ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.049のご案内

2011-03-15 09:38:33 | Weblog
日時:4月2日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:山本寿子〈瑞穂区障害者地域生活支援センター 相談員〉
タイトル:街・ひと・出会い、育まれてゆく私

ゲストプロフィール:
石川県生まれ。大学進学がきっかけで名古屋に来る。大学では社会福祉を勉強。大学生の頃に縁あって、名古屋市総合リハビリテーションセンター内の生活支援相談室(現、瑞穂区障害者地域生活支援センター)にてボランティアを行い、それがきっかけで福祉の仕事に興味を持つ。現在は瑞穂区障害者地域生活支援センターで相談員として働いています。

コメント:
いろんな出会い・経験を通して自分の価値観が少しずつ変わっていくのを感じます。人っていろんな可能性を持っていておもしろいですね。まちのなかの意識も変わって、みんなで暮らしやすくなるといいな~・・・と思いながら日々コツコツ働いています。

参加費:300円(カフェ代別途)

お問い合わせ/申し込み先
NPO法人くれよんBOX
昭和区小桜町3-11 羽ね屋敷1階
TEL:052-733-5955

ジネンカフェVOL.048レポート

2011-03-14 12:12:23 | Weblog
弥生三月のゲストは、名古屋市東区の子育てサロン〈つどいの広場ハーモニー♪〉の事務局をしておられる明石雅世さん。明石さんはその他にも、NPO法人参画プラネット常任理事、東区社会福祉協議会福祉活動計画住民ボランティア「みんなで創ろうわがまちひがし」代表の顔をもっている。お話のタイトルは『なぜ生きるから、どう生きるへ』明石さんはお話の合間にその当時の思い出の曲をCDラジカセで流しながら、現在までの来し方を語られた。

明石雅世さんは1960年名古屋市東区生まれ。高度成長期と共に育った。しかし、明石さんが子ども時代を過ごした60,年代は、まだ第二次世界大戦の影が色濃く遺されていた時代でもあり、東山動物園や覚王山日泰寺に行くとよく傷痍軍人が物乞いをしていた。現在どこの家庭にも揃っている冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビが三種の神器と呼ばれ、一般の家庭でこの三種類の家電を揃えているところはそれほど多くなかった。明石さんの家も洗濯機は脱水機がなく、洗濯物の水分を搾り取るハンドルがついているもので、冷蔵庫も小学校の時に学校で氷が必要な授業があり、クラスで氷を持って来られないのは明石さんともうひとりという現実があり、両親が慌てて購入したのだそうだ。カラーテレビが入ったのは、アニメで『タイガーマスク』が放映されている頃であった。明石さんが育ったのは、そんな時代である。
 もちろん〈女の幸せは結婚にあり〉という風潮もあり、明石さんも29歳の時に結婚し、一児をもうける。しかし、結婚して五年目、二人目の娘さんをお腹に宿しているときのことだ。嫁ぎ先がご実家と近かったせいもあり、よく昼中はご実家に遊びに行かれて昼食を食べて夕方に買い物をしがてら帰るという生活をしていた。そんなある日、昼食を食べているとき、旦那さんの会社から急を報せる電話がかかってきた。旦那さんが仕事中の事故に遭い、病院に運ばれたので直ぐ病院へ来てほしい…。旦那さんはビル全般のメンテナンスの仕事をしていた。そこでの事故によるケガ? どこかを骨折したぐらいしか思いつかないまま、駆けつけた明石さんを待っていたもの、それは集中治療室で人工呼吸器をつけて横たわる旦那さんの姿だった。駐車場によっては車を持ち上げるエレベーターがつけられているが、そのメンテナンス中に誤作動により首を挟まれてしまったのだ。病院に運ばれた時には心停止状態だったという。旦那さんは、その四日後に帰らぬ人となった…。
この年1993年は、ロック歌手・高橋ジョージさん率いるTHE虎舞竜の『ロード』がヒットし、紅白歌合戦にも初出演していたが、明石さんも三歳の娘さんとお腹にお子さんを抱えながら、その紅白歌合戦を布団を頭からすっぽりかぶりながら、涙ながらに観るともなく観ていたという。『ロード第一章』のサビ「何でもないようなことが、幸せだったと思う。何でもない夜のこと 二度と戻れない夜」という歌詞が、明石さんの胸をえぐり続けていた。
どうして私にこんな不幸が…という、突然の不幸に見舞われた人の誰もが感じる不条理感と悲しみで押しつぶされそうになりながらも、いまにも壊れそうな明石さんを辛うじて支えていたのは、お腹に宿っていた次女の存在だったという。もちろん三歳の長女の世話や相手をしなければならないという母親としての責任もあったろう。労務災害で保険が下りたのも、不幸中の幸いであった。一人っ子ということもあり、ご両親がまだご健在であったので、明石さんと娘さんは実家に移り住むことになる。そして月が満ち、二人目のお子さんが生まれた。
この頃、明石さんのお父さんは腎臓ガンの闘病中で、手術はしたものの、いつ転移するか解らないという不安な精神状況の中、その下の娘さんが明石さんのお父さんにとってより所になっていたという。お父さんにしてみれば、自分の娘や孫を支えられるのはもう自分しかいない…という気概だったのだろう。そんなお父さんも三年後に心配していたガンの転移ではなく脳内出血で入院し、その4日後に亡くなられてしまう。お父さんが亡くなられる前夜、明石さんは不思議な夢を見た。お父さんが夢枕に立ち、明石さんに水を乞い、飲んだという。その話をお父さんの葬儀後にお母さんと5歳の娘さんに話したところ、自分たちの夢枕にも〈おじいちゃん〉が立ったというのだ。世の中には科学では決して解明出来ない不思議なことが起こるものだ。
ともあれ、こうした親しい人たちとの突然の別れから、明石さんは〈万が一〉ということは、誰にでも起こりうるものなのだということを学んだという。〈万が一〉という言葉には〈万分の一で起きる確率〉というイメージがあるが、その確率は〈二分の一〉だということだ。だからこそ世の中で起きている事故や事件も他人事ではなく、紙一重で自分にも降りかかってきたかも知れない災難として、その被害者の方たちに心を寄り添わせなければいけないのではないかと思ったという。
こうして女性4人になった明石家の生活全般を担っていたのは、明石さんのお母さんであった。現在でこそ明るく振る舞っている明石さんだが、この頃はまだ立ち上がれないでいたのだという。炊事、掃除、洗濯の一切をお母さんが担ってくれて、明石さんはふたりの娘さんの子育てに専念することが出来た。その後、子どもさんたちも小学校と幼稚園に通うようになり、明石さんは自分の〈これから〉を模索し始める。働くことも考えたが、娘さんたちの夏休みのことを考えると踏み切れないところがあった。そんな時、生涯学習センターで〈女性学〉の講座があることを知り、受講することにした。その当時は〈男女平等参画〉が云われはじめた頃で、行政も盛んに女性向けの講座を設けていたのである。その中で〈幸せの条件って何だろう?〉というコマがあり、幸せの条件について考える機会に恵まれた。客観的にみれば旦那さんを結婚5年目で亡くし、頼りにしていたお父さんも亡くして娘さんたちを育てている自分は不幸の部類に入るのかも知れないけれど、お風呂に入れば幸せを感じるし、眠る時も幸せだし、笑っている時も幸せ、子どもさんといる時も幸せ、そして何より健康でいられて、一日を過ごせること自体が幸せなことなのだ。そう考えて来ると、なにが不幸で、なにが幸せなのか解らなくなってくる…。幸せの中にもちょっとした不幸があるし、不幸の中にも何気ない顔をした幸せもある。幸せの価値観は他人が決めるものではなく、自分が決めるものなのだ…。そこから明石さんは「身の丈にあった幸せ」の大切さに気づく。環境の学習をしたのも、「身の丈の幸せ」に気づく助けになった。環境教育では必ず登場する北欧の国々では、人々が自然と共に生きている。それが「身の丈の生活」「身の丈の幸せ」に繋がってゆくのだ。無理をせず、自然体で生きること。この頃の心境を明石さんは、NHK『みんなのうた』で榊原郁恵さんが歌っていた「しあわせのうた」で表していた。
 また別の機会に、名古屋の東別院で催された女性を対象にした『人生どう生きる』をテーマにしたフォーラムがあり、親しい人たちを次々に見送ったこともあって〈人は死ぬとどうなるのか?〉ということに関心をもっていた明石さんは、何かヒントになるようなことが得られるのではないかと思い出かけた。そのフォーラムに参加して、若い頃から自らに〈なぜ生きる〉という問いを問い続けてきた明石さんだったが、いくら考えても答えが見つからなかった。人生を折り返す年齢になり、それよりも〈どう生きるのか?〉と問われた方が答えを見つけやすいような気がした。受動態よりも能動態の方が答えを見つけやすいこともある。半ばお寺に癒されたいと思って出かけた明石さんだったが「なぜ生きる?」から「どう生きる?」へという、人生に対する姿勢を問いかけられて思わず考えさせられたという。
 その後、女性学を学んでいたということもあって、明石さんは〈男女共同参画〉を推進するNPOで活動するようになった。しかし、体を壊してしまい、ご自分が住む東区の地域福祉に活動の軸をシフトさせてゆく。東区社会福祉協議会の地域福祉活動計画に参画したことをきっかけに、その住民による実行部隊である「みんなで創ろうわがまちひがし」の代表になり、0歳児から三歳児とお母さんの広場を東区につくろうという動きの中で事務局を引き受けることになった。昨年末には主任児童委員にも推薦された。今後は地域組織とテーマ型のNPOなどとの橋渡し役が出来れば…と思っているという。
 私と明石さんとの接点は、東区の第二次地域福祉活動計画の計画案の立案に参画したり、MOMOが子育てサロン・つどいの広場ハーモニー♪の場の提供をしていたので、顔をあわせる機会もあったのだが、私は東区の住民ではないし、NPOの活動もあるので「みんなで創ろうわがまちひがし」へは参加していない。またこの度MOMOが活動を休止することにより、つどいの広場ハーモニー♪もスタッフの個人宅に移されることになり、NPOの事務局も中区に引っ越すことになったので、私も東区から離れることになった。しかし、まちつくりの世界は広いようで狭いものだ。明石さんはこれからも東区の〈土の人〉として誰もが住みやすい地域になるよう活動を続けてゆくことだろう。私もいずれはどこかの〈土の人〉として根を張ることになるのだろうが、いましばらくは〈風の人〉でありたいと思っている。