ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.142(2023年6月 )レポート

2024-02-28 09:25:10 | Weblog
今年の梅雨入りは早かった。その上エルニーニョ現象の影響なのか台風が早くも発生し、前線を刺激して災害級の雨が降る。日照時間の短いこと。こんな時には食べ物も黴びる恐れがあるが、ともすれば人間も黴びて来てしまいそうだ。こんな時には爽快な生き方をされているゲストさんをお呼びして、お話を聞くのが一番だ! というわけでもないが、6月・ジネンカフェVOL.142のゲストは、(公財)名古屋国際センター事業課主事の池田昌代さん。これをお読みになられている中にも、国際センターって名古屋市営地下鉄の駅名にもなっているけれど、実際にどんなことをされている機関なのかご存知ない方もいらっしゃるだろう。実は私もその口で、駅には何度も降りたことはあり、待ち合わせのために建物の中に入ったこともあるのだが、3Fのセンターには出入りしたことがないのでどんなことをされているところなのか知らないのだ。その謎も後半で明らかになる。題して『知らない場所で生きるには〜予定はミテイ、脱線はハッテン』はじまり、はじまり。

【教員志望でも勉強嫌いな女の子】
池田昌代さんは豊川市(旧音羽町)のご出身。2008年からカナダへ行っている間に音羽町が豊川市と合併したので、行く前は音羽町民だった筈なのに、帰って来たら豊川市民になっていたという市町村合併の洗礼を受けたひとりである。カナダに行く前は会社員をされていたそうだ。もともと教員志望だったので大学も教育学部に通っていたのだが、勉強がそれほど好きではなく、教員採用試験の勉強もあまりしていなかったので、周りが採用試験に合格してゆく中、池田さんだけ、教員免許はあるものの採用されることはなかったという。

【カナダからの帰国後、外国籍児童担当教員として勤める】
大学卒業後、会社員を6年ほどされていたが、英語や海外には興味があったので一念発起で退職し、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダへ渡ったそうだ。そこで一年半過ごし、帰国されてからはせっかくの教員免許を活かそうと思い、たまたまポストが空いていた外国籍児童担当教員として勤めることになった。豊橋や豊川には外国にルーツを持つ子どもたちが多く、愛知県からそのための講師雇用に予算がつけられている。そのポストに空きがあり、年度途中の9月から学校勤めをすることになったのだ。クラス担当というわけではなく、多い時で一時間に4〜5人、多様な学年でルーツもバラバラな子どもたちがひとつの教室に集まって、日本語やいろいろな教科の勉強をする。そのための先生であった。

【もう一度教師採用試験を受けようと考えたけれど…】
池田さんはその仕事が好きだった。この仕事をずっと続けて行きたいと思い、もう一度教員採用試験を受けようと考えたほどに。しかし、受けるのであればもっと教員として当たり前のこともしなければいけなくなるだろうとも考えた。つまりクラス担任である。当時も常勤で働いていたのだが、クラス担任になると仕事量が半端ではない。この頃から既に教師不足が指摘されていて、池田さんも二年続けて「来年はクラス担当をしてもらうからね」と言われていたのだ。そんな働き方は自分には無理だと思った。それに何よりも池田さんは、外国籍児童に教えることが好きだったのである。始業前のこれからどんなことを教えてもらえるんだろうという好奇心と期待とが混ざったような瞳。知識を学んで行くに連れて喜びと次は何?と言わんばかりに輝くように綻ぶ顔。

【運命を変えたJICA研修参加】
丁度その頃JICA中部が行う『開発指導者研修』、それと並行して行われながら夏休みには現地研修へ行く教員向けの『教師海外研修』について知り、池田さんは即座に参加することに決めた。その年の現地研修先の1つがブラジルで、外国籍児童担当教員として日系ブラジル人の子どもたちを教えることが多かった池田さんは、彼らのルーツの国を体感してみたいと思ったのだ。
その研修で、JICAの日系社会青年ボランティア(現在は青年海外協力隊に統一されている)について知ることになる。
                                                                                                                                            
【日系社会青年ボランティアへの挑戦】
JICAの現地研修は池田さんにとってよい経験だったし、その時に知りあった先生方とも今もお付き合いがあるのだが、彼らは当時皆正規採用の教員だった。JICAのボランティア(海外協力隊)には現職教員のままでも参加できる制度があるが、学校や地域の教育委員会の推薦等を経て希望を出してから3年〜5年後にやっと行けるか行けないか、というところだそうだ。でも池田さんの場合は当時常勤講師で一年ごとの契約だったので、講師を辞めれば直ぐにでも参加できる立場だった。
一方その頃池田さんが豊川でしていた外国にルーツのある方に日本語を教えるボランティアのグループの中に、青年海外協力隊経験者の方が二人いらした。とても素敵な方々で、その人たちからもお話を聞いたりしてますますJICAボランティア参加への想いを募らせていく。
ブラジルでボランティア活動や生活をしてくれば、帰国してからもまた外国籍児童担当教員として働くための大きな糧になるのではないかとまだ見ぬ未来への期待を膨らませ、研修同期の現職教員たちや地元の先輩たちに背中を押され、池田さんは研修から導かれるように日系社会青年ボランティアへの応募を決意した。

【選考試験に通り、晴れてブラジルへ】
その年の募集でブラジルからは1つだけ「文化」という幅広い要請が出されていた。普通日系社会だと「日本語教師」とか「特定のスポーツ指導が出来る人」(池田さんの同期にはバドミントンの指導者がいらした)、日本文化であっても「エイサー(沖縄と奄美群島に伝わる伝統芸能)」「和太鼓」等々特定分野の知識や経験が求められるそうだが、この時に要請されていた「文化」は、要件が「何かの指導経験がある人」だったという。指導経験と言えば池田さんも二年半教員として勤めてきたわけだから当然応募資格はあるだろう。そうはいうもののJICAの選考試験は極めて厳格で、細やかな健康チェックはもちろん、面接も行われ様々なことを質問される。「茶道経験あり」と書いたものの池田さんは高校時代にかじった程度だったので「申し訳ありません。わかりません。勉強してきます」と答えた。池田さん曰く、謙虚な姿勢と応募者が少なかったことが幸いし、晴れて合格となり、ブラジルに行けることになった。

【日系コミニティー・タウバテ】
ブラジルの日系社会は、100年以上も前に始まった移民政策で日本からブラジルに渡った人たちがそこで家族を作り、二世、三世と世代が代わってゆく中で、学校や日本語学校を自分たちで運営していたという。そういったブラジル全土にある日系コミュニティに池田さんたち同期の30余名が散り散りバラバラに飛ぶことになった。
池田さんが入ることになったタウバテの街の日系コミュニティでは、既に4名が2年ずつ、合計8年、JICAボランティアの日本語教師が活動しており、受け入れ先のタウバテ日伯文化協会が次に5人目の日本語教師を呼べるかどうかわからないので、「文化」という幅広い分野で要請を出したのではないか、と池田さんは思ったそうだ。

【初カルチャーショック】
池田さんがタウバテの日本語学校に入って初めての行事が〈運動会〉であった。日系の方々が日本式の〈運動会〉を行うということで池田さんも参加されたのだが、運動会定番の種目〈綱引き〉競技の仕方が独特で驚かされたという。日本の場合、綱を引き合う双方の力が均等になるように予め人数を揃えたり、男女差や大人と子どもの割合を整えたりしてから競技を行うものだけれど、そこではそんなことにはお構いなく目一杯〈綱引き〉を楽しんでいる感じだった。綱を引き合う双方のバランスもバラバラで釣り合いが取れていないばかりか、盛り上がってきたなと思ったら周りで見ていた人たちまでも参加し始め、左右のバランスも何もない状態。圧倒されている間に勝敗が決し、勝った方のチームは当然喜んでいるが、負けたチームもそれほど悔しそうではなく、むしろ「楽しかったね」と笑い合っている。池田さんはその時「なんだこれは?!」とショックを受けた。「凄いところだな〜。こういうところで2年間生活するんだ」と思ったそうだ。最初は圧倒されたものの、池田さんには次第にそのことが好ましく思えてきた。日本のようにキッチリ行うのも良いが、多少の不均衡は狡いなどと思わずにみんなが楽しいことを分かちあい、誰もが笑顔を浮かべている。これはいい、と。ただ、これまで自分が経験して来たことと全く異なる光景を目の前にしてただ単純に戸惑ったのだ。JICAの研修でも「日本とは文化が違うから、自分の考えだけで動くな」と言われたが、その言葉の意味を実際に体験したのはこの時が最初だった。

【自分はクロージングの仕事をしに来たんだな】
タウバテの日系社会は成熟していて、ボランティアの受け入れもしっかりしたところに池田さんは入った訳だが、やはり協会の人たちも、一応JICAには要請は出したものの、もう8年間もボランティアに来てもらっているので、他のコミュニティにも譲らなければいけないかなと思われていたらしい。自分はクロージングの仕事をしに来たんだな、ボランティアがいなくても回るようにするとか、何かを残してゆくことが役割なんだな、とぼんやりと思ったという。そんなことを思いながら、主に週末に開催される日本語学校では、子どもたちに手遊びをしながら日本の歌を教えたり、茶道も書道も算盤もひと通り齧っていたのでそれら教えたりしていたそうだ。また、日本語教師資格はもっていなかったが、教師をしていたという経歴からもう少し歳の大きな子どもたちにも日本語を教えていたとか。
ブラジルの日系社会はその地域によって様々な特色があるが、池田さんが入ったタウバテは工業地帯で、ブラジルの航空機会社のエンブラエルや、フォルクスワーゲンの工場があり、豊川に似た規模の街であった。日系人と現地の方のカップルのお子さんも多く、日本語学校には、全く日本にルーツはないけれど日本語を教わりたいという子もいれば、日系人だけれど日本語を勉強するというよりは遊びに来るように通って来ていた子どももいたそうだ。

【ブラジルの学校事情】
その傍で池田さんは、帰国してから何かの役に立つかも知れない、と、現地の子どもたちが通っている学校を見学させてもらいに行ったという。文化協会に現地校の先生がいらして、その方にお願いして見学させてもらったのだ。ブラジルは午前中の授業で終わり、午後の授業だけで終わり、という感じが多く、日本のように一日中授業をすることがあまりなかった。だから先生方の働き方も様々で、午前中・午後・晩〜夜間とそれぞれの時間帯で違う学校を掛け持ちして働いている方もいらっしゃるとか。池田さんは現地の子どもたちと一緒に折り紙で折り鶴を折ったり、日本語の挨拶や文字などの紹介をしたそうだ。

【お年寄りの仲良し会】
タウバテ日伯文化協会にはお爺ちゃんやお婆ちゃんの会もあり、日本語で話す機会を求めて『仲良し会』と言う集まりを持っている。日本人一世の方もいれば、二世の方もいらっしゃり、二世の方の中にも日本語の方が得意という方もおられるとか。皆さん持ち寄りパーティーやビンゴが好きで、食べ物を一品ずつ持ち寄ったり文化協会のキッチンでお料理を作り、池田さんたちが提供する川柳や習字、体操などのアクティビティをされたりして、ビンゴゲームをして帰る…みたいなことをされていたという。

【日本語教師?としての2年間】
日本で国語の教員免許を持っている池田さんだが、国語を教えるのと日本語を教えるのは別物で、先生だから日本語を教えられる、日本人だから日本語を教えられるというものではないという。しかし、ネイティブの日本人は貴重な存在、要請の職種は日本語教師ではなかったが、結局協会の日本語学校で日本語を教えることも仕事になり、2年間の任期中は同期派遣の仲間に助けてもらっていたとか。隣町にも同期がいて、池田さんが困っている時には「こういう教材を使ったらいいよ」「こんなふうに仕掛けると面白いよ」と教えてくれたり、アマゾンなどブラジル各地にいる同期もオンラインで「こんなのやったらどう?」と教えてくれた。
日本語を教えること以外にも、突然シャワーが出なくなったり便座が割れたりなど、困るけれど面白おかしい事態に何度も遭遇したそうだが、本当に周囲の人たちに助けられながら2年間異国の地で過ごしていたという。

【ゲートボールデビューを果たす】
ブラジル滞在中、池田さんは協会の人たちに誘われてゲートボールにも挑戦し、サンパウロ大会にも出場したそうだ。日本ではゲートボールというと高齢者のスポーツというイメージが強いが、ブラジルでは結構若い人も競技しているらしい。日系人だけではなく、現地の方々も楽しまれているという。しかし、まさか自分の人生の中でゲートボールをすることになるとは、池田さん自身も思ってもいなかったとか。

【ブラジルの食卓】
タウバテの池田さんが住んでいた家の程近いところに、日系の方が経営されていた『シバタ』というスーパーがあり、ブラジルで栽培されている日本米が販売されていて、白米は食べられた。最も池田さんは和食だろうが、洋食だろうが、美味しいものなら何でも食する人なので、食べることには困らなかったという。ただ、任地に入った初日に「ご飯をご馳走しましょう」と連れて行ってもらったお店で、定番の『ポルキロ』をご馳走になったそうだが、これはお皿に取った料理の量り売りで、どれも美味しそうで量をあまり考えなかったことと、材料として使われているデンデヤシの油が体にあわなかったらしく、初日からお腹を壊したそうだ。でも食で困ったのはそれぐらいで、後は何でも美味しく食べられた。ブラジル料理として有名なシュラスコは家庭でごく普通に行うもので、基本的には男性がホスト役になることが多く、シュラスケイラという専用の場所を設置している家はそこで焼くものなのだそうだ。日本のBBQとは違うようだ。

【昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?】
食べることが好きな池田さん、食に関する話はまだ続く。タウバテの日本語学校の先生方や協会の人たちの多くは日系の方達で和食を作られることも多く、池田さんのところにも届けたり分けたりもしてくれたそうだ。また、日本ではまずあり得ない話なのだが、「先生、うちのバナナ採れたのでどうぞ」と言って、枝のままバナナを貰ったこともあったという。これには池田さんも驚いたのだが、ブラジルでは畑などの風よけにバナナの木を植えている家があり、枝ごとボキッと折ったりするそうで、ブラジルでは普通なんだと思い直したそうだ。市場にはバナナだけを販売しているスタンドがあり、ある時「昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?」と訊かれて〈え? バナナはバナナじゃん。〉と思ったが、ブラジルではバナナでもいろいろな種類があるのだ。大久保調べではオウロバナナ(いわゆるモンキーバナナ、小さくて濃厚)・マッサンバナナ(少し小さめでリンゴのような香りが特徴的。甘味もコクもあっさりしている)・プラッタバナナ(少し小さめで甘味もあっさりしている)・ナニカバナナ(日本でも見かける一般的なバナナ)・テッハバナナ(生食できない料理用バナナ)など。日本にいるとモンキーバナナとフィリピン産バナナの違いぐらいしか分からないのだが、ブラジルに行ったら「どのバナナが好き?」と訊かれ、“これも日本語の勉強に使わなくては”と考え、『どれが好きですか?」とか『どの(名詞)が好きですか?』を教える時や、日本風に『これ、つまらないものですが…』とものを贈る時の練習にもバナナの枝の絵を使うなど、バナナと現地での経験をしっかり使って帰って来たという。

【トラブルを楽しむようになるにはトラベルに出なければ】
こうして2年間の任期を終えて帰国した池田さんだったが、苦しいこともあったけれど同期にも恵まれて楽しかったという。池田さんは大丈夫だったけれど、住んでいた近くでも殺人事件があったり、銀行強盗が起きたりしたそうで治安は確かに日本と比べて悪く、同期にも強盗に遭って履いていたナイキのスニーカーと、買ってきたばかりのヨーグルトを盗られた子がいたそうだ。その時は「怖かった」と言っていたその同期の子も、別の同期の子に「凄いネタ拾ったじゃん」と明るく励まされ、その強盗にあった子も明るい性格だったから「そうだよね。ネタだよね。生きてるもんね」と切り返していた。もともとネガティブな性質の池田さんが、現在ポジティブに見えているのはこうした海外でのトラブルを楽しんできた体験が大きいのではないかとご自分で分析されている。

【やはり自分は裏方向きではないか?】
帰国後も外国籍児童担当教員として学校に勤めたいと思ってブラジルに行った池田さんではあったが、同期の隊員が皆いろいろな企画をたくさん考えたり、人を呼んでくるようなことが上手で、どちらかと言えば池田さんはその後方支援・裏方仕事が得意、それで「ありがとう」と言われることが嬉しいとさらに強く感じていた。教員にはなりたいけれど、なればきっとクラス担任をしなければならないだろうし、兎にも角にも今は裏方仕事がしたい!と思いながら帰国したのだった。帰国してすぐに、派遣前の教員研修を一緒に受けた方が産休に入るのでその間だけ自分の代わりに非常勤でも良いから入ってくれない? と言われ、非常勤講師として勤めたのだそうだ。その時は特別教科で1年生から6年生まで日本人の子どもを教えていたのだが、ご自分でも授業が下手だなと思ったし、日本人の子ども達とのコミュニケーションも楽しかったけれどあまり上手くいかないなぁ、やはり自分は裏方向きだ、と改めて思い、外国籍の子どもと関わるのはボランティアでも出来るからと、事務職の仕事を探し始めたそうだ。

【名古屋国際センターの嘱託職員になる】
すると、たまたま名古屋国際センターの『事務職。一年契約。更新有り』という募集があり、国際センターという言葉の響きに事務職、「ここ、いいじゃん。」と軽い気持ちで応募した。その年度が約7年ぶりの採用試験だったそうで、久しぶりということでか応募者が少なかったらしい。池田さんは補欠合格だったので「これはダメだな」と思っていたら、運が良いことに合格者の中に辞退者が出た。こうして晴れて池田さんは名古屋国際センターの嘱託職員として働くことになったのだった。

【名古屋国際センターに入職してみたら】
しかし、入ってみたら仕事は事務だけではなかった。事務仕事ももちろんあるが、企画や調整、交渉といった仕事もある。人影に隠れてその人を輝かせるための事務仕事がしたかったのに…と思ったが、企画をしたりイベントをしたり。ロクに下調べもせずよくわからない団体で仕事を始めてしまった…と、池田さんは思った。学生時代にキチンと就職活動をしていれば受験する会社のこともしっかり調べるけれど、ご本人曰く、教員採用試験受からなかった組の池田さんは急いで就職しなければと求人広告を見て応募した会社にラッキーにも採用されたみたいな人だったので、就職活動がどんなものかもあまり知らなかったという。この時も国際センターのことを知らないまま受験したが、それでも受かったのは、履歴書に「カナダに行ってました」とか「ブラジルに行ってました」と記して、〈趣味・特技〉の欄に〈趣味〉程度のつもりで「ポルトガル語」と書いたのを〈特技〉だと思われたのかも知れない、と笑っておられた。

【名古屋国際センターとは何しているところ?】
そもそも名古屋国際センターとは何をしているところなのか? ざっくりと言うと、在留外国人の方々の相談を受けたり、名古屋圏にお住まいの市民の方々に異文化理解をしてもらう、多文化共生について知ってもらう、そういう意識を持ってもらうよう働きかける。そんなことを仕事としているところだ。名古屋国際センターでは情報を多言語発信されており、昨年度までは紙媒体で日本語版の『NIC NEWS』、英語版の『NAGOYA Calendar』、WEB上でポルトガル語と中国語の『NAGOYA Calendar』を発行していたが、今年度から紙媒体のものは辞めてWEB上のみで見ていただくものになっているという。子ども向けには『子どもニック・ニュース』を紙で発行していて、こちらは名古屋市内の小学校の高学年の子ども達に配布しているそうだ。また、多言語相談対応は今年度からは日本語と英語を含めて11言語対応になっているという(日本語、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、ハングル(韓国語)、フィリピン語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タイ語)。ただ各々の言語のスタッフさんが来られる曜日や時間が限られているので、いつも対応できるとは限らないという。要確認ということだろう。

【在留外国人の方にとって心の拠り所であり、心強い機関】
池田さんたちセンターの職員さんが相談に乗ることも多々あるのだが、名古屋国際センターには専門相談員さんがいらっしゃる。行政相談員さんが毎日必ずお一人、教育相談員の先生が週に三日間、行政書士会から行政書士の先生は週に二日午後のみ来て下さり、弁護士会から弁護士の先生も週に一回午前中に来て下さる。行政書士、法律相談、教育の相談は、要予約になっているそうだ。いずれも通訳さん付きで相談出来る。外国の方が日本で暮らすためには必ず在留資格というものが必要で、相談の内容によっては在留資格が大きく関わってくる。相談を受ける時にはまず在留資格を伺って、その人の在留資格に応じた対応をお話しなければならない。入国管理局の方も月に一度来て、入管相談ということで在留資格そのものに関する相談にも乗ってくれるという。これも予約が必要だということだ。その他、難民支援本部さんもセンターとの共催で難民の面接などもしているし、こころの相談もカウンセラーの先生がスペイン語・英語・ポルトガル語・中国語で直接話を聴いてくれるという(要予約)。
名古屋圏にお住まいの在留外国人の方にとっては心の拠り所であると共に、これほど心強いセンターはないだろう。

【情報発信や相談の他にもいろいろしてます】
前述したように名古屋国際センターでは情報発信や相談対応の他に、イベントや研修も行っている。
若者向けのグローバルユース事業は、35歳までの人たちが集まってイベントしようとか、こんな感じで勉強しようとかやっている。池田さんはその部署から離れてしまったので現在どんな感じなのかよくわからないのだそうだが、若い職員が担当となり、とても良い雰囲気で盛り上がっているなぁと思って見ているという。
日本語教室は、ボランティアさんが先生になって子ども向け・高校生向け・大人向けの三教室を日曜日に行っている。高校生向けの教室は近年新しく出来たのだが、親御さんが先に日本にいらしていて、後から子どもを呼び寄せるケースの場合、子どもさんが現地で中学を卒業しているかいないかは大きなポイントで、日本に来られた時に次のステップに進むためにも中学卒業資格を持っていれば高校受験が出来(日本語の勉強や受験勉強は必要になってくるにせよ)、進路の取り方が変わって来る。中学を卒業していないのに、中学卒業年齢になっている子どももいる。そういう子たちは高校進学のために中学卒業資格を取得しなければいけないので、例えば中学卒業認定試験の勉強もしなければならなくなる。そのため高校生日本語教室に関しては、高校生と、高校には行ってないけれど高校に行きたい子たちが通って来ているとか。その他にも名古屋国際センターでは、まちづくり事業として地域の方と一緒にお祭りやイベントなどもされていたそうだ。

【災害時のために】
また、災害時の対応や防災について。外国の方は日本人のように学校で防災訓練をしたという経験もないし、母国とは気候も全然違うし、地震がある国・ない国から来られている訳で、地震のない国の方は地震のことをご存知ない。日本では建物の耐震が結構しっかりしているので、地震が起きてもすぐに外に出てくださいとは言わない。先ずは机の下など頭や体を保護できるところに隠れて、素早く火の始末をし、ドアや窓を開けて逃げ道の確保を図ると言うことが手順なのだが、国によっては崩れやすい建物のところもあるので地震が起きたらすぐ建物の外に逃げて下さいという対応をとっている。そういう日頃からの災害への意識や知識、日本での対応の仕方などの防災普及啓発の事業も行っている。毎年9月には名古屋市の総ぐるみ防災訓練があり、国際センターの職員もどこかの区の防災訓練に外国の方とともに参加しているという。

【やさしい日本語啓発】
これも災害時の対応がきっかけで生まれた啓発事業。災害時に難しい日本語で情報を貰っても、外国の方はわからない。池田さんたちがよく例として使うのが「高台に避難して下さい」という言葉。「高台」と「避難」二つの難しい言葉が使われているが、これをやさしい言葉に言い換えるとどうなるか?  正解はないのだけれど、例えば「高いところに逃げて下さい」。これにジェスチャーや顔の表情などを加えると一層わかりやすくなるそうだ。「飲食厳禁」と壁に貼ってあって例えカナがふってあっても、読めるけれど意味がわからない。「食べたり飲んだりしてはいけません」とか「食べてはいけません。飲んでもいけません」にし、絵を添えたりしてもわかりやすい。相手に伝わるように書き換える、言い換えるのが、やさしい日本語だ。国際センターは出前講座の形で、学校とか非営利団体さんとかに出向いての啓発活動も行っている。

【海外の子どもたちの識字教育のために】
日本ユネスコ協会連盟さんが進めておられる途上国への識字支援に、(公財)名古屋国際センターの自主事業として募金をしている。書き損じのハガキを集めてそれを現金化し、日本ユネスコ協会連盟さんを通じて海外の子どもたちの識字教育のために役立てていただくという。

【国際センターのライブラリー】
名古屋国際センタービルの3階に情報サービスカウンターがあり、そこに常時職員が2名いて、英語と日本語で対応されている。お客様がみえるとそこで用件を伺って、日英以外言語ご希望の方はそう言えば、中で翻訳作業をされているスタッフがいるのでその職員が対応して下さるそうだ。
また同じフロアのライブラリーには、『国際協力』とか『多文化共生』『異文化理解』に関するものや各国・地域の書籍等々、日本語のものも外国語のものも置いているという。このライブラリーは出入り自由で、飲食は基本出来ないけれど静かで、ここで読書をしている人も多いという。面白い書籍を取り揃えていて、例えば『日本紹介』のコーナーには、話題になった『日本人の知らない日本語(マンガ)』とか『名古屋弁』『日本史』『日本の暮らし』『英語落語で世界を笑わす』などもある(これらの書籍はもしかしたら普通の図書館にもあるかも知れないけれど、とのこと)。他にも日本語教材(日本語の教科書)も別のコーナーで取り揃えているという。

【似ている言葉】
今回、時間に余裕があればライブラリーの書籍を紹介できたらと思い、本好きな同僚に「お薦めの本選んで」とお願いしたところ、3冊のシリーズ本を選んでくれたので、と実際に持参された。そのうちの1冊が『似ている言葉』という本。例えば「サンデー」と「パフェ」の違いはなんだ? 他にも「あんみつ」と「みつまめ」の違いとか、「糸こんにゃく」と「しらたき」、「はす」と「睡蓮」の違いとか。みなさんはおわかりになるだろうか?国際センターのライブラリーでぜひ同書を手に取ってみてほしい。ちなみに同じシリーズで英語を取り上げたもあり、「ビック」と「ラージ」との違いは、「ビック」は「わぁ、大きいと思うもの」で、「ラージ」は「他と比べて大きいもの」だそうだ。

【言語は難しい、日本語も難しい】
昨年度(2022年度)から池田さんは、多言語翻訳のコーディネートをされている。名古屋市からの行政文書や名古屋国際センター内の文章の翻訳依頼を調整して多言語スタッフさんに翻訳の依頼を出し、戻って来たものをチェックして名古屋市やセンター内の担当部署に納品する仕事だ。その中で池田さんが感じていることは、言語って難しい、日本語って本当に難しい!ということだそうだ。そこでライブラリーで目についたのが『翻訳できない世界の言葉』と『翻訳できない世界のことわざ』の二冊。例えば『翻訳できない世界の言葉』の中には日本語が4つ載せられている。「木漏れ日」「ボケ〜っと」「侘び寂び」「積読」。ちなみに、池田さん自身の思う翻訳できない日本語の最たるものは「よろしくお願いします」だという。英語でも、ポルトガル語でも、それに対応する言葉はないらしい。

【池田さんが好きだったポルトガル語】
ブラジルで話されているポルトガル語で同書に載っているのは「サウダージ」。ポルノグラフィティの曲のタイトルにも使われていて、「郷愁」とか「淋しさ」とか「哀愁」といった意味合いをもつ言葉。恋しい訳ではないけれど、遠く離れていて長年会ってなかったりすると「ああ、サウダージ」と言ったりするそうだ。
ポルトガル語と言えば、池田さんがブラジルで覚えて好きになったポルトガル語単語は「アプロベイタール(aproveitar)」という動詞。使われていた状況からすると、何かをする時ついでに何かをして利益を取ってくる、得する感じ。日本にも「行きがけの駄賃」という言葉があるが、例えば誰かがどこかに行くのに車を出すから一緒に乗せて行ってもらう時に「アプロベイタしたら」という感じで使っていたそうだ。

【チラカスカして、トマカフェしましょ】
話は流れでポルトガル語単語からブラジル滞在中の言葉についてに。
ブラジル日系社会は、文章は日本語、名詞や動詞をポルトガル語にした「コロニア語」と呼ばれる混ぜこぜの日本語で話をしたりする。池田さんがよく憶えているのは「チラカスカしたら、トマカフェしましょ」というひと言。「チラ」はチラール「剥く」という意味で、「カスカ」は「皮」のこと。「トマール」は英語の「ハブ」或いは「ティク」で「カフェ」は「コーヒー」。つまり「皮を剥いたらコーヒー飲みましょう」という意味だとか。どうしてこの言葉をよく聞いたのかと言えば、日系人協会で資金集めのお祭りなどをする時には日本食を作ってそれを売ったり、会費制のパーティーで日本食の提供をし、みんな大好き・ビンゴもして、お金を集める、ということをよくしていたからだ。そういう時には朝早くから出掛けて行って料理の準備をする。ニンジンの皮をめちゃくちゃ剥いて散らかす。それが終わったらコーヒー飲みましょう。休憩しましょう…みたいな感じで、日系の方々はポルトガル語と日本語を混ぜて使われていたそうだ。池田さんは、このような言語生活の中で名詞はわかるものが増えたけれど、動詞の活用となると全然わからないそうで、文章にならない。だからポルトガル語は話せないという。

【ライブラリーには絵本もあります】
さて、話は国際センターに戻る。今回このような機会をいただいて、せっかく錦二丁目のスペース七番で話すのだから、時間があったら会場に縁のある故・延藤先生がお好きだった本の話題も出したいと思っていたそうだ。ライブラリーには絵本も配架されていて、月に1~2回程度ボランティアさんによる外国語と日本語、2~3の言語での絵本の読み聞かせも行っている。この6月はジネンカフェvol.096ゲストの伊藤早苗さんのところで知りあったスウェーデンの方に読み聞かせボランティアの話をしたら、ご本人も奥様も「いいね」「素敵ね」と言ってくださり、旦那さんが読みに来てくれるそうだ。コロナ前は会場に何人入っても気にせず、マットを敷いて子どもさんはそこに座わり、親御さんはお子さんと寄り添って座ったり後ろで見守ったりして参加している感じだったという。コロナ中はなかなかそれが出来ず、5人とか10人までとか人数を制限して行っていたが、前回から参加定員を増やしたという。
ちなみに延藤先生と言えば、延藤先生が早苗さんのところで紹介された『わたしたちのてんごくバス』の英語版を池田さんは自分で買って、その本の話を小学校で絵本の読み聞かせ活動をされている知りあいに話したら、その人がご自分で日本語版を買われて学校で読み聞かせをし、子どもたちに好評だった、ということもあったとか。

【ライブラリーには洋書もあります】
ライブラリーの絵本コーナーの反対側には洋書のコーナーもある。これら外国語の絵本や書籍には市民のみなさんからの寄付本も多く、貸出本として出せる状態のものはライブラリー内に配架をし、来館者に読んでいただいたり、借りていただけるようにしているが、寄付が配架本と重複する場合や、読むのには差し支えないものの損傷や書き込みなどがある場合は、ブックバザーを実施して来館者に差し上げる代わりに、前述の日本ユネスコ協会連盟が行っている「世界寺子屋運動」(大久保が某高校ボランティア同好会の学外講師をしていた頃、同好会の顧問の先生が学生さん達と一緒に取り組んでおられた)とライブラリー維持費への現金寄付をお願いしている。このバザーのことは結構知られていて、コロナ前は1日で行なっていたそうだが、大きな部屋にダンボール箱に詰めた書籍やビデオテープなど寄付本等を並べていた。それを目当てにスーツケースを転がして開場前から列を作っていらっしゃる方もいた。コロナ禍では不特定多数の人を一箇所に集めることが難しくなってしまったため、1日での実施ではなく期間を長くされているそうだ(今年度は6~8月)。先日も「ダウンサイジングをするんだ」と言われて年配の外国の方が、英語だったりスペイン語の本を持ってきてご寄付下さったという。スペースは小さくなるが、コロナ禍で常設のリサイクルコーナーも作られたとのことなので、興味のある人はぜひ訪れてほしい。


ジネンカフェVOL.149レポート

2024-02-25 12:20:13 | Weblog
2月に入った。昨年末から私的なことでバタバタしていたが、漸く落ち着いてきたようだ。年齢を重ねるということは、体のあちらこちらにトラブルを抱えるようになるということで、それでも筆者がこうして活動していられるのは、サポートしてくれる家族や周りの人たちのおかげであろう。感謝あるのみである。筆者に限らず人は自分ひとりでは生きて行くことは出来ない。この世に生を受けて子どもから大人になってやがては土に帰るまで、人は一体何人の人たちと出会い、そして別れて行くのだろう? 仏教の教えに『生者必滅会者定離』という言葉がある。筆者もいままで何度も経験しているけれど、現世に生きとし生けるものは必ず滅する。どれほど愛しくても、親しくしていても、別れは必ずやってくる。せっかく出会っても、その出会いは永遠ではないのだ。まさに諸行無常なのである。でも、だからこそその生がほんの瞬間的な輝きであったとしても、一期一会の出会いであったとしても、その刹那的な繋がりを大切にしてゆきたいものだとつくづく思う今日この頃である。
さて、ジネンカフェVOL.149のゲストは、名古屋市中区錦二丁目で育ち、現在は東京の大学でまちづくりを学んでいる黒部真由さん。後述するが黒部さんが10歳の頃にあいちトリエンナーレが錦二丁目長者町を主会場に開催されたことがきっかけで、自分が住むまちと関わりを持つようになり、現在も全国をフィールドワークで周りながら錦二丁目にも関わって活動をしておられる。この4月からは一橋大学の院生になられるという。お話のタイトルは『錦のまちに伝えたいこと〜私の今までとこれから〜』さあ、行ってみよう。

【黒部真由さんはこんな人】
黒部真由さんは名古屋生まれで高校生まで錦二丁目に育ち、現在は東京女子大学を経てこの4月から社会学を軸にまちづくりの研究をされるため一橋大学の大学院に進まれる。これまで[まちの縁側育くみ隊][錦2丁目エリアマネジメント会社][一般社団法人コンセンサスコーディネーターズ][有楽町アートアーバニズム(YAU)]それに伴った[フロントヤード株式会社]等々でインターンとしてお世話になったという。[錦2丁目エリアマネジメント会社]では名畑さんや阿部さん等とワークショップをしたり、[まちの縁側育くみ隊]では名畑さんと長久手市のリニモテラス開発のワークショップにも関わっている。また、東京有楽町の[有楽町アートアーバニズム(YAU)]でも議事録を作成したり、主に事務仕事をされてきた。

【まちの会所と碁盤目状の街並み】
黒部さんのご実家は錦二丁目にあるお寺で400年間、錦二丁目の会所として現存している。もともと、会所とは室町時代の京都などでは、お茶会や歌会や寄り合いの場として、武士も平民も刀を下ろして平等に集える場所として機能していた。江戸時代になってもその精神は受け継がれ、みんなの憩いの場として、または武士の集い場として、いわば社交場としての機能を果たすことになる。そういう歴史的な位置付けを持つ環境で育てられたということが自分にとって一番大きいところだと黒部さんは言う。錦二丁目でも『まちの会所』という概念はHOTなワードになのだが、江戸時代の古地図で名古屋城下を見てみると、名古屋城を頂点に城下は綺麗な碁盤目状に区分けされている。それが現代の錦二丁目にも引き継がれているのだ。そうした歴史的な意味を知った上で、碁盤目状に区分けがなされた街並みを自分のルーツとして大切にしてゆきたいとも思っている。

【なぜ、まちづくりを志したのか?】
大学でも、これから進まれる院でもまちづくりを研究し、フィールドワークをしてゆきたいと思われている黒部さんだが、どうして〈まちづくり〉を志したのかと言えば、2010年代辺りから錦もホテルが急増して来たり、問屋だったところの空きビル化だったり、高層マンションが増えて来たり、チェーン店の台頭だったり、碁盤目状に区割りがされた街並みに代表される伝統や文化の形骸化だったり、住民や地権者に対して開発の説明がどれぐらい行き届いているのか不確かなところを黒部さん自身も感じて来た。多様な団体や機関がある中でそのような様々な立場の方々を繋げる人になりたいと思い、まちづくりを学ぼうと思われたのだそうだ。

【延藤先生との縁を辿って東京女子大学へ】
加えて延藤安弘先生の影響も大きい。錦二丁目のまちづくりは、名古屋市からの紹介により2000年代からNPO法人まちの縁側育くみ隊の延藤安弘先生がコーディネーターとして関わり、住民や繊維問屋の若旦那たちを中心に取り組んで来られたのだが、その延藤先生は残念ながら2018年にお亡くなりになられてしまわれた。黒部さんが高校三年生にあがる年だ。没後に延藤先生を偲ぶ会があり、東京女子大の桑子先生が弔辞を読まれた。その折りに東京にも延藤先生と繋がりがある先生がいらっしゃるのだなと思って東京女子大学への進学を決められたのだそうだ。

【延藤先生の著作を読んで「これは自分だな」と…】
延藤先生には直接学んだことはない黒部さんだが、著書によれば〈モノ・カネ制度〉ではなく、〈ヒト・クラシ・イノチ〉が大事。「ひとりの子どもが自ら日常的にまちと関わって、その子の成長にあわせてまちも変化してゆく。そのまち育て活動が住民によってなされて行くことが大切だ」と書かれていた。その文章を読まれた時に「これは自分だな」と思ったという。錦のまちの中で育って、自分が成長してゆく中で錦も知らないうちにどんどん変わって来ている。自分と錦のまちとの関係性が、正に延藤先生の文章そのものだなと感じて、まちづくりを志したというところもあるのだ。

【まちの再生に必要なものとは?】
延藤先生の著作には、まちづくりには5つの力が必要であると書かれてある。『だんどり力』『逃げない力』『地域資源の活用』『弱い立場を思いやる力』『生活感の表現力』そしてまちの再生の基礎的部分として大事だとあげているのが『喜び』『共生』『意思』『必死のパッチ』の4つである。とりわけ『意思』は「何をめざして生きるんや?」というワードで先生がよく使われておられたが、何を目指してゆくのかという方向感をみんなであわせるということ、まちのトラブルをエネルギーに変えてゆく力が『意思』だと先生はおっしゃられておられた。加えて『必死のパッチ』というのは、とことん粘り強く状況に挑戦する態度のことで、決定的な何かを待つのではなく、事態を変えるために自ら動こうと、現実と向き合って行こうとするひたむきな姿勢を貫いて行くことで、この二つは大事だよと挙げられていた。

【黒部さんが思う錦の現状と延藤先生の言葉】
改めて延藤先生が挙げている5つの力に焦点を当ててみると、「住民のあきらめをやる気に」というワードは、現状の錦に当てはまっているのではないかと黒部さんは思っている。自分達が関わらなくてもいいかな。自分達が関わらなくてもまちは変わって行くかなというあきらめに近いような部分を持っている人もいらっしゃると思うけれど、ひとつ目の『だんどり力』は「私発協働」私から発信してみんなで協働してゆく力のことで、まちの小さな行事のひとつひとつの遂行が大きなまちを変え、まちの再生に繋がってゆくということをおっしゃられている。

【自立性と協働性の結合とまちの宝物】
二つ目の『逃げない力』は、行政任せではなく自立性と協働性の結合が大事。三つ目の『地域資源(地域の宝)の活用』というのは、空間・景観・歴史・文化・人間のことで、空間と景観は似たようなものなのだが、錦においたら碁盤目状の町割りだったり、七番の開発だったりも含めて現在HOTなところだと思うので改めて注目して行きたいと黒部さんは思っている。

【亡き延藤先生、黒部さんに影響を与える】
四つ目は『弱い立場を思いやる力』東京女子大の桑子先生は「弱い立場」を女性と子どもとおっしゃっていたが、最も弱い立場の人々が安心して出来る状況づくり、つぶやく力とそのつぶやきをキャッチする力(聞く力)のどちらもまちには大事だと延藤先生はおっしゃられていた。最後の『生活感の表現力』は、いろいろな人がいるこのまちの多様性の混ざりあいだったり、ひとりひとりの特異性の混ざりあいだったりを、協働することによって共に育んで行こうということだ。ここまで延藤先生のお話をしてきたが、前述したように黒部さんにとって「延藤先生を偲ぶ会」に出席したことは、自分の人生を大きく変えるぐらいに大事な出来事であった。自分もゆくゆくは研究者になりたいという夢を持っているのだが、延藤先生のまち育ての哲学を実践して行けるような人材になりたいと考えているという。

【子ども時代に感じたまちに対する親和性の変化】
黒部さんが子ども時代、錦二丁目長者町は閉鎖的な街で子どもが遊ぶ場もなく、まちに対して少し恐怖心を持っていたという。それが変化したのが2010年、2013年のあいちトリエンナーレであった。黒部さんが10歳〜13歳の頃だ。まちの人たちと触れあう機会が増えて来て、自分が暮らしている家(寺院)が地域から求められていることを知った。トリエンナーレの木造の作品が境内に展示されたり、トリエンナーレのアーティストさんの作品である山車がトリエンナーレ後も地域の山車としてえびす祭の度に旦那衆が集まって組み立てられて曳き回されたり、非日常的な繋がりがまちの日常の関係性を構築していることを知ったのだそうだ。現在はえびす祭り自体がなくなってしまったのだが、毎年秋に繊維問屋の人たちが一般客にも商品を開放することを目的の一つとして開催されていて山車を曳く機会があったり、子どもながらにまちと関わる機会が多かったかなと思われているという。普段はまちの方と関わらないようなところでも、そうしたイベントでお会いしたり、そのイベントで会った方と現在も繋がっていたりする。2013年のトリエンナーレで境内を舞台に踊ったダンスユニットの方とも現在でも繋がりがあるし、愛知県美術館の館長や学芸員の方とも、この夏に黒部さんが学芸員の資格を取る際に実習でお世話になったそうだ。

【エリアマネージメント会社のインターン生として】
振り返ってみれば2020年は大変な年だった。せっかく志を持って入った大学の授業はコロナ渦で全部オンラインになってしまい、全国的に緊急事態宣言が発令されたりした。黒部さんは何かしら自分でもやりたいなという思いから錦二丁目エリアマネジメント会社の名畑氏に相談をしたところ、「錦でもこういう活動あるからオンラインでも良いからやってみない?」とか、「近くだから一緒にやろうよ」と快く引き受けてくれ、エリアマネジメント会社のインターン生としてまちの勉強会の議事録づくりやHPの記録などを作成したりしていた。東京大学都市工学科の村山先生の研究室で行われたワークショップにも参加し、他の大学の人とも触れあう機会もあって、産学連携が錦におけるワードのひとつかなと黒部さんは思っているという。

【錦二丁目での活動】
様々な地域でフィールドワークをされている黒部さんだが、地元錦二丁目での活動としては2021年から続いている名古屋市の環境局とのSDGsの取り組みがある。「400年の歴史が400年の未来へと続いてゆく」ということを提言させていただいたら、参加者が素敵な文章にしてくれた。加えて住民としての提案だったり、実家の書院を開放し、話し合いの場として使ってもらっているという。

【芋人プロジェクト】
また、2022年から錦二丁目では佐藤敦さんたちと〈長者町で芋から焼酎を作ろう〉という『芋人プロジェクト』にも参加されている。これは佐藤さんの『ハチミツプロジェクト』との繋がりで東京銀座のハチミツプロジェクトの方達とも連携して行われているものだ。長者町で育った芋から焼酎を作り、それを飲食店に卸したり、コロナ渦における飲食店支援を兼ねて、また新たな繋がりを紡ぎだそうと活動されているプロジェクトだ。まちに関わっている方の子どもたちも芋を植える時に参加してくれたり、秋の収穫時にもその子どもたちのために鬼饅頭を作るのだそうだ。一緒に芋を植えたり収穫したり、焼酎や鬼饅頭を作ることによって共感力を高めて貰おうという狙いもある。巣鴨や宝塚でも同じようなプロジェクトをされていて、毎年年末にどこの地域が一番大きい芋が獲れたか競う『イモリンピック』が開かれる。2022年は錦二丁目長者町が入勝したという。

【隠岐島、熊本、高千穂でのフィールドワーク】
東京女子大の桑子敏雄先生は島根県の隠岐島にフィールドを持っている方で、黒部さんもフィールド調査について行ったことがある。西郷港の再開発のための立ち退き、再開発による住民の合意形成の話しあいの場だったり、住民の合意形成って凄く難しいのだが、先生のファシリテーションのお手伝いをして実践的に勉強させていただいたり、役所との会議でも書記をさせていただいたそうだ。隠岐島は高校生がどんどん島の外に出て行き、大人になって島に戻って来た時に「うちの島に戻って来た」という帰属意識を高めて貰うための〈桜〉を植えようという主旨の植樹祭が2020年にあって、黒部さんも参加させてもらったとか。2020年と言えばコロナ渦の真っ只中で首都圏は非常事態宣言が出されており、横浜に住む桑子先生は行けなくなってしまったので、名古屋にいた黒部さんひとりだけ頼まれて出席された。これはチャレンジングな経験で、この時の経験があったからハートが強くなったと笑う。まちづくりの仕事は強靭な体力とハートがないとやっていけない仕事だなと、黒部さんはその時に感じたという。黒部さんのフィールドワークは隠岐島に止まらず、熊本や宮崎の千穂町でも地方創生会議に参加させてもらったりもされている。

【東京有楽町アートアーバニズム(YAU)】
有楽町アートアーバニズム(YAU)は、東京大手町・丸の内・有楽町エリアでアートファン層ではない方々とアーティストとの交流の場を提供する。例えば、勉強会やワークショップだったりするそうだ。大学生のうちに地元の地域だけではなく、様々な地域で学習しておきたいという思いから参加させてもらったのだとか。これがきっかけになって卒論も「アートとまちづくり」をテーマにしたという。

【アーバニストキャンプ東京】
東京丸の内で〈都会で人間の再野生化を考えよう〉という主旨の下で主催している取り組み。東京の大丸エリアを社会人の先輩方と議論して、チームで人間の再野生化を目指したプログラムを提案するというものだ。

【官・民・学連携での魅力発信事業】
黒部さんが通っていた東京女子大学は杉並区にあるのだが、近隣の武蔵野市には成蹊大学がある。最寄駅は東京女子大学が西荻窪で、成蹊大学は吉祥寺になるのだが、この二つの大学の学生と各行政と一般企業の方が共同プロジェクトで実際に街を歩いてまちの魅力を発信するマップづくりもされ、このマップはJRや両大学で配布される予定だそうだ。黒部さんのお勧めは東京女子大学の近くにお店を構えるパティスリー『レリアン』だという。

【日本橋】
2023年の10月からは、日本橋エリアで活動する学生団体にも所属し始めた。日本橋横山町は錦二丁目長者町、大阪船場丼池筋と並んで日本三大繊維問屋街と呼ばれていた歴史を持ち、老舗の問屋も根強くあるので錦二丁目と似ているというか、課題が似ている。さらに、母方の祖母が昔京橋で働いており、幼い頃から日本橋の思いで話を聞いていて親近感を持っていたことから日本橋にもフィールドを持つようになったそうだ。300年〜400年の歴史をもつ老舗店舗の方々にヒアリングをしたり、日本橋は今後再開発のエリアに指定されているので、そういう方々は再開発をどう思われていらっしゃるのか、デベロッパーとどういう関係性を築いていらっしゃるのか、生の声を聞いたりされているという。また、日本橋地区の小学校へ出前授業に行って、子どもたちと40年、50年後の未来を考えようという授業を担当させていただいたり、室町一丁目という地区のお祭りでは餅つき大会があったのだが、餅が蒸される間に子ども向けのワークショップを企画し、日本橋の老舗和紙店の商品を使ったランプシェードを作ったりしたそうだ。

【アートマネジメントと地域づくりの関係性】
こうして様々な地域でまちづくりのフィールドワークをされてきた黒部さんだが、東京女子大を卒業するにあたっての卒論は、前述したように黒部さんの原点でもある「アートマネジメントと地域づくりの関係性」をテーマに取り上げた。そもそもなぜ錦二丁目長者町では『あいちトリエンナーレ』はアートプロジェクトになり得たのか? 結論から言えばあいちトリエンナーレはまちづくりを目的とした芸術祭ではなかったということ。現在全国でまちづくりを目的とした芸術祭はあるのだが、愛知県の担当者にインタビューしたところ、「愛知県にはそういう目的はなく、長者町が独自にまちとしてアートプロジェクトを進めて来たんだよ」というお話だったという。日本では1990年代から全国的にアートプロジェクトが勃興して来たのだが、まだそこにはまちづくり的な側面はなく、2010年辺りからまちづくりを目的としたアートプロジェクトが増えて来たそうだ。

【長者町の歴史を振り返ってみると】
東京・大阪に並ぶ日本三大繊維街として70年代は栄えていたが、2000年代初頭のバブル崩壊と共に繊維業が衰退したことでまち自体も衰退して行き、有識者(延藤先生等々)によるまちの再生支援事業が始まった。その時に織物協同組合(原・名古屋長者町組合)を中心にした長者町えびす祭りが立ち上がり、しかしこの時はまだ組合の青年団がまちづくりに参画する機会も少なかったが、2010年のトリエンナーレがきっかけになり、まちと関わる機会を作ったというところがあいちトリエンナーレの特徴かなと黒部さんは思っている。この春には名古屋長者町組合が解散するため、長者町えびす祭りも中止になって山車も組合が管理(保管されているのは黒部さんのご実家の境内)していたので、今度はどこが管理するのだろう? また、本町通りにアーチ状に立っている看板を撤去するのか残すのか? 撤去するにせよ残すにせよ、どこが費用を出し、管理・補修してゆくのか? 議論が続いている。錦二丁目長者町は現在正に変遷期にあるなと感じている。

【長者町のアートプロジェクトと各地域のアートプロジェクト】
そのように2010年から始まった錦二丁目長者町のアートプロジェクトはまちづくりにまで繋がったのだが、2023年にまちを調査してみると伏見駅の青いペインティングもその名残であるにも関わらず風化してしまっている。同じような2010年代に始まったプロジェクトで現在も続いているところを選定して調査したという。別府のアートプロジェクトではたまたま長者町エリアを担当されていた方が現在活動されていたり、名古屋市港区のMAT名古屋にも長者町エリアでアートディレクターをされていた吉田ゆりさんがいらっしゃるのでインタビューをしに行ったそうだ。また、卒論を書いている時期に東京ビエンナーレが開催されていたので、東京ビエンナーレはどんなものだろうと調査をした。大手町エリアにあるペインティングも10年も経つと伏見駅みたいになるのかどうなのか? 関心は尽きない。

*ビエンナーレ=2年に一度催される芸術祭
*トリエンナーレ=3年に一度催される芸術祭
*どちらも定期的に催されるが、恒常的なものではない。

【地域型アートプロジェクト調査】
千葉県松戸市のPARADAISE AIRは、一般社団法人PAIRが運営されているアーティストのレジデンス組織で、PARADAISE AIRのディレクターをされている方が有楽町のアートアーバニズム(YAU)でお世話になっている方で、その方に卒論の話をしたところ「うちにも調査しに来たら?」と言ってくれたという。ここはレジデンス事業を行なっていて、アーティストに空きビルを貸して利活用するというプロジェクトをされている。東京千代田区のアート千代田3331は、現在はもう千代田区との契約が切れて新たなところになっているのだが、一昨年までは千代田区の空き校舎になった中学校を利活用するというレジデンス事業を行なっていらっしゃるところだという。

【まちづくりとアートの関係性〜調査後の結論】
これらの方々に昨年の7月〜10月末まで黒部さんは実際に現地に赴いてヒアリング調査をしてきたそうだ。調査項目としては①地域連携の重要性 ②計画段階で地域連携を主眼にしていたかどうか? ③企画遂行後に地域づくりが発展したかどうか? ①の地域連携の重要性は同じアートプロジェクトと言ってもいろいろな性質を持ったプロジェクトがあって、MAT名古屋や別府などはそもそもまちづくりのためにアートプロジェクトをしている。まちづくりのためにアートを活用している。それに対して東京ビエンナーレやアート千代田3331やPARADAISE AIRはアーティスト支援が主眼にあって、まちづくりはそれを成功させるための必要な要素という立場を取っている。では、あいちトリエンナーレはどうかと言えば、地域連携はそれほど重要視されてなく、あくまでも契機づくり。錦二丁目長者町においては初めにアートを美術館以外のところに展示しようという目的があり、それに適した環境がたまたま長者町にあったから選定されたということだ。それぞれ各地域のアートプロジェクトは趣旨の方向性に相違はあるけれど、どの場合も企画遂行後に地域づくりに発展したのでまちづくりとアートは切っても切れない関係性にあると調査の結果黒部さんは感じている。

【持続可能なアートプロジェクトには何が大事か?】
それでは持続可能なアートプロジェクトとは何か? 持続可能であるべきかどうかは別問題として、調査した上で気づいたことはアーティスト側にとって重要な点と地域にとって重要な点がそれぞれにあり、アーティスト側にとって重要な点はプロジェクトの目的と使命を明確に持って単なるイベントに終わらせない。全国いろいろなアートイベントがあるけれど、単発ではなくしっかりとした目的を持ったものでないとアーティストの方もうやむやになってしまう。芸術祭を開催するという意味においては、必ずしもまちづくりにつながらなくても価値はあると思うが、一般的に街でイベントを行おうという時にも単にアート作品を置くだけでは意味がないかなとは黒部さんは感じているという。活動目的を明確に持つことと、地域と日常的にコミュニケーションを取ることが必要になってくるので、別府でインタビューをした方がおっしゃられていたのは、お祭りやイベントなどのハレの日にもまちには行くけれど、日常からまちの人たちと常にコンタクトを取り続けていると、「ちょっとここ掃除して欲しいんだけど…」みたいな時にも一緒に掃除してくれたり、win-winな関係性を構築してゆくことが重要な点だという。

【アートやアーティストと街の人たちを繋ぐ第三者の役割も大事】
スタッフが働きやすい労働環境も大事で、アート界は職業地位としてそれほど高くないと言う話もあり、継続的に給料を一定額支払い続けることもスタッフの働きやすい環境づくりには欠かせない要素だという。加えてライフステージに応じた福祉面でも一般企業に比べたらまだまだ伸び代があるところなので、そこもアーティスト側にとって重要な点になる。地域側にとって重要な点は、アートそのものを受け入れてゆく地盤を整えてゆくこと。アートプロジェクトとは何なのかと言うことと、その利点を認識すること。自分事としてアートプロジェクトを捉えてゆくこと。錦でもアーティストの方が何かプロジェクトをやりたいという時に、まちの人たちは「アートってなに? 」と言うところがあるので、取っ掛かりを作ってゆく第三者の役割も大事かなと最近黒部さんは思い始めた。そういう点でアーティストと地域との間に立つ第三者の役割として、PARADAISE AIRやMAT名古屋や別府は機能していたという。

【黒部さん個人的な課題意識】
いままで錦をベースにいろいろな地域でフィールドワークをされてきた黒部さんだが、錦で言えば2010年代のコミュニティと現在のそれとは全く異なっている。まちを構成する団体が黒部さんでも追い切れないぐらいにいろいろな団体がいて、それが細分化されている。その中で協力体制は取れているのかなと個人的に純粋な疑問として持っているという。延藤先生は〈地域のゆるやかな連携が大事〉と著書の中に書かれていたが、その連携は現在でも図られているのかなと。いろいろなまちの勉強会やイベントはあるけれど、そういう時にどれくらい連携が保たれているのか? 例えばいろいろなイベントをしていても同じような人しか来なかったら意味がない。いつも来ていない人たちをどう巻き込んで行くかというのは難しい話だけれど、まちづくり協議会やいろいろな団体のそれぞれの存在意義を今一度しっかりと把握しておくことが黒部さんのベースになっている課題意識である。

【黒部さんが考える錦二丁目の課題】
① コミュニティの賑わいづくり
現在でもマルシェとかイベントをたくさんされてはいるが、個人事業主だったり、企業だったり、住民の連携を一層強化して行く必要性があると思っている。その理由としては肌感覚として地域活動に対する住民の関心が薄れていて、地域のイベントを知らないお年寄りがいらっしゃる。それでも住民参加と言うのならば住民参加の意義とは何? 本当に実現出来ているの? と疑問視されているところだという。
② 地域を動かす人材の確保
黒部さんの知人から聞いたこととして、もっとイベント等の時に動かす人が欲しいという声があった。以前のようなゆるやかな連携が失われつつある現在、まちに関わろうとする意思を持っている人自身が減少しているのではないか? 地域づくりをするプロフェッショナルが減少しているとの声も聞くので、今の自分はまだまだそこまで到達してはいないけれど、ゆくゆくは地域づくりを担えるほどの力をつけることをご自分の目標にされているそうだ。
③ 地域経営とコミュニティづくりの両立
地域組織の黒字経営とコミュニティづくり、どちらも大事なのだけれど、どちらかに偏ってもいけないということで、長期的な経営の地盤を整えることと、いまはここにはいない、でも関わっている目に見えない人と人との繋がりが重要だと思っている。経営的     な視点で話すと、一般的にも、その場にいる人たちだけで話が進んでいくような気がするんだけれど、まちにはその場にいる人以外にも大勢の人たちが生活しているので、それらの人たちとの繋がりも大事にしたいと思っている。
④ 豊かな暮らしから離れてしまっているのではないか?
既存の街並みや住民の存在と商業地としての開発。これはビジネス街の錦二丁目ならではの問題観点かなとは思うのだが、建坪率の問題だったり、日照権の確保だったり、室外機の騒音や熱風問題だったり、民法では隣家とは境界線から50cm離れていないと建物は建てられないことになっている。しかし商業地開発を理由にして、それが正当な理由かどうかは別にして守られていない事例もあったり、住民との合意形成を重視していらっしゃるところももちろんあるが、それが必ずしも100%ではないところもある。加えて既存の住民とマンション開発の暮らしの共存。マンション開発は必要なことだと思っていて、今後のマンション開発と既存の住民の暮らしの共生はどちらも大事なものだから、開発段階における事業者と住民の関係性も対立的に描かれがちだけれど、必ずしも対立的である必要はないと思っていて、話し合いの場の提供だったり、着実に合意形成をして行く必要がある。室外機の問題に関しては、調査している大学の人もいるが、夏場は夜中30c゜を肥えていた。そばにある植物も枯れてしまったり、錦二丁目は低炭素モデル地区として選定されているけれど、実際は室外機が出す熱風によって植物も枯れてしまっている現実もある。黒部さんが都市政策に進んだ理由もそこにあって、工学的には当たり前でデーター的には良しとされることでも、実際の暮らしはどうなの? 実際の他者との繋がりはどうなの? というところを学問的にアカデミックな方向性で関わって行きたい…という想いから進路選択に大きく影響したという。
⑤ 歴史・文化の保全
江戸時代からの碁盤割りの街並みは絶対に崩してはいけない。それは何故かと言うと、その街並みがあることによって400年の歴史があったり、動線がある。日本橋の老舗の方々にインタビューすると、やはり街にとって一番大事なのは動線の確保なんだと言われたそうだ。何か建物が建つことによって人の流れが変わる。それによって客足が減って営業が成り立たなくなってしまった店舗もあり、そういう小さな店にも焦点を当てるべきだという声もあったので、街並みや会所の認知度をもっと高めて行かないといけないと思っている。単に旧いものを残せというのではなく、それを活用して行かないといけない。現状は「碁盤目があるよ」と言わなければ「あっ、碁盤目だ」とはわからないかも知れない。でも、まちを歩くだけで「あっ、ここ碁盤目だね、確かに」と体感してもらえるような街になると嬉しいし、そういうような活動を何かしらアイデアだったりをもっと皆さんと共有して行きたいなと黒部さんは夢見ている。また、“会所”という意味を今一度皆さんと共有する機会があればと思っているし、2010年代に盛んだった文化・芸術活動支援も今後立て直して行きたいなとも思っているという。
⑥ わがごととしてまちに携わる仕組みづくり
どうしてわがごととして捉えることが大事なのか? まちに住む人たちの大半が、「自分以外の人が動いてくれているから」と考えがちで、黒部さんも小さな時はそう思っていたそうだ。でも、それでは駄目だ、自分が動いて行くことが大事だと、実体験を通して思ってきた。それをしっかり解ってないと言葉だけが先行してしまい、実態が追いついていないというか乖離が生まれてしまうので、そこの乖離を生まないためにも地域課題の解決を誰が主体的に行うのかという意識を皆が共有することが大事かなと考えているという。他の地域で活動している時、黒部さんはよそ者として活動しているのだが、錦に帰ると自分が生まれ育った場所だという帰属意識はある。でも、他のまちでも我が事として自分が関わって行くことって大事だなと思っていて、例えば日本橋は黒部さんにとって遠い存在だったのだけれど、住民の方に話を聴いたり、学生メンバーの中にも日本橋で育った子もいるのでそういう子たちと肩を並べて話しあってみると、自分とは縁がなかった土地でも自分が関わる以上は我が事として関わって行くということは大事だなと思ったのだそうだ。

【修士課程における三つの柱】
この4月から黒部さんは一橋大学大学院社会学研究科の修士課程に進まれる訳だが、そこでは三つの柱を持っていて、
① 「既存の計画や組織のあり方を再度検証して、あたりまえに良いこととして考えられた事柄を考え直したい。住民参加というワードが免罪符として使われないために、その真の価値を計ることが大事」
② 住民の望ましさと行政や団体の望ましさとは違うのではないか? そこにどれくらいの差があるのか? その差を問いたい。住民の声を聞くことが大事だよという話もあるけれど、その住民とは誰のことを指しているのか? 町内会長だけ? 集められたのがどこかの長だけみたいな事例も錦に限らず一般的によくあることなので、それで本当に「住民の声を聞くこと」になるのかな? と、個人的に検討する事項だと思っている。
③ 地域経営は綺麗事だけではなく大変なこともたくさんあると思うので、持続可能な地域経営の手法を探って行きたい。黒部さんが進む社会科学は「都市工学」がhow(どうやって)という手法を問う学問であれば、「社会科学」はwhy(なんでそんなことが起こったの)を考えてゆく学問だよと次の研究室の堂免先生から教えられていて、でもwhyを知ったからこそhowが生まれる。先に挙げた①②をしっかり基礎堅めしてから、ゆくゆくは地域経営の方にも携わって行きたいという大きな夢を抱いているそうだ。

【修士課程を終えたら、どうする?】
修士課程を終えたら博士過程まで進学することを一番に目指してはいるものの、博士課程に行く前にどこかの企業に勤めるかも知れないし、まちに入るかも知れない。それは未確定要素なのだけれど、遠い将来最終的にはまちを構成する既存組織・地権者・寺社仏閣・個人事業主・行政・一般企業・芸術家・住民等々…。いろいろな機関を繋げる専門家になりたいという大きな夢を高校生の頃から持っているそうだ。

【本日のまとめ】
黒部さんは、錦二丁目長者町に生まれ育ったことは自分にとって一生の宝物だと思っている。6つの課題意識を挙げたけれど、いまの自分があるのは錦に生まれ育ったおかげでもあるので、ビルに囲まれてはいても故郷の景色に変わりがなく、東京に戻っても夕方に夕陽を見たりすれば〈ああ、錦も同じ時間でこんなふうに夕陽に包まれているんだ〉と思い浮かべる空でもある。少しでも地元の力になりたいと思って勉強をして来て、その間もまちの開発はどんどん知らないところで進んで行くし、学生の自分が関われないような事案も数えきれないほどあるので、環境も関わってゆく人も変わってゆく現在、自分はこれからどうしていこうかなというところだそうだ。前述したように将来は現場を大切にして、自分の足で動く研究者になることで錦二丁目長者町をはじめ、日本全国のまちづくりを資する人材となって行きたい。「ひとりが呟き、呟きをキャッチし、みんなが対話することが大事」という延藤先生の言葉があるけれど、それを胸に名畑さんや大先輩たちのようなコーディネーターを目指したいと黒部さんはいう。

※大きな成長は小さな行動を積み重ねること。小さな行事を重ねることで大きな成長に繋がってゆく。
※「もうちょっとで出来るのに」を諦めない。錦の活動に限らず、いままでの活動で全国的な事例で側からみると後少しで出来るけれど…というところで経営が難しいから諦めちゃおうみたいな、あと一歩のところを諦めないことが大事。口で言うのは簡単だけれど、それを実際に行うことが難しいから諦めちゃっているのでしょうが、中途半端な状態のまま空中分解させないことが持続可能なコミュニティには大事だと思っている。
※一緒にまちを育てている人のことを考える。まちはひとりの人間だけでは育たないし、自分がどれだけ考えていても実現は出来ないので、協調力などが必要不可欠。
※やる気。住民の諦めをやる気に変えて、何を目指しているのか方向感を合わせること。
※理由を考えて「なぜ?」の視点を重視して、現行の計画が何故よしとされているのかをしっかり考えることで、気づいたら知らない間にまちが変わってしまったと言っている住民を置き去りにしない。まちが変わってゆくことは大事なこと。新陳代謝も必要だが、久しぶりに帰って来て「このまち変わったね」ではなく「このまち変わってしまったね」にならないように。住民全員が幸せな街になったと実感出来ることは難しいかも知れないけれど、明るい未来に向けて何が出来るのか? 錦二丁目長者町は商業のまちでもあるが、その中にもうちのようにお寺だったり、普通の住民の方や何十年、何百年も事業されている方がいらっしゃるので、そういう方と連携を取って行きたいと思っている。また、新住民の方をどうやって巻き込んで行くかというところも今後の伸び代だと思っている。

この黒部さん自身の「今日のまとめ」を頭韻要約をすると『おもいやり』になる。