ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.091レポート

2015-03-21 14:13:44 | Weblog
VOL.091のゲストは、名古屋市の障がい者生活介護事業施設で支援員をされながらも、障がい者の生活や福祉の実情などを歌詞に織り込み、ラップにしてステージ活動をされているLot FALCONさん。これはもちろん本名ではない。ミュージシャンとして活動する時の芸名というか、ラッパーネームである。お話のタイトルは、『Limited life〜限られた生命で何が出来るか〜』

【ラップとの出会い】
FALCONさんは、1990年(平成2年)愛知県小牧市で生まれ育った。中学の時にラジオから流れるHIPHOPを耳にしてラップを聴き始める。16才の頃、小牧市が工業地帯ということもあって、ペルー人やブラジル人の子どもたちも多い。その中でも仲の良い日本人と外国人とを集めてストリート集団を築き、やんちゃをしていた時期もあったそうだ。しかし、それによって異国文化に触れる機会も多かったという。その頃からクラブに出入りし始め、生のラップと出会う。

【初めてのステージ】
19歳の時、地元のイベントへ遊びに行ったら、そこでラッパーの先輩・マーキーボーイさんのステージに出会い、その格好良さに思わず〈自分もステージに立ってラップをしたい〉と思い、2MC(ふたりでパフォーマンスをすること)として出演していたマーキーボーイさんの相方にその旨を話すと、気安く「来週もイベントがあるから出てみなよ」と誘われた。FALCONさんはもう嬉しくて1週間で歌詞を書き上げ、仲間と2MCとしてステージに上がり、パフォーマンスをしたのだそうだ。これが初のステージデビューということになる。

【ヒップホップに魅せられた理由】
FALCONさんがヒップホップに魅せられた理由は、自分が表現しやすい音楽だという点にあるそうだ。大概の歌詞付きの音楽は、一曲の中で起承転結があり、そこにストーリーが見える。しかし、唯一歌詞に起承転結が付いていなくても伝わる音楽がヒップホップのラップなのだ。音を立ててメロディーをつけながら歌詞を歌うとレゲィということになるのだが、それがFALCONさんには一番の魅力で、のめり込んで行ったという。つまり音符が読めなくても、伝えたいものがあれば音楽になる…。それがヒップホップというものなのだ。まさにバリアフリーな音楽とも言えよう。

【福祉との出会い】
FALCONさんと福祉との出会いは、至極自然ななりゆきだった。自宅の前に公園があるのだが、その公園が近くにある障がい者施設の余暇活動を行う場として使われていたのである。そしてその公園はもちろんFALCONさんにとって小さな頃からの遊び場でもあり、施設の障がい者たちと同じ空間を共有していたわけだ。その頃はさすがに一緒に遊ぶことはなかったらしいが、それでも日常的に障がい者の方たちの余暇活動の光景を目の当たりにされていたわけで、それがFALCONさんの原風景としてあるのだろう。その当時親御さんからも〈あの人たちには優しくしてあげて、困っているようだったら助けてあげなさい〉と教えられておられたそうで、その頃から〈自分が守ってあげなきゃいけないんだな…〉と思っていたそうだ。それが驚くことなかれ、保育園から小学校にあがる頃のことだという。

【ノーマライゼーションへの想い】
FALCONさん自身は、そのようなバックボーンがあって「障がい者」「健常者」と分けること自体に意味がないと思っているが、これは「社会」が作り上げてきたもので、いまは基準がゆるくなってきているらしいが、障がい児は「特別支援学校」に行き、そうではない児童は地域の「小・中学校」に通う。そのようにして人生のはじめで分けられてしまうのだ。子どもの頃から障がいをもつ子どもたちと接していれば、大人になった時にもし道で困っている人を見かけても気軽に声をかけ、それなりの対処が出来るし、自分の子どもにも教えることが出来る。しかし、小さな頃から分けられてしまうと、大人になって公共の場で出会ってもそのコミュニケーションはぎくしゃくし、困っていたとしてもどう接すればよいのか解らないので、見て見ぬふりをしてしまいがちだ。また、ひょんなことから腕とかを触られることもあり、障がいを持っている人たちに対して恐怖心や不衛生感を抱く方が少なからずおられるようだ。子どもの頃から接してないだけで、「障がい者」と呼ばれる人たちに対して勝手なイメージを作っているのである。それをなくしたいという想いから、「福祉ラッパー」になろうと決意したとか。世間に蔓延っている間違った認識を覆すのが、Lot FALCONの役目かなと思っているそうだ。

【現在の活動】
FALCONさんは現在、ライブやメディア、SNSを通じて〈限られた生命の中で何が出来るのか〉をテーマに発信している。一回きりの人生、100年も生きられない中で、自分に何が出来るのか? 自分のパフォーマンスを観たり聴いたりした人たちに考えてもらおうと思う。(お話の後半にワークショップを行い、参加者がそれぞれ発表して行ったが、それは割愛させていただきます。by大久保)FALCONさんはラッパーとしての自分、福祉の支援員としての自分、そしてひととしての自分をフルに活かして活動をされている。三重県の『希望の園』という福祉施設でライブを行ったり、同じ三重県の障がい者ディサービス施設『ファタカーサ』で〈ラップ教室〉を開催したり(ひとりの利用者さんの「ラップがしたい」とう声からFALCONさんに繋がり、施設でラップを教えているそうだ)、また仲良しになったホームレスの方のことをSNSなどで発信し、福祉の支援を受けられるように応援しておられるそうだ。

【今後の活動】
そんなFALCONさんだが、今後ともラッパーとしての活動を続けつつも、介護事業所の支援員としては、子どもと障がいをもった方が触れあえる機会を増やしてゆきたいと思っているという。FALCONさんがそうだったように、子どもの頃から両者が意識しあえる場をつくりたいと思っている。そうして自分のように主張が出来る人間が出てきてほしいのだ。子どもと障がいをもった方たちを繋げたい…。それが福祉に携わっているFALCONさんの社会的ミッションでもあるのだろう。ラッパーとしての活動は2MCからソロになり、今年の12月には初めてのCDが発売されるそうだ。

【FALCONさんの夢】
FALCONさんの夢は大きい。ラップミュージシャンとして、障がいをもつ仲間たちと一緒に日本武道館の舞台に立つこと。日本武道館の舞台に立つことは、ミュージシャンならば誰もが憧れるものだが、立ちたいと思ってもなかなか立てるところではないだろう。しかし、日本でただひとりの福祉ラッパーであるからこそ、思ってこうして表明していれば必ず夢は叶うのではないかと、FALCONさんは思っている。そして夢は強く抱き続けていれば、必ず叶うものなんだよということを、子どもや障がいをもつ仲間たちに伝えたいのだという。

【大久保的まとめ】
Lot FALCONさんに出会ったのは、いつのことだったろうか? 同じ生活介護支援事業所
の山口未樹さんがゲストに来られた時か、同僚だった西野由里さんがゲストに来られた時か…。ラップで福祉の実情を伝える音楽活動をされていると聞いたのは、その時だったか、その後だったか憶えていないが、その話を聞いた時に〈ユニークな活動をされている若者だなあ~。機会があればぜひジネンカフェのゲストとしてお招きしたいものだ〉と思ってきた。それが今回実現する運びになって、プロデューサーとしては嬉しい限りである。夢は強く抱いていれば、必ず実現するものーとFALCONさんは言ったが、強く思っているだけでは夢は実現しない。強く思うのと同時に、その夢に向かって精進し、チャンスが来たらそれを逃さず自分のものにするぐらいの強い意思の力が必要なのだ。しかし、FALCONさんなら必ずや夢を実現出来るであろう。その日が来ることを楽しみにしていよう。

ジネンカフェVOL.090レポート⑤

2015-03-10 13:31:46 | Weblog
第一部のパネルトークを受けて、第二部はジネンカフェではもうお馴染みになったワールドカフェである。ファシリテーターは、これまたお馴染みの白川陽一さん。ジネンカフェ拡大版では、3年目のファシリティートになる。

今回の第一ラウンドの問いは、「パネルトークの話をきいて、あなたが思ったことや考えたことは?」第二ラウンドは、「あなたが今までした旅の中で、一番楽しかった旅は?」第三ラウンドは、「今日参加して感じたことは? 持ち帰って伝えたいことは?」

白川さんが新アイテムの『ワールドカフェの世界へようこそ』を使って丁寧に進行についての説明をしてくれたおかげか、今回は初体験の方も割と戸惑うこともなく対話を楽しんでおられたようだ。やはり参加者の皆さん、誰もが自分の旅を誰かに話したいし、他者の旅の話を聞いて情報を得たいのだろう。会場に熱気さえ漂っているかのように盛り上がっていた。

ジネンカフェVOL.090、今年度の拡大版はこれで終わった…。同時にVOL.100へのカウントダウンが始まった。ジネンカフェプロジェクトを立ち上げる時、初期スタッフと「三桁台やれればよいよね…」と話していたVOL.100が、もう一歩先に待ち受けている。VOL.100の企画は、もう頭の中にある。とりあえず、そこまで走ろうか…。



ジネンカフェVOL.090レポート④

2015-03-10 13:26:07 | Weblog
パネルトーク最後のゲストさんは障がいの有無に関わらず、誰もが旅を楽しむには地域はどうあるべきなのか? 地域とその地域を旅する人とをつなぐ役割の観光協会の立場として、愛知県半田市の実例をご紹介して下さる【NPO法人半田市観光協会】事務局長・松見直美さん。観光協会が行政から独立してNPO法人になっていること自体珍しいことで、愛知県では半田市だけだとか…。松見さんは以前通常版にもご登場願っていて、これが二度目となる。

松見直美さんは、昭和30年9月半田市生まれ。高校卒業後地方公務員として、名古屋市内・東海市内で勤務、その間に結婚・出産。30年前養父母の介護を機に退職、半田市へUターン。養父母を見送り、子どもたちの手が離れた頃から半田市社会福祉協議会のボランティアセンターに登録しボランティア活動を始められる。ボランティアセンター相談員・コーディネーター等を経験したのち、半田市観光協会に勤務。平成22年10月より事務局長に就任。観光催事のコーディネート、観光情報の発信、観光案内所の運営などを行っておられる。

前述したように松見さんは地方公務員として勤めていて結婚し、出産の後に養父母の介護を期に退職し、生まれ故郷である半田市に戻ってきた。その後の歩みについては、VOL.040のレポートに詳しいので、ここでは割愛させていただく。子育て支援ボランティアをされながらも【おもちゃ図書館つみき】の活動もしていた松見さんを、更なる活動へといざなったのは、【おもちゃ図書館】を利用していた障がい児のお母さんの一言であった。子どもたちの居場所はこうしてつくられているけれど、この子たちが大人になったときに半田はどんな街になっているんでしょう? いまの大人の障がいをもった人たちの「半田ってよい街だね」という声が、私たちにも届いて来なければ子育てをする自信が湧いて来ない。大人の障がいをもった方にとって、いまの半田の街ってどうなのでしょう?」

その後、松見さんはいわゆる〈大人の障がい者〉たちとも活動を共にすることが多くなる。働きながらも日本福祉大学の二部に通っていた学生さんが立ち上げた〈うぃず〉、〈人まちクラブはんだ〉、半田市ボランティア連絡協議会を経て、半田市社会福祉協議会ボランティアセンターの相談員、コーディネーター、半田市市民活動センターコーディネーターを経て、愛知県でははじめて行政から独立した観光協会に勤め、事務局長に就任された。

そんな松見さんや私(大久保)が生まれ、住む愛知県半田市は江戸時代の昔から酒や酢の醸造が盛んで、その原材料を工場に運び込み、また醸造された商品を全国へ運ぶため衣浦港から運河を巡らせ、その運河沿いに工場や蔵を建て、そこを中心に拓けてきたまちである。そう、まち自体が古くて情緒はあるが、まだまだ高齢者や障がい児・者にとってはバリアがいっぱいで、名鉄知多半田駅前は駅と共に駅前再開発事業で様変わりし、バリアフリーになったものの、それ以外の観光資源はなかなかにバリアフルである。

酢の醸造過程が観られるミツカンの博物館【酢の里(現在改築工事中)】や、国盛の【酒の文化館】は、旧い黒板囲いの蔵をそのまま使っているので言うまでもなく、豪商・【中埜半六邸】や国の重要文化財に指定されている【旧中埜家住宅(現在長期修復工事中)】もバリアフリーとは縁遠い。ただ、そんな中でも確実に人々の意識は変わって来ている。半田運河から少し離れたところに【半田赤レンガ建物】がある。これは旧カブトビールの工場だった建物で、日本に現存している単体の赤レンガ建物では一番大きなもので、年に数回その内部が公開されていた。しかし、ここも言わずもがなでバリアフルな建物だったのだが、あるひとりのチェアウォーカーの「僕も赤レンガの中に入りたいなあ~」という言葉から、地元の工業高校の先生の耳に入り、生徒たちと半田市建築士会の協力を得て、建物の出入り口にコンクリート製のスロープが造られたのである。その他、観光協会が出張所として借りている登録有形文化財の【小栗家住宅】も、個人のお宅にも関わらず観光協会がオープンしている間は、建物の横手にある駐車場から木製のスロープを渡して木戸から中へ入ることが可能になっている。

半田及び知多地域は日本福祉大学があるせいか、福祉のNPOや社会福祉法人が多く、市民活動やボランティアなども活発である。また、日本福祉大を卒業した学生さんが、そのまま知多地域のNPOや社会福祉法人等々に就職するケースも多く、福祉的な土壌を育みやすい地域柄でもあるようだ。

半田市は現在、大きく変わろうとしている。博物館【酢の里】が新しく【MIZKAN MUSEUM】として生まれ変わり、今年の秋にオープンする予定だ。もちろんバリアフリーである。【半田赤レンガ建物】も、耐震工事を終えて今年の夏より観光施設として常時公開される。工業高校の生徒たちと建築士会が協力して造ったスロープはどうなるか解らないけれど、バリアフリーになるだろう。【中埜半六邸】も【半六庭園】として今年4月にオープンする。歴史や伝統と文化が、人のぬくもりと共に息づく半田市へ、みなさまどうぞお越し下さい。











ジネンカフェVOL.090レポート③

2015-03-10 13:20:40 | Weblog
旅を企画する立場の松本泰守さんに続いての三番手は、ツアー、個人旅行問わず、高齢者や障がい者の 旅をサポートしてい る【NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会】の理事長・久保田牧子さん。久保田さんは、1945年東京生まれ。玉川大学を卒業後、婦人誌、在宅介護誌の編集者を経て、高齢者や障 がい者がいきいき暮らすための「旅」をテーマに、NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会を設立。2014年5月、2020年のオリンピック&パラリンピックで、東京へ来る多くのお手伝いを必要な方々の役に立つ情報や人的介助ができるようにと、「東京ユニバーサルツーリズムセンター」を立ち上げられた。

久保田さんが理事長を務めておられる【NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会】は、文字通り高齢者や障がい者など日常生活に不安を抱えていたり、物理的なバリアのために旅や外出をする自信がない方に対して、外出の機会を積極的に支援するための人的サポートを含め、誰もが外出や旅を楽しめるように…との想いで生まれ、活動をしているNPO法人である。外出時や旅の間の人的サポートばかりではなく、ユニバーサルツーリズム的な視点に基づく情報提供や、旅の人的サポートを行う人々の育成も、主な業務だ。より多くの人たちが外出できる体制を作ることにより、高齢者や障がい者の社会参加や生きがいづくりを促進し、それを普及させて啓発することによって、ノーマライゼーションの確立に寄与することを目的としているのだ。

高齢者や障がい者への外出支援は、介護保険、あるいは障害者総合支援法にもヘルパー制度はあるが、これらの福祉サービスでは障害の等級に応じて利用できる時間的な上限が定められており、その中での対応となるので日帰りならばともかく、旅行ともなるとそれだけで上限に達してしまう恐れがあり、対応出来ないのが現実だ。個人で働いているヘルパーさんならともかく、介護事業所に登録しているヘルパーさんの場合、利用者を何人も抱えている方も少なくない。また、介助が必要な高齢者や障がい者がいるご家 族が、その方と一緒に家族旅行へ行く場合も、介助で手一杯になってしまって、介助者は全く旅を楽しめないこともある。そこで生まれてきたのが、通称〈旅サポ〉と呼ばれる有償ボランティアなのだ。つまり〈旅サポ〉は、福祉制度の隙間を埋める存在なのである。この〈旅サポ〉は日本各地にあり、ネットワークで結ばれているところもあれば、現在構築中のところもある。

有償とはいうものの【NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会】の場合、それは福祉サービスによるヘルパー制度とそれほど変わらない。旅サポーターへの謝礼金として、1人一時間で800円。NPOの事務経費として1,000円。利用者との同行中の交通費や入場料や宿泊費等々。集合場所までの旅サポーターの往復交通費(往復交通費が1,500円以内の場合は、1,500円。それを越えるものは実費)を支払うことになる。サポートの時間は、一日8時間まで。利用者と同行している時間のみである。

旅への同行とは いっても、3種類の利用タイプがある。出発点から帰着点までの同行利用。着地・発着点(東京) での同行利用。スポットでの利用。サポートの内容としては、これも介護ヘルパーと変わらない。移動時のサポート、乗り物への乗降、ベッドやトイレなどへの移乗、入浴、衣服の着脱、食事の介助等々である。原則と して就寝中のサポートは出来ないが、就寝中の体位交換や就寝後のトイレ介助等は応相談だという。

旅の相談や情報提供に関しては基本的に無料だが、〈旅サポ〉は旅行業者ではないので旅券の申請手続きや行き先変更などの手続きは出来ない。宿泊先や福祉機器(車いす等々)、ヘルパー等の手配が発生した時には 応相談だという。

〈旅サポ〉はヘルパーや福祉の資格がなくても、高齢者や障がい者と同行してお手伝いしな がら旅 を楽しみたいという気持ちの方なら誰もがなれるが、【NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会】では年に2回、2日間の研修を して認定を行っている。介助を伴うのだから、これは当然であろう。

このように幅広く、手厚い活動を続けている【NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会】ではあるが、決して楽な経営状況ではない。毎年赤字経営が続いているという。これはどこのNPOでも悩みのタネなのだが、〈旅サポ〉の活動を永続的に続けてゆくために利用者や賛同者から年会費を集めることにしたという。志ある方たちがいつまでもその活動が続けられ、介助が必要な高齢者や障がい者が自分の行きたいところに行け、観たいものを、食べたいものを堪能し、会いたい人に会いに行ける…。そんな普段の暮らしの幸せのため、久保田さんに代表される、全国各地の〈旅サポ〉の皆さんには頑張っていただきたいと思う。

NPO法人高齢者・障がい者の旅をサポートする会
〒153-0064 東京都目黒区下目黒4-23-24
TEL/070-5081-7404(担当 久保田)
FAX/03-3716-8505
E-mail/mail@tabisuppot.org

ジネンカフェVOL.090レポート②

2015-03-10 13:11:37 | Weblog
パネルトーク二番手は、旅を企画するプロの立場から、これまで国内・海外問わずツアーを行い、ユーザーからはもとより、観光に携わる現地の人々や同業者からも絶大な信頼をおかれていらっしゃる【(株)チックトラベル ハートTO ハート】課長・松本泰守さん。

松本泰守さんは(株)チックトラベルセンター入社後、ハートTOハートを設立。1996年9月の北海道ツアーを皮切りに車椅子ご利用の方や障がいのある方々の旅行を専門に担当し、海外・国内と数多くのツアーと身障グループや身障団体の手配旅行のほか、ヨーロッパへの福祉視察旅行と海外交流旅行のコーディネートなども手がけている。そして現在はJATA(日本旅行業協会)のバリアフリー旅行部会員として、日本各地の旅行業協会支部でのバリアフリー旅行セミナーの講師も引き受けておられるそうだ。

松本さんが始めてバリアフリーツアーを企画されたのは、19年前のこと。その頃に比べて、現在は鉄道にしても、航空機にしても、高齢者や障がい者にやさしくなってきている。19年前に障がい者の団体が航空機の予約をしようとすると、断られることが多かったそうだが、いまや障がいをもたれていてもひとりの大切なお客様として迎えてくれるようになった。また、バッテリーを搭載している関係で、電動車いすの搭乗は拒否されていたが、最近では制限はあるものの、認められるようになっているという。

以前、松本さんが企画したシンガポールへのツアーが、航空会社からの電話で三日前に搭乗拒否になりそうな事態に見舞われたという。理由はそう、電動車いすのバッテリーだった。最近のバッテリーは固形のものが多いが、その当時は液体のものが多くて、もしその液体が漏れ機体に損傷を与えたら…。航空会社側には、そんな懸念もあったのだろう。しかし、せっかく旅行を楽しみにしているお客様のため、ここで引き下がるわけにはいかない松本さんは、同じ航空会社の飛行機がその二日ぐらい前に外国からF1カーを運んできたことをつきとめる。「F1カーってバッテリーもついてますよね? 電動車いすと同じですね」と、その事実を告げると、航空会社の対応が変わり、しばらくして搭乗許可が出て、シンガポールツアーは予定通り全員の方が参加することができたのだった。

こうしたことは、松本さんにとっては日常茶飯事で、現地の人や航空会社の客室乗務員や鉄道会社の職員が知らないバリアフリー情報を知っている【観光バリアフリーの生き字引】のような方なのだが、ソフト面の変化ばかりではなく、ハード面の整備に関しても、19年前に比べるともう雲泥の差があるという。以前は普通トイレしかなかった航空機や新幹線にも多目的トイレや多機能トイレが付けられるようになり、道の駅や観光地にも車いすのまま使えるトイレが当たり前に完備されている。宿泊施設(ホテル・旅館)においても、ユニヴァーサル(バリアフリー)ルームが増えつつある。
こうした観光業界や観光地を取り巻く社会環境の変化は、日常的な場面でもみられている。松本さんご自身も、先日名古屋駅の地下鉄駅改札付近を元気よく「すみません。車いすです! 通ります~」と声をあげながら、スイスイ人並みをすり抜けて走ってゆく車いすの青年をみかけて嬉しくなったとおっしゃっていたが、「車いすでは旅行は出来ない」と言われていた昔に比べて、最近では旅先でもよく車いすでの旅行者を見かけることが多くなったし、健康な人たちのツアーにも足の不自由な人も参加していたりする。つまりどんなに重い障がいを持っていようとも、医療ケアが必要な人であっても、その気になればどこへでも行ける時代が到来しているのだ。

これまで旅することを自ら、あるいは家族や介護職員が無理だと決めつけていたのは、自宅では出来ていたことが、旅先での環境の変化によって、危険が伴う、何かあったらどうする?という心配からだった。しかし、逆に言えば環境が変化したのなら、自らを変革させてゆけるチャンスとも言える。松本さんも実際にいくつかのケースをみてきたという。

リフト付きのバスで外出したことがきっかけになり、自宅とは違う設備でも使えたことで自信を持った。温泉旅館でヘルパーの介助を受けて入浴できたことで、自信を持った。ホテルの手すりの位置が自宅とは違っていたが、自分なりに工夫して使えたことが旅の一番の思い出になった。自分以外の障がいのある人を見て、やる気になった…等々。例を挙げれば枚挙に暇がないほどである。

松本さんが勤めておられるチックトラベルさんでは、国内・海外問わず本当に様々なツアーを行っているが、エジプトツアーに行った時、ツタンカーメンの眠るお墓に入るには狭い階段があり、車イスではとても入れなかった。そこでおんぶ用の帯を持参してスタッフにおんぶしてもらい、地下のお墓に入っていただくことができた。一年に2度、日の出の瞬間に神殿の一番奥にある部屋まで光が差し込むというアブシンベル神殿には車イス利用の団体が初めて訪れたと航空会社スタッフが喜んでいた。また、人工呼吸器を使う大学教授が海外の学会発表に出かけたときはヘルパーと添乗員の両方として同行した。ALSという難病の同盟会議参加のため海外へ行く患者さんや協会のツアーの添乗員としても同行している。こちらに参加する人は人工呼吸器を使い、寝たきり状態に近い人ばかりである。

かつては【重度の障がいをもった人は自宅にいるもの】という、誤った認識が世の中に蔓延っていた。しかし、福祉の充実と共に、建築用語だった【バリアフリー】や【ユニバーサルデザイン】が一般的にも使われるようになり、高齢者や障がい者が社会に出るのは当たり前の世の中になった。松本さんはこれからも旅をしたい! 〇〇がみたい! という高齢者や障がい者の声に、旅のプロとして飄々と応え続けられてゆくことだろう。松本さんは、旅を愛し、旅をする人を愛し、そしてなによりも人が喜ぶ笑顔が好きな方なのだ。

ジネンカフェVOL.090レポート①

2015-03-10 12:58:07 | Weblog
今年度の拡大版、ジネンカフェVOL.090は『障がいの有無に関わりなく、誰もが旅を楽しむには』をテーマに据え、パネルトーク・ワールドカフェという二部構成で催した。会場はいつもお世話になっている名古屋柳城短期大学の学生ラウンジ。

第一部のパネルトークのゲストさんは4名。先ずはどんなに重い障がいがあっても旅を楽しみたいという想いで障がい当事者、ヘルパーさん、賛同される支援者の方などで立ち上げた【サークルt】の代表・小島万智さん。

小島万智さんは1967年名古屋市生まれ。生後6ヶ月の高熱の後遺症により脳性小児麻痺(アテトーゼ型)を発症。一宮養護学校を卒業後、情報処理の勉強をするために〈緑風荘〉に入所。その後、重度授産施設(就労支援施設)〈明和寮〉に入所し、システム開発の仕事をする。1995年、職場で出会った男性と結婚し、99年に長男を出産。現在はちょっとした講演や、〈AJU自立の家〉の機関誌〈福祉情報誌〉の編集委員の活動をしながら、ヘルパー制度を使って地域で暮らしている。〈サークルt〉は、5年前に立ち上げたそうだ。

〈サークルt〉を立ち上げたきつかけは、やはり「旅」をしたいという一念だったそうだ。家族ではなかなか行けないし、長男はもうすぐ高校生になるお年頃なので、親とは行動を共にしたがらない。息子は放っておくことにして、自分たちの他にも同じ想いをもっている人たちがいる筈で、そういう人たちと一緒に旅が出来ればどんなに楽しいだろうか…。そうして仲間たちと立ち上げた〈サークルt〉なのだが、重度の障がい者が行動をするにはヘルパーさんの存在は欠かせない。しかし、そのヘルパーさんも旅にまで同行してくれる人は少ないし、そもそもそれは仕事ではなく、プライベートなことになってしまう。なので介助者という立場ではなく、自分たちと旅を一緒に楽しんでくれる〈仲間〉という位置づけで、学生さんを中心に随時募集しているのだそうだ。

現在までに静岡県の掛川花鳥園、お花見、名古屋港水族館、南紀白浜、東海車いす市民集会(静岡)、北陸への高速道路食べ歩き…等々に行き、楽しんできたとか。掛川花鳥園では鳥が頭の上を飛んでいて怖かったし、メンバーの「パンダを見に行こう!」という一言で決まった南紀白浜のパンダ旅行では、夜の宴会で全員が思い思いに仮装しパンダになったりして楽しかったとか…。

小島さんは言う。サークルを運営していくのは大変だけど、旅をする企画から実行に至るまでの達成感や、障がいを持つ当事者自身が活動できる場なので頑張っていきたいと思う…と。そしてこのような自分たちの経験を、自分たちの中だけに鎖すのではなく、これからの若い人たちにも伝えて行きたいと思っているという。自分にも旅が出来ると思えば楽しいし、自信にも繋がると思うから…。

小島さんやサークルtのみなさんには、今後ともどんどん旅に出てほしいと望んでいる。