんから、こんな答えが返ってきたという。「ママ、僕は同じ学校の方がいいよ。遠い学校に行ったらGになにかあっても僕は助けられないかも知れない。直ぐに飛んでゆくことが出来ないかも知れない…」竹内さんは悩んだ結果、Hくんと同じ地域の学校へGくんを入れることにしたそうだ。

【PTA広報への寄稿】
すると、いろいろなことが起きた。Gくんは、やはり教室に座っていられず外へ飛び出してしまう。そうするとHくんのところに電話が入って「Gくんがいないんだけど、一緒に探してくれる?」と言われ、授業を受けていても弟を探しに校外へ出たり、そんな学校生活だったようだ。そんな時にPTAのみんなから「Gくんのことについて、みんなにもっとよく知ってもらったら? PTA広報に書いてみない?」と勧められたという。竹内さんはそこでこんな文章をPTA広報に寄せることにした。

次男のGが「他の子と何か違うかも」と疑いはじめたのは彼が1歳になる少し前からでした。家族や世間に「Gは障がいがあるのでは」と気付かれる前に、自分で何とかしよう、 “普通"に戻そう、とあの頃の私は必死でした。良いと思われることは全て実践しました。でも、それはGの“違い"を受け入れるためではなく、他人に見つかる前に“普通"にするためだったのです。あの頃の私はどん底で死にたい毎日でした。今、目の前にドラえもんが現れたなら、タイムマシーンでその当時の自分に会ってこう言いたいです。「大丈夫、大文夫、未菜のあなたは笑っているよ」 と。障がいがあったって大文夫。だって毎日、こんなに楽しくって刺激的で感動に満ち溢れているのです。今はGに限らず、全ての違いを受け入れ楽しめるようになりました。
Gは小学校二年生の冬から少しずつ言葉がでて、 話せるようになうてきました。カタコトの日本語で話せるようになったGからは、優しい言葉がたくさんたくさんあふれ出てきます。Gの夢は、全ての生さ物が、 自分らしく存在する事。全ての生き物、命あるもの、草花にも全て愛情を注ぎます。それは現在に留まらず、絶滅した動物にさえも「よみがえらせてあげるからねー」と図鑑にむかって叫びます。過去も現在も未来も、彼には関係ないのです。
ずっと飼っていた猫のポチの話です。 ネコのポチは、13年たってボケてしまい、毎日何度もあっちこっちにウンコやオシッコをたれながします。ついカッとしてしまう私に、 「人生いい時もあれば、悪い時もある、 今がその時なんだ。 ポチもいぃ時があった、 悪い時があつてもいいじゃないか」と いつも言っていました。このセリフでカッとなる心をクールダウンできました。ポチは13年と8ヶ力月で今年の初めに亡くなってしまいました。 悲しくて涙が上まらなぃ私にGは「胸の心で生きている。ほらポテはゆみこが会いたいと思えば、いつも見えるよ。見てごらん、抱きじめてごらん」と言ってくれました。
また、一つ違いの兄を強く叱:る私に対してこんなことも言います。「僕だって昔負けた事がある。泣ぃていた時先生が言ったんだ。しょげるなGよ、諦めちゃダメだ、輝く時がある、必ず:な。大切なのは諦めない心だ。先生も、校長先生もそう言ったんだ。それが正しい選択だ」と。
Gはいつも真剣です。カッコつけも、見栄も、悪口もありません。こんなGと触れ合う度、Gの人間の真実だけを伝える言葉と出会う度、私にこんな風に思う力はあるのかなって考えさせられます。Gと出会わなければ知らなかった感情です。Gの優しきに出会う度、Gが世間から言われる「障がい者」であったとしても、むしろそうで良かった、Gで良かったと、思えるのです。たまにまた打ちのめされて、立ち上がれないんじゃないかと思う時もあります。でもやはりGと出会って違いを受け入れ、今を受け入れたことで、 過去の私も今の私も許せてまた一歩進めるのです。
Gは自由だし、好きなことや嫌いなことも何も隠さずはっきり言ってしまい困ったことばかりあるように見えるかもしれません。障がいを持つ彼らはちよっとみんなと違うかもしれません。でもみんなと同じ大切な存在で、みんなと同じように、一度きりの人生を楽しく生きたいと思っています。彼らの世界を壊すのではなく、ありのままの彼らを受け止めてほしいのです。健常児も障がい児も、かわいい我が子には違いないのですから・・・。
もっともっと彼らのことを、知ってもらえたら・・・そんな思いを込めてここに書きました。
 
【Gくんが障がいと向きあった日】
竹内さんはGくん自身には〈障がいがある〉とは言ってなかったのだが、当のGくんが自分の障がいを意識した出来事があった。ある日、竹内さんが下校時間に学校へ迎えに行ったら、それまでみたことがないような怖い顔をして、Gくんは竹内さんを待っていた。そして、「ゆみこ(当時はひとには名前があるということを教えるのに一生懸命だったので、竹内さんのことも名前で呼んでいた)、教えてくれ。ゆみこしか本当のことは言えないんだ。俺は、優しくされないといけないのか? 俺が馬鹿だからか?」そんなことを訊いてきたという。竹内さんは驚いた。ちょうどPTA広報に文章を載せてもらったり、新聞にも取り上げられた頃だったので、きっと他の保護者の方が「Gくんには優しくしなきゃいけないよ」とそういった気持ちでご自分のお子さんに声をかけてくれたのだと思うが、Gくんはその対応の変化を敏感に感じ取り、「俺が馬鹿だから、優しくしなきゃいけないのか?」と訊いてきたわけだ。「2007年、俺はあすなろに入った。なんであすなろなんだ?」と。竹内さんには〈ついに来た、この日が…〉という感覚だった。動揺しながらも、竹内さんは正直に答えることにした。「Gには障がいがあるよ。でも、障がいがあるということは、良いことでも、悪いことでもないよ。Gはいま5年生だよね? 5年生の問題は難しいよね? 勉強について行けるかな? 5年生がやっている計算は出来ないよね?」「そうだ」とGくん。「でも、Gはゲームが強いよね? 本もたくさん読んでいるよね? Gにも出来ることはたくさんあるよね?」「そうだ」とGくん。そしてこう言った。「そうだ。俺は、俺だからいいんだ」と。「俺はいまが好きだから、これでよかったんだ」とも付け加えた。Gくんはそれ以来、障がいのことは一切言わなくなったという。

【俺には選択はないのかーGくんなりの抵抗】
中学生になったGくんは、小学校時代を振り返ってこんなことを言っていた。「俺の小学校の時は幼稚園だったな。俺、いまはじめて学んでいるよ」それが中学校の頃。そして現在、Gくんは高校二年生で、自分で決めて学校には行ってない。学校は卒業したという。一年生の時は一生懸命通ったのだが、もともとGくんは特別支援学校には行きたくなかったのだ。小学校6年生の頃から「兄ちゃんが大学に行くのに、なぜ俺に働け、働けとゆみこは言うんだ。18歳になったら働けって、なんで僕は言われるんだ。僕には選択はないのか?」と言っていたそうだ。中一になるとインターネットで『ルネッサンス学園』という学校を調べて、「俺はここに行く」と言ったという。学校の先生も一緒に調べてくれたのだが、「G、おまえには無理だよ。Gは高校なら支援学校しか行けないよ」と言っていた。竹内さんもそう思ったので、Gくんを長い時間をかけて説得した。特別支援学校にも入学試験がある。丁度その時に楽登くんは熱を出したという。熱があっても来て下さいと言われたので連れて行って試験を受けさせた。しかし、Gくんは解ける筈の足し算や引き算、漢字検定も8級を持っているのに、答案用紙に一切なにひとつ書かず出したという。Gくんなりの抵抗の表れだろう。

【自分で決めて学校を辞めてきた】
それでも竹内さんは、Gくんに高校生になって欲しかった。だから、特別支援学校の高等部に入学してもらったのだという。Gくんもそれに応えて一年間は通ったのだが、途中から「死にたい、死にたい」と毎日言うようになった。学校に迎えに行くと「もう死にたい。僕は死ぬことも選ばせて貰えないのか? 馬鹿だからか?」「ゆみこは俺が馬鹿だから死なないと思っているんだろう? だから頑張れ、頑張って最後まで学校に通えって言うんだろう」って、毎日言っていたそうだ。竹内さんとしてはそれても学校に通ってほしかったのだが、楽登くんが「自分で先生と話しあう。その機会をくれ」と担任と話して、その次に教頭先生と話して、その次に校長先生と話して、それでも学校を辞めることはできなかった。高校二年生になったある日、相談支援の先生に話を聴いて貰うと言って、その方と話をして「自分で決めたんなら、いいんじゃない」と言われ、Gくんはその一週間後に自分で荷物をまとめて学校を辞めてきたのだという。

ジネンカフェVOL.111レポート その1

2017-03-28 21:52:09 | Weblog
2016年度の拡大版は昨年に引き続き、ブラザーコミュニケーションスペースを会場に、『違いは個性、多様性の中で光る個性―自己と他者、みんな違って、みんないい』をテーマに掲げ、障がいの有無に関わりなく、子どもの特性に応じた子育てや教育の必要性を学び、その後のワールドカフェにおいて、多様な参加者と「多様性の中で光る個性を大切にしてゆくために、わたしたちは子どもたちにどんな将来を手渡したいのか」を対話のなかて深めて行った。

週間予報によれば寒くなるとのことだったが、当日は比較的暖かで穏やかな日であった。ジネンカフェVOL.111の第一部は「パネルトーク」。ゲストは保育の専門家である加藤博子さん。発達障害児とそうでない子どもとを育てながらもNPOの理事長として活躍しておられる〈NPO法人じゃんぐるじむ〉の竹内由美子さん。福祉の相談支援の現場でも、そして仕事を離れても障害児と関わり続けている加藤真理子さんの三名。

トップバッターは、保育の専門家で、実践者でもある加藤博子先生。加藤先生は、幼稚園、保育園現場20年勤務後、保育養成校(短期大学、専門学校)教員、3つの新設保育園立ち上げに関わり、現在は春日井市保育園施設長を力められておられる傍(かたわ)ら、大学での「保育の魅力」講演会や保育者向けアクティブラーニング中心の研修会を実施することで「人権を大切にした保育の質向上」を唱えていらっしゃる方である。

【幼なじみの“しんちゃん”】
加藤博子さんは岐阜県の中津川市の生まれ。当時の中津川は田園風景が拡がるのどかなところで、両親とも働いていたこともあり、いまでは考えられないことだが、恵那山の麓の自宅から山道を歩いて20分もある街中の保育園に通っていたそうだ。その頃の友だちに“しんちゃん”という子がいた。早生まれだった加藤先生は4歳だったのだが、3歳のクラスに入っていたという。子ども心に〈わたし、もう4歳なのにどうして3歳のクラスに入るのだろう〉と思っていたらしい。“しんちゃん”は5歳だったので、いつも迎えに来てくれて、手を繋ぎながらふたりで保育園に通っては遊んでいたのだ。3歳と5歳のクラスは違っていたのだが、園庭で「しんちゃ~ん」と呼ぶと、教室にいても「ぼくはここにいるよ」という合図を送ってくれて、帰りは一緒に帰ったという。なんとも微笑ましい光景である。

【“しんちゃん”の謎】
そう、“しんちゃん”は、加藤先生にとって人生で一番はじめに出来た友だちであった。ある時、“しんちゃん”のお母さんが加藤先生に向かってこんなことを言ったという。「うちの“しんちゃん”体が弱いからごめんね…」加藤先生にはその意味が解らなかった。体が弱いってなんだろう…と。ご自分のお母さんにも訊いてみた。するとお母さんは「うん、体が弱いって、風邪を引きやすいということかな?」と、サラッと答えられたそうだ。でも、少女時代の加藤先生は“しんちゃん”が大好きで、いつも後を追っかけたり、保育園の登園時に一緒にいけることが楽しみだった。山道の帰り道も、保育園への行きは下り坂なのだが、帰りは登り道になる。子どもの足ではかなりキツい。ふたりは途中の土手のようなところで腰掛けてよく休憩し、おしゃべりをしていたそうだ。

【子どもはこころで会話をする】
少し大きくなってから、“しんちゃん”は知能が遅滞している子どもだったことがわかってきた。物事には、その時は解らないことでも少し時間をおいてみれば「そう言えば…」と合点がゆくことがあるものだ。“しんちゃん”は目の焦点が泳いでいて、加藤先生をみているのかわからなかったし、言葉も実は「あー」とか「うー」とかしか出せなかったのだ。しかし、4歳当時の加藤先生は何の違和感もなく、いつも“しんちゃん”とおしゃべりしていたし、“しんちゃん”の言いたいこともよくわかり、その時間が楽しくて仕方がなかったという。加藤先生自身、“しんちゃん”が言葉をあまり出せない子だったと知った時には、それではどうして自分は“しんちゃん”とお話できたのだろうと不思議だったが、“しんちゃん”は自分の意思を加藤先生に送ってくれたし、こころで話しかけてきてくれたからだと気がついた。そう、子どもは本能的に相手の本質を見抜くし、こころで会話をするのだ。子どもは凄い!

【現在の“しんちゃん”は?】
現在の“しんちゃん”は、故郷の中津川で接骨院によく通っているという。体を痛めて理学療法士さんや作業療法士さんの施術を受けているそうだが、元気に歩いているのを見かけるよと、帰郷される加藤先生が「“しんちゃん”どうしてる?」と尋ねると、そんな近況をご両親が聴かせてくれるそうだ。保育園時代の“しんちゃん”との日々は、現在でも色褪せない楽しい思い出として加藤先生の中で大切に輝いているのだ。

【リフレーミング】
「さて、今日はみなさんカフェに来られたということで、ちょっとお隣の人たちとお話をしてみたいと思います。自分の性格で嫌いな部分をひとつ、相手に伝えて下さい。例えば「わたし、大雑把なんですよ」と言うと、それを相手が褒め褒めに変えてくれます。さあ、やってみましょう」そう、これがいつも加藤先生がやられているアクティブラーニングの
手法のひとつで、〈リフレーミング〉と言うそうだ。枠を取っ払って、別の見方で物事を捉えようとする心理学を応用した技法である。私たちはついつい〈あの人ってこうよね〉とか、〈私ってこうだから…〉などという枠を作った見方をしてしまいがちだが、それを取っ払って〈あんないいところがあるわ〉とか〈こんな素敵なところもあるわ〉といった物事の見方を変えることで、世の中が暖かくなる…そんな気持ちで加藤先生は幼稚園・保育園の先生たちに伝えられているそうだ。

【グレーゾーンという言葉】
それというのも保育は現在劣悪な環境のところが多いからだ。保育士が足りない。待遇が悪い。給料が安い。ゆとりがない…。だから先生同士の人間関係も少しぎくしゃくしてしまう。今一番問題になっていることは、発達障害の子どもたちが非常に増えていることだという。もしかしたら発達障害ではないか疑わしい子どものことを〈グレーゾーンの子〉と言っているが、〈グレー〉という色を想像してみると、あまりよい印象の色ではない。日本語では〈ねずみ色〉。白に黒を少し入れて混ぜた色。絵具の中では必要な色なのだが、あまり爽やかな色彩ではないので、加藤先生は〈グレーゾーン〉という言葉を避けて、なにか違う表現はないかなと思っているという。そのように枠を取っ払って子どもたちと向かいあいたいという。

【枠を外して子どもたちと接しよう】
加藤先生が施設長をされている保育園には、部屋にじっとしてなく園内を走り回る子がいる。他の保育園から移ってきた保育士さんは、それを「脱走した」と表現されがちになるのだが、加藤先生は「この子は犯人じゃないよ。いいじゃない。好きなところに行けば」と諭しているそうだ。園内には危険な場所やものなんて何もないのだ。そしてその子に対しては「○○~ちゃん(その子の愛称)、旅に出てきたら帰って来てね。先生、ここで待っているから」と声を掛けたという。その子は走って行き、いろいろなところを探検し、高いところへも上ったりして満足したら約束通り帰って来てくれたという。多動とかADHDとか枠を作ってしまったら、枠の中にしかその子が入らなくなってしまう。だから「脱走しないようにしよう」と考えるのではなく、「○○~ちゃんにはたくさん旅をさせてあげよう。そして私たちはそれを見守ってあげよう」加藤先生が勤務されている保育園では、そんな方針の保育をされているのだ。そして子どもたち、ひとりひとりが生きやすくなる環境を作ってあけたいと思っているという。

【金平糖とパステルカラー】
(会場の大型モニターには色とりどりの金平糖が映っている)金平糖。色とりどりで綺麗な金平糖。パステルカラー。子どもたちはひとりひとりがパステルカラーに輝いている。ある子はピンクかもしれない。ある子は紫かも知れない。綺麗な色が集まって素敵な金平糖が出来ました。金平糖というのは、1456年ポルトガルから織田信長に献上された歴史のあるお菓子とされている。金平糖特有のトキトキの角が出来るには、たった1ミリでも20日間もかかるそうだ。ザラメの小さなものに糖蜜をかけて、大きなドラム缶のようなものに職人さんが定期的に糖蜜をかけて角をつくるのだとか。金平糖はそのように時間をかけて作られるのだ。しかし、7時間もかけて作業すると熱さで参ってしまうので、現在この金平糖を作る職人さんが少なくなってきていて、本当に老舗のお店しか作れなくなっているそうだ。専門の職人さん、専門の療育が出来る人の育成は急務だと加藤先生は思っている。その子が何かのパステルカラーだとしたら、そのパステルカラーを活かせる。解ってあげられる人。医師も不足しているし、療育施設も何ヶ月も予約待ち。金平糖が上手に作れる人の育成も、現在保育界全体の課題になっているという。

【わたしたちができること】
そして私たちひとりひとりが出来ることは、枠を取っ払った考えをしてみること。それぞれの背景、職場環境や家庭での人間関係、この枠を取っ払ってその人のよいところをみてあげると、物事が円滑に進むようになるのだ。加藤先生も職員の一人に「わたし、自信がないんです」と相談されたことがあった。そうした時に「でも、それって先を見通せるということだよね」と言ってあげたら明るい顔になり、現在では立派に務めておられるとか。現在直ぐにでも出来ること。枠を取っ払ってその人のよいところ、自分のよいところ、そして発する言葉もプラスにして行ったら、楽しい毎日が送れるのではないかなと、加藤先生は思われている。