ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.056レポート

2011-12-26 14:51:55 | Weblog
VOL.056のゲストは、名古屋の名駅と栄という二大繁華街に挟まれ、北に名古屋城、南に科学館や白川公園を控えるクロスポイントのほぼ真ん中、中区は長者町を拠点にまち育て活動をされている〈長者町アートアニュアル/長者蜂育くみ隊〉の古谷萌子さん。お話のタイトルは『まちとアートとの多様な出会い』

古谷萌子さんは1983年和歌山県生まれ。高校まで和歌山で過ごしていたが、都会の空気に憧れ、大学は関東へ。大学で社会教育(主に環境教育)を専攻する中、ひらかれた発想でまち育てに関わる人たちと出会う。特に印象に残っているのは東京の国立市で出会ったひとりの男性の言葉であり、生き方であった。当時、全国的にまちの景観を無視した形で建てられたマンションが問題になっていた。国立市でも、駅からまちの中を貫く桜並木の景観を守るために、建築物の高さ制限が設けられた区域と、設けられていない区域があった。それは条例として定められていたというよりも、住民同士の暗黙の了解の上に成り立っている不文律のようなものであった。そこに事情を知らないゼネコンが、建築物の高さ制限の設けられている区域に、桜並木よりも背が高いマンションを建て、これに怒った住民側と訴訟問題にまで発展したのだ。そのマンション反対運動をしていたひとりの住民男性と出会い、その人が語った言葉に古谷さんは感銘を受ける。「景観は決してお金で買えるものではない。生命も景観も同じでお金では買えない。お金で買えないものだからこそ、俺は自分がいいなあ~と思ったものを積極的に守る人生を送りたいんだ」と、熱く語っていたという。国立市というところはこうした住民運動が盛んで、公共施設の中に障害のある人もない人も一緒に働けるカフェがあったり、日本で一番最初の知的障害者施設が創設されたのも国立市であった。古谷さんはその後、大学生活の最後に行ったスコットランドのエディンバラでも、三百年も前から建築家や住民の人たちが旧い街並みを守っていて、新しい建物を建てる際にも話しあいで決めている人たちに出会い、建物が住民たちの話しあいで建てられていることに再び驚き、感心したという。

そうした背景があったからであろう。就職は東京のIT関連企業に勤めたものの、三年後どうしてもまち育てが気になり、現場を求めて名古屋に来た。現在は長者町のさる会社に勤めながら、大学時代から縁があったまち育てにも関わっておられる。

名古屋の長者町といえば東京の日本橋、大阪の船場と並んで日本三大繊維問屋街と呼ばれていた昔からの商店街で、その歴史は戦後に遡る。品物があれば何でも売れた好景気の時代、焼け野原だった彼の地に商店を開き、一財産を築いた〈旦那衆〉が集まって結成されたのが現在の〈長者町繊維街〉である。繊維産業の衰退と共に現在は往時の活気を失っているのだが、2010年に催された第一回国際芸術展覧会〈あいちトリエンナーレ〉の会場のひとつに選ばれたことがきっかけになり、界隈の若手経営者たちを中心に、いま新たなるまち育ての動きが出て来ている、名古屋のホットスポットでもある。

新たなるまち育ての動きは多岐に渡って動いているのだが、今回古谷さんにお話してもらったのは、彼女が現在力を注いでいるふたつの動きについてである。そのひとつが〈長者蜂育くみ隊〉。東京は銀座のビルの屋上で養蜂をし、蜂蜜を採取してそれを商品化したり、レストランや料理屋で使っているのは有名な話だが、長者町のビルの上でも養蜂をしているのは、あまり知られてはいないだろう。都市部で養蜂なんて出来るのか? その蜂たちはどこから花の蜜を運んで来るのか? と疑問をもたれる方もおられるだろうが、都市部とは言っても東京には神宮の森や皇居などもあるし、名古屋にしても白川公園や名城公園などの大きな公園に恵まれ、花々や緑が結構多い都市でもある。長者町の蜂たちはそれらの公園に飛んでゆき、花の蜜を採って戻ってくるのだという。そうして採れた蜂蜜はやはり商品化されたり、商店街の中に店を構えるパン屋さんやレストランなどでも使われていて、その蜂蜜が使われている商品の価格の1割をキックバックしてもらい、蜂たちが吸う花々を植える資金にしているそうだ。

養蜂を提案したのは、古谷さんが現在勤めている会社の社長さんではあるが、養蜂をしている町内会長さんのビルの屋上には、実に多くの人たちが蜂を見に訪れる。街の人から街の会社に勤務している人、大名古屋大学長者町ゼミの人たち、養蜂家志望の女性、トリエンナーレでこのまちを訪れたアーティストさん、宅配便のお兄さんまで、このまちに関わる人たちが興味を持ち、長者蜂の様子をまるで我が子を見守る両親のように見守っているのだ。蜂は刺すから危険ではないかと誤解している方もおられるかも知れないが、もともとみつばちは自らに危険が伴わない限り、めったに刺すことはないので、積極的に人間に危害を及ぼすことはないのである。

さて、芸術・アートという言葉から、みなさんは何を想像されるだろうか? ある人は高尚な印象を受けるだろうし、ある人は何だかわけのわからない、非日常的なものをイメージするかも知れない。そのわけのわからないアートなるものを使って、まち育てをする…。本当にアートでまち育てなんて出来るのだろうか…? はじめのうちは古谷さんも半信半疑で、戸惑いながらも〈あいちトリエンナーレ〉のプレ・イベントを手伝っていたという。

因みに〈トリエンナーレ〉とはイタリア語で「三年に一度」という意味である。つまり〈トリエンナーレ〉は三年に一度開催されるのだ。国際芸術展覧会には〈ビエンナーレ〉もあるが、これは二年に一度のスパンで開催されるもので、トリエンナーレもビエンナーレもその目的は第一に町おこしであり、第二に国際交流であるという。作品を出品するのは海外・国内から招待されたり、公募で選ばれたアーティストさんたちなのだが、その人たちの作品を起爆剤にその地域が話題になり、集客も見込め、そうなれば多くの人々が多様な国々の多様な芸術に触れることが出来るという結果に繋がってゆくのだ。しかし、愛知県にとってトリエンナーレを主催するのははじめての試みなら、それを迎え、支える古谷さんや長者町の人たちにとってもはじめての経験であった。

プレ・イベントの年、長者町ではいろいろなパフォーマンスや、アートイベントや、〈やわらかい山車〉づくりが行われた。長者町はその昔城下町だったこともあり、戦前まで山車があったが、戦火に遭って焼けてしまった。それを伝え聞いたご夫婦アーティストユニットが山車を復活させようと、台車の部分は木組みだが、あとは繊維問屋街ということもあり、端布で製作した山車を作ってくれたのである。この山車はその年の〈えびす祭り〉で披露され、町中を引き回された。〈山車を出す〉ということは、〈祭りを飾る〉ということと同義語なのだ。

そして〈トリエンナーレ〉の年、長者町のところどころに様々なアーティストさんのアート作品が展示された。また、アーティストさんによるワークショップもあったり、現場で作品を製作し、御披露目をするアーティストさんもいた。古谷さんもはじめのうちは〈なんじゃ、これ〉と思っていたものの、連日それらのアート作品に触れている内に、アートの面白さを知った。筆者も自分がアートをやらない癖に、アート作品に触れることが好きなのだが、アートというものはその作品自体は非日常性を帯びていても、それはアーティストの日常から湧き出してきたものであり、私たちが日常的に使う〈言葉〉と何ら変わりない。人によって表現の仕方が他者とは異なるというだけなのだ。そう、私たちは誰もがアーティストになれるし、アートとは私たちの至極身近な存在なのである。

この第一回〈あいちトリエンナーレ〉は、「都市の祝祭 Arts and Cities」というテーマのもと、8月21日から10月31日まで開催されていた。当初想定されていた30万人を大きく上回る57万2千人余の来場者があり、会期の前半こそ全国からアートに関心のある人たちや学生さんたちが詰めかけたが、後半に入ってこれまでアートとは縁がなかった一般の愛知県民の人たちも続々と観に来たという。

そしてこの年は〈やわらかい山車〉に対して〈硬い山車〉を製作しようということになり、〈やわらかい山車〉と同じアーティストさんが、高さが5mもある、からくり細工も施された立派な木組みの山車を造ってくれることになったのだが、この山車が数々のトラブルを引き起こすことになる。しかし、そのトラブルも、トリエンナーレを支援する多様なまちの方々、アーティストさんやキュレーターさんの熱意によって解決をみて、〈硬い山車〉は完成し、この年の夏まつりと本番のえびす祭りで引き回されることになった。

この年のトリエンナーレは好評のうちに幕を閉じたのだが、長者町が主催してトリエンナーレに関わってくれた人たちを招いて〈トリエンナーレ感謝会〉みたいなことを催した。多くの人々が集まってくれたその席で、古谷さんが勤める会社の社長さんが「トリエンナーレで多くの人たちが長者町に注目し、〈長者町って面白いよね〉って言ってくれた。次回のトリエンナーレで長者町が会場に選ばれなくても、今後もこのような取り組みを続けて行こう」というような発言をし、ここに〈長者町界隈アート宣言〉が相成った。

〈あいちトリエンナーレ〉は県の事業なので、それなりの予算が出ていた。しかし、トリエンナーレが終了した現在、アートなまちづくりを支えるのは寄付金や、街の人たちのご好意しかない。アートアニュアルという受け皿を作り、今年もいくつかのアートイベントを催してきた。トリエンナーレの出品作品は基本的に会期の終了後は撤去するのだが、アーティストさんとの話しあいで街中に残してあるものもある。〈硬い山車〉もこれからもえびす祭りで引き続けようということで、維持費も寄付金で賄い、組み立て・所も、お寺の境内を借りて行えることになった。山車が徐々に町のものになってきている…と古谷さんは感じているが、問題は維持費であるという。100万ほどかかってしまうのた。今年は引けたけれど来年はどうする、再来年はどうする…という話になる。それがこの〈山車プロジェクト〉の課題だそうだ。

話のタイトルに『アートとまちの多様な出会い』とをついているが、山車を製作してくれたアーティストさんが「自分がこうしてしていることがアートなのか、正直よく解らない」と言っていたのと同じく、古谷さんも自分がしていることがまち起こし、まち育てに繋がっているのか解らないという。よくまち起こしのために〈トリエンナーレ〉を呼ぶ、呼ばないの議論があるが、古谷さん自身はまちづくりとは関係ないのではないかと思い始めているという。トリエンナーレの思い出を語るとき、まちの人たちの固有名詞を出して、その人がどうしたとか、あの人がこうしたとかという思い出話しか出てこない。トリエンナーレといっても、長者町の50年もの歴史のたった1年もない出来事でしかなく、それでまちの組織が大きく変わったというわけでもない。ただ、まちの人たちの意識が変わったり、楽しかったり、アートに触れて思わず笑ってしまったり…。それがまちづくりとどう関係してくるのか解らないが、そうしたトリエンナーレの話がまちの人たちの何気ない会話の中に出てくるのが結構面白いなあ~と古谷さんは感じている。山車のこと一つ取ってみても、いろいろな問題があって面倒臭いことには違いない。しかし、面倒臭いからやめるのではなく、面倒臭いけれどやってみて楽しかった、よかったというのは本来あたり前の感覚で、トリエンナーレが求められているのは、それが当たり前ではなくなってきているから、アートの存在が大事なのだと云われているのかなあ~と古谷さんは思っているという。お金・時間・場所・人手という現実的な問題は、社会がいままで遠回しにしてきた問題で、あえてそれをかけて行うことに意味があり、そこにアートの役割があるのではないかと感じているという。

参加者からも賛同の意見が寄せられたが、筆者もアート好きで、まち育てに関わっている者として、今後とも長者町から目が離せそうにない。


ジネンカフェVOL.057のご案内

2011-12-07 14:11:20 | Weblog
ジネンカフェVOL.057

日時:平成24年1月15日(日)11:00~15:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:立松亜侑美(医療ソーシャルワーカー)
タイトル:「医療ソーシャルカーカーのお仕事~病院の相談室を知っていますか?~」
ゲストプロフィール:
昭和61年名古屋市生まれ。平成14年名古屋市立山田高校でボランティア部に出会い福祉にふれる。平成17年同朋大学入学。社会福祉学部を専攻し、社会福祉士と精神保健福祉士を取得。平成21年三重県桑名市にある山本総合病院で医療ソーシャルワーカーとして就職。
コメント:
“医療相談室”をご存知ですか??病院によってその名称は様々ですが、やっと相談員のいる病院が増えてきました。しかしその知名度はまだまだです。そもそも病院に勤務するスタッフはみんな病気を治す専門家です。今まで病気に伴う生活のことは考えてはくれませんでした。しかし病気をしても生活は必要。病気と生活は切っても切り離せないものであり、病気の治療とともに生活も重要視される様になってきました。病気に関わる生活のこと、それを一緒に考えていくのが医療ソーシャルワーカーです。 医療ソーシャルワーカーという人が病院にいることを、是非とも皆さんにお伝えしたいと思います。

参加費:大人600円、子ども(中学生以下)300円
※当日は新年会も兼ねています。こちらでラーメン鍋とおじやを用意しますが、差し入れも大歓迎です。
飲み物は参加者のみなさまのお好きなものをご持参下さい。

※準備の都合上、平成24年1/10頃までにお申し込みをお願い致します。

お問い合わせ/お申し込み
NPO法人まちの縁側育くみ隊
名古屋市中区丸の内2-18-13
丸の内ステーションビル2階
まちの会所内 担当:大久保
TEL/FAX:052-201-9878
E-mail:ookubo@engawa.ne.jp