ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.129レポート

2019-02-01 09:04:38 | Weblog
2007年1月にスタートしたジネンカフェも、今年で12年目を迎える。その半年ほど前から当時のコアスタッフたちとは「100回はしたいよね」と言っていたものだった。それが気がついてみると優に100回を通り越して、来月の拡大版で130回を数える。ジネンカフェをスタートさせた当初、40代だった私も今年で還暦を迎える年齢になり、まだまだ引退もしないし、(市民活動の世界に引退という言葉があるのかどうか知らないけれど…)ジネンカフェもやめるつもりもないけれど、ここら辺で自分のまちづくり活動を振り返ってもよいかなという気になった。なので2019年1月、VOL.129のゲストは、私、大久保康雄である。タイトルは『あたたかい子犬を、明日のきみに手渡すために』

【大久保康雄ってこんなヤツ】
大久保康雄は1959年2月に、愛知県半田市に生まれた。母によれば生まれて来た時にへその緒が首に巻きついており、仮死状態で生まれてきたという。当時の田舎の産院には保育器なんていうものはなく、医師の懸命な蘇生処置のおかげで生命を吹き返すことは出来たものの、脳の一部分にまひが残ることになってしまったのだ。〈脳性まひ〉という病名が付けられたのは、3~4歳頃のことだ。姉兄に比べても発育が遅く、一応地元の小児科医に診てもらったのだが、「発育が遅れているだけでしょう」ということで、ビタミン剤を処方されただけだったらしい。業を煮やした両親は、蒲郡市に住んでいた父方の親戚を訪ね、理学療法士をしていた叔父に私を診てもらい、「これは脳性まひの疑いがあるから、専門的な病院で診てもらった方がよい」と言われ、名古屋市西区の『青い鳥医療療育センター(旧・青い鳥学園)』を紹介してもらったのだ。そこで初めて(脳性まひ)という診断名が付けられたわけである。それからリハビリの日々が始まった。普通の子どものように家の外で遊べなかったので、遊ぶものはインドア的なものになる。プラモデルやらミニカーやら、怪獣の人形やら、本やら…。生まれた時に生命を脅かされたためか、生命や別離に対して神経質な子どもだったらしい。

【少年期~青年期】
そして6歳の時、継続的なリハビリの必要性と、学校に通うために半田をひとり離れて『青い鳥医療療育センター(旧・青い鳥学園)』に入園することになる。青い鳥学園の隣に名古屋養護学校があったのだ。青い鳥学園には中学一年生までいた。二年生からは養護学校の寄宿舎に移り、そこで高校まで過ごした。高校卒業後は、現在は豊川市と合併されている三河一宮町にある『愛知障害者職業能力開発校(旧・身体障害者職業訓練校)』に1年間入校し、写真植字や和文タイプライターの技術を身につけようとした。しかし、重度の身体障害者を雇ってくれる印刷屋などあるわけがなく、それで生計を立てようとしていた大久保の甘い考えはものの見事に粉砕された。ハローワークにも通ったが、門前払い同様の扱いを受け、意気消沈して家に戻って来るというのがお決まりのパターンであった。地元の福祉作業所に通うという選択肢もあったが、何も出来ないくせに人一倍プライドが高く夢追い人だった大久保は、自分も普通に働いてお金を稼ぎ、恋愛や結婚をして家庭を作りたいと思っていたのだ。

【憧れの人からのアドバイスによる目覚め】
どこにも勤めるところのない大久保は、家業の米穀店を手伝うことにした。しかし、それは自ら思い描く姿とはかけ離れていた。毎日がつまらなかった。気分的にも鬱々して、大久保にとってこの時期が一番辛かった。自らの存在意義はどこにあるのだろう? 自分はこのまま生きていても、本当によいのだろうか…とさえ思った。もうどうすればよいのか、大久保には解らなくなってしまったのだ。そんな時、養護学校寄宿舎の寮母だったSさんが電話をくれた。どこからか大久保の現状を伝え聞いたのだろう。Sさんは寮母の中では一番若く、大久保たち高等部の寮生とは5歳しか年齢が離れてなく、母というよりは年上のお姉さん的な存在の人であった。誰もに好感を持たれていて、大久保も憧れていたのである。その人からこんな言葉をかけられた。「大久保くんにはものを感じて、それを詩にしたり、文章に出来る能力があるじゃない? それって誰もが出来ることではない。いわばあなたの武器なのよ。その武器を磨いて大久保くんにしか感じられないものを感じて、書いて行けば、あなたの存在は唯一無二のものになるのではないかしら?」その言葉ですべてが解決したわけではないが、憑き物が落ちたように随分気持ちが楽になった。

【自分の世界を豊かにするために…】
その後、自分という人を磨くためにひとり旅に出て、ユースホステルを泊まり歩いて(当時は車いすを使っていなかった)家族や友人以外の人と触れあい、話しあい、自分の世界を豊かなものにしていこうとしていた。文学同人誌にも参加し、文学修行もした。30代の頃に秋田県十文字町が募集していた「北の十文字賞」の佳作に選ばれ、三重県四日市市が市政100周年を記念して募集していた「ふるさと文学賞 エッセイの部」の優秀賞に選ばれ、共に本になっている。

【まちづくりとの出会い】
そんなことをしていた1999年の初夏のこと。地元の知りあいから紹介されて、愛知県主催の「人にやさしい街づくり連続講座」を受講することになった。愛知県では「人にやさしい街づくり条例」があり、平たく言えば「バリアフリーの街づくり」のことなのだが、それを推進するにあたって旗振り役であり、各自治体からの要請に応えられるアドバイザーを養成しようという趣旨の講座で、50名ほどの受講者が5グループに分けられ、講義を受ける時には全体で受けるのだが、その振り返りや最終的なレポートはグループで出すという方式が採られていた。大久保が属していたグループはそれぞれ個性的なメンバーが多く、まちの課題を発見してそれを解決に導くための普通最終レポートを、なんと紙芝居で提出したのだ。これにはそれなりの理由があった。〈バリアフリー〉というと物理的なものをイメージしがちだけれど、ひとの心の中のバリアを解消しない限り、街の中がバリアフリーになったところでどうしょうもないだろう。だから人々の〈心のバリア〉を解消するためのオリジナルストーリーによる紙芝居を作ろうと思ったのだ。その原作は大久保が書き、下絵を建築家の坪井俊和氏が描き、フリーライターのIさんがシナリオに起こしてメンバー全員で彩色して完成させた。

【風穴一座の誕生】
この紙芝居によるレポートは、ひとまち講座の諸先輩たちから賛否両論をいただいた。しかし、大久保たちは意に返さなかった。この紙芝居をもって心のバリアフリーの啓発活動をして行こうと決めていたからだ。それが『紙しばい風穴一座』だった。何の因果が大久保が座長に指名され、各地のお祭りやイベント、まちづくり講座などから声がかかり、多い時で一週間に三公演をこなす時期もあった。その他にも学校の福祉教室や市立高校ボランティア同好会の学外講師を4年間務めていた。

【故・延藤安弘氏との出会い】
2001年の春先のことだ。風穴一座のメンバーでもあり、友人でもある坪井氏に誘われて、一宮市で行われるワークショップに参加した。それは一宮市のシンボルであり、崇拝の対象でもあった真清田神社前の市有地を住民参加で広場にしようという、当時としては走りのワークショップで、そのコーディネーターを務めていたのが、当時千葉大学の教授であった延藤安弘氏だった。大久保は初めて生で関西弁を話す人と遭遇したので、インパクトが強かった。その上、まちづくりのワークショップだというのに、幻燈会の初っぱなにスヌーピーが出て来て、〈幸せとは何だろう?〉と哲学していた。それでいきなりカウンターパンチを食らったのである。その時は漠然と思っただけだったが、まちづくりとはその地域に住む人々の幸せのために、計画して活動してゆくことなんだ。明日を創ってゆくことなんだ…と感じたのであった。

【橦木館育くみ活動】
一宮市のワークショップと同時期に、名古屋市東区橦木町にある『現・文化のみち橦木倶楽部』の活用活動にも坪井氏に誘われて関わっていた。また、そこでも延藤安弘氏と活動を共にする機会があり、橦木館が醸し出す、あたたかなものに包み込まれるような心地よさとあいまって、延藤氏との出会いをサジェストしてくれた坪井氏に感謝したものだった。この活動の結果は現在の『文化のみち橦木倶楽部』をみれば明らかだろう。

【NPO法人まちの縁側育くみ隊】
一宮市と橦木館で培った経験と想いと志を持って、延藤安弘氏のまちづくりを支援するために、2003年5月にNPO法人まちの縁側育くみ隊を設立し、大久保も理事に名を連ねることになった。しかし、正直に言って戸惑いもあった。周りは建築設計士が多く、事務局の若者もやはり建築系の学生さんばかりで、この中で自分が主体的に関われる活動は? というところで、いろいろと模索していた。三好や一宮や岡崎のワークショップには参加していたし、事務局スタッフとしてホームページの作成や管理に関わり、縁側だよりの原稿は書いてはいた。けれども、それが本当に自分がやりたかったことかと誰かに問われたら、首を傾げざるを得なかっただろう。やがて大久保はNPOの理事を降りようかと思うようになり、坪井氏に相談したところ、坪井氏から「理事を降りることはいつでも出来るけれど、降りるとやりたいことがやれなくなるよ。やりたいことをやってから降りても遅くないんじゃない?」と説得された。それで吹っ切れた大久保は『ジネンカフェ』の前身『チャレンジド・ハート・プロジェクト』を立ち上げる。しかし、これは準備不足の面もあり、半年ほどしか続かなかった。何かにチャレンジしている障害のある方達をゲストにお招きして、話を聴かせてもらおう。『ジネンカフェ』とほぼ同じような構図なのだが、唯一違うのはゲストを「障害のある方」に限定してしまったことだ。これが失敗の一因だったと思われる。また大久保も、関わっていたスタッフも、それほど何かにチャレンジしている障害のある方を知っているわけではなかったのだ。

【ジネンカフェプロジェクト】
その反省の上で2006年の夏場から新たなスタッフで話しあいを重ね、プロジェクトコンセプトを固め、練りに練って2007年1月からスタートさせたのが『ジネンカフェ』だった。このプロジェクトが12年も続いているのは、冒頭で述べた通り。やはりコンセプトワークを徹底的に行ったのがよかったのだろう。もともと大久保は欧米で障害のある方を表す〈チャレンジド〉という言葉があまり好きではない。〈チャレンジド〉の語源は、「人生にチャレンジすることを祝福された人たち」だそうだが、人生にチャレンジすることを祝福されているのは障害者だけではないのではないか? 障害があろうとなかろうと、人生にチャレンジすることは変わりがないのではなかろうか。そういう意味ではすべての人たちがチャレンジドであり、障害のある方たちだけを特別視することはおかしい。『ジネンカフェプロジェクト』の理念の根底には、大久保のそんな想いが込められているのだ。

【父性原理と母性原理】
最後になぜ故・延藤安弘氏のまち育てに共感したのか? 大久保が感じた延藤安弘氏の魅力について一端を話しておきたい。異なった対立軸を表現する言葉の中に、〈父性原理〉と〈母性原理〉がある。つまり一般的な父親像が「厳しく、堅く、カッチリしていて、排他的」なイメージがあるのに対して、母親像の方は「優しく、やわらかく、ふんわりとしていて、豊かに何もかも包み込むような」イメージがあり、そのイメージをして父性原理と母性原理という風に呼ばれているのだ。そしてこの言葉は建築的にも使われるらしい。現在の家づくりのようなドアや壁によって分断され、ひとつひとつの部屋が独立している建築物を〈父性原理による建築〉と呼び、昔ながらの敷居や鴨居、襖や障子によってひとつひとつの部屋が分断されているようで、実は部屋同士が互いに内包しあっている日本家屋のような家を〈母性原理の建築〉と呼ぶのだという。延藤安弘氏は、〈母性原理の人〉だったのではないかと、大久保は思うのだ。父性も当然もってはいただろうが、それよりも前面に出ていたものは〈母性原理〉であったのではないかと。延藤氏は輪郭のキッパリ定まった組織を嫌った。動き方も同様で、指揮系統や上下関係の激しい動き方を避けていた。自由な雰囲気、輪郭のぼんやりした組織を好み、お庭と縁側とを取り巻く包み込まれるような気配に満ちた橦木館を愛し、それがもっといろいろな地域に広がってゆくことを願って、まちの縁側育くみ隊を設立したのだ。延藤安弘氏は「まちづくり」のことを「まち育て」と呼んでいた。〈育む〉という言葉がお気に入りだった。その地域の住民が力をあわせて、その地域を育んでゆく…というソフト的な意味あいもあったのかも知れないが、「まちづくり」の「つくる」という表現には父性的な響きがある。しかし、「育む」「育てる」には母性的な印象を与えよう。

【あたたかい子犬を、明日のきみに手渡すために】
その他、大久保が関わってきた活動は、尾張ひとまちネット、ひとまちクラブはんだ(ペーパー会員)、半田市ボラ連広報誌編集委員会、名古屋市社協ボラセン情報誌編集委員、宇宙病院(ナカムラユウコさんたちとのコラボバンド)。これらはしかし、活動を休止している団体や、完全に消滅してしまった団体、現在も続いているものもあるが、大久保はもうジネンカフェプロジェクトに専念するため、その活動から卒業している。大久保は自分のしている活動は、自分も含む人々に幸せな明日を手渡すためだという信念を持っている。それこそが自分がやるべきことだし、居場所でもあるのだと思っているのだ。